2 Upsala days

第2章 ウプサラ時代

 ウプサラは学問の中心と言うだけではすまない。玉石を敷き詰めた道路と,壊れた切妻屋根の背の低い家々と古城のある,絵のように美しい古い町以上の場所である。フィルス河畔に,堂々たる大学と由緒あるゴシック聖堂がウプランドの平野から立ち上がっている。ここがスウェーデン文化のルーツそのものであると感じるため,ヴァイキングの首領たちの古墳を見たり,古い寺院の敷地で醸造された蜂蜜酒(ミード)を飲んだりする必要はない。ここでは,過去は常に現在し,未来は過去と永遠に繋がっている。ここにはその雰囲気が漂っている。

 スヴェーデンボリが教育を受けた大学の知的背景について,これは簡単でも示しておく価値があるだろう。新しい世紀は,迷信が依然と全世界を束縛していた時代の上に開いたのだった。人はいつでも,あの老婆が,ほうきの柄に乗って悪魔の宴に行く,あるいは隣の人の牛を病気にするため邪眼★1を投げかけるといううわさの魔女だ,と指摘できるだろう。常に人々は,悪魔と契約を結んだと考えられている人と向かい合うのを避けるために道を横切った。だまされやすい農夫と同じく無知な領主にも,その心に真理を解説するために,教会が建てられた。教会は,ゆらゆら揺れるろうそくの炎とともに,問題に立ち向かい,(死後の)よりよい生活を確信させる助けとなる唯一の避難場所を提供した。暗やみの中の霧笛のように,教会からの声は人々に,魂の危険の警告を鳴らし,何を信じなければならないかを教えた。多くの司祭たちは,その聴衆を無宗教の国へ連れ戻そうと脅かす迷信と絶えず闘った。

 イェスパー・スヴェードベリは,霊に善良なものと邪悪なものが存在するとの強い信念を持っていた。彼は人々のすぐ信じてしまう性質を活用した。彼にとって見えない世界はまさに現実に存在した。神の子供たちに,善霊は付き従い,守護天使は仕える。悪魔はまさに人間そっくりであり,ただ祈りだけによってこれを追い出すことが可能である,と教えた。スヴェードベリは,いろいろな機会に,催眠による癒しの力を証明し,長い間ヒステリー症や心の疾患に悩んでいる男女を個人的な説得力と聖典を読むことで治した。それで,スヴェーデンボリの心を形成した重要な要因の一つに,彼の父が早くから他界の存在を強く確信していたことを数えなくてはならない。

 大学そのものの雰囲気は入り乱れていた。17世紀では,学問と宗教のすべての問題は教会に属し,どのような意見の衝突も教会の法令によって決着をつけるのが当然のこととされてきた。神学者たちによって彼らの体系に適するよう説明され,薄められてきたアリストテレスの教えは,人間の心を訓練するための,世俗的な学問による正しく適切な一服の薬,と考えられていた。しかしそのとき,教会の押し付けがましい叫び声を越えて,違った方向から,少しも曇っていない,澄んだ高く明瞭な声がやってきた。この声はフランスとオランダで,それからすぐにヨーロッパのすべての国々で聞かれることになった。この声は新しく,今までと異なって,理性に訴える言葉で語った。学界を驚かせたその言葉は哲学者ルネ・デカルトから発していた。

 デカルトの研究はスコラ哲学――哲学的な問題は書物により,または権威を引用することにより解決できるとする思想――とは正反対の方向へ進んだ。彼は,未知のものに挑む正しい方法は,そのものについてプラトンやアリストテレスが教えていることを問うのではなく,自分自身で推論し,独自の結論を形成することである,と考えた。ここで彼は思考法の確立について精力的に没頭し,数学から始めた。他のものに頼らないで結論を導ける唯一の学問だったからである。彼は言った。数学では,単純な命題から始めて未知のものへ進めて行く。他の学問でも,なぜ同じ手順・方法を取らないのか? なぜ,哲学における未知数を,一種の普遍的な数学によって,筋道だった科学によって,解かないのか?デカルトはフランス人であり,明瞭さを愛した――「真理に直通する道を探すに,われわれは,算術と幾何学の論証の確実性と等しいものを獲得できない対象に関わってはならない」。しかしながら,彼の原則はただ自然的な真理だけに適応されよう。彼は直観もまた信じた。直観を理性そのものの光から起こってくる疑いのない概念と定義してから,彼は「最初の原理は直観のみによって与えられる」と言った。そうした直観の一つは,自分が存在するという事実である。われわれはすべてのものを疑うことができる,しかし自分たちが存在するという事実は疑うことはできない。そこでデカルトは公理――「我思う故に我あり」――から出発した [8*]

