5 The Northern Inventor

第5章 北方の発明家

 スウェーデンに壮大な山はほとんどないが,美しい丘は数多くある。この国で最もすばらしい場所の一つは,ベーネルン湖岸の砂地から急勾配でそそり立つキンネクレ山★1であり,この山を敬遠して距離を置く,いくつかの背の低い丘々を堂々と威圧している。

 1751年8月のある日,この山の山腹を登っているスヴェーデンボリの姿が見られた。ここから15マイルのところにあるブルンスボで彼はこの夏を過ごしていたのである。

 スウェーデンが科学で,特に天文学で,他の国々よりはるかに遅れていた。これは外国旅行での経験からエマヌエルには明らかであった。もし,スウェーデン人が「経度問題の解」★2に提供されている莫大な賞金を自分のものと主張できさえするなら! 彼自身の方法は,外国の有能な権威者たちに認められていたが,ただし,それを完全なものにするには正確な月の運行表を必要とした。しかも,スウェーデンのどこにも天体観測できるところはなかった。ウプサラにある小さなたった一つの,時代遅れの器具を備えた観測所は,諸外国の天文学者たちがしきりに要求していたストックホルムの緯度と経度すら,これを正確に定めるのに役立たなかった。こうしたデータを得るには,自分自身のところの情報との交換が課せられており,これはどの文明国でも認められていた。スウェーデンが学界で信用と名誉を失いたくないなら,自国に観測所を設置してもよい潮時であった。航海にも,磁針の偏差を確定するためにも,大気の性質を定めて気象学の研究のためにも,北方のオーロラの観測にも,観測所は必要であった。

 若者スヴェーデンボリは,個人用の小さな観測所を建設できる用地を自ら探している最中であった。冬の間,彼はそこで,自分の論文のためにだけ必要な観測をするつもりだったのである。そもそも,キンネクレ山はこの目的に適していたであろうか? 後年,彼は次のように記している――

 最初,傾斜は,だんだん急になり,鋭く切り立つまでは,なだらかである。……山麓には家並,農場,教会があり,頂上には沼地と森がある。魅力的で肥沃であり,まぎれもなくちょっとしたエデンである。野生の森の中のように果樹が育ち,クルミの木の果樹園がある。そこに植えられたあらゆる植物は,そこの空気と土壌に助けられて,他のどこよりも,大きく豊かに成長する。高い所からは,一方に平野が見渡せ,その景観はあたかも地平線とも思える雲のような森となって終わる。もう一方の景観は,ベーネルン湖であり,空と水しか見られない。残りの二方向は,二つの大きな山,ビリンゲン山とフンネベリ山に景観を妨げられている。

 高所そのものから,もう一つの驚きがもたらされる。というのは,水上に目を滑らせれば,さえぎられることなく何マイルも離れたところから航海してくる船が見えるからである。学者によって調査される価値あるものを,この丘に生活する庶民は認めていた。すなわち,あたかも頂上から,雲・雨・雷が発生するように見え,そうして,大気の性質はそこに起源をもつからには,その高みにはジュピター★3が住み,その丘は小さな天のオリュンポス山だろう,と思っていたのである。要するに,ヴェストロゴティア★4の地で崇められたその高所の性質は,世界で最も独特な観測所として見込める。そしてそうした観測所には,ただカッシーニ,ブラーエ,ヘヴェリウス★5のような人たちだけがいて,その観測所に自分の名前や名声を与えようとするのである。[43]

 キンネクレ山が実際にどれほど注目に値するものであったかは,そこが前氷河時代の正真正銘の博物館である,と現代の地質学者に発見されるようになるまで知られなかった。今日では,見物客が簡単に到着でき,おそらくずっと何年も前にスヴェーデンボリによって選ばれたまさにその敷地であろうと思える場所に小さな見晴らし台が建っている。しかし,彼はそこに自分の私設観測所を建てなかった。その年の秋,彼は旧友や親戚との交わりを新たにするためウプサラを訪れたとき,おそらくエーリク・ベンセリウスから,別の計画を示された。ベンセリウスや教授たちは,観測所の設置場所には田舎の山頂よりもウプサラの方がはるかに適している,と考えた――これは24年後に実行されたのだった。

