10 Early Philosophy
第10章 初期の哲学
1721年の夏,スヴェーデンボリはアムステルダムにいて,スウェーデン語からラテン語に訳した三つの自分の論文が印刷されるのを見届けていた。そのうち最大のものは『化学』[108]についての著作である。彼がそれらの著作を匿名で出版したことは,それらが上質の紙に印刷されて印刷所を出るやいなやその二部をフルネームで署名してオランダの友達に送った事実からするといくぶん驚くべきことである。おそらく匿名は,その著作が受け入れられる上で,著者名を明らかにした場合よりも先入観なく主張を聞いてもらうのをさらに確実にすることを意図していたのかもしれない。もしそうなら,秘匿は守られなかったことになる。もちろん,著者がだれなのかはすぐに知られてしまった。これやまた他の経験から,スヴェーデンボリはこうした問題をどの様に扱ったらよいかを学んだようである。多くの年月の後,彼が最初の神学著作★0を匿名で出版したとき,自分がその著者であることを長い間隠すことに成功した。
そのラテン語の論文の献本のうちの一つは,今では大英博物館にあり,「創意と学識と経験を通して全世界に広く称えられているヘルマン・ブールハーフェ教授へ★1……」と記されている。他の一つはスウェーデンを代表するハーグの大使ヨアキム・フレデリク・プレイス★2に送られた。アムステルダムでの仕事は終わっていたが,その若い著者は,8年前ウトレヒトの和平会議で面識を得たプレイスとの交際を新たにするため,その首都に足しげく通ったのである。彼らは,スウェーデンの経済状態と国の福祉を促進させる方法について長らく語り合った。アムステルダムからスヴェーデンボリは二,三週間ライデン★3へ行き,ブールハーフェ博士を訪問し,そこの有名な大学の図書館からその後の出版物のための材料を集めた。それからアムステルダムへ戻り,そこでヨハン・ヘッセリウスと合流した。
12月8日,その二人のスウェーデン人は,スウェーデンとロシアの間の21年にわたる戦争終了の平和条約を締結する祝賀会の証人となった。このとき,ピョートル大帝の代理人は朝まで続く豪勢な宴会をもってアムステルダム市民に存分なもてなしをした! 街路ではワインの大樽が開けられ,記録によると最も壮大な花火大会で民衆を楽しませた。軍楽隊の音に合わせて,その行事のため河岸に立てられた大きなロシアのワシを戴いた高い塔からは,火のついた矢と火の輪の風船が放たれた。この祝典に鼓舞されてスヴェーデンボリは,苦悩する北方の国々の平和を祝って詩を書いた。そこでは以前の血の流れに代わって美酒(ネクタル)が流れ,「マルス★4は鎖につながれ,バッコス★5が戦いにやって来る」のである[109]。
アムステルダムから,二人の旅人はアーヘン★6とリエージュ★7に行った。彼らの通過したその地方の山の層は,鉱物学の二人の研究家へ興味ある材料を与えた。リエージュでクリスマスを過ごした後,ヘッセリウスは自分の研究に戻り,スヴェーデンボリは途中で田園地方の鉱山地区を訪れながら,ケルン★8を経て,さらにライプツィヒへと旅を続けた。
4月の初め,科学的な主題について相当数の論文を,『種々の観察』[110]という全般的な題名を付けて,三部からなる著作として出版し,これを新しく鉱山局の総裁に任命されたグスターフ・ボンデ伯爵に捧げた。ライプツィヒから,彼は調査を,ザクセン★9,ハルツ山地,ブラウンシュヴァイクのすべての鉱山地区へと広げた。ブラウンシュヴァイクで彼は,ブランケンブルクを治めている公爵ルートヴィヒ・ルドルフから著しい厚遇を受けたが,公爵自身は彼の名誉のために尽力できなかったと思ったようである。公爵は彼に金の記章と銀の大きなコーヒーポットを贈り,これ以外にも,スヴェーデンボリの旅費を負担しようと強く申し出た。それで,その月の終わりに,スヴェーデンボリが『種々の観察』の第4部を発行したとき,彼がこの著作をその高貴な公爵に捧げたのも不思議ではない。