 デカルトのうわさはスウェーデンのクリスティナ女王〔1626-89 在位32-54〕の耳に届き,彼女は1650年にこの学殖深く独創的な思想家を自国の荒々しい北風の吹く海岸へ誘い出した。数か月後,その場所で,かの大学者は肺炎で死んだ。しかしデカルトの哲学はウプサラ大学で思想の自由というたいまつに火を点した。哲学上の自由について医学部と神学部との間に大論争が勃発した。時には教会側が勝ち,時には束縛されない探求を擁護する者たちが勝利を得た。「信仰の事柄は聖霊によって示されるが,物理的現象はこれと関わりがない」「祭司に,ウプサラ大学の哲学部の教授職を与えてはならない」――こうした異端的な感情が解き放たれ,学界はうろたえた。ついに事態は国王カール十一世による決着へと波及し,そのとき王は,「キリスト教信仰の教義は哲学的な批評にさらされてはならない。しかし他のものは,哲学は行なう,議論するも自由である」と布告した。その結果,17世紀の終りまでに,スウェーデンの主要な学問の場での思想の自由についての法案が確立し,科学的探求は束縛されず,促進された [9*]

 こうしたものが,1699年6月15日,入学許可者の大帳簿にエマヌエルの名前が記されたときのウプサラ大学の背景であった。そこの名前のあとには「首席牧師かつ教授の子。最良の才能を持った若者」と書かれていた。同日,エマヌエルは「ヴェストマンランド=ダラカールリア友愛会」すなわち「同郷学生会」〔出身地別学生団体〕の会員となった [10]。どの学生もそれらのクラブの一つに所属したが,これはその国のいくつかの地方をほんとうに民主的なやりかたで代表した。これら「大学生」と呼ばれる者たちは,その中には十一歳の者もいたが,今日の同じ年齢の子供とまったく同じであったのは,新館の庭園を荒らしてはならない,手痛い罰により塀に上ることを禁止する,といった校長によって立てられた注意書きや警告の掲示板から明らかである。

 学部は四つあった――神学・法学・医学・哲学であり,最後のものは科学と数学を含んでいた。スヴェーデンボリは哲学部で学んだ。彼はまた法律科目も取り,それでその主題の議論にも加わった。彼の最初の課業は,もちろん,ラテン語の知識を,その初歩は家庭教師からすでに習ってはいたが,完全にすることであった。なぜなら,当時すべての授業は,古典語〔ラテン語〕でなされたからである。ギリシャ語は1年後に,ヘブル語はいくぶんそのあとに加えられたよう見える。名前だけでなく,風格のある職服を着た著名な教授たちの肖像画も今日まで伝わっている。六分儀を持った天文学教授のペール・エルフヴィウス,頭蓋骨を手にした解剖学教授のラルス・ロベリイ,デカルトの書物の上に手を置いた数学教授のハラルド・ヴァルレリウス。集中的に古典語の熟達を目指しながらも一方で,スヴェーデンボリの研究には自然科学と数学の分野もまた含まれていた [11]

 この頃,彼は詩作に関心を持ち始めた。彼の最初の作品として知られるものは,「尊敬すべき最も学識ある紳士ヨハンネス・コルモディン氏と高潔な乙女ベアタ・ヘッセリア嬢」の結婚を祝う,スウェーデン語の12行詩である。これは十二歳の少年としては賞賛に値する詩であり,その最後の詩節を大まかに英訳してみれば――

  夫婦として,天使のように生活する,
  幸せな人生を,このお二人に授けてください。
  今日,婚礼のため,お二人が装い整え,立つように,
  そのように,あなたの花嫁としていつまでも,
  あなたの御座の御前に,立たせてください[12]

