7 Ambitions and Frustrations

第7章 野望と挫折

 水流が大滝に近づき,断崖から凄まじい勢いで落下する前に,見かけ上は束の間の静けさがある。個々の人生にもそのような時があり,才能のままに操られたエマヌエル・スヴェーデンボリの人生も,いまやそうした時を迎えていた。彼と近づきになった者なら,この若者には人生での特異な役割が備えられていると感じたであろう。彼の父はルンドのセデルホルムに書き送っている――

 私の息子エマヌエルがあなたと一緒に同じ家に泊まって,楽しくしていると聞き,嬉しく思います。人の判断によれば,息子の短所は若く思われてしまうことですが,しかし,確かに神がこの若者に成熟した人と同じ知性と技量を与えられたなら,そのとき神を誉め称えねばなりません[71*]

 いまやスヴェーデンボリは,だれもが妻をめとろうと考える年齢,三十歳となった。当時非常に似合いの相手を得る見込みがあったが,めんどうな事態が起り,彼の人生ドラマで,現実のロマンスと強い感情が決定的な役割を演じたようである。1718年の秋であった。

 スヴェーデンボリ自身の言葉によれば,絶えず異性に強い関心があった[72]。しかし結婚はしなかった。彼自身の表現があいまいなものだったので,このことは伝記著述家たちにとって多くの憶測を生む余地を残した。しかし,長い生涯を孤独な独身生活で過ごしたという顕著な事実は,彼の驚くべき業績という光をあてて見るようにしなければならない。研究と広範な旅行の孤独な年月の間に達成された事柄は,彼の人生が家庭の苦労事を背負わされていたのなら,ほとんど達成できなかったであろう。

 スヴェーデンボリが結婚しようとして失敗したことについては,その根拠となるものが非常に少ないので満足な結論は出せない。一つの証拠は,スヴェーデンボリが年老いたときにデンマークの知人に告げたと伝えられているものである。なぜ結婚しなかったのですか,との質問に,彼は,「若い頃に一度,国王カール十二世がかの有名なポルヘムに,彼の娘を私に与えるよう勧めてくださり,結婚する予定でした」と答えている [73]。結婚を妨げたものは何ですか,と問われてスヴェーデンボリは,「彼女はもっと心を引かれた他の者と婚約しており,私を選ばなかったのです」と答えたと言われている★1

 どっちの娘だろうか? ポルヘムには二人の娘がいた。われわれは彼女たちを描写するための貧弱な手掛かり以上のものが欲しい。姉のマリアは,興味の中心が家庭と社会生活にあった,上品で活発,月並みな娘であったようだ。母の美味しいご馳走づくりの手伝いや,父が将来出世することで贅沢が可能になることに強い関心を抱きながら,外面的な敬虔さや家庭的な美徳に専念した。妹のエメレンティアは思慮深く,内気で美しく,身の回りの人々よりも詩に関心を持つ娘だったが,父の能率的で善良で建設的な心を受け継いでいた。詩を書き,スウェーデン語による“押韻詩”の本を出版した [74]

 国王は,おそらく,当時二十三歳のマリアとの結婚を持ちかけたであろう。妹よりも姉を先にするのが当時の習慣であった。婚約は公けにされなかったようであるが,これはどうもエマニエル自身の黙認のもとに回避されたらしい [75]。国王がヴェーネルスボリへ最後の訪問をしたすぐ後に書かれたベンセリウスへの手紙の中に,このことを直接に証明するものがほんのわずかに見られる――

 ポルヘムの長女はマンネルストレーム★2という名の王の侍従と婚約しました。皆はこのことを何と言うでしょうか,「私が手はずを整えたのですから」。次女のほうが,私にとって,もっと美しいのです。(1718年9月14日) [76]

