6 With His Majesty at Lund
第6章 ルンドにて,陛下とともに
カール国王は南スウェーデンの古い大学町ルンドに司令部を設けた。そこに1716〜1718年の2年間滞在したが,あの常に動き回る君主が一つ場所に滞在した期間としては著しい長さである。王はハガルド教授の家に居住し,ある日,その家の男の赤ん坊の名付け親となった。当時,王の妹は,「あなたが,ご婦人方との交際に慣れるよう望みます」と書き送っている。おそらく,濡れた服と泥だらけの靴で大急ぎでヴァドステーナを訪れたときのことを思ってであろう。
ルンドでの宮廷生活は簡潔そのものだった。お祭りや儀礼的な催し物もなかった。食卓の備品は,ポルヘムからの贈り物であり,彼がシェルンスントの工場から運んできた物――皿・スプーン・砂糖つぼ・燭台・はさみ・マグ――すべて錫製品であった。スヴェーデンボリは,錫製品の修理とその輝きを保つ方法について小論文を出版している[59]。
カール王は礼儀正しく,控え目で,常に家臣を励ますことに心を配り,家臣はこれに応えて王を敬慕した。王はまた非常に敬虔であったことが,王の牧師イェラン・ノルドベリ博士の記録からも知れる。博士は外国との戦争の年月の間,国王に仕え,後年その生涯を書き記した。この時分には,ノルドベリはアンドレアス・リツェリウスと牧師役を交代していたが,そのリツェリウスの日記に,初めてカール王と会ったときのおもしろい記述がある。だれかが王の癖である“ボタンの穴”のことを打ち明けてくれた――穴ではなく,ボタンをつかみ,もぎ取れるまでねじることである。王独特の性向を前もって警告されたリツェリウスは,ボタンを特別強く縫い付けておいた。いつもと違う結果が起こり,国王はほほえみ,寸評した――「尊師よ,あなたの上着は新品だ。また仕立ても良い」[60*]。
そこは小さな世界であり,嫉妬と陰謀に満ちていた。イェルツ〔次章以降参照〕の仲間たちが権力を握り,なんとしてでも戦勝の栄誉を求めており,国民の利益には無関心だった。それでも,そのとき,ポルヘムのような,国の平和的発展をなによりも願っている人物もいた。どのような地位にどのような者が任命されても,それは対立する派閥に嫉妬深い怒りを引き起こした。
エマヌエルは,当時,王室官房室に務めていた友人ベルナルド・セデルホルムと同じ宿であった。宮廷にはまた,リツェリウスや,王を自邸に招いているハガルド牧師といった他の友人もいた。ハガルドとはロンドンで知り合っていた [61]。
1716年12月6日,ポルヘムは国王に,スヴェーデンボリへなんらかの栄誉ある地位を賜わるよう懇願した。「もし,数学が発展させ,促進させるべきものならば,その達成には,この方面に格別な能力を持った者を昇進させるにまさった方法はございません。そこでスヴェーデンボリに大学での地位をお与えなさってはいかがでしょうか。彼はその資格を十分に持っております」[62*]。
陛下は,優雅な賛辞の付いた美装版の『ダエダルス・ヒュペルボレウス』を閲覧し,非常に喜んだ。王はエマヌエルに,自分で選ぶようにと,三つの地位を示された。その中には王立協会の,すなわち鉱山局の,臨時監査官(準役員)の地位があった。この地位をスヴェーデンボリは受諾し,12月10日,ポルヘムの補佐として働くことも含まれる王の地位認可状を受け取った。これは,単に鉱業の諸規則だけを知る者は鉱山局にはすでに十分いるが,工学を知っている者は著しく不足している,と考えたポルヘムの忠告に従ったものであった。
しかし,まだすべては片付いていなかった。イマヌエルが認可状を調べると,だれかが自分を欺こうとしているのがわかった。言い回しは非常に曖昧であり,鉱山局での正規の議席の権利と給料は決して確かなものではなかった。スヴェーデンボリは意見を添えて認可状を国王に戻したところ,数日後に聴聞に呼ばれた。ただちに,スヴェーデンボリに議席と投票権を与えるよう特に命じてある王立協会への手紙と一緒に新しい認可状が発行された。
「私に反対する者は,国王自身のテーブルに座り,正副二通の認可状を書き上げなければならなかった。こうして国王は最善の方法を取られた」とスヴェーデンボリは言っている。彼に対する不当な扱いを求めた者たちは,あやうく火傷を負うところだったが,不名誉を逃れて喜んだ。同日,ポルヘムは貴族に叙階され,その名はポルハマーから私たちの知る名前の一つ,ポルヘムへと変わった [63]。