今やスヴェーデンボリは,もはや世間に認められることを熱望する無名の人ではなかった。1722年の初め,ヨーロッパの名声を勝ち取る彼の夢は実現した。ヨーロッパの第一流の評論誌,ライプツィヒの『Acta Eruditorum 』(学界会報)は,その出版された論文の評論を次々に取り上げ,自然現象の諸原因を決定するために幾何学を適用したスヴェーデンボリの理論の真価を,長文と高い評価をもって論評した。それらすべてにもかかわらず,それでも,最初の評論家はその批評を慎重な結論で終えている――「著者は大いなる創意を発揮し,少なからぬ努力を用いた。しかし彼がその理論からどれほどの真理に達したかは,他の人々の判断に委ねよう」[111]。
スヴェーデンボリは旅行をイタリアにまで続けるつもりだったが,この目的は,父から受け取った手紙によって変更された。スヴェーデンボリの裕福な母方の伯父,大立者のアルプクレト・デベームはかなりの資産を残し,これはデベームの有能な妹〔サラにとっては姉〕のブリタによって管理されていた。相続人の何人かが最近になって資産の分配に不満を持ち,訴訟が迫っていたが,スヴェードベリ司教はエマヌエルならこの訴訟を防げると確信していた。このため,スヴェーデンボリはこの旅行を中断し,1722年の7月の上旬にスウェーデンに戻った。
* * * * *
当時の学界とスヴェーデンボリとの関係を知るために,話題を哲学の歴史に少し脱線することが必須と思われる。この逸脱は,簡潔さゆえに最高に不適切であろうが,しかし彼の体系の源泉を発見するには役立つかもしれない。
物質の起源は,われわれの時代までずっと,決して人気のある主題ではなかった。われわれの持てる原料をどうするか,それらをもっとどのように獲得するか,これが常に大衆の関心を引き起こしてきたが,その原料すべての起源は何か,といった疑問は少数の思想家たちに委ねられてきた。「神がそれを創造された」が数世紀もの間の答えであって,また単純で敬虔なたましいの持ち主(人々)には,これで十分だった。それで,核分裂の衝撃が,この世代の無関心を引き裂くまでは,事実上,新聞は,哲学者たちを,また彼らが自然の内部の構造について考えることを鼻であしらっていたのである。
古代人たちは起源の問題を大いに考察し,そして彼らの思索は現代の見解の基盤となっている。ギリシャ人たちに,すべての物質は根源的に小さな不可入性の分子から成り立っているという概念が生じた。デモクリトス★10はそれらに「原子(アトム)」の名を与えた。彼は,宇宙は大いなる空虚な空間または真空の中を原子が動くことから成り立っている,と考えた。アリストテレスは言った――「すべての物質は一つの同質のものである。その形だけが多様なのである」。これはまったく純粋に思索的なものであり,多くは推理と推測の産物であった。
スヴェーデンボリの時代には,原子の概念は,デカルトとニュートンの追随者たちによって二つの方向に分かれて発展中であった。デカルトにとって,宇宙はいかに生じたかについて,どのような説明も運動に基づいていなくてはならなかった。この原始の運動はうずを引き起こし,うず巻き状のものを形成した。この運動によって,彼は,それぞれの星の存在を,また太陽は最も純粋な分子が激しい運動の中心となることで,どのように太陽系が存在するようになったかを説明した。地球を成り立たせている物質を,彼は,分子自身の特別な運動を持っている粗雑な種類の分子として説明した。真空のようなものは,デカルトにとって存在しなかった。なぜなら,彼の考える分子の間の空虚な空間は,より微細な種類の分子によって隙間無く,無限に(ad infinitum)満たされているからである。