3 Brunsbo Interlude
第3章 幕の間 ブルンスボ
スヴェードベリ司教は,息子が外国旅行とそこでの勉学の恩恵を得てから,その教育が終了することを望んだ。そこで彼は,1709年の5月ストックホルムにいる間,エマヌエルのために国王の秘書官へ旅行許可証を申請した。卒業式を終えた司教は,息子と四歳の孫のエーリク・ベンセリウスを伴ってブルンスボへ向かった。エマヌエルは,8月1日頃,ここからイギリスへ行くつもりだった。彼は義理の兄へ手紙を書く中で,ロンドンの王立協会★1の数人の会員宛ての紹介状を依頼した。彼らの物理学と自然科学での業績から益を得るためであった(ブルンスボ,1709年7月13日)[21]。
出発への準備中,〔この手紙の中で〕エマヌエルは次のように述べている。「科学に関する自分の知識を増やし,完全なものにするため,その主題について見つけ出せるものをすべて集めることに,すでに取り組んでいます。最も手に入れたいと望んでいるものは,偉大なスウェーデンの発明家であり機械の天才クリストファー・ポルヘムの著作です。ポルヘムは,何か生命にかかわることが自分に降りかかる前に,自分の発明した物の記事(解説)を公表することを急ぐべきです。彼の資料は,私自身が見込んでいる「数学」についての著作を飾る絶好のものとなるだろうと考えています★2」
しかし,彼の目的が実現する以前に,やや年月が過ぎ去らねばならなかった。イギリスへの旅行は延期を余儀なくされた。14日間を見込んでいたのに,エマヌエルは丸1年スカラに遅滞した。スウェーデンは戦争中であり,敵国の一つのデンマークが制海権を握り,それでイギリスへの旅はほとんど不可能だったからである。他の理由は自国の状態にあった。スウェーデンは国外の戦場にいる軍隊に供給するため,常に全神経をとがらしていただけでなく,伝染病も発生したのである。たび重なる敗北と穀物の不作に人々は疲弊し,腺ペストが,東南から進んで北ヨーロッパを通過し,スウェーデンに接近したとき,農作物にはやせ細った土地は,死の大豊作には十分な準備となっていた。1710年,スウェーデン政府は,感染した港からやって来た船は検疫のため四十日間停船して隔離されねばならない,との命令を発した。しかし,あらゆる予防処置にもかかわらず,命取りの腫れ物が出現し,その国のいろいろな地方に広まり,流行った。ストックホルムだけでも,その都市の人口の三分の一,2万人の人々が犠牲となった。当時,南の地区に住んでいたリュセリウス博士は,「1711年1月の13日,私はその都に危険を冒して行ってみた」と書いている。「どこに行っても,そこは人影がなく,がらんとしていた。私の知人は死ぬか,移転していた。家も仕事場も見捨てられていた」[22*]
不幸を決定的とするかのように,王がロシアのポルタヴァでの決戦で敗北した,との知らせが届いた。スヴェーデンボリの初期の人生は,祖国の運命と堅く結び付ついていた。それで,完全な失敗に終わったこの出来事を,これはスヴェーデンボリの姿を彷彿させる背景の一部であるので,簡単に紹介しておくのが望ましいだろう。
1697年,国王カール十一世の死後,貴族たちは投票し,その息子カールを王位継承者と認めた。十五歳の少年である。彼らは,こんなに若い少年なら扱いやすく,こうして,その父王の下で失った自分らの財産に対する免税措置を取り戻せると望んだのである。しかし,王に対する献身の報酬を受ける代わりに,彼らは戦争に巻き込まれたのがわかった。スウェーデンが飢饉で年ごとに弱まり,未熟な少年に治められているのを知ると,敵国は,かねて自分たちのものするのが正当であると主張していたバルト海沿岸地方を獲得する好機と考え,スウェーデンを攻撃した。ロシアのピョートル大帝★3は,ポーランド王と謀り,スウェーデンに対する同盟を結成した。のちに,デンマークのフレデリク四世★4がこれに加わった★5。これら三国を合わせると,人も資源もスウェーデンの十倍も強力であった。