 この個所は通常「彼女が私との約束にあるかぎり」と翻訳されてきた。すなわち,エマヌエルにはマリアが予定されていると了解されてきたのに,他の人との彼女の婚約が公けにされたことについて何と言われるだろうか,と彼がいぶかっていることを意味する。しかし,もし宮廷侍従とマリアとの婚約がエマヌエルの手はずによって整えられたのなら,すなわち黙認されていたのなら,このあいまいな個所の両方の読みも意味を持ってくる。そうでなければ,なぜスヴェーデンボリは妹の方を好んでいると述べねばならなかったのか? エマヌエルは両姉妹をよく知っており,彼は意にそぐわない結婚をさせられるような人間ではなかった。“ムレンサ”は“マヤ”よりもはるかに美しく,もしマリアの手がだれか他の人に与えられさえするなら,エメレンティアの手は自分に与えられるだろう,というのがエマヌエルの判断であった。スヴェーデンボリが,「彼女はさらに心を引かれた他の者と約束をした」と言ったとき,明らかに,これはマリアについて言及していた。なぜなら,その時まさに,マリアは自分の手をマンネルストレームに与えたのに対し,エメレンティアはこの5年後まで結婚しなかったからである。

 それでは,エメレンティア・ポルヘムとの結婚の望みがうまくいかなかったのはなぜか? この答えは,1789年にストックホルム協会で読まれた文書に含まれている[77]。そこでは,スヴェーデンボリを助手として,ポルヘムがトロルヘッタンの水門の建築に働いている間,「監査官はポルヘムの2番目の娘エメレンティアに激しい熱情を抱いた」と述べている。しかし,彼女はほんの15歳だった [脚注*]ので婚約を強制できなかった。そこで,スヴェーデンボリを非常に愛した彼女の父は,もっと年をとったら応じてくれるだろうとの希望を持って,将来,彼女を要求できる書類を彼に与えた。この契約書に父はその娘に署名するよう強いたのである。

 しかし,彼女は毎日これを非常に思い悩み,兄の侍従ガブリエル・ポルヘムは彼女を哀れに思って,スヴェーデンボリから契約書を盗んだ。毎日これに目を通すことだけから慰められていた彼は,それですぐさま自分の宝物がないのに気づいた。紛失したときの彼の悲しみは,彼女の父がその理由を強く知りたがったほどに明らかなものだった。そのとき,父の権威を行使して,その奪った文書を彼に返還するよう命じた。しかし,スヴェーデンボリは彼女の悲嘆を認めたとき,自分の権利を自発的に放棄し,二度とどのような婦人にも思いを寄せまい,ましてやどのような婚約も交わすまいと厳粛に誓いつつ,その家を去った。

 一般に信じられているにもかかわらず,スヴェーデンボリは結婚の思いをまったく捨てたのではなかった。なぜなら,何年か後に,彼が他の若い婦人の手を求めたことを証明する文書が,いまやわれわれもとにあるのである。(第14章の“スティーナ・マヤ”の記事参照)

* * * * *

 この挿話はおそらく1718年の9月に起こったのであろう。ベンセリウスへの手紙を書いてから2日後,スヴェーデンボリはヴェーネルン湖を渡って,ブルンスボに3週間滞在した。10月に彼は書いた――

 陛下はおそらく今月末にヴェーネルスボリに行かれ,そこで軍隊を視察されるでしょう。〔その際〕私が陛下とともにノルウェーに行かないで済むかどうか,わかるでしょう(ブルンスボにて,1718年10月5日)[78]

 12月,エマヌエルはまだ監督の邸宅にいた。クリスマスの期間はここに滞在する計画であった。その後,数週間を鉱山地方とストックホルムで過ごすつもりだった。「神に感謝せよ〔=ありがたい〕,私はノルウェーへの兵役を逃れた! これを回避する計略を巡らさなかったら,もうすこしでつかまるところだった」と12月8日に書いている。この直後に,国王はフレデリクスハルを包囲している間に殺された,との知らせを受けたに違いない。

 要塞の外側の防備は1718年11月20日に破られており,カール王はその中心の本拠地を攻撃するばかりになっていた。雨や寒さの中で,昼夜,塹壕の中にとどまり,毎晩ただの数時間の睡眠しかとらなかった。30日の夕刻,塹壕の壁の上に座っていた王の後頭部を一発の弾丸が貫き,王は即死した。