彼は,ただ一種類の物質が初めにあって,それは広がりと同じものである,と考えた。多様な物質のすべては,さまざま力のすべては,運動による,と彼は言った[112]。最初の物質の分子がお互いに衝突すると,それらの角は打ち落とされ,そうして第二の種類の分子が形成される。その打ち落とされた角は「火の分子」の細かな粉末となり,これが恒星となった。「私に広がりと運動を与えよ。そうすれば私は世界を構築しよう」とは,デカルトの言葉であった。彼の運動の法則は部分的には正確ではなかったことは事実ではあるが,彼は多くの新しい考えの先駆者であった。彼は真空を否定して,圧力説を唱えたが,これは光の粒子説,あるいは放出説を退け,そうして,光はエーテルの中の波動する運動である,というもっとあとの理論への道を開いた。
デカルトのうず巻き説は,スヴェーデンボリの時代には,イギリス以外のどこでも一般的に受け入れられたが,イギリスではアイザク・ニュートンが,すべてのものは物質の分子の合成によって形成されたとする別の考えを発展させていた。ニュートン説はデカルト説とは反対の方向に向かい,その二つは折り合いのつかないものだった。ニュートンは言った――「おそらく,神は物質を,初めに,固形で大きな塊の堅く不可入性の移動できる……決して摩滅したり粉々に砕けたりしない分子に形作られたように私には思える。普通の力では,神ご自身が最初の創造で作られたものは分割できない」。ニュートンは科学の前進にとって最高に重要な実験を記録した。しかし,彼の光の概念は,物質的な分子,すなわち,光る物体から一直線に送り出され,それが網膜の上に機械的に作用して視覚を生み出す光る微粒子から成り立っていた。「“光線”とは,“輝く物質”から放出される非常に小さな“物体”ではないか?」と彼は問うている[113]。
ニュートンは,固形の分子が真空の中を動くと仮定した。このことは,重力は物体が相互に引き付け合ことに基づいて説明できるという彼の画期的な法則がなかなか受け入れられなかった理由であった。真空中でどんな媒介物たる気体もなく惑星が離れたところからお互いに作用できる,と想定するのはまったくばかげたことと見なされた。
スヴェーデンボリと,ニュートンとデカルトとの関係を認めるには,クリストファー・ポルヘムの影響を忘れてはならない。概念には祖先があり,そしてもしデカルトがスヴェーデンボリの心を活動的にする影響を与えたのなら,確かにポルヘムの数学的才能はスヴェーデンボリの数学的センスに影響を与えている。ポルヘムはニュートンが物事をあまりに難しく,また多くのことを絡ませたので,その著作を読むと“頭痛を起こした”が,それでもその業績を賞賛した。ベンセリウスへの手紙で彼は書いている――
「私は彼(ニュートン)を偉大な数学者と認めなくてはなりませんが,しかし私にとって彼は,もっと簡単な方法で定めうる事柄について,このようにも大騒ぎをして長ったらしい証明をするので小さな子供のように思えます」。しかし,頭脳を明晰にしたいと望むだれにとっても,ニュートン,また彼と同時代のウォリス★11は良い刺激となるだろう,とポルヘムは考えた。
ポルヘム自身の理論といえば,物質は運動から生じる,とするデカルトに一致していた。「自然の中で創造する力とは神であり,その媒介は運動である」。ポルヘムは6種類の分子を認め,すべては円形であるとした。彼は,すべて生物の基盤は,「無数の小さな生きた分子または粒であり,その形と型は描写できず,まさに運動という名前しか与えることができない」と述べた。おそらく,デカルトの考えの多くのものは,実験の結果から,変更されなくてはならないだろう,とポルヘムは考えた。「自然の属性のすべては,数学的,力学的な原理に基礎づけられている」[114*]ということに,彼は最も印象づけられた。確かにここには著しくスヴェーデンボリの考えに似たものがある!