 教会が許すと,堂々とした姿のオーロフ・ルードベック★2教授によって統治されていたウプサラの雰囲気は,それだけ自由主義的,浪漫主義的,人道主義的になった。この尊敬すべき「学者」★3は,その著名な本『アトランティカ』により遠く広く知られていた。その書物で彼は奇抜にも,「プラトンは,かれの理想のアトランティス――大昔の神々と英雄たちの生まれた地――を描いているが,そこはルードベック自身の出生地であるスウェーデンに他ならない」との論を展開した。その主張は,長々と,最後まで文献学を引き合いにして立証された。私たちにとっては空想的なものであるが,その時代の信じやすい大衆には全部が受け入れられた。ここスウェーデンでは,ヘスペリスたち★4のりんごが実ったのであり,気候のあまりに寒い当地で,ルードベックはブドウを見つけることはできなかったけれども,上等で良質のブドウ酒が作られるスグリ(スウェーデンではヴィン・ベール(vin-bar) と呼ばれている)の中に,そのもっともな代用品を見出だしたのだった。

 1702年5月17日の夜間,ウプサラで火災が発生し,猛威を振るう風のため,14時間以内にその町の四分の三が灰となった。図書館の宝物の一部は,こけら板屋根の上でポンプやホースの動きを指揮する老ルードベックのおかげで救われた。学生たちは学部長スヴェードベリの燃える家にも懸命に対処した。屋根,窓,戸は焼失したが,大きな居間にあった金文字で書かれた聖書の標語「神を恐れ,神の戒めを守れ」は損害から逃れた。このことは,イェスパーにとって,神のみことばは過ぎ去らない,との証明となった。町の再建計画はすみやかになされ,ウプサラでのエマヌエルの残りの時代は,物質的にも精神的にも,建設の日々であった [13*]

 翌年の春,イェスパー・スヴェードベリはスヴェーデン〔南部の〕中心部にあるスカラの司教に任命された。ウプサラとそこの学生たちに別れを告げ,ヴェステロゴティアにある司教の邸宅ブルンスボに住んだ。スヴェードベリは「ヴェストマンランド=ダラカールリア友愛会」の一員である息子と同じく,当時その管理者であった。学生たちは別れにあたって,銅貨で327ダーラーというかなり値の張る,重い銀の燭台二つの贈物をし,「これを尊敬する師は好意を持って受け入れた」。彼は学生たちを家に招き,多くの忠告を与えた――

 「私は切に,あなたがたに,他の何にもまして神を恐れ,愛するようであってほしい。神への恐れなくしては,すべての修養,研究,学習は何ら価値のないものであり,じつに有害だからです」。つねに幸福であるために,特に守らねばならない三つのものを学生に語った――敬虔,これをあなたがたは聖書を毎日読むことによって増し加えねばなりません。特別な使命をもって職業を選びなさい。和合のために尽力しなさい。(これらをスヴェーデンボリの原稿の間から発見されたと報じられている「人生訓」と呼ばれるものと比較するのは興味深い)[14]

 司教とその妻は幼い二人の娘たち〔カタリーナとマリアーレタ〕と一緒にブルンスボへ行き,十五歳のエマヌエル,妹のヘドヴィクと二人の弟は残って,その春,大学の若い図書館員エーリク・ベンセリウスと結婚していた十七歳の姉アンナの世話になることになった。残りの学生時代を,エマヌエルは姉の家で送り,ベンセリウスを第二の父として仰いだ。エリエセルとイェスペル(ダニエルは幼児のとき死んだ)は「高潔なベアタ」の兄弟アンドレアス・ヘッセリウスの保護の下に置かれた。その結婚式をスヴェーデンボリは『結婚の歌』の中で祝ったのだった。「友愛会」の会計簿の注釈には,支払うべき「30エーレ★5」をエマヌエルから,それと同時に「アンドレアス・ヘッセリウスとスヴェーデンボリの弟たち」のために「1クローナと28エーレ」も,規則的に受領したことが記されている。その家はことさらにぎやかだったろう,その若い妻は,彼女自身の家族に加えて四人の弟と一人の妹を育てるのだから。

 それから六年間,エーリク・ベンセリウスの家にやっかいになったスヴェーデンボリは,彼から自分の人生航路に深い影響を受けた。熱烈なデカルト学徒であったベンセリウスは,学問の将来は科学の分野にあると確信し,その時代の最も傑出した者たちと非常に長い間文通を続け,常に最新の思想の動向に触れた。ウプサラを去る前にエマヌエルは彼から学問への愛を強く掻き立てられた。エマヌエルは,自分は義理の兄から,当時マセーシス★6(数学)呼ばれていた精密な科学に打ち込むよう勧められた,と腹蔵なく述べている [15]

