4 To England and the Continent
第4章 イギリスと大陸へ
いまや初めて西へ航海する若者は気力に満ち,野望でいっぱいだった。スヴェーデンボリがイギリスとヨーロッパ大陸を訪問したときの様子は,彼の手紙から,また日記に短く記された文から知ることができる。
「ロンドンへの途中,私には生命の危険が四度あった」と彼は言っている。船は砂州に突っ込み,その後,禁制品を捜索するフランスの(政府の許可を得た)私拿捕(だほ)船の船員に乗り込まれた。その翌日の午後,たそがれ時に,イギリスの哨戒艇が今度はこのスウェーデンの船を私拿捕船と間違えて,舷側砲による攻撃を加えたが,しかし幸いにも大きな危害とはならなかった。
エマヌエルがロンドンの港に着いたとき,さらに容易ならない危険が起こった。スウェーデンで疫病が発生したとの知らせがイギリスに届いていたため,イェーテボリ★1を出たその船は,乗員全員とともに,検疫停船期間の6週間,港に待機するよう命じられた。しかし,数人のスウェーデン人たちがヨットで近づいてきて,この若い旅人に一緒に都(ロンドン)へ行こうと説きつけた。検疫破りの捜索が行なわれ,エマヌエルは逮捕された。「私は縛り首から救われた。しかし今後このようなことを敢えて行なう者はだれであってもこの刑を逃れることはできない,という条件付きであった」と彼は書いている [28]。
これは,物事の結果を無視するという若者の行為が惨事に終わったかもしれない危険な事態であった。それを逃れたのは,スヴェーデンボリの持っていたイギリスで著名な人物たちへの紹介状によるものと思える。その中に,スウェーデン大使カール・イレンボリ伯爵がいて,この人物にスヴェードベリ司教は手紙を送っていた。また,以前ストックホルムに住んでいた親密な友,ジェームズ・ロビンソン主教★2もいた。エマヌエルは,この主教のロンドンでの住まいであるサマセットハウス★3を訪問している。それからまた,スヴェーデンボリの父は,植民地アメリカでのスウェーデン人移民者の信徒団の管轄権を持っていたように,ロンドンでのスウェーデン人信徒団の管轄権も持っていた。
当時,ロンドンを訪れた者は,しばしば宿を手職人のもとに求めた。スヴェーデンボリは最初に,時計制作人,それから家具職人,のちには真ちゅう器具の制作人のもとに下宿した。「私は彼らの技術を盗んでいます。いつかそれらが役立つでしょう」と言っている。彼はいくらか英語に上達してから紹介されていた学者を訪ねることにした。その間,書籍を少しばかり買い集め,ニュートンやその他のイギリスの科学者の著作を集中的に研究し始めた。
エマヌエルはときどき故国への郷愁にかられた。
愛しいお兄さん,あなたが私のことを問うなら,私は元気ですが,幸福ではありません,と言わなくてはなりません。あなたと私の家がなつかしいからです。あなたから手紙がもらえるなら幸せです,まるで国に帰ったようになれるでしょう……現代のサッポー★4であるソフィア・ブレンナーに捧げる詩を送ります。この詩が修正を要すると思ったなら,磨きをかけて改良してください,そして修正したものを彼女に送ってください。(ロンドン,1710年10月)
(ソフィア・ブレンナーは当時その冗長な詩で大いに賞賛された。しかし,今日の称賛者が彼女の名誉ある貢献について書くとするなら,17人の子供の母親業を成し遂げたことが最大の業績であった,と述べるであろう。二人以外はすべて彼女自身の子であった!)