哲学者スヴェーデンボリの本質的な体系は,最も良く知られ最も完成された著作『プリンキピア』(1734年)の中に説明されている,とするのが通例となっていた。そしてこのことは,疑いもなく,いわゆる『化学』と呼ばれている小著作はその部分的なものであるとして,これを無視することが容易に行なわれてきた。しかしここでわれわれは,いつでもスヴェーデンボリに興味を持つというのではなく,むしろ彼の発展の過程に興味があるのである。いま考察している部分には,子葉から育つ植物に対するその苗木の子葉のように,後の彼の体系に似たものは少しもない。これまでの解説では,スヴェーデンボリの知的環境を取り巻いてきた考えを考慮してきた。この土壌から彼の体系は育った。しかし,われわれがほんとうに関心あるものは,その植物の性質である。
スヴェーデンボリは,デカルトとニュートンの思想の間の根本的な対立を十分に承知していた。われわれが見てきたように,彼の初期の立場はポルヘムの立場と著しく類似していた。彼の教師と同じく,彼はニュートンの光の粒子説を否定し,真空および遠隔作用を退けた。うず巻きについて,分子は運動によっていろいろなものに形作られることについて,彼はデカルトに同意した。しかし,物質の性質については,ポルヘムのようにデカルトに同意しなかった。こうしてわれわれは,彼がこの考えは避け,あの考えは採用し,常に自分の概念を拡大しながら,自分の方法を取ったことを知るのである。
アムステルダムで出版★12された論文は,一般的には『化学』と呼ばれ,スヴェーデンボリ独自の思考の最初の所産であった。この著作の特異性は,あらゆる自然的な物は幾何学と力学により説明できる,という彼の新しい考えを適用したところにある。多種多様な物質の属性は,物質を構成している異なった分子の形と型により,それらの形とその運動によるその段階的な変化によって,常に濃密な物質へ形成される,と彼は主張した。
彼は中心的な概念をその標題のページに提示している――「自然哲学の原理についての著作のプロドロムス★13,化学と物理学の現象を幾何学によって説明する新しい試みの構成」。彼は序文で,「物理学と化学とは何か? その性質は,もし特有の力学がないなら何か? 自然の中に幾何学的でない新しいものがあるのか? 実験の多様性は,分子の位置,形,重さ,運動の多様性でなくて何なのか?」[115]と問うている。ここにすべての錠前に合う鍵がある!
原子の構造についての今日の知識までに達したその後の実験によって,スヴェーデンボリが正しかったことが完全に立証されてきているとき,われわれはもはや,彼は正しい道筋にいた,と言うのをためらう必要があろうか? これ以降の科学のまる一世紀の進歩により発見されたものは,物質の属性の間の親密な関係は幾何学的な配列に基づいているという命題を基礎にしている。しかし,われわれは,スヴェーデンボリの説明的な理論の統一性と単一性は常に「無限なる創造者」という概念に結び付いていることに注目しよう!
こうして,大胆不敵な錬金術師たちの学術用語で隠された,彼らの漠然とした秘密の発見物から,現代科学の明るく厳然とした日の光の中へ導き出す扉が開かれた。なぜなら,当時,化学は依然として,土・空気・火・水の「四元素」★14説を捨て切れないでいたからである。“水”は冷たく,湿った元素であって,その分子は長く細い円柱状と考えられた。“空気”は軽く,稀薄な,圧縮できる元素で,これはエーテルのように大気に充満している。“火”は最も高貴な「元素」であり,ある意味で,ほとんど神的で,霊魂にあらゆるものを与える。“土”は本質的に白く,乾いた,濃いもの,その純粋な形は灰に見られる★15。三つの普遍的な“要素”★16は,塩・硫黄・水銀であり,塩は塩分を含む性質を持つどんな物質にも存在し,硫黄は燃焼する性質があり,水銀と結合して金属を形作するものであった。
多くの研究者たちは質問する――「化学的な親和力とは何か?」 錬金術師たちは「神秘的な引力」と言った。「電気の力による」とニュートンは言った。後に「引力と同じである」とビュフォン★17は言った。スヴェーデンボリはこれを圧力として説明した。