 再びエマヌエルは,自分の将来が見えてくることを示すような,事態の変化を待つことになった。彼の帰省以前にも,常に油断のないスヴェードベリ司教は,「私には,数学や工学に非常に傾倒し,もしウプサラかその他で地位を得るなら,非常に役立つであろう息子がおります」と国王に語っている。そうした地位なら,エマヌエル自身やポルヘムの発明を出版する計画を完遂することが可能であったろう。スヴェーデンボリは祖国に建設的な方法で仕えようとの野心に燃え,出世の発端に立っていた。そして祖国も,どれほど回復を必要としていたことか! 彼自身は,大学での地位を求めようと熱心に思っていたのではなかった。彼が大いに関心を持ったものは,科学雑誌の出版であった。ウプサラにはポルヘムの資料が眠っており,ベンセリウスはこれをいつの日か出版するつもりであった。いまや「学問と工業」の利益のため,これを公けにする期は熟した。スウェーデンで初めて発行されるこの科学雑誌については,外国の様式に見習うべきであり,また特に,これが一般読者に渡り,スウェーデンの人々に科学的な探求心を鼓舞することを意図しているからには,ラテン語でなくスウェーデン語で発刊されるべきである,と決定された。またこの雑誌は将来の学界の基礎として役立つことも期待され,事実そうなった。というのも,現在のウプサラ科学協会は,この出版物を当協会の最初の会報として公認しているからである。スヴェーデンボリはこの雑誌を,世界最初の発明家と見なされたギリシャの英雄にちなんで『ダエダルス・ヒュペルボレウス(Daedalus Hyperboreus)』すなわち『北方のダイダロス』と名づけた。ダエダロスとその息子イカロスは,クレテ島の迷宮とそこの〔牛頭人身の〕怪物ミーノータウロスから逃れるため,人工の翼を組み立てたのであった。

 ベンセリウスと相談し,雑誌の創刊号の内容を決定した後の11月19日,スヴェーデンボリはミント・トルゲットの建物の中に設置された鉱山局に保存してあるポルヘムの発明品の模型を見に,ウプサラを離れ,ストックホルムへ向かった。

 公けの基金に援助されて14年前に始められたポルヘムの“機械実験所”で,彼はその模型を見た。長く待たれた助成金は戦争を維持するために転用され,残された収集品はすべてがどこか壊れており,機械の残骸が悲しく放置されていた。「鉱山局にある機械は,時の流れとともに破壊されていった」と,彼はベンセリウスに書いている,「私が少々のお金と,インクと紙で,それらの機械の運命を避けるようにしないのなら,6年ないし10年のうちに,それらはただの薪にしか役立たないものになってしまうでしょう」(ストックホルム,1715年8月)[44]

 大学での地位に落ち着くなら,自分の持ついろいろな関心はすべて混ざりあって一つになれる,とスヴェーデンボリは考えた。しかし,〔給料となる〕財源はどこにあるのだろう? 空席がないのだから。彼はベンセリウスに,工学教授のための財源を提案してくれるよう願った。こうすることは,おそらく他の教授の給料を減らすことになるまいか? 彼は論じた。数学や科学の学部は,哲学の学部と同じく必要で有益であり,はるかに大きな国の利益となろう。これは製造業,鉱業,航海術を促進し,それゆえ,大学の歳費の7分の1を充ててもよいであろう。

 彼は4つの地位を含んだ学部を提案した。これはベンセリウスを事務官とし,自分自身を工学教授とするものである。教授たちはこの変更を好意的に見てくれるだろう,なぜなら,公教育を進めるという大義のために,少しの犠牲を払うだけなのだから,と素朴にも提案したのだった。その後,「しかし,熱心というよりも冗談でなされたこの提案のすべては,他の者(国王を意味する)の同意を得え,しかるべき権威の推薦が伴わねばならなかった……」と彼は付け加えている(ブルンスボ,1716年3月4日)[45]

 この提案は,当然ながら,かの図書館員〔ベンセリウス〕に衝撃を与えたようである。そこでおそらく彼は,教授の給料といった神聖にして冒すべからざる問題にあえて思い切った改変を提案したこの若い野望家に,当然受けるべき叱責を与えたようだ。なぜなら,その後の手紙の中でスヴェーデンボリはあわてて弁解しているからである――

