PART ONE: INVESTIGATION OF NATURE (1688-1734)
第1部 自然界の探求(1688-1734)
1 The Child Emanuel
第1章 子供時代のエマヌエル
スウェーデンでは,2月2日は女たちが教会へろうそくを運ぶ聖燭節〔聖母マリア清めの祝日〕という祝日であり,これは,処女マリアの清めと御子キリストを捧げることを記念する古い時代からのしきたりである。1688年の2月2日は二重の祝日であった。その日ストックホルムの市民たちは,王宮で幼い王女が洗礼を受け,ウルリーカ・エレオノーラと命名されることを記念する大砲の音によって朝の眠りから目覚めさせられたのだった。興奮を呼び起こすパレード,壮麗な祝宴が催されたであろうが,市民は肌寒い教会で,賛美歌を歌い,敬虔と善行を勧める長ったらしい説教を聞きながら,長い時を過ごしたことだろう。
宮殿前を素早く流れるノルルステレム川の上に架かった橋は聖ヤコブ教会へ向かう。この教会区でも洗礼式が用意されていた。というのも,グスターヴ・アドルフ広場からそれほど遠くないここに,もう一人の幼児,連隊付き従軍牧師イェスパー・スヴェードベリとその妻サラ・ベームの赤子が洗礼名を授かろうしていたからである。その幼児のために大砲が鳴ったのではないが,それでもスヴェードベリの第三番目の幼児は,エマヌエル〔神われらといます〕の名前を与えられ,非常に有名な人物となる運命であった。その幼児は1月29日の日曜日ストックホルムで生まれ,今日ではその日はエマヌエル・スヴェーデンボリを記念して広く祝されている[1]。
当時,洗礼式は現在よりも非常に重要性なものであり,その儀式には大きな尊厳が付加された。通常,三人の教父と三人の教母が,その子供がキリスト教により育てられることを保証するため,正式に選ばれた。スヴェーデンボリの洗礼について,教会の記録によれば,儀式はマティアス・ヴァグネル牧師により執り行なわれ,六人の名付け親〔保証人〕の一人である王室参議ノルデンイェルムはのちにカール十二世として国王となった王子の教師であった。背が高く色黒の顔色の父スヴェードベリ,その子供たちである四歳のアルベルトと二歳のアンナ,若い叔母のイングリッド・ベーム,いとこのヨハン・モラエウスは洗礼に参加したに違いない。法令により,儀式は教会で,おそらく早朝礼拝の前に執行されなければならなかったので,出産四日目の幼児の母は出席できなかったであろう。ヴァグネル牧師が開始の準備を終えたとき,幼児は――想像するに,長い,豊かに刺繍を施した洗礼式用のローブで装われ――牧師の妻で真っ先の女性名付け親〔保証人〕であるマリア・シルヴィアによって抱き運ばれたであろう[2]。
それから,昔からの魔除けに似た儀式が始まった。幼児に語りかけて,牧師は唱えた――
「エマヌエル,なんじは悪魔との縁を切るや?」「はい」と教父と教母たちが代わりに答えた。
「悪魔のすべての業も捨つるや?」「捨てます」
「悪魔から生じるものすべても捨つるや?」「捨てます」
「なんじは天地の造り主,全能の父なる神を信ずるや?」「信じます」
「聖霊によりみごもり,処女マリアから生まれ,ポンテオ・ピラトにより苦しめられ,十字架にかけられ,死んで葬られ,地獄に下り,三日目に死よりよみがえり,天に上り,全能の父なる神の右手に座し,そこから再び来たりて,生者と死者を裁かれるお方,我らの主,御父の独り子,イエス・キリストを,なんじは信ずるや?」「信じます」
「なんじは,聖霊,キリストの教会,聖徒たちとの交わり,罪の赦し,肉の復活,永遠のいのちを信ずるや?」「信じます」
「なんじは洗礼を望むや?」「望みます」
それから,牧師は幼児の名前をたずね,聖水を三度つけて,宣言した――
「エマヌエル。われは父と子と聖霊の御名において,なんじに洗礼を施す。アーメン」