普通の塩は全地球を覆っていた巨大な原始の大海の中で圧力により生じた,と彼は考えた。この途方もなく大きい水の塊による圧力は,水の分子をいくらか押しつぶすように働いた。そのときその壊れた部分が水の分子の間にくさびとなって打ち込こまれて塩の分子になり,その形はそれらが生成された空間と同一であって,塩の1分子は水の6分子から結合されたのである。彼は,「もしそうなら,古代の大海は地球上のそれほどの高さにあったのであり,そして乾いた地の形が,ある意味では,その起源がこの海から生み出されたなら,確かに塩の山脈はその底部に発生したと結論しなければならない」[116]と言っている。
スヴェーデンボリが以前の著作の中で原始の大海を詳細に取り扱ったのを思い出されるであろう。彼はそれを“洪水”と同一視したのであった。しかし,今は疑問を抱いているところがある――「ここに述べられた状況は洪水によって生み出されるであろう。しかし,それらがいったいノアの洪水の間に起こったものなのか疑問とされるかもしれない。これはたった1年間で終わってしまった」
これは危険な領域である。もし,これをさらに進むなら,そうした推論は聖書の創造物語を無効にするであろう。ニュートンと同じく,ポルヘムは神を堅く信じ,聖書に描かれているような伝統的な創造物語への疑問をあえて呼び起こそうはとしなかった。ポルヘムは,「モーセの言葉を疑うのは,これは聖なる書物に述べられていますが,キリスト教徒ではなくなることです」とベンセリウスに書いている。しかし,モーセの記事は,文字通りにではなく,外観として受け取るべきである。神は無限の材料から有限なものを創造され,これを有限な物質とされた。依然として,太陽の存在する以前に光があったなどという文字通りの聖書の物語への批評が展開されていた。聖書の物語によって,おそらくモーセは,自分の民たちに神を,神の全能とその神に頼むことを,神に従わない結果生じるであろう罰を知らせる必要を満たしただけなのだろう,とポルヘムは考えた。「民衆は,神についての物語がなくては神を信じることが困難だったのであろう」[117*]。自分の抱いた見解への弁明として,ポルヘムは友に,「神の深遠で不思議な業を瞑想することで,私の神への崇敬の念は消えるというよりも増大しています」と断言している。
スヴェーデンボリもまた,ベンセリウスと第一原因などを議論するとき,文字的というよりもむしろ象徴的な説明を示しながら,聖典に述べられたことに対し,自由に感想を述べている。たとえば彼は,「地獄に落とされた霊魂が苦しめられる火は物質的な火ではありえない。それは彼らを消滅させも破壊させもしないからである」と言っている。むしろ,その火は,良心の呵責として理解されるべきである。「地獄に落とされた肉体が(物質的な)火によって苦しめられると考えるのはあまりに粗野です。破壊しないで燃やそうとするのは当然ながら不可能だからです。彼らの居場所は太陽の中ではありません,神の座は太陽の中にあるからです」★18「この主題について哲学的に思索したことを,悪く解釈されないよう願っています。依然として神のみことばは〔私の〕基盤です」(ストックホルム,1719年11月26日)[118]。
当時のスヴェーデンボリは火に非常な興味を抱いていた。彼はちょうど火の性質についての3年間の研究の成果である『スウェーデンの溶鉱炉』についての論文を鉱山局に提出し終えたところだったからである。彼は満足な結果に到達したのだろうかといぶかる者がいる。『化学』の199 ページ★19に,「火の本質的な力学とその分子の性質という問題以外のどんな問題も心に抱いていないと告白しなければならない」「火の理論は,他のどんな要素よりもさらに当惑を招く推論を引き起こすように思える」と言っているからである。“要素”の意味は,もちろん,漠然としている! しかし★20,そこでは,「火の分子は純粋に泡のようである」,それらは「小さくて稀薄である」,そして「それらの表面には数学的な点が存在する★21」と彼は述べている。彼の考えはニュートンの光の粒子説に影響されているのであろう。スヴェーデンボリの初期の論文では,彼は火の性質についてもっと定まった正しい考えを持っていたように思える。なぜなら,1717年,彼は光を波状運動として描き,「光と色は,空気がエーテルの中に終結するときの,大気の中の活動によって引き起こされる」★22と述べている。また,別の場所では,彼は実際上,「火の性質」あるいは「火のような物質」を他の粒子の中を流れるエーテルとして確認している――現代の燃焼理論と多く調和する結論である。
原注
108 原題名(ラテン語)省略,C・E・シュラットにより『化学』の名で英訳されている。1847年,ロンドン。(訳注:他の二つとは『鉄と火』『経度の発見法』である。これら三編はSSAより1976年,再版されている)