12月,いとこのアンデルスとグスタフ・ヘッセリウスがスウェーデンから到着したので,エマルエルはひとりぼっちではなくなった。彼らはロンドンを経由してペンシルヴェニアの開拓地へ行く途中であった。スヴェードベリ司教はアンデレスをデラウェアのスウェーデン人信徒団の牧師に任命した。その弟のグスタフは,新世界〔アメリカ〕で著名な最初のアメリカ人芸術家としての名声を勝ち取る運命にあった。アンデルス・ヘッセリウスの日記の断片から,三人の若者が一緒になってこの魅力的な首都の見物に出かけたことが知られる――
ここで,全キリスト教世界で最も大きく最も人口の多いこの有名な都について私の批評を書くまでもないでしょう,なぜなら,これを記述するにはあまりに広範囲すぎて,その種の本や旅行家によってもなかなか描き切れるものではありません。ただ一つだけ言わせてください,全世界の人類,富,栄光,壮大さの縮図を見たい者は,ロンドンの王立取引所や税関で見られるでしょう,その他にも無数の場所があります……。[29]
スヴェーデンボリもまた観察した多くの珍しい物について論評している,例えば,チャリングクロス★5で「アフリカとアメリカから来た奇怪な動物とサル……。この都で見るべき価値のあるものは何でも,私はすでに調べました。数日前に壮麗なセントポール大聖堂★6はすべての部分が完成しました」(1710年10月13日)。
スヴェーデンボリの第1回目の訪問となったロンドンは,大火の灰の中から起き上がったばかりの,クリストファ・レン★7の美しい建物群による,輝かしさいっぱいの新しい都であった。しかし,すべてが幸福で,心地好いのではなかった。空気は街路の呼び売り商人の甲高い声で引き割かれ,どぶと下水溝からは悪臭が漂った。暗い道を歩くのは,特に日が暮れてからは,追剥ぎとスリで危険であった。サミュエル・ジョンソン★8は,交通を妨害するごみの山を記している。飾り立てた人々は担いかごに乗って運ばれるが,その一方で貧乏人は裸足であり,人間性を損なわれた実例ともいえる者たちが,卑しい身なりで,うすぐらい小道をこそこそと歩いていた。
スウェーデンからの訪問者たちは,自国で,そして実に世界の他のすべての国でも見られない顕著な特徴である,書くこと話すことの自由をだれもが享受していることに強い印象を受けた。他にも報酬があった。ロンドンの1月はスウェーデンの5月と同じであり,スウェーデン★9教会の牧師エドツァルドゥス博士★9の庭ではユリや他の花が咲いていた。この博士の家は市外5マイル★10のところにあり,エマヌエルは友だちとしばしばそこを訪れた。ヘッセリウスは,アメリカへの旅のための通過証を手に入れてもらったイレンボリ伯爵と過ごした一日を記している。総督ウィリアム・ペン★11に会ったことのある彼はヘッセリウスにペンシルヴェニアの居住民の総督への手紙を託したのだった。
エマヌエルは望遠鏡の管,四分儀,プリズムなど,といった器具を購入し,その勘定を済ませた後に,空気ポンプを買うに十分な金が残ることを望んだ。
少しのちに彼はベンセリウスへ,「あなたは,私が科学(Mathesin)の研究を進めるよう励ましてくださいますが,私としては思いとどめています,むしろ私は,特に天文学と工学に異常なほどの関心を持っているからです」と書いている(ロンドン,1711年4月)。
毎日,彼はその都の最高の数学者たちを訪れている。特にそのうちの一人とは最初の一年の大部分の時間を一緒に過ごすことになったが,その人とはロンドン市の中心から約4マイル半のところにあるグリニッジ観測所の所長であり,イギリス王室の誉れ高き天文学者,ジョン・フラムスティード★12であった。この円熟した経験豊かな天文学者は,二十二歳のスウェーデンの学生との交わりを楽しんだよう思える,彼らはフラムスティード自身の観測と計算について長く語り合ったからである。夢想もしなかった宇宙の深淵を次ぎ次ぎと明らかにする新しく完成した望遠鏡で初めて星空を示され,それらを観察したとき,この若い科学者はどのような興奮を感じたことだろう!
当時は海上での経度を決定する問題に関心が集中していた。イギリスの交易は地球の全地域へ広がり,常に船舶を増やす必要のあったイギリスにとって,これは死活問題であった。政府は海上での経度を発見する最上の方法に対し大きな賞金を提供したので,どこの科学者たちもが,これを競っていた。若きスヴェーデンボリは,自分の経験不足に恥じ入ることなく精力的に,この問題の研究に打ち込んだ。1711年の8月,彼はベンセリウスに書いている――
天文学について,私は大いに進歩し,この問題について役立つと思える多くのものを発見しました。これには初め,私は大いに頭を悩ませたのですが,それでも今はもはや,長い思索も困難なものに思えません。私は地球上での経度を決定する提案のすべてを念入りに調べましたが,しかし,それらは役立たないだろうとわかりました。それで月による方法を考え出しました。これは絶対に信頼のできる,また得ることできる最善の方法だと確信します。そのうちすぐに,そうした点を指摘しながら,私はこの問題を克服するための提案がある,と王立協会に知らせましょう。もし好意を示す人々を見出だしたなら当地で,見出だせなかったらフランスで,これを出版しましょう。また私は,惑星や月や星を観察するための多くの新しい方法を発見しました……。私は今,代数や高等幾何学の研究をしています。そしていつか,ポルヘムの発見に続くことができるようにとこれらの主題で進歩することを願っています[30*]。
ポルヘムへのエマヌエルの賞賛は続いた。彼はポルヘムを訪ねようという考えを捨てたのではなく,ただ延期したのだった。