 青年期から成人初期へかけてのエマヌエルの歩みは,「友愛会」の記録から拾い集めて,ほんのわずか知られている。1704年の秋,彼は仲間の学生から「神の摂理」についての討論に加わる三人のうちの一人として選ばれた。この討論は3月に行なわれた。次の学期には,「結婚」について,また「両親と子供の義務」についての討論に加わった。後に,「自然の法則」についての討論では,彼は司会を申し出たが,その申し出は,彼はまだ年下であるから,年下の会員が「年上の紳士の特権をあまりに侵害して」悪例となるだろう,と断られた。この逸話は,若きエマヌエルが相当な進取の精神を持っていた証拠であり,また,法則への彼の関心も示している。いずれ知的職業に従事することになる彼の経歴の中で,法則は非常に重要なものとなるのだった [16]

 1706年,妹のヘドヴィクが,修士の学位を与えられたアンドレアス・リセリウスの卒業のために金のモヘアからビレタ帽★7を作った,との伝説が残っている。記録には,美しい布が彼のために購入された,とあり,ベンセリウスが〔17-18世紀の男性用の〕長髪のかつらをストックホルムから持ち込んだ,しかし,その卒業予定者は,自分の髪がよく似合うよう飾られたあとでもあり,この方がもっと美しく見える,とそのかつらを受け取らなかった。かつらはのちにエーリクの弟がかぶった。この弟は,のちにヘドヴィクと結婚したラルス・ベンセルシェルナであり,それでエマヌエルの義理の弟でもあり,長年の親密な友ともなった [17*]

 1709年6月1日はエマヌエルが長く待った「卒業」の日であったが,今日的な意味での学位が授けられるというようなことは何ら含まれていなかった。卒業予定者の威厳ある衣装を着て,彼は父の目の前で卒業論文を読むために演壇に登った。父〔このとき五十六歳〕はその行事の審査員の一人に任命され,これに出席するためスカラから長旅をしてきた。エマヌエルは中背であり,やや出っ張った下顎は父のものだったが,容貌は母に似ていた。イェスパーのふっくらとした感じの良い唇の代わりに,口はサラ・ベームの穏やかで快活な表情をたたえ,額もまた母ゆずりのいくぶん高いアーチ形をしていた。笑みをたたえた灰色がかった青い目はイマヌエルの容貌の最大の特徴であった。読み始めると,どもりが目立ち,その言葉は滞った [18]

 小論は『シリア人の喜劇(ミームス)作者プーブリリウスとL・アンナエウス・セネカからの格言』 [19]と題された,古典ラテン作家への注釈であった。その印刷された作品の約三分の二は引用文からなっている。残りの三分の一がスヴェーデンボリのものと見なされるが,その内容は議論である。この「議論」は彼の教師――ここでは権威ある〔神学哲学教授〕ファビアン・テーネルである――の教えを擁護するために書かれたのだから。

 議論された格言を二、三述べよう――

 「酔っぱらいと争う者は,その場に自分の心を持たない者を傷つける」〔本心を失っている者を相手にしてもしかたない,の意〕
 「すべての物を所有した者に欠けたものを示そう――真理を告げる人である」
 「あなたの友が犯した罪は,あなたがその友を訓戒しないときあなたに帰せられるようになる」
 「偶然にその効果を得られものは芸術ではない」
 「心を除いて,あなたの中に驚くべきものは何もなく,偉大な者の中にも偉大なものは何もない」
 「強く張ることが弓をだめにする,その不足が心をだめにする」

 ここでスヴェーデンボリは,「この対比は非常にすばらしい」と述べている。「強く張ると弓がだめになるように,心はたるむとそうなるのである。それで,習練と熟考は心にとって食物である。心は常にこの食物で養われ,支えられなければ,退廃する」

 この論文はスヴェーデンボリの心が皮相的な性質からほど遠かったことを示すものと注目されてきた。またラテン語の駆使能力と古典作家を広く知っていたことも示しているが,それ以上にこれは,彼の方向をはっきりと示し,彼の将来の著作の前兆を与えている。彼の人生の最後の三十年間を聖書の意義の解明に捧げたことを考慮するとき,このように早期に,その論文のテーマとして古典の注釈を選んでいるのを発見するのは確かに興味深いことである。

 『格言』はエマヌエルの父へ,次の言葉とともに捧げられた――

「私の父の名前を冠された名誉と名声,それらの行ないを真似して,この私も,年とともに,成長できますように! その心と品性と同じく,その著作の真似事もできますように!」