 元日に遺体はヴェーネルスボリへ,そしてそこからストックホルムへと運ばれ,英雄王の遺体はそこのリッダルホルム教会に厳かに葬られた。こうして,国民の上に絶対的主権を掌握した人間が,ヴォルテール★3が「かつて地上に現れた最も異常な,最も変わった人物」と呼んだ男が,またその軍事的才能と強情な執拗さから「北方の狂人」としても知られた者の姿が地上から消えた [79]。棺が開かれ,その遺体は何度か調べられた。しかし依然として,致命傷となった弾丸がやってきたのは,包囲した要塞からなのか,国王自身の将卒の反逆者の鉄砲からなのか,断言できなかった。

 ノルウェーでの軍事作戦は軍隊の間では決して好ましいものではなかった。それで,もう一週間もすれば要塞は陥落して戦役は終わったであろうが,将校たちは包囲を中止し,軍隊を引き上げることにした。彼らは,自分たちの個人的な事柄も気になるし,新しい君主が冠を戴くときには故国の首都にいたい,将来の支配者によって昇進したい,と望んでいたのである! 冬のノルウェーの峰々からの吹雪の中で,山のトロール〔北欧神話の岩屋や丘陵に住む巨人,悪魔〕の遠吠えのするがままに,十分な指揮もなく取り残された不幸な軍隊に起こった出来事は,スウェーデンの歴史の中で最も悲惨なものの一つである。退却が終わったとき,凍て付いた死体が,風の吹きつける平野と狭い隘路となった峡谷にそって,こわばった姿勢で立っていた。このことは一般市民からの新兵にも鍛えられた老兵にも等しく悲惨なものとなった,食糧,避難所,衣服の不足をうす気味悪く証明していた。

 悲しみのうちに偉大な首領をその最後の安置場所へ運ぶ者たちの間にエマヌエル・スヴェーデンボリがいた。この突然の変化で彼の運命は非常に厳しく損なわれた。個人的に,彼は国王に強く引き付けられているように感じていた。まる一年の間,断続しながら,ほとんど毎日接触したが,こうした関係は,もし続けられたなら,この若者の人生行路に決定的な影響を及ぼしたに違いない。彼らは互いに興味ある話しを交わし,スヴェーデンボリはいろいろな計画のために国王の承認を得るのに成功した。彼は工学での自分の技量と執筆の才能を示して見せた。天体観測に興味を持たせるよう王に試みたが,これは失敗した。武人に訴えるには,天文学はあまりにかけ離れた非実用的なものであった。けれどもついに「好意は冷遇に,怒りにすら変わった」と語られている。この理由は多くの憶測を呼んだ。これは,エマヌエルが陛下に都合よくすみやかに『ダエダルス』の最新号を発行するのに失敗した,これについて彼は「国王の不興を招いた」と言っているが,そんな些細な事柄ではありえない。この監査官がポルヘムの娘の一人と結婚するのに失敗したことも,ほとんど理由となりえない。もっと深いもっともらしい理由は,ノルウェーに対する軍事行動にスヴェーデンボリが同意しなかったことであろう。その後この戦闘について彼は,「ありがたい,私はそれを逃れた!」と強烈に叫んでいる。おそらく断絶は,国王のほんとうの性格は頑固で無慈悲な野望にある,と彼が看破したことによって生じたのであろう。

 またそれは,国王に悪影響を与えた人物,イェルツ男爵との衝突によって引き起こされたのかもしれない。カール十二世はスウェーデンの人民から大いに愛されたが,この税金徴収人はそうではなかった。恐ろしい被害を全国民にもたらした戦争の恨みは,憎むべき人物イェルツへと集中した。国王の死後,イェルツはただちに逮捕され,迅速な裁判のもと,国王を悪い助言で迷わせたとの罪科で打ち首にされた。