 私の提案について,あなたの意見を聞けて非常に嬉しかったです。教授たちが自分たちに不利益であっても支持してほしいという私の要求について,私は自分自身やウプサラでの自分の立場のことを忘れたのでは決してありませんし,これからも決して忘れることはありません。けれども,こうした破れかぶれでひどい提案であっても,このことから,あなたの賢明さと創意によって何かもっと良いことを考えていただきたかったのです。私はこれを単なる冗談として書いたのであって,ほんとうのことを述べて,これをすぐさま改めましょう。それに,この件はこれ以上広がることはありえません,というのは,私はこれをあなた宛ての封筒の中に隠し入れ,だれものぞき見ができないように,その上に私の封印をしたからです。それでも,私はそうした学部が設立され,それほど必要でもない教授職をいくつか撤廃することにより,これがたやすく成し遂げられるような提案をなされることを願っております……(ブルンスボ,1716年3月19日)[46]

 後になってベンセリウスは,「工学教授の給料については,当地ウプサラでは,ポルヘム氏が通商局の正規監査官(公式のメンバー)となり,その後任にあなたが機械実験所の所長になるということ以上に良い話を私は知りません。そのとき所長の位は教授と同等のものとされるでしょう。私見では,あとは想像するしかありませんが,幾何学の正規の教授は工学の講義も課せられており……。このことについて話し合うため,あなたがこちらに来られることを望みます」と返事をしている(ウプサラ,1716年4月2日)[47]

 スヴェーデンボリは,ほんとうにウプサラへ行きたいのだが,今は「だれもどこにいるのが一番安全なのか知らない」(おそらく徴兵される危険性に言及している)と返事をした。彼は,ウプサラに観測所を設けようとするベンセリウスの計画を賞賛している。その計画とは,火事にあって破壊されたままの煉瓦造りの城塔の一つを修繕し,その費用には廃棄された鉄管を売ろうというものだった。しかし,この計画ですら,ウプサラの進歩的でない数学者たちによって妨害された。彼らは,どんなに賢明なものであっても,そのプランを率先してやろうとも,押し進めようとも,まったく願っていないかのようだった。

 「数学者たちが主に理論の中に止まっていることが彼らにとっての不幸です」とスヴェーデンボリはうめき声を上げている。「私の意見では,もし十人の数学者ごとに一人の,残りの九名の者を市場に連れて行くことのできる徹底的な実務家がいるなら,これは益となろう――この場合,この一人の者は名声を得るであろうし,その十人全員が一緒になってすることよりもさらに大きく役立ちもするであろう……」。ただ製造業を起こすことだけが,打ちひしがれた国を癒すことができる,と彼は考えたのだった(ブルンスボ,1716年6月12日)[48]

 翌年の秋,大学に空席ができ,スヴェーデンボリを教授職に充てることが会議で決まった。しかしそれ以上は何もなかった,というのも,当時エマヌエルは国王に付き従い,より重要な任務に携わって,スウェーデンの科学という大義のために個人的に尽力していたからである。

 けれども,『ダエダルス』は実現した。エーリク・ベンセリウスがその雑誌の編集をかなり手助けし,当時の王室公文書保管所の職員であった彼の弟グスタフがストックホルムでの印刷を世話したようである。

 ポルヘムはこの計画とその資料が前もって自分に提出されるという取り扱いに喜んだ。彼は,その序文の中で自分に捧げられた度を越した賛美を謙遜に辞退している――「私はこのことを素直に喜びたいのですが,こうした賛美はこの国に生まれた者には,ことさら,存命中の者には決して与えられないものなので,このために気むずかしい心の人は嫌悪を感じるといけないので,これをもっと控え目にしてくださるよう忠告いたします」。ポルヘムはスヴェーデンボリに,「資料と題材は,私が生き,神が私に日頃の健康と活力を恵んでくださるかぎり,不足することはありません」と保証している[49]。その時分ポルヘムは,「自分の計画を実行することが自分に残されたわずかな日々で打ち切られてしまう」前に,スヴェーデンボリに会いたいと非常に望んだ。ポルヘムがしばしば自分の死の可能性に言及しているのはどこかおもしろい,というのも,彼は九十歳という高齢に達するまで生きたからである!