しかし,若い王の精力と能力はすぐに事件の潮流を変えた。デンマークに対し,電撃的戦役で勝利したカール十二世は,自国に有利な和睦を強要した。それから彼は,バルト海沿岸の領土を脅かす軍隊に向かって進んだ。強力なロシア軍がエストニアのナルヴァ★6を包囲していた。そこはスウェーデンの小さな駐屯部隊によって勇敢にも守られていた。カールはその包囲された都市を救いに進軍し,1700年11月20日,圧倒的な数の軍隊に対し,輝かしい勝利を得た。若い王の勇気と軍事的手腕のうわさは稲妻のように世界に広まり,“北方の獅子”はヨーロッパ全域から祝辞を受けた。ここで戦争を止め,彼が許容できるくらいの条件で,ロシアと講和を結ぶなら,すべては順調だったであろう。それどころか彼は,ウクライナに侵攻するという致命的な間違いをした。この時まで,カールは勝利しか知らなかった。しかし,だんだんと彼は運命を決するポルタヴァの平野へと軍隊を進め,ここで敗れ,ステップ(広大な草原)を越えて,黒海に面したトルコ領のベッサラビア★7へ退却した。トルコは彼を一種の名誉ある囚人として抑留した★8。
いまやスウェーデンは王を奪われ,かつてデンマーク領であった最南端の地域スカニア★9を取り戻そうと望んだデンマークから再び攻撃された。デンマークの王が突然ヘルシングボリを急襲し,これを奪取すると,スウェーデンの人々は敢然と立ち上がった。国の貧困は甚だしく,戦争の重荷は恐ろしいほどきつかった。しかし,勇敢で忍耐強い人民たちは,自分たちの家族のために,また若き英雄であり,彼らの心をとりこにした王のために,何物をも犠牲にした。愛国心に燃え,鎌と(干し草用の)三つ又フォークで武装した農民の軍隊が,マグヌス・ステンボックに指揮の下,デンマークを打ち破り,祖国から追い出した。
若いスヴェーデンボリはこの英雄的行為・偉業には加わらなかったが,その勝利に鼓舞されて『ステンボックの勝利への頌詩』を作文した[23*]。ブルンスボで待機している間,彼は他にもいくつか詩を書いて出版し,製本の技術を学び,教会でオルガンを伴奏できるようにと音楽を練習した。いまや医学の学位を得てフランスから戻り,再びスヴェードベリ司教の家に住むことになった以前の家庭教師ヨハン・モラエウスとの交際を新たにした。彼は,モラエウスが近隣で掘り出した巨大な骨を調べ,これらを「中世の巨人の骨」に整えて,ウプサラ博物館に送った。そこの権威者たちはこれらの遺物は鯨の化石であると発表したが,それらの骨は124マイルも内陸で発見されたので,このことはただ謎を深めただけだった[24]。
押しつけられた余暇をスヴェーデンボリは好まなかった。ブルンスボでは科学的探求に対しての刺激はほとんど得られなかった。「もうこれ以上,私は少しもこの場所に止まろうとは思いません」と不満を述べている。「自分の時間のほとんどを空しく費やしているからです」
彼は逃避先を友のベンセリウスに求めた。探求への自由な方法を求める運動での指導者であるベンセリウスは,早くもその時代の最先端に立つ学者の一人になっていた。彼らの間で交わされた数多くの手紙の一つに,彼に対するエマヌエルの愛情がよく表わされている――「私の兄弟以上に愛しているだけでなく,私の父として愛し,尊敬しています」。義理の兄は,この愛情に報い,またエマヌエルを高く評価していた。なぜなら,ヨーロッパの学者たちと文通した18冊もの書類の間に,ベンセリウスはスヴェーデンボリから受けとった50以上もの手紙を保存したからである。そしてそれらは,その時期からの伝記上の資料として私たちに伝わっている中で最も貴重なものとなっている。
「この際,私はポルヘムのところに滞在しようと計画しています。この問題について少しばかり情報を得たい,というのが現在の私にとって重要なお願いです」とエマヌエルは1710年3月に書いた。「もし私の外国旅行が来年の春まで延期されなくてはならないのなら――そのとき彼のところにしばらく滞在できるなら,大満足です。おそらくそこでは冬よりも夏の方が利益を得られるでしょう,そこではあらゆるものは生き生きと楽しいでしょうし,私の心もよい状態に置かれるだろう,と想像つくからです」[25]