数週間,『ダエダルス』は国王のテーブルの上に置かれ,多くの話題を提供することになった。カール王自身も実用的数学者であり,脱穀機のような発明品から得られる多大な利益を明らかに認めた。王は,スウェーデン語だけでなく,その向かい側のページにラテン語を印刷して出版することを提案したが,これは費用がかさみ過ぎるので,スヴェーデンボリにとって,いくぶん悩ましいものだった。
数学の問題について語るため,国王はしばしばこの二人の科学者を呼び出した。ある日,十本の指で数える習慣を起源とする十進法が話題となった。国王は,割り算が易しくできる,もっと良い数え上げ法が考案されるべきだと考えた。たとえば★1,10ではなく8を基本とする体系なら2の3乗を含んでいる。また,64はどうだろうか,これは2乗も含むのだが? 国王は,スヴェーデンボリが翌々日に無数の特徴を備えた64を基本とする数表を携えて来たのに驚かれた [64]。
スウェーデン沿岸地方での塩の生産といった実用問題もまた,国王と論じられた。このことにカール王は鋭い関心を示した。というのは,塩のほとんどは輸入されており,航海による通常の損害の危険に戦争によるものも加わって,この生活必需品は,1トンあたり銀25ダーラーというまったく手のでない値段にまで高騰していた。これを農夫の年収が6ダーラーであったことと比較されたい。加えて,冬の間,王のおもな食事は塩漬けの肉や魚であったことからも,この生活品が重要であることを王は理解したのだった。
しかし,ルンド訪問の主要目的は,もちろん,海軍のためのドック建設について相談することであり,その計画には木製の大きな半円形のダム建設が伴っていた。長さ70フィート,高さ22フィートのこのダムについて,スヴェーデンボリはのちに書いている――「カルルスクローナのダムは,これが海の潮流による助けがない所に建てられたことを考慮するなら,ヨーロッパには,これに匹敵する物はないと見なされなくてはならない」
スウェーデン中央部から大西洋沿岸〔北海〕へ水路を切り開き,運河を作るという他の事業も検討された。船で東海岸から大洋へ達することのできる唯一の方法は,スウェーデンのヘルシングボリとデンマークのヘルシンゲル★2の間の幅1マイルほどの海峡を通過することだった。この通路は,デンマークとの交戦時には封鎖されるし,平時ですらデンマークの課する関税が非常な妨げとなっていた。それで,どうしたらこの狭い海路を通過しないで大洋へ達することができるかは大問題であった。この問題のどんな解答も,もちろん大いに歓迎された。
スヴェーデンボリがルンド滞在中,そうした解決策が実際にベンセリウスによって国王に提出された。その提案は,ベンセリウスがウプサラの記録保管所の古いとじ込みの中から発掘したリンチェピングの司教によって200年前に書かれた手紙であって,スウェーデンの二つの大きな湖であるヴェーネルン湖とベッテルン湖を通って,西側の大洋とバルト海を結ぶ水路の可能性を問題としていたものだった [65]。
国王は明らかに興味を持った。1世紀前,実際にこの方針の下に工事が行なわれ,途方もない困難と思えるトロルヘッタンの大瀑布で中止されていた。しかし,ポルヘムとスヴェーデンボリは,これは乗り越えられると信じた。彼らの案には,トロルヘッタンの川はところどころ狭くなり,さらに両岸と川底には急勾配の崖があって,それが水門とダムを作ることを可能にしているという事実が考慮されていた。
しかし,瀑布よりも大きな障害がその技術者たちの前に立ちはだかった。資金の不足である。工事の費用よりもはるかに大きな利益が得られるだろうと考え,会社を設立して,有利な価格で費用の負担を広く呼びかけようとの希望を持つのはまったく当然であった。しかし,通貨処理が混乱状態にあり,それで用意できる現金がまったくないことから,出資者を得るのに失敗した――実を言えば,この混乱は国王の会計担当イェルツ男爵によるのである。しかし,国王はこの運河を非常に重要であると見なしたので,王の私費で工事の一部が始められ,1718年の夏の間,スヴェーデンボリは工事の本部が置かれたヴェーネルン湖南岸のヴェーネルスボリに滞在した。
「かなりの仕事になりそうです」と,〔またその後には〕「すべての工事は木材でなされるので,費用は総見込み額よりも少なくなります」とベンセリウスに書き送った。彼自身の報酬は1日につき銀3ダーラーであった(スタルボ,1718年2月;ヴェーネルスボリ,1718年6月)。