 この機会を祝って,その印刷された冊子の序文はリセリウスによって書かれた。彼は三年前,妹ヘドヴィクのビレタ帽をかぶって卒業した,豊かに流れる頭髪の若者その人であった。そこには預言的な詩行★8が見られる――

 私は確信する,あなたは役立つ人となり,祖国にとって,
 祖国にとって,キリスト教にとって,その飾りとなることを。
 聖なる詩神は,あなたにいつまでもすばらしい望みを抱く [20*]


原注
8 参考文献省略。(訳者より:入手困難であり,また特殊な文献のため,その文献名を省略します。今後このような場合「*」印をつけて表わし,その「注」を省略します)
10 スウェーデンは地方または“風景”によって分かれている〔地方名が風景に由来する〕。大学では,同じ地方出身の学生は一緒になって自治会へ加わる。ウプサラ大学公文書参照。
11 「ヴェストマンランド=ダラ友愛会」の協定書と会計簿を参照。他の参考文献は省略。
12 原文は『エマヌエル・スヴェーデンボリの詩集』(1910年,ストックホルム),1-3 ページ。
14 『ターフェル』T,18,また上記原注11の協定書を参照。
     人 生 訓
   勤めて,神のみことばを読み,熟考すること。
   神の摂理とその配剤に満足すること。
   適切な行動を守り,良心を清く保つこと。
命ぜられたことに従い,職務や義務に忠実に励み,さらに,社会全般で役立つこと。
     (S・サンデルにより,スヴェーデンボリのものとされている)

15 スヴェーデンボリの著作『無限について』の3ページにあるベンセリウスへの献辞,『手紙と請願書』198, 14, 112ページを参照。
(訳者より:このアクトン博士による『Letters & Memorials』は資料として非常にすぐれており,私もよく活用していますが,請願書と訳した“Memorials”の訳語について,もっとうまい訳語がないかと悩んでおります。よい知恵をお貸しください)
16 「ヴェストマンランド=ダラ友愛会」の協定書を参照。
18 『ターフェル』T,57。他の参考文献は省略。
★雑談 『宝瓶宮福音書』(第20章)によれば,イエスは「金髪碧眼」であった。スヴェーデンボリの目も不思議な魅力をたたえていたという。両者の目の色は似ていたかもしれない。
19 (訳者より:原注19にはラテン語の原題名が記されていますが省略します。ここでは二人の人物について述べておきます。
○プーブリリウス・スュルス(Publilius Syrus 105-43 BC)は前一世紀のミームス(非文学的な喜劇)の作者兼訳者であった。彼の『格言集』が伝わっているが,そこにはすべて一行からなる道徳的な格言が700 以上収録されており,中世には教科書として用いられた。
○L・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca 4? BC-65 AD)はローマのストア派の哲学者、政治家である。その思想は宗教的・詩的であり,温かい人間愛にあふれていて後世愛読された(初期キリスト教著作者からはキリスト教文学と見なされていた)。数ある著作の中では『道徳書簡』が有名。


訳注
★1 気味の悪い目付き。にらまれると災難が降り懸かるとされた。
★2 オーロフ・ルードベック(Olof Rudbeck 1630-1702)。スウェーデンの医学者,植物学者。医学を学び,リンパ管を発見した。ウプサラ大学の解剖学教授(1685)ウプサラに植物園を創設。またプラトンの述べた「アトランティス」にスウェーデンが相当することを証明しようとして『Atrand eller Manheim』(三巻,1675-98)を著した。
★3 ここで「学者」という語にはliteratus(=文筆に長けた者)というラテン語が使われている。著者の皮肉であろう。
★4 ギリシャ神話:黄金のリンゴが植わっている園の番人の娘たち。この園は古くは世界の西の果てにあることになっていたが,のちにヒュッペルボレイオス人の国(北国)にあるとされた。
★5 ノルウェー、スウェーデンの青銅通貨。=1/100クローナ。
★6 ギリシャ語(mathesis)で「学習」「知識を得ること」を意味する。スヴェーデンボリはこの語を『霊界体験記』の中で1度だけ使用している(5141番)。なおその『霊界体験記』では,数学を意味する言葉“mathematica”を2回使用している(4744, 4578m番)。
★7 聖職者(特にローマカトリック)のかぶる四角い帽子。
★8 このギリシャ語による詩はどの行も11音節からなっており,ドーリス式に書かれている。
〔研究誌『荒野』第2号、1997年2月〕