後日,父は著述している――「私の息子の名前エマヌエルは『われらとともにいます神』を意味する。これは,格別に清い秘められた結合,信仰を通して,われわれは恵み深い,慈悲深い神のうちにとどまること,そして神は私たちと一緒であり,私たちの中にいまし,私たちは神と一緒であり,神の中に私たちはいて……このことを,この子がいつも思い出すためである」[3]。
* * * * *
エマヌエルの一生をかけた仕事は,頑強な身体を必要とし,そしてこれは遺伝から具わっていた。父イェスパー・スヴェードベリはダルカールリア〔スウェーデン中西部の山岳地方〕の農夫および鉱山夫の出身であり,その種族の独立の気概と勇敢さは祖国を敵から二度も救っていた。イェスパーの父,ダニエル・イサクソンは長い間見捨てられていた銅山の共同所有者であった。この銅山は,新たに改良された選鉱法で再開され,その所有者に幸運をもたらした。この突然の繁栄のおかげで,イサクソンは,息子のイェスパーをスウェーデンの大学に送り,神学の勉強をさせることができた。彼はスヴェードベリの名前を,先祖伝来の土地であるファールン近くの絵のように美しい田舎“スヴェーデン”[脚注*]から取った。(付録A, 参照)
最初,イェスパーは近衛騎兵隊の従軍牧師に任命され,そのところで兵士たちに読むことを学ぶよう奨励したが,このことは国王の賛同を得るところとなった。カール十一世は,彼の従軍牧師としての勇敢さと,神のみことばからの心のこもった説教を,だれの爪先を踏もうと〔人の感情を害すること〕気にしないで公然と賞賛した。イェスパーは敬虔な人であったが,当時,敬虔はどこにもありふれたものであった。彼は敬虔以上であった。彼は,信心深さは単に宗教的なしきたりの遵守にあるとする当時の考えに反対した。ほんとうの信仰は有益な活動的生活と不分離である,そうでなければ,“頭だけの信仰”は――彼はこう表現した――“悪魔の信仰”となってしまう,と主張した。彼は当時の道徳性のゆるみを嘆き,これをどこで見出だしても,宮廷の高貴な罪人の間でも,街通りの卑しい罪人の間でも,公然と非難した。改革へのこの熱意は多くの抵抗に出会った。
「あなたには多くの敵がいる」と,陛下はある日その従軍牧師に述べた。
「そうした敵のいない主のしもべは,たいしたものではありません」,この返事はスヴェードベリの特徴を示している。
ストックホルムでのこれらの日々の早期に,この若い教職者は,裕福な鉱山所有者である監査管アルブレクト・ベームの娘サラと出会い,結婚した。結婚の六か月後,十八歳の花嫁に別れを告げ,教養を完成し,能力を高めるため,大陸へ十か月の旅に出た――その時代には慣例的に行なわれたことであり,イェスパーの場合,これは妻の豊かな財産によって容易となった。
エマヌエルの母,サラ・ベームは優しく魅力的な顔立ちの,品性を持った婦人であった。軽薄な時代に,富者の娘に生まれたにもかかわらず,簡素な服装に親しみ,まじめな気質の心を持っていた。彼女は,当時流行の念入りに仕上げられたフォンタンジュの髪飾り★1をつけることを拒んで,夫を大いに喜ばせた。これをスヴェードベリは虚栄を愚かに示すものとして公けに非難したのである。サラは礼儀正しく親切な性格の,慈善行為で良く知られた人だった。
ストックホルムは,その都に最初の四年間住んだ子供にある印象を残したに違いない。川は素早く流れ,メーラレン湖の水を海へ下らせ,多くの漁師がその堤に並び,長い竿を急流に入れ,小さな魚でいっぱいの網を引き上げている。バルト海の港から,鉄や材木をいっぱい積んだはしけや白い帆のスクーナーがやって来てはリヴァプールやブレーメンといった遠い港へ去って行く。広場では,玉石〔昔は道路舗装用〕の上を馬車が美しい婦人や紳士を運ぶ。その子供にとってもっと重要だったものは,おそらく,聖ヤコブ教会の裏手の急坂であろう。これは絶好のそり遊び場となった。
1692年の春,イェスパー・スヴェードベリはヴィンゴーケル教区の牧師に任命され,家族は田舎へ移った。しかし一年もしないうちに,国王は彼をウプサラ大学の神学教授に昇進させ,そのから直ぐに学長,そして聖堂の首席司祭〔bishopの次の地位〕にした。それで家族は再び,今度はストックホルムから39マイルほどの,ウプランドの起伏のある平原地帯にある古くからの学問の発祥地〔ウプサラ〕へ移った。ここで子供エマヌエルの新しい生活が始まったのである。