もう一つ別の,むしろもっと大きな障害は労働者を見つけ出すことであった。強く健康なからだの者のほとんどだれもが軍隊へ流れていたからである。しかも役立ちそうな運搬器具はノルウェー戦役の物資を運ぶために徴発されていた。デンマークは,もし可能ならば,南スウェーデンを切り取ろうとしているのは明らかだった。そこでカール王は6万人の軍隊を集めた――ここ三年間の悪収穫にもかかわらずよく装備され,壮年の熟練された,上等の軍隊である。この軍隊を養うため,莫大な量のライ麦やその他の食糧品が,国境に添ったいろいろな場所の倉庫に蓄積された。かまど,製粉所,蒸留所,病院が,司令部とされた港町ストレームスタッドの西に建てられた [66*]。
顧問官ポルヘムは家族とともにヴェーネルスボリに移り,ポルヘムの二人の若い娘が3月に運河工事を緊急視察に来た陛下に紹介されたのは間違いない。「近隣では,私たちについてすばらしいうわさが多く語られています。その中には,国王が来られた瞬間に,私たちがトロルヘッタンの瀑布を止めてしまった,というものです――ここの人々は,技術にこうしたかぎりない信頼を置いています!」とスヴェーデンボリは書いている(ヴェーネルスボリ,1718年6月)。
スヴェーデンボリは自分の最新の出版物をその時直接に,陛下に捧げたのではなかった。その一つは,経度を扱った論文であり,王の興味を引かない主題を扱っていたからである。もう一つは『代数』 [67]であり,スウェーデン語によるその類いの最初の教科書であった。彼はそれらを控え目に王のテーブルに置いて去った。そのテーブルに座ったカール王は,しばらくそれらを調べた後,非常に喜ばれた。8月29日,月食が起こった時,それを観察するため,スヴェーデンボリは国王を連れ出した。これはほんの始まりであった。彼は,いつかは科学の発展のために多くのものを得ようと望んだのであった。しかし天体観測所といった「斬新なもの」が育つ時代ではなかった。国王は9月に再びヴェーネルスボリを訪れ,その間にノルウェー戦役にとって重要な土木工事で目覚ましい離れ業を成功させていたこの若い監査官を,これまで以上に喜ばれた。
凍てつく天候によって,湖・沼地・川が通行可能になるとただちに,カール国王は軍の先頭に立ち,南ノルウェーへ進軍した。道は狭い谷間を通り,険しい崖に囲まれた高い山頂へと続いた。二つに分かれた高所の片方に到着すると,敵軍はイデフィヨルドの谷間に沿って集結しており,その野営の焚き火が見えた。戦争の経験のないノルウェー軍は,武装したスウェーデンの経験豊富な軍勢との正面衝突を避け,守備固め地点まで後退していた。数日の内に,スウェーデン軍は,岬の先端に構築されたワシの巣のように近づき難い要塞フレデリクスハルを除いて,全地域を制圧した。
カール国王はこの要塞を包囲しなくてはならなかった。デンマークの艦隊が峡江(フィヨルド)の入口を制していたため,海上から自軍に食糧と弾薬を補給するのは不可能だった。作戦を任されたデュッケル将軍は,すでにストレームスタットからイデフィヨルドまで距離にして15マイルの陸上を通って小さな船を運ぶことに成功していた。二つの水面の間には五つの小さな湖があったのである。しかし,ここに艦隊が必要であると国王が決意し,厚板の道の上をブリガンティン〔2本マストの帆船〕を運ぼうとしたとき,この離れ業は不可能に思えた。500人ではその重いガレー船を動かすことはできなかった。
7月,デュッケル将軍は,船を移動させる最も効果的な方法を相談させるため,将校を顧問官ポルヘムのところへ送った。一週間後,ポルヘムは監査官スヴェーデンボリを送って,その仕事を指示させた。デュッケル将軍は,「監査官とダールヘイム大佐は忙しくその任務に従事し,私はその進行を見守っております。成功する,と監査官は考えております」と司令部に報告している [68*]。しかし,その最大の船を峡江に移動させるのには,さらに300人と,別のルートを通ることによって,7週間かかった。監査官スヴェーデンボリは,樫の板を敷いた上にころを置き,その上をこの船を引きずることで,続けて残りの4隻もそうして,これを9月5日に達成した。スヴェーデンボリがベンセリウスへ宛てた手紙の中に,この興味深い離れ業について記していないのは不思議なこととされてきた。軍の機密のため,おそらく,彼はこのことについて沈黙を守る義務があったのであろうか?