ベンセリウスの手紙はよい知らせをもたらした。ウプサラで疫病はやみ,教師たちの中で亡くなった者はいなかった。悪疫の間,大学での講義は中断しなければならなかったので,教授たちのある者は,ベンセリウスの提案で,強いられた休暇を図書館での会合に利用し,自然の研究とその結果の出版を目的とする団体を結成した。さらなる目標のため,彼はエマヌエルに自分たちのために,いろいろな本と顕微鏡や24フィートの望遠鏡を含むさまざまな器具を購入するよう要求している。エマヌエルは喜んでこれに応じ,これら以外にも自費で科学を主題とする数多くの本を集めている。
ウプサラでの関心は,ニュートンの引力の理論が新しく出版され,これをイギリスの著名な数学者たちがどのように考えているかを聞き出すことにあった。一つの惑星が他の惑星に引力により引き付けられる,ということはデカルト学派の者たちにとって実体のない空論に思われた。スヴェーデンボリは,「この問題ではだれもイギリス人に意見を聞いてはなりません。彼らは自国の人間が関わるところでは盲目になってしまうからです」と答えた。
「私は1715年以前に家に戻るつもりはありません」と彼は明言している。彼はオックスフォード(大学)のボドレー図書館★13を見たいと大いに願ったが,彼の資金はわずかであった。「依然として金不足のまま,私はここにとどまります。父は,手紙により,私が銀行から金を引き出して父を困らせないと約束したことを知っているのに,現在までのほぼ16週間を200リクスダラー★14で暮らしをさせて,なぜもっと私によくしてくれないのか不思議に思います。鉄★15はこの三,四か月ここに届いていません。スコーネの娘っ子のように,食べ物も飲み物もなく生きることは困難です」(これは伝えられるところによると20年間食べないで生きた少女について言及している。この事件を司教自身が調べている★16)(ロンドン,1711年8月)
1712年1月16日はイギリスでは感謝祭の日であった。フランスとの講和が締結されていた。「その日の朝,エマヌエル・スヴェーデンボリ氏は私たちと別れてオックスフォードへ行った」とヘッセリウスは書いている。明らかに長く待った資金が届いたのである! エマヌエルはオックスフォードで数学の研究を続けた。彼はアメリカでのイギリス植民地の緯度と経度を示した地図で有名な天文学者エドマンド・ハレー★17と会談した。8月には,スヴェーデンボリは集中的な研究に疲れてというよりはむしろ失意のうちにロンドンに帰った。「月によって地球上の経度を見出だすという私の発見について,これが経度を見出だすただ一つの,そして最も簡単な,事実正しい方法であると確信しています。月の軌道の運行表がまだ完全に修正されていないことが起こり得るただ一つの障害です。しかしフラムスティードは運行表の修正を私に約束し,また彼の作成した非常によいものも見せてくれました。それは誤りもなく,完全に月の運行を示すのに役立つでしょう。これが実現すれば,私は,この〔懸賞金のかかった〕勝負に完全に勝ったのであり,事情をよく考慮したうえで,経度を発見しようと試みた者で月による方法に達した者は他にだれもいない,とあからさまに言いましょう。ただ月の運行が修正されさえすれば,他の者によって提案されてきた方法はどれ一つ,この私のものを除いて役立ちません。ハレー博士のものですら少しの価値もありません,このことは博士が口頭で私に認めています。しかしここイギリスでは,この丁重で誇り高い人々の間では,私は大して奨励されていないので,それで私はこれをどこか他国に行くまで保留しておきます。私が経度についてある案を持っていると語ると,彼らはこれを絶対不可能なことと見なします。それでここ〔イギリス〕でこのことを話そうとは望みません」
彼はこれ以上の数学の研究は中止しようと決心した。彼は野望たくましく新しい活動分野を探った――詩へ向かったのである。
私の思索は役立つというより,一時,人づきあいを悪いものにし,これは私にとって有益ではありません。また,精力もいくぶん使い果たしたので,しばらくの間,詩の勉強をして,これによって元気を回復したいと思っています。この詩の勉強で,今年中に少々有名になりたいと考えています★18。……しかし時がおそらくこれを決定するでしょう。それでも,しばらくしたら,再びマセーシス(科学の研究)に取りかかるつもりです……元気が与えられたなら,現代のだれよりもこの問題で多くの発見をするつもりです,しかし元気がなかったら,これは自分を苦しめるものになるでしょう――扱いにくい牛で耕すように★19。(ロンドン,1712年8月)[31]
オックスフォードで,エマヌエルが文学の方面で日の目を見たかどうか私たちは知らない。しかし彼が「ドライデン,スペンサー,ウォラー,ミルトン,カウリー,ボーモントとフレッチャー,シェークスピア,ジョンソン,その他の著名なイギリスの詩人たち★20は,その想像力だけをとっても読むに値する」と見出だしたことを私たちは知っている。これらの詩人たちは疑いもなく,当時スヴェーデンボリの筆によるラテン語の詩の模範として役立った。彼の『Delia in Nige Ambulans(暗やみを歩くダイアナ)』はイギリスの詩『Cholis Walking in the Snow(雪の中を歩くクロエ)』のラテン語化である [32]。次の詩『女流詩人へ――なぜ彼女の詩は喜ばしいか』とその続編からは,私たちがそれらの全部の香りを捕らえ損なうにしても,それでも当時のイギリスの詩の形式が浮かんでくる。
女流詩人へ――なぜ彼女の詩は喜ばしいか
なぜなのか知りたい。美しい乙女によって触られた弦が,
これほどまで心に染みる,身震いのする歓喜の音を与えるのか?