ウプサラへ移ったスヴェードベリ家の人々に幸福と和合が付き従った。新任の学長はその町の中央の広場に,立派な庭を備えた大きな石造りの家を建てた。「どんな小さな仕事も,たった一個の石を積み上げることですら,嫌な気持ちでなされたことはなく,すべては気持ちよく,喜んでなされた。怒りの声も,とげとげしい言葉も,口論,ののしりも聞かれなかった」と言っている。
しかしながら,このスヴェードベリ家の邸宅は,すぐに火災にあった――当時の多くの建物の運命である。すぐさま再建され,家が完成したとき,スヴェードベリはその町の家柄の良い人々ではなく,その教区の貧しい人々に向けて祝宴を開き,自分の家を神に捧げた。妻と子供たちは彼らに給仕し,その愛の宴は感謝の歌と相互の祝福で終えた。
この学究的な活動の場で,なすべき仕事はいっぱいあり,学長スヴェードベリは多大な努力を要する生活が待っていた。彼は疲れを知らない働き人だった。数多くの職務の間にも,スウェーデン語の聖書を改定するための時間を見つけ出した。しかし,委員会の他のメンバーの嫉妬により――と彼は言う――その出版は妨げられた。つづり以外にその聖書に修正の必要はない,と彼らは頑固に主張したのだった。
その後スヴェードベリは,古い賛美歌集を改良しようとして時間と金を費やした――彼自身も多くの立派な賛美歌を作詞した。しかし,この仕事もまた失敗した。そのおもな理由は,事前に相談されなかったことに腹を立てた数人の教職者たちの反対によってである。彼らは,この首席司祭を異端者とし,新しい宗教の導入すら望んでいる,と非難した。おそらく,彼が,救い主を神の御子としてだけでなく人の子として語ったからであろう。その版〔賛美歌集〕はすべて没収された。
この大学町の環境と学長の家の雰囲気につられ,学者たちやりっぱな委員たちが常にそこを訪れた。日曜日や聖日には教会へ行き,宗教儀式が完全になされたが,これらのことはその子供の心の成長に深く影響を及ぼしたに違いない。教育者としてスヴェーデンボリ[脚注**]の父に欠点が何かあったにしても(しかし 1,000ページもの自叙伝には,自己中心癖を示すものはほとんどなかった)彼は温厚で,親切であり,最良の結果はむち打ちからは生まれずに,学生たちの興味を喚起するゲームやコンテストにあると信じていた――現代的なアプローチである。学生たちはその学長に好感を持った。
私たちはエマヌエル・スヴェーデンボリの若い頃について知っているが,若い時分についてこうした個人的な情報の得られる者は極めてまれである。後になっての彼自身のコメントや同時代の記録から,彼の肉体的な,また霊的な生命の双方に特殊な型が形成されたらしい。後年,自分の幼い頃を顧みて,彼は言う――
四歳から十歳まで,私の頭は常に,神,救い,人間の霊的な苦しみについての考えで占められていました。また何度も,私の父や母が驚くようなことを示しました……。六歳から十二歳まで,私は喜んで教職者たちと信仰について話したものです。そのいのちは愛であり……[4]。
スヴェーデンボリの鋭い観察力――成熟した学者の特徴――は,幼児の頃から現われていた。少年は,思考と呼吸の間の関係――後の彼の超感覚的意識に対し基本的で重要な事実――に気づくようになった。朝夕の祈りの間,息を長い間止めるのが彼の習慣であった。呼吸のリズムを心臓の鼓動と調子を合わせるようにするとき,自分の思考部分はほとんど冬眠するようになるのを発見した。彼は初期の生活を回顧して,こうした習慣が後になって驚くべき結果を生むことになった,身体的な面を越えた心の深遠で抽象の世界へ突き進むに欠くことのできない準備となっていた,と認めている。
スヴェーデンボリの最初の筆跡として知られているものは,いとこのヨハン・モラエウスから,おそらく彼に与えられた医学論文への署名である。モラエウスは教区牧師の家に住み,エマヌエルが医学を勉強する間,その家庭教師として仕えた。スヴェーデンボリが非常に早くから人体の不思議に感心を抱いたのは,おそらくモラエウスによるのであろう[5]。