109 『ターフェル』T,329-330。『手紙と請願書』260ページ参照。
110 原題名(ラテン語)省略,ライプツィヒとハンブルク,1722年。
111 『Acta Eruditorum 』ライプツィヒ,1722年2月号,83-7ページ。
112 スヴァンテ・アレニウス(☆)「宇宙創造論者としてのエマヌエル・スヴェーデンボリ」,『スヴェーデンボリ科学著作集』第2巻の序文を参照。
(訳注☆)Svante Arrhenius(1859-1927);スウェーデンの物理化学者。ノーベル化学賞(1903)。宇宙構造論にも興味を持ち,光圧によって水星の尾が押しやられることを説明した。
113 A・H・Stroh 『スヴェーデンボリ科学著作集』第3巻の序文。
115 『化学』ロンドン,1847年,序文。
116 『化学』6-7ページ。
118 『手紙と請願書』219-222ページ参照。
訳注
★0 もちろん『天界の秘義』。
★1 Hermann Boerhaave(1668-1738);オランダの医師,植物学者;近代臨床医学教授法の創始者。
★2 Joachim Frederik Preis(1667-1759);実際は「公使」である。
★3 オランダ西部の都市,人口10万。
★4 古代ローマの軍神。ここではカール12世を隠喩している
★5 バッカスとはギリシャ神話で酒の神。バッコスはモスクワ大公国の神であることをマルスと考え合わせると興味深い。
★6 ドイツ西部の,ベルギー,オランダ国境近くの都市,人口24万。仏名:エクスラシャペル。
★7 ベルギー東部の州都,人口22万。
★8 西ドイツのライン川に臨む工業都市,人口98万。
★9 ドイツ東部の州。
★10 Democritus(460?-?370B.C.);ギリシャの唯物論哲学者。その哲学の基本は原子論であり,原子(アトム)は不生・不滅・無性質・分割不可能な無数の物質単位であって,絶えず運動しており,その形や配列や姿勢の違うこれらの無数の原子の結合や分離の仕方によって,すべての感性的な性質や生滅の現象が生じるとされる。
★11 Jhon Wallis(1616-1703);オクスフォード大学の幾何学教授(1649-1703),極限の考えに数学的形式を与え,無限を意味する記号「∞」は彼が初めて用いた。ニュートンと親交があった。
★12 1721年のことである。
★13 Prodromus ラテン語で「先駆者,または実例・見本・試作品」の意味。英訳は“specimin”である。
★14 ギリシャ時代に成立したこの「四元素説」の思想は,その後いろいろ形をかえたが,2,000 年の間,科学思想を支配した。
★15 アリストテレスは温・冷・湿・乾の四つの属性を考え,それらが結合して物理世界の原子をつくると仮定した。温・乾は結合して火の原子を,温・湿は空気の原子,冷・湿は水の原子,冷・乾は土の原子を形成すると考えた。属性の変化が形を生み,四原子を組み合わせると第二の変化がおこり,石・血・肉のような目に見える物質がつくられると考えた。
★16 その後,錬金術が出現してからは,硫黄(土性と燃焼性)と水銀(光沢と流動性)から金属が組成される,とされていたがパラケルスス(☆)は金属の第三成分として“塩”を取り入れた。これは「三元素説」として知られている。
(☆ Paracelsus(1493-1541);スイスの医学者・錬金術師,医学に化学療法を取り入れた)
★17 Buffon(1707-88);フランスの博物学者,ニュートンの著作を翻訳してフランスに紹介した。
★18 原手紙には“聖書にあるように「神の座は太陽の中にある」ことについてはあなたの判断(ベンセリウス)にお任せします”とあり,これはやや誤った引用といえる。
★19 実際には『化学』一緒に編集された『火の基本的な性質』の部分である。
★20 ここの文脈は次のような意味であろう。「物質の基本的な“要素”であるからには,きちんと定められたものでなければならないのに,“火の要素”の特性など漠然としている。それでもその火の分子の性質などを以下のように述べている」
★21 『化学』のこの部分には,これに引き続き,「あるいは分子は点(複数)から作られている」との記述がある。
★22 『火と色』と題した小論文。その英訳はSSA発行の『化学哲学論文集』の10ページに収録されている。
〔研究誌『荒野』第15号,1997年10月〕