9 Temporal Fortune

第9章 世俗的な財産

 スヴェーデンボリが,ダラカールリアのスタルボにある製鉄所を監督していたラルス・ベンセルシェルナとヘドヴィクの家にいた時,ある事件が起こり,そのことにより彼の世俗の状況は大きく変化した。彼は,愛する義母サラ・ベリイアが肺炎しばらく患った後,1720年3月3日に亡くなった,との知らせを受けた。すぐにブルンスボへ出発した。そこでは父が,23年間連れ添い,愛した妻を失って,嘆いていた。それでもエマヌエルは『振動について』の原稿を携行することをやめなかった。それはその時には数章であったが,写し取ってベンセリウスに送ってあった。

 遺言により,サラ・ベリイアは炉(鉄工場),溶鉱炉,森や畑を含むスタルボやプレストヒッタンその他の莫大な鉱山資産の全部を,6人のスヴェードベリの子供たちで分けるようにと残した。エマヌエルは義母に最も愛されていたので,司教(夫)が遺言を改めるよう説得しなかったら,義母は財産の全部を彼だけに残したかもしれない。夫が他の子供たちを除外しないよう懇願したとき,「残りの子供たちにも等分の分け前を与えましょう。しかしエマヌエルにはスタルボだけを与え,彼に他のものを買い取らせなさい」と義母は言った[98]。サラ・ベリイアはまた,自分の死後1年間はスタルボの全収入をエマヌエルが享受するようにした。彼女はまた死ぬ前日に口頭により,三人の証人の前で,自分の恩恵に属する者に六歳の自分の孫娘サラ・ルンドステッドも含めるようにとの,別の規定も加えた。こうしてその配分は7等分へと変えられた。相続人の二人は遺言のこの条項を争ったが,しかし,その有効性はエマヌエルによって法廷に提出した申し立て書に基づいて支持された。サラの弟ペテル,彼女の妹の二人の子供,スヴァーブ一家もまた遺言を争ったが,司教が寛大にも自分の個人的財産から12,000ダーラーをすぐさま与えることで,彼らの要求を静まらせた。最終的な決着は,スヴェーデンボリとラルス・ベンセルシェルナが,他の相続者からは買い取り,その財産を一緒に所有することで一致した。全価値は銅貨で32,000ダーラーと見積もられ,スヴェーデンボリの分け前は4,571ダーラーであった。この解決はエマヌエルに非常に有利だった。ラルス・ベンセルシェルナはスタルボに住み,その財産を見守り,勉強家の義理の彼の弟が自由に旅行や研究に専心するようしてくれた。

 その相続財産が,1721年の4月16日に分割されたとき,ラルスとエマヌエルは,他の子供たちが彼ら自身の母サラ・ベームから相続した財産の分け前を引き継いだ。すなわち,ゲストリクランドのアリスマルと,ヴェストマンランドのスキンスカッテベリ,それとダルカールリアのゲーブベリにあるにある鉄工場である。壮大なアクスマルの敷地には,長く伸びた海岸とバルト海に面する独自の港,また何マイルもの森林地帯があったが,これは溶解するのに必要な木炭に欠くことのできないものであった[脚注*]。スヴェードベリの子供たちみんなで全財産の五分の一を所有し,他の五分の四は彼らの叔母の未亡人ブリタ・ベームが所有した。スヴェーデンボリが無報酬の研究に自分の非常に多くの時間を捧げることができたのも,これらの繁栄する鉄工場から,十分な独立した収入を得られたからであった。この時以来,これは特に彼にとって幸運なことであった。われわれは,彼が繰り返し,あらゆる努力で,鉱山局から俸給を引き出そうとして失敗したのを知っている。

 エマヌエルはブルンスボで非常に有益な時を過ごした。彼は従兄弟のヨハン・ヘッセリウスの所有する化学の蔵書を見つけ,これに非常な興味を覚えた。エマヌエルより数か月年長であったヘッセリウスは,スヴェードベリ一家の親密な友人であった。彼は牧師館に住み,毎晩,チェロで賛美歌を奏して司教を楽しませた。またあらゆる科学的な発見に強い興味を持っていた。

 私は今,ヘッセリウスの所有する★1すべての化学書の通読に励んでいます。私は,火と金属に関するあらゆる物事を徹底的に調べようと目論んでいます。……私はボイル(その他の学者)の化学実験を取り上げ,幾何学や力学と比較して,自然の最も微細な部分を追及し,そして私は微細な物質の性質に関するすべてのものでの新しい発見に元気づけられています。……すでになされた莫大な量の実験が,その上に建設するための良い基盤を与えているように思えます。他人の労力と費用を利用すること――彼らが手でもって働き出したものの上に頭をもって働くこと――ここから,科学,冶金学,火やそうしたものの性質についてのおびただしい推論が得られます(ブルンスボ,1720年5月2日)[99]