当時は,スウェーデンの人々がまれにしか耐えたことのないような広範囲の飢饉の続く,恐ろしい不作の年々であったことが記録されている。1692年の春4月,厳しい寒さが続き,多くの被害を引き起こした。秋には雨が降り続け,収穫は損なわれた。翌年の作物も,春の降雪と夏の日照り続きでだいなしとなった。1694-5年は,異常に厳しい冬が貧しい人々の生存を脅かし,人々はからの胃袋を木の皮・葉・根で満たした。オオカミは飢えから農場に入り込み,小屋にいる農夫すら襲った[6]。これらの不幸の犠牲者たちに心痛めたサラ・ベームは,その人々のために惜しげもなく,自費で貧民救済の家を建てようと計画した。彼女自身の家族も今では大家族だった。スヴェーデンボリ家には,エマヌエルの後さらに六人の子供が生まれていた。全部で九人――アルベルト,アンナ,エマヌエル,ヘドヴィク,ダニエル,エリエセル,カタリーナ,イェスパー,マリアーレタである。
そのとき,悲劇が家族に降りかかった。サラ・ベームは1696年6月17日に熱病で死に,十日後に,類いまれな素質を持った若者アルベルトが同じ病気に倒れた。彼は聖堂の身廊外陣に,母の傍らに埋葬された。数多くの弔辞が出版され,斜めに組んだ大腿骨と頭蓋骨の図柄〔死の象徴〕の特製の銀のスプーンも作られた。これらの一つがストックホルムの北方美術館に保存されており,そこにはスヴェーデンボリの母の肖像画も架かっている[7]。
八歳の少年は母と兄の両方を失った。サラ・ベームの亡くなった少し後,スヴェードベリ首席司祭は,非常に善良な性質と洞察力を持った裕福な未亡人と結婚した。この継母サラ・ベリイアは,エマヌエルに愛情を注いだ。
脚注* 「スヴァーデン」と発音される。これはもともと,焼くを意味する“スヴェーヤ”(svedja)という言葉から派生した,火によって焼き払われた地帯を意味している。
〔付録A」とは「家系図」である。〕
脚注** エマヌエルをこの著作ではスヴェーデンボリで統一して呼ぶことにする。1719年に貴族に叙せられて,そのとき家族名はスヴェーデンボリとなったが,それまではスヴェードベリであった。
原注
1 現在の暦ではスヴェーデンボリの誕生日は2月9日であろう。当時スウェーデンで使われた旧暦のユリウス暦は11日遅れている。
2 スヴェーデンボリが生まれたのは現在22番の名前が付けられているレーゲリングスガータンの家らしい。この地所の広さは1690年3月30日にイェスパー・スヴェードベリによって購入された所有地と同じである。当時,洗礼は生後1週間過ぎないうちに,教会で,聖日に,公けに,教区牧師によって執り行なわれなくてはならない,という法令が規定されていた。(参照文献省略)
3 『イェスパー・スヴェードベリ自叙伝』参照。同書は本章と次章の全般的情報源である。
4 1769年11月14日,G・A・バイエル氏への手紙。『ターフェル』U,279-280。同じく『霊界体験記』3317-3320, 3464参照。『ターフェル』U,143-4。
5 イェスパー・スヴェードベリが甥のヨハン・モラエウスに初めて会ったのはダラカールリアへの訪問中である。この若者の聡明さを愛し,ストックホルムに連れて来て,そこの薬種屋の見習いとした。ウプサラで勉学の後,モラエウスはライデンのブールハーフェ〔Hermann Boerhaave (1668-1738)。オランダの医師、植物学者;近代臨床医学の創始者〕の弟子となった。彼の肖像画のある“スヴェーデン”で,1739年に,彼の娘とカール・リンネとの結婚が祝されている。(参照文献省略)
6 グリムベリ著『スウェーデンの民話』W,346-351 参照。
7 ウプサラ大学記録保管所。
訳注
★1 フランス語。1700年前後に流行した丈の高い婦人の髪飾り。ルイ14世の寵愛を受けたフォンタンジュにちなむ。 〔研究誌『荒野』第1号、1997年1月〕