 ポルヘムはベンセリウスへの手紙に,もしその若者自身がダラカールリアの自宅を訪ねてくれるなら非常に嬉しい,と書いている。彼はこの招待をスヴェーデンボリ自身にも書き送った――

 このように遠い所へ旅して下さることがあなたにそれほどご迷惑でなかったなら,あなたがここシェルンスントの私を訪れてくださるなら,私はこれを大きな恵み,また楽しみといたします……。幸せと祝福があなたにありますように,クリスマスおめでとうございます,喜ばしい新年をお迎えください。今後ともよろしく。敬具。
           あなたの従順な僕,クリストフ・ポルハメル

――これはこの有名な人物の名前の五通りの綴りのうちの一つである。

 エマヌエルは,ダラカールリアのスタルボで,妹のヘドヴィクと,彼女の夫であり,そこで製鉄所を経営していた鉱山主ラルス・ベンセルシェルナとクリスマスを過ごしている。その鉱山はエマヌエルの継母の資産であった。エマヌエルがポルヘムを訪れたのは2月の初めであったようである。そのとき彼は,雑誌の第2号について相談するため,スタルボから40マイルの旅をした。

 エマヌエルが,ポルヘムの十六歳の息子ガブリエルと二人の娘,十七歳の姉マリア,それとわずか十二歳の妹エメレンティアと会ったのはそのときだった。そしてまもなく,このことが,スヴェーデンボリの生涯で,ある運命を物語ることとなった。

 1716年1月10日,ストックホルムの新聞は,ポルヘムのラッパ形補聴器といくつかのスヴェーデンボリの論文を含む『ダエダルス・ヒュペルボレウス』の第1号について報じている [50]。第2号には,ポルヘムの昇降機,貨幣鋳造法についての二つの論文,最近の日食についての論文が含まれている。第3号は,度量衡,空気ポンプ,空気の測定についての論文を含んでいる。「ダエダルスの第4号には,空飛ぶ機械についてダエダルス的考察を挿入しようと思っています」と,エマヌエルはベンセリウスに書き送っている。

 スヴェーデンボリの飛行機械は,ほんとうの意味で現代の飛行機を先見したものというよりも,正確には制御可能なグライダーの一種といえる。これは地面を飛び立ち,大気中を運行するエンジンといったような,どんな動力源も備えていない。スヴェーデンボリの機械は,屋上から乗り出し,風まかせに飛ぶものだった。それは操縦士によって制御される可動翼を備えていたが,それらはどう見ても,決して運転装置とは見なせなかった。ポルヘムは,その論文を印刷することに,あるためらいを感じたようだ。人工的手段で飛行することには,永久運動や錬金術にあるような困難さが存在する,と彼は言っている。一見すると,それは容易にできるように思える――しかし!

 スヴェーデンボリは自分が飛ぶ機械を発明したとは考えなかった。彼は多くの事柄から,「大気中を,私たちを運び,移動する機械が発見されるだろう。私たちは頭上の領域から締め出されてはいない」との結論を述べたに過ぎない。ユーモラスにも,彼はフォントネル★6からの引用を添えている――

 飛行技術はまだほとんど生まれていない。それは完全なものとなり,将来,人々は月に飛んで行くだろう。私たちはあらゆるものを発見した,私たちの知識は何も付け加えることができない地点にまで到着した,とでも言うつもりだろうか? おお,お願いだ,来るべき世代にも依然として何かが残されていることに賛同したまえ![51*]

 ポルヘムがスヴェーデンボリと共有した多くの関心事の一つは,スウェーデンの一般大衆に算数を導入しようというものであり,ポルヘムは算数の基本を57の短い課にまとめ上げた。この本は『ダエダルス』をスウェーデン語で出版したエマヌエルの目的とまったく軌を同一にしたもの,すなわち,大衆の教育を高めるためのものであった。熱心にも,エマヌエルは自費でポルヘムの著作の印刷を申し出ている。書籍販売人になるためでなく,容易にその販路を見出だせるほど,この著作は有益である,と考えたからである [52]

 おそらくシェルンスント滞在中に,スヴェーデンボリは『ダエダルス』第5号に掲載されたポルヘムの論文「奇抜な蛇口」を入手したであろう。明らかに,その蛇口はすでにウプサラの教授たちの間で使われていて,その図案を描くよう頼まれたロベリ博士は,むしろいやいやながらその蛇口の一つをはずしたのである。ウプサラには自分の所有する蛇口を喜んで壊そうとする者はだれもいなかった。ロベリ博士が描こうとするとき,その破壊が彼の役目となった。