 水門の工事は冬の間中止されていたが,決して再開されなかった。後世になって,ここから遠くない別の場所に今の「イェータ運河」が建設された。船舶が水門を通過するとき旅客は,未完成の切り通しの遺跡である「ポルヘムの堰(せき)」を,興味ある珍奇なものとして見ることができるであろう。最終的な完成の多くは最初の失敗のおかげである。

 『ダエダルス』もまた,資金の欠如と一般大衆の無関心の両方から中止しなければならなかった。このとき生じたスヴェーデンボリとクリストファー・ポルヘムとの関係の断絶は,この若い科学者に深い苦悩を引き起こしたに違いない。その理由は何も知られていない。二人の不和についてただ一つ暗示するものは,ポルヘムがベンセリウスへ宛てた手紙であり,その中で,若い監査官の科学へのあまりに鋭い感覚に言及している。彼は自分たちの関係が中断する事に悩み――彼の3通の手紙は開封されずに戻された――それで,ベンセリウスに事態を正常化するよう求めた。スヴェーデンボリはポルヘムの家族の間で高い評価を得ており,ポルヘムは,「私たち自身の息子として愛する十分な理由」を述べていた(カールスグラーフ,1719年4月18日)[80]。おそらく仲違いは,必然的に決裂へと導かれる性格の根本的な違いに由来するのだろう。3年後にスヴェーデンボリは自分の科学的評論の一つについてポルヘムと相談することを語っているので,この断絶は絶対的なものではなかった。ポルヘムは金銭問題については相当にしっかり屋であったことからすると,断絶の一つの理由は,両者とも関係していた“製塩会社”のことかもしれない。製塩会社は,額面1ダーラーでさらに4万の株券を発行した。そしてスヴェーデンボリは「多くの熱心な人々を,この企画に彼らの財産を思い切って投資してみないか,と誘おうと願った」。後になって彼はこの事業は,「もし,それに出資した者が私利をあまりに強く求めないなら……」うまくゆくと考えた(ブルンスボ,1718年1月21日)[81]

 この頃のスヴェーデンボリの生活で,落胆を招く別の要因は,義兄の一人が彼に反抗的だったことにもあるようである。「兄のラルス(ベンセルシェルナ)は私をいくぶん不愉快に思っているようです」と彼はベンセリウスに書いている。

 私のすべての兄弟姉妹の間に,私によかれと望んでいる者を,愛するお兄さん,あなた以外に私によかれと望んでいる者を,私はだれも見出だせません。私はこのことを,私の外国旅行の間にあなたが私の父へ書いた手紙から特に確信しました。もし私の感謝の気持ちをなんらかの方法で示すことができるなら,これは欠けたところのないものになるでしょう。この4年間,弟のウンゲ(妹カタリーナの夫)は私の父と母の心を私から遠ざけています。それでもこれは何の役にもたちません(ブルンスボ,1718年10月)。

 実際に展望はスヴェーデンボリにとってむしろ絶望的に思えたに違いない。またおそらくは彼の落胆した態度が,この時期に出版された小著作『地球と惑星の運動と位置』 [82]に反映されている。この論文の中では,現在の地球は,以前よりもさらにゆっくりと太陽の周りを回転しており,そしてその終わりには,すべてはまったく破滅してしまうことを立証するために,物理学,幾何学,天文学からの証明が持ち出されている。地球は,運行速度を減じることから,しだいに人類の住家として役立たなくなり,人類は寒さと飢えで滅びるであろう。

 俸給を受ける権利のある役員として認定されるために,エマヌエルが鉱山局に登庁したとき,そのすべての幻滅は極限に達した。鉱山局はこれを考慮することを,彼は特別な仕事のために雇われたが決して正規の継承方法で鉱山局から選ばれたのではないとして拒み,彼を単なる臨時の雇人と見なした。彼は国庫の枯渇した状態では無視するのが最善の政策であるとされた者に過ぎない。彼はスウェーデンの鉱山の繁栄を促進させるためには何もしなかった――このように鉱山局は考えたのだった。さらにまた,彼は国を凋落させた前国王のお気に入りであり,彼の父は依然として熱心な旧体制の王政主義者であった。