 最も微細な部分での性質を追跡すること,自然の微妙な物質の性質を研究すること! ここにわれわれは,スヴェーデンボリが次の15年間に発展させ,従事することになった彼の進路の輪郭を見るのである。しかし,なぜ彼は,この時点で,解剖学から化学へ向かったのか? これは,もしわれわれが『振動ついて』の著作を,原稿の形で残された小論文『火と色彩の性質について』の研究からおそらく生じた逸脱と見なすなら,最も良く説明される[100]。この論文の第3節で,彼は視覚と聴覚に関連させて空気とエーテル★2の中での運動を論じ,波動を多くの分子の局部的な運動からの結果である,個々の分離した小さな分子の揺れからの振動であると定義している。『溶鉱炉』についての彼の著作は,おもに火についてもっと学ぶことを目的としてなされた。なぜなら彼は,鉱山局への請願書で,これを引用し,「主要な対象は,火の性質を調べることでした」と述べているからである。

 実際問題として,化学は彼の選んだ職業である鉱山業と冶金学に密接な同類の学問である。しかしスヴェーデンボリの心を引き付けたものは彼の心の中の新しい力――幾何学と力学の知識――であった。これは,彼の手の届く範囲に来たあらゆるものを試験するために使用する新しい装置のようなものだった。これはあたかも宇宙に内在する原理を,アラジンの宝の家★3の鍵を発見したようなものであり,自然の未探検の内部へと導くあらゆる扉にこの鍵を差し込んでみたいほどの好奇心に燃えていた。物質の構造そのものはこの鍵によってあばかれるであろう! 化学は力学により説明される! このことに彼の心は奪われていた。科学には当て推量はなく,受け継いだ方式にも頼らず事実には事実を適合させる。そこに明らかにされる真理があった!

 スヴェーデンボリの手書きの『物の原因について』の論文で,しかし,彼がポルヘム彼の筆記者として働いていた時期なので,これおそらくポルヘムよる論文であろうが,そこではじめてわれわれは,空気を構成している分子が丸く,密度には三段階あり,不活性で不活発な分子はもっと自由で活発な物質から圧縮されて形成されることが示されているのを知るのである。そこでは,「硫黄」と「塩」は,創造のとき,火と水の間の争いから生じ★4,硫黄は油,塩は流れるガラス質の物質(溶岩)となり,最終的に圧縮されて地の物質そのものになったことが示唆されている[101]

 スヴェーデンボリはその哲学的見解では,ポルヘムと同じく,デカルト派だった。すなわち,デカルトのように,自然は機械のようなものであると信じた。太陽系の渦巻きの存在についてのデカルトの見解を受け入れ,物質のあらゆる変化は運動によるとのその思想を受け入れたけれども,それでも,創造における運動の作用についてだんだんと成熟してきたスヴェーデンボリの観念は,新しく,実に革命的なものだった。物質の力学的起源の理論の最初の萌芽がその中にあった――一連の個々の物質的な形は,初めは「無限者」から創造された。これらの分子の形状と特性に関しては,彼はデカルトと違っていた。彼自身は決して他人の考えを採用するのをためらわなかったが,デカルトの考えを無条件に受け入れたウプサラ大学の教授たちに激しく反対した。しかし彼は常に,彼自身の心の中でそれら他人の考えに働きかけ,それらの上に自分の思考の型をあてはめたのである。スヴェーデンボリの初期の哲学的著作からポルヘムやデカルトから得たすべてのものをふるいに掛けるなら,そこにはほんの少しのものしか残らないのである[102]

 「物理学での新しい話題を送ります。これは空気と水の分子が丸いものであることを示しており,世界観に対し,多くの影響を与えるでしょう。しかし,私の理論の基礎を証明と幾何学に置いているので,だれも論理的にはこれを否定しないであろうと望んでいます。……」。彼の目標は,「あらゆる部分における空気と水の性質の徹底的な探求」であった。「なぜなら,もしいったん分子の真の形状が発見されるなら,私たちはそこからそうした形状に属するすべての特性を得るからです」(スタルボ,1718年1月30日)[103]