 奇妙なことから,この仕掛けは考案されたのだった。言い伝えによれば,ポルヘムにはビールを運んでくる役目のお手伝いさんがいた。この女中には喉の渇いた恋人がいた。綿密さでも定評のあるポルヘムは,その召使の少女がビヤ樽が空になったと告げたとき,漏れがなくてはそんなことはありえない,と計算した。そこで彼は巧妙な蛇口を考案し,それによってビールの流出量を量れるようにした。こうして彼は自分の経済的利益を確実にするばかりでなく,その娘の品行も正したのである。この情報を知らせてくれた者は,15年前にシェルンスントの暖炉の棚の上に,鉄製のポルヘムの蛇口の一つが,非常に錆び付き,汚れていて,明らかに考案されたとき以来そこに放置されてあるのを発見した,と言っている [53*]

 ポルヘムは,学者たちは自分たちの教えている事柄の実際的知識を持つようにしなければならない,「自然の仕組みには,デカルトやその多くの追随者たちの信じていることとはまったく違ったもの」はいくらでもある,と考えた。思索に代えて,彼は力学での日常の経験や原因を熟考することを主張した。「私は,あらゆる場合と状況における検査に耐えることのできないどんなものにも決して賛成しない。ある事柄が他の事柄と矛盾するなら,すぐに,私は土台の全部が誤っていると見なす」と彼は言った [54]

 シェルンスントの会話の中で,ポルヘムとスヴェーデンボリは,平和が訪れたら,ウプサラに機械についての協会を設立しよう,という計画を進めた。この協会は,収穫を大いに増すはずの新式の脱穀機といった役立つ機械を人々に提供する任務を果たすであろう。大きな農場や村々はみなこの脱穀機を供給され,協会は利益の二分の一を,ポルヘムは三分の一を,会長は六分の一を受け取る。そのとき外国の人々は,スウェーデン人たちは栄えているとき得意になっていたけれども,不幸になっても落胆しないでいた,と知ることになろう。ポルヘムは,これらすべてのものを国王の前に提示しよう願い,またエマヌエルを自分と一緒に宮廷へ連れて行こうと望んだ。トルコ滞在中にも,カール国王は,ポルヘムの有益な発明品のことを知らされており,それらのものを好ましい興味を持って,特に,戦争に役立つように転用できないかだろうか,と見守っていたのだった。

 ブルンスボに戻ると,エマヌエルはその地方を長らく歩き回った。岩石,水源,土壌や沼地を調べ,見出だしたものについて農夫に尋ねた。染料に良いと思える黒い粘土が,また,瀬戸物や土管を作るうえで儲かりそうな白い粘土があった。特に興味を持ったポルヘムの論文『物事の原因について』[55]を書き改めながら,彼は『ダエダルス』用の論文を書き上げ続けた。また,初めて,学界の判定を求めて提出するための,海上で経度発見法についての解を書き上げた――けれども依然として月運行表は付けられなかった。

 いまやスヴェーデンボリは二十八歳となり,やはり野心旺盛であったが,職には就いていなかった。ポルヘムに随行して国王に仕えようとする彼の望みは失われる運命にあったようだ。カール国王は,ノルウェーのデンマーク人を追い出すために,ノルウェーに進出しようと計画していたからである。

 彼は,「私には,いまやスウェーデンは凋落してしまい,その最後の苦しみが間もなくやって来るように思えます。おそらく多くの者がその苦悶の短いことを願うでしょう……」と書いている。ポルヘムもまた,今は「良い計画はすべて水泡に帰してしまった」と思った。

 国王の妹ウルリーカ・エレオノーラ王女は,統治会議の一員であったが,一時期ブルンスボから遠くないヴァドステーナ城に滞在していた。ぜひ会いたいとの彼女の長年来の熱心な願いに,とうとう弟は同意し,急いで会いに行くことにした。お忍びで,雨風の中を,カール国王はヴェッテルン湖をボートで横切り,湖の対岸で馬を手に入れ,城までの7マイルを走った。泥だらけでずぶ濡れの身を妹の前に現わし,その夜を過ごし,翌日には再び出発した。これは,彼らの18年間のうち,最初で最後の出会いであった! 国王に付き添った若者は,その帰路に〔エマヌエルたちのいた〕ブルンスボの教区牧師館に立ち寄った[56]

 9月の終わりにスヴェーデンボリはウプサラに戻り,そこで最近空席となった〔教授の〕地位を要請した [57*]。何も起こらなかった,しかし二、三日後に突如,事態はこの若き科学者にとって望みあるものに変わった。デンマークとの海戦の遂行を容易にするため,カルルスクローナの海軍基地にドックの建設せよ,との国王の命令がポルヘムに下ったのであった。イマヌエルは,彼に付き従い,国王に『ダエダルス』を贈呈し,科学の振興のための他の計画も奏上することにした。その雑誌の装丁の美しい版が用意され,それには入念な献辞と,次の詩も添えられていた――