クリストファー・ポルヘム[26*]は,スヴェーデンボリの初期の生涯で主要な役割を演じる運命にあった。ポルヘムは早い時期に両親を失い,数多くの試練に満ちた子供時代を経て,ついに機械の修理への素質を示し,その発明の才で有名になった。彼は常に,数学によってのみ解ける問題に直面した。しかし,数学についてすべての教科書は彼の知らないラテン語で書かれていた。学齢期を過ぎ,資力もなかった,がそれにもかかわらずポルヘムはこの古典語を学ぼうと決心した。彼の人生の転換点は,ある日,彼が働いていた屋敷のおかかえ牧師が柱時計を作ってくれるよう注文してきたとき,やって来た。その若者は,もしその牧師がラテン語を自分に教えてくれるなら,15分、30分、1時間毎に時を打ち,それ以外にも日付を知らせる柱時計を作りましょう,と約束したのだった。彼はのちにウプサラでその勉学を完成させた。
ポルヘムは,その著しい天賦の才能をスウェーデンにとって今なお最も重要な鉱山業に用いた。彼は,鉱石を引上げ,それを製錬所に運び,容器を空にし,それらを縦坑に戻す,という一連の作業すべてを水力で行なう機械を発明した。あらゆる種類の新しい機械を,図面を準備することなく,組み立てた。そのうちにドイツは,ポルヘムから教わるため鉱山専門家を送り込み,またドイツに定住するよう申し出て,大いに勧誘した。これはイギリスも同じであった。しかしポルヘムは,国がまったくの貧困にあり,自分に正当に報いることができなくても,その祖国を好んだ。彼は,穀物をひく手回しの粉ひきといった戦場用の器具を考案することでカール十二世の軍隊を非常に助けたのである。
ポルヘムは,数人の弟子を下宿させ,彼らを教え,ときには,その見返りにかなりの謝礼も受けとっていた。イマヌエルの要求を受けて,ベンセリウスは,自分の友ヤコブ・トロイリウス師に,スヴェーデンボリを弟子として採用するようポルヘムに話してほしい,との依頼文を書き送った。ポルヘムは,自分と妻はこれ以上見知らない者を下宿させるつもりはないと堅く心に決めている,と返事した。それでも,彼はスヴェードベリ氏の大いなる願いを聞き入れることになっていたかもしれないのである。エマヌエルがポルヘムを訪問する件で,その最初の接触の一つは,スヴェードベリ司教自身によるものであったように思える。彼は科学には熱心ではなかったが,広い心をもって,自分の息子の生来の性向には反対しなかった。「私は息子の職業上の選択を決して邪魔しない」と彼は言い,このことはポルヘムによって書かれた手紙によって実証されている。ポルヘムは,最初に司教から,それから彼の地区牧師と一緒になったベンセリウスから,自分が背負い込むようにと持ち込まれるあまりにたくさんの圧力を楽しむことができなかったようである。それでも,彼はエマヌエルの訪問を,聡明で知的な弟子なら,実験の際,自分の助けとなるだろうと期待していたのだった[27]。
しかし,スヴェーデンボリのポルヘム訪問は,この時には起こらなかった。イギリスへ航海する予定の船長がいると聞くと,当時スウェーデンと戦争していたデンマークに捕らえられる危険が,それにまた,イギリスと戦争していたフランスによって危害を加えられる可能性もあったにもかかわらず,若いエマヌエルは船旅の約束をし,1710年4月の終わりか,あるいは5月の始めに,イギリスへ向かう船に乗り込んだ。スヴェーデンボリが科学に導かれたのは機械という媒介を通してではなかった。ドックや運河の建設といった彼の手がけた実用的な仕事は,その時代の何人かの偉大な科学者や思想家と知り合ったあとの日までとっておかれた。
原注
21 『手紙と請願書』2-4ページ参照。
24 『手紙と請願書』9ページ参照。スヴェーデンボリの鯨の骨☆は,現在,スウェーデン王立科学アカデミーの博物館に保存されている。A・G・ナトホルストの「地質学者としてのスヴェーデンボリ」(1907,
1908, 1911年にスウェーデン王立科学アカデミーから出版された『スヴェーデンボリの科学著作集』(全3巻)の第1巻の序文)の25ページ以降参照。