 主要な鉱山区へ広範囲に旅行し,使われているあらゆるいろいろな種類の炉についての報告書を提出することで実際に努力し,以前には経験したことのない分野でも有益な仕事をなす能力を示したスヴェーデンボリにとって,鉱山局から拒絶されたことはさらに不公平なものに思えた。最近,彼の原稿『スウェーデンの熱風炉について』が明らかとなったが,現在のスウェーデン鉄鋼局は,その報告集の中にこれを印刷してその重要性を論評している [83]。これは,スウェーデン全域で以前に使われていた炉の最初で唯一の記述を含んでおり,国のあらゆる場所の鋳造場や加熱炉を彼が訪れたことを基盤にして,他から求められていないけれども作成した報告書である。著者は,鍛治屋,炭焼き人,鉱石の精練者,鉄炉の管理人などから,集められるだけのあらゆる情報を集めた。まったく自主的な,完全に現代的精神によるスヴェーデンボリの,この徹底的に科学的な調査は,監査官と参事たちに提出されたが,注意を引き付けるのに失敗したのは明らかであった。おそらく彼らの大部分は, “見苦しい鉄炉”に近づいたことは決してなく,むしろ自分たちの活動を好んで,精練人ヨン・ヨンソン★4と石炭商エーリク・エーリクソン★4の間の法律上の論争に対して威厳ある判決の席に座ることにとどめたであろう。彼らがはたしてこの自称監査官の慎ましく提出された意見書を賞味したのであろうか,とわれわれはいぶかるのである――

 粗悪で見苦しい鉄炉についての単なる論文としてでなく,重要性と価値あるものとして,閣下と名誉ある鉱山局の前に持ち出されるのは,私にとってさらに好ましいものです。特に,銀や銅が精練されるようなスウェーデン鉱山区でのさらに重要な炉の研究をもたらす機会として……[84*]

 また彼は『鉱脈を見つける新方法』 [85]と題する小論文も提出し,そこでは,それぞれの鉱物は蒸気または放射物を「発散させて」,これがその周囲の地に染み込み,地上の植物に影響を与えているので,「グレーハウンド〔猟犬〕がするように嗅ぎ出すこと」によって,どこに宝物が隠されているか知ることができるに違いない,と提案している。そうして,われわれは,われわれが踏みしめている下にある富と,大地がわれわれに決して明らかにしようとしないで隠しているすべての重要な物を知るであろう――「もし至高者であられる神が,私たちに10万倍もすぐれた感覚をくださったなら,匂いや炎のような光だけによって,たやすく金属を豊富に含む鉱脈から流れ出すような発散気が流れ出しているのがわかるでしょう。……しかし,この知識は私たちに与えられていないので,他の方法を見出だすために,理性を用いなくてはなりません」――しかし,魔法の杖を用いるのではない。これを彼は迷信の領域に退けている。

 父の最良の文体を思い出させる言葉で,そのときエマヌエルは,その時代の贅沢と途方もない浪費を遺憾に思い,「最良の金属を含む鉱脈と最も豊かな鉱石は,贅沢をやめ,倹約を実行し,借方と貸方が一致するよう見ることである……」と指摘している。「銀鉱脈で年間に産出される量の倍よりさらに多くの金や銀を,私たちが身を飾るのに消費するかぎり,新しい財宝を発見したとて何の役に立つのか?」と彼は問いかけている。

 この論文もまた,金モールで飾った尊大な鉱山局の委員たちの間に大した興味を引き起こすまでもなく終わった。彼らはおそらく,この根っからの厳格な牧師のせがれを,同僚としてあまりつき合い安いやつではないな,といぶかったであろう。放射線よって鉱脈を見つけることについて,スヴェーデンボリの論文に特殊な関心を見出だすことは,もっと現代的な科学者たちに委ねられたのである。なぜなら,そこにはそれらの方向に沿った初期の考えがいくらか含まれていたからである。彼は今日のガイガー計数管〔放射能測定器〕に,どれほど興味を持ったことであろうか!