ニンフのネクタル★21を,彼女はどのように詩に注ぎ込むのか?
その美しい口から発せられる声は,なぜ甘く響くのか?
彼女の言いたいことすべては,その口を通してやって来る。
彼女のわずかな言葉のどれも,その美しいくちびるに触れる。
けれど,歌の中には愛がある,言葉だけでもくちびるでもなく。
それで,人々は彼女の甘く歌う声を,切に聞きたく思う。
私に答えてくれる同じ女流詩人に
いいえ! それは巧みな奏者の指でも,
舌でも,くちびるでもありません。
あなたが歌い,感動させるものならなんでも,
私はそれらにキスを与えましょう,
あなたによって感動するとき,
感動を呼び起こすあなたの全身を,私は愛します。
まさに幸せです,私たちの愛が,新たに小さな夢想を,
また,詩節の一片だけでも生み出す原因となるなら。[33]
スヴェーデンボリの詩は同時代の人たちに評判がよかった。ある者は,「青年時代の彼は偉大な詩人であった。私は彼のラテン語の詩の断片を所有しているが,それはオウィディウス★22が自作としても恥じるものではないだろう」と言う [34]。これは賞賛し過ぎであろう。判断に適するような基盤となる英訳は一つもなされていない。エマヌエルは失意や研究に疲れたとき詩に向かったのである。彼はブルンスボで,オックスフォードで,のちにはグライフスヴァルト★23で詩を作った。これら作るときの訓練が,彼の明晰で表現豊かなラテン語の文体を発展させる助けとなったことは疑いない。
イギリス滞在の全部に,スヴェーデンボリの心を広げる効果があった。おそらく祖国でよりも広い視野を得ることができる以上に,ここで彼は多くの世界的に偉大な思想家を知った。イギリスを訪問して,彼は人間の精神的生活にとって言論と出版の自由がどれほど有益なのかわかった。このことに彼はあとになってしばしば言及している。スヴェーデンボリはこの時期に自分の一生の仕事に対する準備の始まったと認めている。「主により,私は最初に自然科学へ導かれ,こうして準備をしたのです。これは1710年から1744年のことです」[35]
約2年半のイギリス滞在を終えて,1713年の初めにスヴェーデンボリはオランダにいた。ユトレヒトではヨーロッパ諸国間の問題を決着させる条約を起草するための会議★24が進行中であった。スヴェーデンボリはあらゆる地方から集まった大使に会ったが,その中にロビンソン主教がいた。彼は会議へのイギリス代表であった。その青年は時事問題について活発な議論に引っ張り込まれたが,これはスウェーデン国会の一員としての地位を得る時へのよい準備となった。彼はスウェーデン代表のヨハン・パルムクヴィスト男爵と多くの時を過ごした。彼は偉大な代数学者であり,その家で,彼らはほとんど毎日,数学について長らく語り合った。その政治家はエマヌエルとの楽しい交わりを好み,別れの見送りをいやがったほどである。
ライデン★25では,みごとな観測所に感動している。自分の経度に関する研究を完成させるのに必要な月の観測のために,ここを使用できさえしたなら! この願いが満たされたことを示すものはない,それでも,この有名なガラス生産の中心地で,エマヌエルは自分の教養にレンズ磨きの技術を加え,このために必要なすべての器具と備品を購入している。
パリに到着した少しのち,病気になり,6週間ほど研究やその他の活動をやめなくてはならなかった。彼はこの軽い病気の内容について何も言っていないが,明晰な記録としてはただ一つ,この「何も言っていない」ことだけである。スヴェーデンボリは注目すべきことに全生涯にわたって病気とは縁がなかった。
回復すると,彼はロンドンでしたようにパリでも学者たちを訪ねた。当時の最も教養ある人物の一人であり,科学の偉大な後援者であるビニョン神父は,エマヌエルを心から受け入れ,彼の研究に感銘を受けたようである。神父は彼に名高い数学者ポル・ヴァリニョン教授への紹介状を与えた。続いて次に,教授は天文学者デ・ラ・イルのもとへ彼を行かせた。しかし,パリでもまた,この熱心な若者は,月による彼の方法の有効性を科学者たちに確信させる努力を妨げられたように思え,多くの年月を経てから,彼はこれをイギリス王立協会に提出したのである。