  見よ,ダエダルスは風に乗り,高き所から,
   ミノス王が地上に仕掛けた罠を見下した。
  さあ,風に乗れダエダルス,おまえの技で,
   卑しい群れが仕掛ける罠を見下せ![58]

 シェルンスントの工場を訪ねた後,エマヌエルはブルンスボに立ち寄って一日過ごしてから,ポルヘムとともにルンドへ出発した。神話上の先人〔ダエダルス〕のように,現代のこの二人の発明家も自分たちの幸福を求めて出て行った。彼らの運命はどうなるのか? 昔の物語では,〔息子の〕イカルスは慢心して,ダエダルスの忠告を見下し,あまりに太陽の近くを飛んだ。太陽の光線が翼を張り付けた“ろう”を溶かし,彼は海中に墜落した。発明もまた,その創意の効力を残すためには,賢明な道を進まなくてはならない!


原注
43 『科学,哲学論文集』17-49ページ(☆)。
(訳注☆)本書は1992年にスヴェーデンボリ科学協会(SSA)から第2版が出されており,このページ数は同書の「水位について」(1719年,ストックホルムで出版)と題する部分のものである。
44 『手紙と請願書』75ページ以下。
45 『手紙と請願書』91ページ以下。
46 『手紙と請願書』92ページ以下。
47 『手紙と請願書』95ページ以下。
48 『手紙と請願書』106 ページ。
49 『手紙と請願書』73-4ページ。
50 (スウェーデン語による題名と副題名,省略)
52 『手紙と請願書』75ページ以下。
54 『手紙と請願書』117 ページ以下。
55 『科学,哲学論文集』5-8 ページ(☆)。
(訳注☆)やはり第2版のページ数。
56 『手紙と請願書』113 ページ以下。
58 『手紙と請願書』122 ページ。


訳注
★1標高306m。“クレ”はスウェーデン語で“丘”を意味する。
★2 当時は経度を簡単に決定する方法が航海にとって必要なため,この発見に莫大な賞金が提供されていた。スヴェーデンボリの方法は月の動きを利用するものであった。
★3 天の支配者である最高の神,雷電を武器とする。ギリシャ神話のゼウスと同じ。
★4 付近一帯の旧地名。
★5 それぞれ,当時より少し以前のフランス,デンマーク,ドイツの有名な天文学者。
○Gian Domenico Cassini(1625-1712);イタリア生れ,フランスに帰化。パリ天文台初代台長(71)。土星の衛星を4個,土星の環の間隙を発見した(Cassini's division)。
○Tycho Brahe(1546-1601);フヴェーン島に天文台を設立して大規模な天体の位置観測を行なうとともに,観測機械を改良し,望遠鏡以前の最良の観測を残した。彼の観測は,後にケプラーが有名な惑星運動の三法則を導く材料となった。
○Johanness Hevelius(1611-87);天文台を造り,自作の望遠鏡で月面を観測した(作成した月面図は最古のものの一つ)。
★6 Bernard Le Bovier de Fontenelle(1657〜1757);魅惑的な文体と鋭利な精神を持ったフランスの文人。彼の『世界の多様性についての会話』は科学の大衆化の典範である。

[参考記事]著作『水位について』(1719年)
(SSA版,W・R・ウーフェンデン著『スヴェーデンボリ研究者のマニュアル』の中の「著作に見出だされる基本概念」より,p271)

 これはスヴェーデンボリが萌芽期の地質学で先駆的な研究をした証拠である。大部分で彼は,甌穴(おうけつ)(渦流で回転する小石が岩石川床に作る穴)・鍾乳石・ケイム(消失した氷河末端の氷成推積物による丘陵地形)といったものを正しく解釈している。古植物学者A・G・ナトホルスト(☆)は,「地質学の分野でのスヴェーデンボリのなした貢献には,それらだけでも十分に尊敬すべき科学的名声を保証すべきほどの意義と展望がある」と書いている。

(☆)Alfred Gabriel Nathorst(1850-1921);スウェーデンの地質学者・古植物学者・北極探検家。ストックホルム国立博物館博物部長(85)。中世代植物,南極,北極の化石植物の研究を行なった。

〔研究誌『荒野』第8号,1997年5月〕