 スヴェーデンボリは,今は何をすべきなのか? 亡くなった天文学者ペール・エルフヴィウスを引き継ぐウプサラ大学での教授職は彼自身が退けた。前年,エーリク・ベンセリウスの推挙に彼は答えていた――

 私はすでに名誉ある地位に就いています。他の地位よりも実にこの地位なら,実際的な役立ちで祖国に貢献できます。このような私の持ち味や気質と一致しない教授職は辞退いたします。この両方のものによって私は工学に導かれており,そのうち化学へ導かれるでしょう。それに,鉱山局はこうした問題について少しも知っていない監査官を抱えていることで知られています。この理由から,この欠陥を補おう努め,この方面で私の労力が彼らに役立ち,彼ら自身〔の労力〕が他の分野で役立つように,と願っています。また私は,だれも私がこの私の仕事に向いていないと判断しないと信じています。嫉妬については,私にとって不安というより,笑い種です。なぜなら,私は常に自分が妬まれるように努めており,そして将来は,おそらくもっと大きな嫉妬の対象となるでしょう。あなたの提案★5に従いたくなるただ一つの検討の余地は,私の考えを論文に書くために,私とあなたが一緒に1年か2年の静かな余暇を楽しめるところにあります。現在の私にはこれをする〔論文を書く〕のに少々の困難があります……(ブルンスボ,1718年1月21日)[86]

 スヴェーデンボリには落胆する十分な理由があった。ポルヘムの家族との個人的関係に失望しただけでなく,彼の着手したすべての計画――運河,製塩,『ダエダルス』――は,国王の死とともに突然と終了してしまった。自費による祖国での最初の科学雑誌の出版を通して,工学への一般的な関心を進展させようとする彼の努力は,彼の『代数学』もそうだったように失敗した。天文学での研究も設備の不足で中止された。工業上の改良の提案は,感謝されなかった。それでもこれらすべては極めて必要とされていたことであった!

 彼は書いた★6――

 私の数学上の発見は国に受け入れられない斬新なものと考えられていることがわかり,これはたしかに私を落胆させました。私はこうした斬新さをもっと持ちたいのです。実に,著作の上での斬新さを,世界がそこに楽しみを見出だすよう,年がら年中! 1世紀の間に,古く踏みならされた道をとぼとぼ歩く者はいくらでもいますが,その一方,まる1世紀で,論証と理性に基づいた斬新さを生み出せる者はわずかに6人ないし10人しかいないのです。

 1919年2月の間,鉱山局にむなしく出向いた数日後に,鉱山局の他の役員とともに公文書に署名することすら許されなかったとき,卑屈な態度を取らねばならないことをやめ,その後の4年間,彼は〔監査官としての地位の〕承認が確立されるときまで再び姿を現わさなかった。