彼は絶え間なく研究に取り組み,スウェーデン人の仲間との,また自分の研究を乱す者すべてとの交際を避けた。手紙を書くことさえ障害となった。彼はベンセリウスに「私はあなたに世界中のだれよりも大きな愛と尊敬を抱いています。これを信じてください。それでご無沙汰と私の筆無精とに気を悪くしないでください。私の研究が原因なのです,研究に集中していて,もっと必要なことを無視しているのです。お元気で,さようなら! いつまでもあなたを信頼して,エマヌエル・スヴェーデンボリ」と書いている。(パリ,1713年)[36]
パリ滞在を終える前に,それでも,この若い研究者は何人かの友と一緒に,その都の一般的な観光旅行をした。
1714年,8月の終わり近く,帰途の途上,エマヌエルはハンザ同盟★26の静かで小さな港ロストク★27から別の手紙をいとこに送った――「私は平和で自分の研究と着想すべてをまとめる時間の持てる場所にやって来たことをまさに喜んでいます。これらのものは今まで雑然とあちこちの紙切れに散らばっていました。これまで,私に欠けていたものはただそれらを整理する場所と時間でした。ここでやり始めたので,それらはまもなく完成するでしょう」
驚くべき14の工学的発明の一覧表がこれに続き,自分が開発した,とその若者は述べ,図と文章によりそれらを説明している。彼はそれらをスウェーデンに帰ったとき印刷しようと望んだ。不幸にも彼の父が図を置き忘れ,それらは失われた。その一覧表の二,三の品目は――
「人を載せ,海面下をどこへでも進み,敵の艦隊に大打撃を与える船の建造計画」
「音楽をまったく知らない者によっても,紙にしるされた音符によって,あらゆる種類の旋律を奏でことのできる自在楽器」
「空飛ぶ乗り物。すなわち,空中にとどまるか,空中を運ばれることのできるもの」
「分析により,心の欲望と情愛を突きとめる方法」
「私の計画と着想についてたくさん述べましたが,まだ何も提示していないことを考えると,恥ずかしく感じます」とも言っている [37]。
潜水艦,飛行機,その他――精神分析法すら含んでいる――に著しく似ているこれらの発明は,おそらく主要な点で,同じ目的に向かい,その延長線にある現代の達成品に似ている。それでも,それらはエマヌエルのきらめく心と野心的な発明の才の証しである。
ロストク滞在中に,彼は最近の自作の詩もまた整理する機会を得た。彼はいくつかの寓意的な作品「過去14年から15年の間にヨーロッパで起こったすべてのことを表面下に隠したオウィディウスの作品に似た寓話」を書いている。場面はヴェルサイユ★28,主題は全部,首尾一貫してロココ★29時代の様式に設定されている。この詩は『北方のムーサ』 [38]と題され,「古代ゴート人の不死鳥,北方の王者」である偉大なカール十二世の指導下にあるスウェーデン民族とその未来を予測し、それを叙述している。
これと『ヘリコーン山の競技』 [39]と題されたもう一つの詩集を印刷するため,スヴェーデンボリはグライフスヴァルトへ旅行した。しかし,政治的諸事件がこの若者のはちきれんばかりの意欲をそいだ。ロシアはスウェーデン領のフィンランドに恐怖の軍隊を進め,またいつでも,ロシアの艦隊はスウェーデンの海岸地帯を焼き払い,破壊するだろうと予想された。ロシアとの戦いにトルコを巻き込むことができなくて失意した国王カールは,ヨーロッパを通って帰国の途中であった。
こうしたことをエマヌエルは,グライフスヴァルトで会ったトルコから帰国中のベルナルド・セデルホルムや他の同国人の仲間から知った。事実そのとき,「北方の王者」は,ただ二人の者を伴い,身分を隠して,ものすごい速さでポメラニア★30に到着しようと,まさに馬の背にあった。たった20日間という記録破りの旅で,国王カールは10月10日の夜,シュトラールズント★31に着いた。疲れきって,足は長靴を切り離さなくてはならないほどにふくれ上がっていた。最後の段階の彼は,八日間で1,000マイルという,馬術での離れ技を演じたのだった!