対抗する二つの艦隊の間に何度か小さな交戦あったが,最終的にデンマーク側は船を沈められ,要塞攻撃への重要な足掛かりである峡江の制海権をスウェーデン側に明け渡した。カール国王・ダールヘイム大佐・デュッケル将軍・スヴェーデンボリたちは,戦役を決定づけるであろう出費のことなど気にもせず,近くの丘で戦いの運命の流れに身を任せていた [69*]。
最近の作家は,その情景を想像して次のように記している――
険しい頂きがもみの木に覆われた,北ボフスレンの荒れた山道を通って奇妙な行列が進む。陸揚げされた巨大な船体が,何百人もの船員と兵士に引きずられて,急坂を登り,狭い峡谷を通り,低木の茂み,沼地の上を行く。ここにはカール十二世のほっそりした姿が,そこにはデュッケル将軍,あそこにはダールヘイム大佐,それと大勢の,三角帽を被り,長靴を履き,金の折り返しついたおなじみの青い軍服の,こわい顔付きをした,傷ついたカロリンガ人たちがいる。
この色彩あふれる中に,軍人の記章を付けない簡素な平服の,しかし,その目は発明の才に輝く,一人の若者がいた。その若者こそ,この全事業の背後からの推進力――エマヌエル・スヴェーデンボリである。野営,また,ネシンゲの牧師の家に休憩しながら,昼夜,行列は進む。ついに,そのガレー船は,スウェーデン人からは万歳をもって,デンマーク人からは砲火をもって迎えられて――これにはヘレスマルクの砲台が返礼した――イデフィヨルドの澄んだ青い水面に滑り込んだ! このすべての後,何が残ったのか? ただ,公文書記録所に数枚の紙,それと,人々の口におぼろげな伝説のみ [70]。
今日でも,苔に埋もれた短い丸太の列が,200年以上も前にその上をガレー船が引きずられていった道跡を示して横たわっている。近所の人々はいまだにこれらの沼地をボフスレンの“ガレー沼”と呼んでいる。
原注
59 『ターフェル』U,889参照。他の参考文献省略。
61 J・スヴェードベリからセデルホルムへ,1717年11月20日。参考文献省略。
63 『手紙と請願書』125ページ以下参照。
64 『手紙と請願書』128ページ以下参照。参考文献省略。
65 『ターフェル』T,275,注釈。
67 1718年,ウプサラ。スヴェーデンボリの代数の本については,新しく,価値あるものは何も特には含まれていない,また誤植や他の欠陥もある,と指摘されている。これがスウェーデンの学校で教科書として一般的に使われることは決してなかった。それでも,その中で彼は幾何学や三角法の多くの問題を解いているし,また,測量術,計量,発射物の運動,その他通常の方法では解くのが非常に困難な問題も含まれている。参考文献省略。
70 G・ベリグレン『技術者としてのスヴェーデンボリ』。参考文献省略。
訳注
★1 2の3乗は8,8の2乗は64。なお原著のこの部分は意味が汲み取れないほどの自由な引用がなされているので,この部分以降の訳は原注64(『手紙と請願書』)によった。
★2 デンマークのシェラン島(同国最大の島,首都コペンハーゲンはその東端にある)の港市。人口6万人。
〔研究誌『荒野』第10号,1997年6月〕