脚注* その文書には,「13歳から14歳の間」とあるが,これは,エメレンティア・ポルヘムが1703年に生まれたので,明らかに間違っている。


原注
72 『夢日記』14。
73 『ターフェル』U,437,no.18 ;『ターフェル』T,628以降;43,no.35,36;49以降。
74 『霊界体験記』6025;『ターフェル』T,634;注29以降。
75 友人であり隣人あるカール・ロブサームは,スヴェーデンボリを思い出して,「若い頃,彼は恋人〔娼婦〕を持ったが,彼女が彼に不貞になったとき,彼はあきらめた」と言っている。いろいろと翻訳され,解釈されてきたこの言葉も,同じ境遇に言及している,とわれわれは考える。これは,人々が,なぜ彼は結婚しなかったのかと問うときの,学者の慣例的な答えのようである。『ターフェル』T,43。しかし注718 を参照。
76 原注にはこの部分のスウェーデン語による原文が記されているが省略する。ここのターフェル訳は――
「人々はこの事を何と言うだろうかと私はいぶかる,彼女は私と婚約しているのだから」『ターフェル』T,303。
 アクトンはこれと異なって訳している――
「人々はこの事を何と言うだろうかと私はいぶかる,それは私の持ち場★7だから」『手紙と請願書』193 。
77 『ターフェル』T,50-51,no.54。エメレンティア・ポルヘムは,男やもめのレインホルト・リュッケルシェルトと1723年まで結婚しなかった。またそれ以前の5年間,スヴェーデンボリは明らかにポルヘム一家との接触を持っていない。エメレンティアはおそらく,彼女の将来の夫とダラカールリアで会った。そこに彼女は父と一緒に居住した。彼女は,9人の子供の母,大きな屋敷の管理人として1760年に亡くなった。彼女は明らかに,スヴェーデンボリと仲のよい間柄であった。彼女の名前が後になって彼の物語に再び登場するからである(第37章参照)。エメレンティアは結局,シェルンスントの財産を引き継いだ。彼女は堂々たる大邸宅を建て,それはまだ建っている。不幸にも,建物を建築中に,彼女はその足場から落ち,残りの人生は足を不自由にして過ごした。『ニューチャーチライフ』1927年8ページの「エメレンティアの松葉杖」についての伝説を参照。
78 原文(省略)はスウェーデン語であるが,ターフェルはこれを「私が〔軍隊とともに〕ノルウェーに行かないで済ますことはできない,とわかるでしょう」『ターフェル』T,304 と訳している。アクトンは「それとともにノルウェーに行かないで済ませるか,わかるでしょう」としている。『手紙と請願書』199 ,それと注5,それと202ページ。
79 『霊界体験記』の4704番やその他の箇所を参照。『ターフェル』T,602-4,558以降。
80 『ターフェル』T,306-7,285。
81 『手紙と請願書』175以降。他の参考文献省略。
82 原題名省略。スカラ,1719年。
83 原題名,参考文献省略。『ターフェル』T,404-5ページ参照。
85 原題名省略。原稿はリンチェピングのディオセサン図書館に保存されている。英訳は『科学,哲学論文集』〔1992年,SSAより第2版発行〕以下参考文献省略。
86 『手紙と要望書』174-5 ページ。同じく224 ページ参照。


訳注
★1 これはテュクセン将軍が1769年にスヴェーデンボリと会話したときのことをアンデルス・ヘプケンへの手紙で述べたものである(原注73『ターフェル』U,437)。
★2 Martin Ludwig Manderstrom(1691-1780);カール12世にトルコ滞在中とその後,死ぬまで仕えた。宮廷役人としてその後統治した3人のスウェーデン王に仕え,最後は宮廷を全般的に管理する地位に上った。
★3 Voltaire(1694-1778);フランスの作家,フランス啓蒙期の代表的思想家。
★4 実名ではなく,太郎・花子のようなよくある名前の例。ヨン(英名ジョン)もエーリクも最もありふれた名前である。
★5 すなわち,教授職を受けたらどうか,との提案。
★6 前の手紙の中に,続けて述べている。
★7 アクトン博士『手紙と要望書』193ページの注によれば――
 誤訳(『ターフェル』T,303)により,エマヌエルはポルヘムの長女マリアと婚約していたと考えられてきた。これはポルヘムの望みであった可能性があるが,しかし,エマヌエルの望みであったことを示すものはない――実に,むしろこの反対であった。スヴェードベリとポルヘムの間の文通の一部を出版した詩人アッテルボムは次のように記している――「学問もあり機械にも熟練した二人の友人をさらに親密な絆で結び付けようと望んで,カール12世はスヴェーデンボリをポルヘムの義理の息子にしようとした。ポルヘムはこれに異存はなかったが,娘は別の者に気持ちを傾けていたので抵抗した。スヴェーデンボリとの結婚を望まれていた者は長女であったように思われる」

〔研究誌『荒野』第12号,1997年7月〕