(☆訳注) しかし,アクトン博士によれば,51個の骨は現在,ウプサラ動物学博物館に保存され,“スヴェーデンボリの鯨”との目録が付けられている。本書第8章「洪水の証明」参照。そこでは数年後の1715年,これらの骨に言及して,これは一時期スウェーデンが洪水によって覆われていたことの証明になるとしている。
25 『手紙と請願書』7ページ参照。
27 『手紙と請願書』9-10ページ参照。他の参考文献省略。
訳注
★1 Royal Society。1660年に創設されたイギリス最古の自然科学振興を目的とする学会。下記補足記事を参照。
★2 アクトン博士の『手紙と請願書』によれば,この部分の記述は不正確である。「そこのmechanicsはきっと“the matter in hand”(手中にあるもの)を飾るものになるだろう」とある。すなわち,入手できれば,収集中の科学著作の中でも主要なものとなるだろう,と期待したのである。
★3 Pyotr(672-1725,皇帝在位1682-1725)。ロシアに近代ヨーロッパの文化を導入するため,ドイツ,オランダ,イギリス,オーストリアを旅行した(96-97)。彼の外交政策は海への出口を求めることに向けられ,トルコとの戦いによってアゾフを(96),スウェーデンとの戦いによってバルト海沿岸地方を占領した(1700-21)。ロシアの位置をヨーロッパの列強の間に高めたのは,彼の歴史的な偉業であった。
★4 Frederik IV(1671-1730,デンマーク王・ノルウェー王1699-1730)。ポーランドおよびロシアと結んでスウェーデンと戦うが敗れ(1700),カール十二世がポルタヴァで敗れると再びスウェーデンに宣戦して敗れ(10,12),和議を結ぶ(20)。農奴解放を行なった(02)。なお,原著に「二世」とあるが間違い。
★5 北方戦争の始まりである。下記補足記事を参照。
★6 Narva エストニア共和国の港市。中世デンマークの要塞の周囲に発展した都市。
★7 Bessarabia 旧ソ連邦のルーマニア国境地方;大部分がモルダヴィア共和国に属する;長い間トルコとロシアが争った地。
★8 この記述は不正確である。トルコと結んで,対ロシア戦をいろいろと画策していた。下記補足記事を参照。
★9 現在のスコーネ。これは1907年秋の戦役。
[補足記事]
●王立協会(Royal Society)
1645年からロンドンで自然哲学と人間科学に興味をもつ知識人が毎週会合を開いていた。60年に学会となり,61年には国王チャールズ二世も会員となり,62年正式にこの名で発足した。科学技術について政府への提言と諮問機関として強い発言力をもっている。I・ニュートン(1642-1727)は,72年会員に選ばれ,1703年からは死ぬまでそこの会長であった。
●北方戦争(1700-21)
スウェーデンと,デンマーク=ノルウェー,ザクセン=ポーランド,ロシアとの戦争。1700年スウェーデンに対する攻撃が三方から始まった。8月にはピョートル大帝がエストニアのナルヴァを包囲した。11月ナルヴァの要塞の戦いで十八歳のカール十二世は勝利する。その後,ポーランドを転戦するが,1709年7月ウクライナのポルタヴァPoltava の会戦(ロシア軍5万,スウェーデ軍3万)でスウェーデンは決定的な敗北を被る。カール十二世はトルコでロシアとの戦いを画策するが,13年北海沿岸のチュニングでスウェーデンがロシア=ザクセン=デンマーク連合軍に大敗すると,カールはトルコを去り,14年11月スウェーデン領ポンメルンのシュトラールズントに帰った。シュトラールズント陥落寸前の15年11月,カールはスウェーデン南部に帰り着いた。
カールは戦争の新局面をはかり,18年9月ノルウェー南部に侵入したが,同年11月30日フレデリックスハルの包囲戦で戦死した。
20年ロシア軍がストックホルムに進撃しようとしたので,スウェーデンは講和のやむなきにいたり,21年9月ニスタットの平和条約が締結され,長かった戦争も終わった。
〔研究誌『荒野』第3号、1997年3月〕