これらすべてのことから,我らの若い詩人の想像力は火をつけられ,故国へ帰ろうと望むカールとその苦難,帰還のときの国民の喜びを描いた「王のポメラニア到着を祝う『頌歌』」を作った [40*]。「人々は疲れ果てていたけれど,それでも,あなたが帰えられたと聞くとき,再び息づき,新しい生を得る」「地には再び花が咲き,喜びが大地に流れ出る」。この散文体の詩はスヴェーデンボリの最上の詩の一つと見なされてきた。ではなぜ,アメリカ人の学者がグライフスヴァルトの図書館でこの作品を二部発見する200年後まで,この作品は一つも知られなかったのであろうか? それは『頌歌』が書かれた時とそれを頒布しようとした時の間に,賛美の詩句は嘲笑の的になったほど,非常に多くの不幸がスウェーデンに降りかかったからであろうか? スウェーデンに帰還したあとの,人々の冷えた心のために,エマヌエルはこの最も念入りに仕上げた賛辞のすべてを,そっとそのままにして置いたのであろうか?
スヴェーデンボリもまた,四年以上の不在のあと,自分の故国の土を踏みたい思いを感じ始めていた。グライフスヴァルトには大して価値あるものはなかった。学会は「下劣」であり,数学の教授は「どんな研究にも適していた,ただし数学以外」。彼は機械装置の研究に取りかかりたいと思い,その心は再びクリストファー・ポルヘムへ向いた。
現在,私はスウェーデンへ帰り,ポルヘムのすべての発明品を入手し,それらの図を描き,説明を加え,それを物理学,力学,静水力学,流体静力学に関連させ,同じく代数の計算も添えて,それをどこかの他国よりもスウェーデンで出版し,われわれのために科学(マセーシス)の学会の発端となるものを起こしたい,と非常に強く望んでいます。そのためには,ポルヘムの発明品の中に非常によい基礎があります。私のものもまたそれに役立つことができたならと願っています。(ロストク,1714年9月8日)
彼は親戚の者に優しい心遣いを示している。「アンナ姉さんにもくれぐれもよろしく。ロシア軍の接近に不安にならないよう望みます。幼い弟〔甥〕エーリクにもう一度会いたいと切に願っています。今はもう,小さな定規を持たせれば,おそらく私に三角形を描いてくれることができるでしょう」(エマヌエルは,エーリク★32がいまや九歳になっていることを忘れてしまっている――無理もないことなのか?)
帰還を急ぐさらなる理由があった。ポメラニアはこの研究者に好ましくない逗留地となっていた。たった25マイル離れたシュトラールズントで,国王はそのときデンマーク,プロイセン★33,ハノーヴァー★34の連合軍によってぴったりと取り囲まれていたのである。スヴェーデンボリはのちに「包囲攻撃が始まろうとしているとき,私は,神の摂理のもと,小型帆船で帰国の航海を得るのに成功した」と書いている。「フェイフ夫人(軍事顧問の妻)と一緒に,4年以上も外国にいたあと」のことである。(実際には,ほぼ5年近く,このことは1715年の5月か6月に起こったのだから)[41*]
シュトラールズントの防御はしだいに撃ち破られ,12月にカールはボートで逃れ,港の外に停泊して待っているガレー船に乗った。彼は,15年間自国を留守にしたあと,打ちのめされ,疲れて果てて,スウェーデン南端のトレレボリに上陸した。しかし彼の高慢な精神はいまだ破られずにいた。カールは疑いようもない勇気にかかわらず,忠告を受け入れない頑固な人物であり,自国に惨禍をもたらした。スウェーデンがバルト海の反対側に所有していた小さな最後の土地はこうして失われた。祖国は,徴兵により人民は搾り取られ,戦費により財政は崩壊した危険な状態にあった。スウェーデンが外国に借りている金額の総計は,国の年収を越えていた。トルコの負債だけでも支払うのに24年かかった。
事態がどのように推移してゆくか予見し,激しい君主に忠告を試みた者がいる――その祖母,非常に尊敬された皇太后,ヘドヴィク・エレアノーラである。カールがその忠告を聞き,いくらかの領土を犠牲にしても講和を結んだなら,成り行きは非常に異なっていただろう。1年後のその死は,エマヌエルに霊感を与え,次の記念の詩を書かせた。これは女王のためと同じく,国のための哀悼歌となっており,スヴェーデンボリの詩の気品を例示するものとなっている [42*]。
サッポー風の賛歌
亡きスウェーデン皇太后
ヘドヴィク・エレアノーラへ
サッポーよ,急げ! なんじの美しい調べの竪琴,
その弦をはずし,魂を鼓舞する和音を響かせるな。
竪琴を用いず,今はなんじのために歌え,
厳粛な旋律を!