 1720年の12月,スヴェードベリ司教は,ファールンの首席司祭の娘,クリスティーナ・アルーシアを三人目の妻として迎えた。おそらく,エマヌエルはブルンスボでの結婚式に参列したであろう。これは司教の義理の息子,当時スカラの南約10マイルの教区の教区牧師,ヨナス・ウンゲ牧師によって司式された。翌年の2月,スヴェーデンボリは再びスタルボにいて,妹ヘドヴィクの幼い娘の名付け親〔保証人〕として立ち会った[104]

 外国へ行き,研究結果をラテン語で出版しよう★5,とのスヴェーデンボリの計画が実現されるべき時がいまや来た[105]。この実行のための豊富な資財は,すでに知っているように,彼の義母の遺産を通して与えられていた[106]。5月の終わり★6に,彼は,オランダへ向けて,コペンハーゲンとハンブルクを経由してスウェーデンを去った。ハルデルヴィイク大学で医学の学位を得ようと決意していた従兄弟のヨハン・ヘッセリウスが同行した。ヘルシングボリに到着し,海峡をデンマークへ渡る準備中,スヴェーデンボリは鉱山局へ手紙を送付したが,これは依然として彼がその団体との関係を維持しようとする決意示している[107]。〔その手紙の中で〕彼の唯一つの目的は,外国の鉱山とその方法についてより詳しく知ることと,金属の外国市場を勉強することであると言明し,そしてこの計画を実行する上で,情報と指導を願っている。よい生れ〔家柄〕の同僚たちは,その手紙を他の請願書の間に綴じて置く以外に,彼の要求に対しいかなる注意も払った形跡はない。このことで,それ以外の多くのことでも,新しい政府は以前の王朝を思い出させるものはすべてを抹消し,カール十二世のお気に入りの者たちは少しも用いなかった。その者たちの間にエマヌエル・スヴェーデンボリとクリストファー・ポルヘムが数えられた。われわれの野心的な若い監査官がこれを克服するために活躍分野を他に探るのももっともであった。

脚注* 1900年では,この資産は2千万スウェーデンクラウン(=クローナ)と見積もられる。


原注
98 『ターフェル』T,357。ブルンスボ,1724年4月20日。
99 『手紙と請願書』236-8ページ参照。
100 原題名(スウェーデン語)省略,リンチェピンのディオセサン図書館所蔵。翻訳は『科学,哲学論文集』(☆)9-16ページ。
(訳注☆)これはSSA発行の1992年第2版のページ数である。
101 De Causis rerum ,上記参照。〔☆5-8 ページ〕
102 A・H・Stroh 『スヴェーデンボリの初期の哲学の性質』〔スヴェーデンボリ『科学著作集』第3巻の序文,24ページ以降〕参照。デカルト『プリンキピア』13章。
103 E・ベンセリウスへ。『ターフェル』T,296-7。
104 資料名省略。〔訳注:『手紙と請願書』247参照〕
105 スヴェーデンボリの初期の著作をその原語で追い求めた者なら,スウェーデン語でなく他の言語で書くとの決断にだれも驚かない。暖かく,家庭的で,社会的な感情や歌の表現に対しラテン語とはほとんど釣り合わない言語であるスウェーデン語は,英語が非常にうまく成し遂げたようには,ラテン語に由来する言葉と決して優雅に混ぜ合わせることはできない。スウェーデン語では,外来語は“era”と“ation”で終わり,自国語から堅苦しく浮き上がっている。綴りですら,明確な形になっていないで,このことはスヴェードベリ司教と古くからの友ウルバン・イェルネとの当時の激しい論争の的であった。これらの尊敬すべき師匠たちは,それぞれのハンマーとやっとこで,独自にその綴りを改良する努力を展開中であった。
106 『手紙と請願書』247。
107 『手紙と請願書』255。〔訳注:ヘルシングボリ,1721年6月30日〕


訳注
★1 これ以前はルデニウスの蔵書であった。スカラ教区の医師ルデニウス(1679-1712)はオランダで医学を学ぶ間にかなりの量の図書を手に入れた。
★2 当時の科学では“声”は空気の中を伝わり,“光”はエーテルの中を伝わる,とした。すなわちエーテルとは,光・熱・電磁波の仮想的媒介である。
★3 莫大な財宝のありか,という意味。
★4 原論文には「圧縮から火は硫黄に,水は塩に(なり)」があるがこの引用文では省略されている。
★5 すなわち,オランダで『経度を知る方法』を出版しようとした。
★6 28日。

〔研究誌『荒野』第14号,1997年9月〕