栄えある使者よ! しばし名誉のしるしを,
スウェーデンにこだまする賞賛を,ヨーロッパ中に広めよ。
しばし王の墓に身を屈めよ,
悲しみのまなざしをもって。
栄光の女王! しばし月桂冠をかぶりし,
亡き人のために泣け。勝利の葉にかわって,
あなたの額に,イトスギの花冠を巻く,
悲しみのしるしに。
* * * * * * 〔4,5,6小節略〕
スウェーデンの兵士よ,また棺に加われ,
武具を下げ,その最後の長い休息の列へ。
うなだれ,悲しみの喪服を着て,
なんじの胸をたたけ。
スウェーデンよ,古代のゴート人の祖国,
泣け,国民と勇敢な兵士を養いし国よ。
乱れ髪とふるえる手で裂いた衣姿で,
そこに見える墓を泣け!
原注
28 『ターフェル』U,3-4参照。(他の文献は省略)
29 『手紙と請願書』10-43ページ参照。
31 『ターフェル』T,222。
32 ストロード(Willam Strode(1602-45);イングランドの詩人・聖職者;悲歌と抒情詩の作者)による『雪中を歩くクロエ』と題されたイギリスの詩。これは1640年ロンドンで出版され,しばしば再版されている。参考文献省略。
33 フランク・セウォール翻訳。文献省略。
34 ヴォン-ヘプケンからテュクセン,『ターフェル』U,407。
35 『ターフェル』U,257。エティンガーへの手紙,1766年11月11日。
36 『手紙と請願書』52ページ参照。
37 『同書』56ページ以降☆。
(訳注☆):この手紙の日付は1714年9月8日,エーリク・ベンセリウス宛てである。
38 『Camena Borea』(カメーナ・ボレーア☆)グライフスヴァルト,1715年。
(訳注☆):[ラテン語]Camena:詩歌の女神=Musa,英語のMuse,Boreus:北方の。
39 『Ludus Heliconius』(ルーデュス・ヘリコーニウス☆)グライフスヴァルト,1715年。
(訳注☆):[ラテン語]Ludus:遊戯・試合・娯楽,英語のsports。ヘリコーン山にはアポローンとムーサが住んだ。山中に詩人の霊感の泉がある。
訳注
★1 スウェーデン西南部,デンマークとの間の臨む港市,人口43万。
★2 ジェームズはジョンの誤り。John Robinson(1650-1723) は,ほぼ25年間,最初はイギリス公使館の(お抱え牧師)儀式係りとして,それから居住イギリス人の牧師としてストックホルムに滞在した。スウェーデン語を流暢に話し,国王親衛隊のお抱え牧師であるイェスパー・スヴェードベリには良く知られていた。
★3 ロンドンのテムズ河畔の官庁用建物;戸籍本署,遺言検認登記本所,内国税収入局,キングズカレッジなどを収容。
★4 Sappho, サッフォー;エーゲ海北東部の(ギリシャの島)レスボス島に生まれた,前600年ごろのギリシャの女流叙情詩人;女性に対する愛の歌やアプローディーテー(愛と美の女神,ローマのウェヌス,ビーナスに当たる)頌が残っている。
★5 ロンドンの中央,ストランド街西端の繁華な広場。
★6 ウェストミンスター寺院と並び称されるロンドン最大の聖堂。1666年の大火後,レンの設計によってルネサンス式に再建。
★7 Sir Chiristopher Wren(1632-1723);イギリスの建築家。St.Paul's(1675-1711)をはじめ寺院建築が多い。
★8 Samuel Johnson(1709-84);イギリスの文人,同国最初の辞書編集家。
★9 Joharen E. Edzardus(1662-1713);父スヴェードベリの旧友の息子。ロンドンにあるドイツ教会の牧師である。当時ロンドンのスヴェーデン人たちは彼の教会で礼拝していた。原著に“スウェーデン教会”とあるのは不正確。スヴェーデンボリがロンドンに到着する少し前に自分たちの教会を建てるための財団が設立されたが、プリンス広場にあるスウェーデン教会の建築は1728年になってしまった(『手紙と請願書』11ページより)。
★10 中心地から西方,テムズ川の北岸の美しい村,フラムFulhamである。もちろん現在は大ロンドンの一部。
★11 William Penn(1644-1718);イギリスのクエーカー指導者。ペンシルヴァニア(Penn's woodland の意)の開拓者。
★12 John Flamsteed(1646-1719);イギリスの天文学者。グリニッジの王立天文台(1675- )の初代台長。
★13 Thomas Bodley(1545-1613);イギリスの外交官。この図書館をトマス・ボドリーが創設(復興)した。
★14 riksdalar リクスダラー。スウェーデンの旧銀貨;16世紀から1878年までの基本通貨。
★15 母の鉄溶鉱炉からの鉄の積み荷に言及しているのであろう,この鉄を換金する。
★16 スヴェードベリ司教は,マルメの近所に住み,食べ物なしで6年間,飲み物なしで8年間過ごしてきたと評判だったスケーネの召使いの少女エストリッド(正式名エステル・ヨハンナ)を個人的に調査した結果,1710年に小さな本を出版している。スヴェーデンボリも,『霊魂の領域(動物界)』第U巻の509で食べ物なしで長い期間生きている一例としてこの件に言及しており,そこでは10年間食べ物を,8年間飲み物を差し控えてきており,これが多くの者に注意深く観察された,とある。(数字が少しずつ異なりますね?)
★17 Edmund Halley(1656-1742);イギリスの天文学者・数学者。ハレー彗星の軌道を計算(05年)。20年からはグリニッジ天文台長。
★18 これは詩作を出版しようというエマヌエルの意図の初期のほのめかしである。この意図は1714年に果たされた。
★19 1712年8月15日,ロンドンからベンセリウスに宛てたこの手紙のこの部分は“et non profecturis litora bubus arare”というオウィディウスの『名婦の書簡』からの引用文となっている。意味は「前進しない(役立たない)牛で海岸を耕す(こと)」
★20 John Dryden(1631-1700),Edmund Spenser(1552-99),Edmund Waller(1606-87),John Milton(1608-74),Ablaham Cowley(1618-67),Francis Beaumont(1584-1616),John Fletcher(1579-1625)(多くの作品はこの二人の合作),William Shakespeare(1564-1616),Ben Jonson(1573?-1637)
★21 nymph とは山・川・森などに住む少女姿の各種の霊。nectar ギリシャ神話で神々の酒。飲めば不老不死となるという。
★22 Publius Ovidius Naso(43BC-AD17?);ローマの詩人;『恋の技術』(Ars Amotoria)と『変身物語』(Metamorphoses)が有名。
★23 Greifswald はドイツ東北部。バルト海に面する港市シュトラールズントの南東にある市。
★24 1713-14年,オランダ中部の都ユトレヒトで,スペイン継承戦争の一連の講和条約である『ユトレヒト条約』が結ばれた。
★25 オランダ西部の都市。
★26 14-17 世紀の北ドイツ商業都市(リューベック・ハンブルク・ブレーメンなど)の政治的商業的同盟。
★27 東ドイツ北部の港市。
★28 パリの南西にある都市。ルイ14世の宮殿所在地。
★29 18世紀前半フランスで発展した華麗・繊細な建築・装飾様式。
★30 バルト海沿岸の旧ドイツの州,現在は東ドイツとポーランドに分割所属。
★31 バルト海に面する東ドイツの港市。中世ハンザ都市。
★32 最年長の甥エーリクは1705年4月に生まれている。
★33 ドイツ北部にあった王国(1701-1918)。プロシア。
★34 西ドイツのニーダーザクセン(西ドイツ北部の州)の大部分を占める区域にあったプロイセンの州;もと神聖ローマ帝国選挙候領(1692-1806)王国(1814-46)。この王家はイギリス王家にもなった→ハノーヴァー王家(1714-1901)はジョージ1 世からヴィクトリア女王までのイギリス王室。(1714年からはプロイセンとハノーヴァーが“北方戦争”の反スウェーデン側に参加したのである)
[参考記事]
スヴェーデンボリの“OPERA POETICA”(1910年ウプサラ大学版)から、ここに引用された原詩の最初の三小節と7節,最終節を次に掲載しておきます。
Pompa antefunebris
Cum Regina Avia Svecia
HEDEVIGA ELEONORA
Frangito, Sappho! chitharam, fidesque
Rumpito latas, Tibi, Nympha! tempus
Venit, ut tandem incomitata nervis
Carmina cantes.
Qva volaras sic toties ab arcto,
Fama! in Europen Svionas celebrans:
Jam sede ad bustum, & simul ede paucas
murmure voces.
Gloria arctoa Dea! tot triumphis
Clara, tot lauris, geme! proque Lauro
Sit Tibi jam Vitta, loco triumphi
Pompa doloris.
* * * * *
Miles Arctoe! hanc qvoque claude pompam;
M?ste & inversis spatieris armis!
Atque humi spectes, & amicta pullo
Pectora plangas.
Tu Parens Tellus Veterum Gothorum!
Gentium Bellona & origo qvondam!
Jam comis passis laceroque amictu
adgeme pompa!!!
〔研究誌『荒野』第6号,1997年4月〕