11 Business and Controversy

第11章 仕事と論争

 人気を求め,そしてもし可能なら,縮小された国王の権力をもっと増大させるため,フレデリク王とウルリーカ・エレアノーラ女王は,国内のあらゆる地方に盛大な旅行して,国民に会い,その請願を聞くという昔のスウェーデンの習慣を復活させた。1722年7月,王たちはヴェッテルン湖に近いメデヴィにある流行の温泉にやって来た。そこに上流社会の人々が水浴びに集まったのである。

 ここへは,エーリク・ベンセリウスもアンナとともにやって来た。後にはスヴェードベリ司教が,また外国旅行から着いたばかりのスヴェーデンボリも仕事と遊びを兼ねて,ストックホルムへの途中でここに立ち寄った。7月18日は国王の聖命祝日★1であり,慰み物や踊りや祭りが催された。その機会にスヴェーデンボリから,いくぶん堅苦しく書かれた詩『祝祭への頌歌』[119]が献呈された。

 彼にはまた進言したい請願もあった。外国での採鉱法について得た情報から,彼は,スウェーデンでの方法の発展のため,特に,銅の精練法で,ただちに改良がなされるべきだと確信した。彼は,すべての損害は自分が個人的に負うとして,試験を実施する権利を国王に請願した。

 8月,スヴェーデンボリはストックホルムで,伯母とベームの遺産分割の件で協議した。ブリタ・べーム婦人は,その都会の中心街の一画全部を占め,後に「ローゼンアドラー宮殿」として知られる大邸宅に住んでいた。そこで,グラーンダーム(貴婦人★2)また非常に有能な女性事業家として豪華な生活を送っていた。聖職者階級の一員として国会に出席するためストックホルムにいなければならないとき,スヴェードベリ司教は,「わが家に泊まるように」との姉ブリタ,それと彼女と一緒に住んでいる王国検閲官である義理の息子ヨハン・ローゼンアドラー★3からの招待を喜んで受けた。司教はこの裕福な未亡人に相応しい結婚を進んで計画してきたが,しかしブリタは,その長い生涯の終わりまで,たった十四歳のときにウプサラで結婚した今は亡き夫ヨハン・シュヴェーデ教授に貞節を守ったのだった[120]。彼女はすべての相続者たちに大きな利益をもたらすようベーム家の財産を管理したが,しかし彼女の見返りは,彼女と一族との,また一族同士の仲違いだった。この現実をスヴェードベリ司教は不公平なことと嘆き,「もしだれか他の者がこれを管理したなら,相続者たちの暮らしはもっと悪いものだったろう」と言った。彼は,エマヌエルが伯母と合意に達し,訴訟に頼らずに紛争を鎮めるだろうと確信したが,その確信は正しかった。スヴェーデンボリは,兄弟や姉妹の分け前を買い戻すことで解決に達し,こうしてストックホルム北方100マイルのボスニア湾に臨むアクスマルの鉄工場の五分の一はエマヌエルのものとなった[121*]

 10月,国王は,銅を精練する新方法を試験したいとのスヴェーデンボリの請願に応えて,鉱山局にこれを委託し,鉱山局はこれをファールンの鉱業関係当局に回した。彼の要請には,試験を行なうとき自分にあらゆる援助をし,その試験のために最適の場所を彼に選ばせ,最も熟練した精練工と焙焼工★4を与え,作業人には正直に試験を行なうと誓わせ,最初の年の収益の増大と引き続く利益の多少の部分は自分のものとする,という要求が含まれていた。

 ファールンからの返事は,沈滞した保守主義の典型であった。精練法は数世紀の経験の結果であり,彼らは,「鉱夫たちは,経験の教えに優先させて“推量と知的な法則に従う”つもりはない」と言った。いわゆる「新しい職人たち」は,鉱山当局にとって不快でやっかいな存在であった。しかし,彼らは,ある条件の下で,監査官に試験をさせることを望んだ。

 スヴェーデンボリは,「私は通常の精練の方法を改革することを望んでいるのではなく,銅の一部を節約することに関して,ただ火,送風,炉と鉱石の状態に注意を喚起したいのです。そうでなければ銅は煙とスラグ(溶滓)の中に失われてしまいす――これらはすべて精練工の利益です」と答えた。しかし,彼らの態度は基本的に否定的であり,試験は一度も行なわれたようには見えない。

 故国に戻ったとき,スヴェーデンボリは自分の理論が反対されているのを知った。ラテン語で出版された論文『月によって陸と海の経度を知ること』[122]は,いかなる関心も引き起こさなかった。しかし少なくともこれは,外国の出版界では反対する批評なしに注目されたものであった。しかし,ルンド大学では,コンラード・クエンセル★5が,これについて少々落胆させる記事を1722年1月号から3月号に『スウェーデン文献会報』に投稿していた[123*]。これに対する返答は後になって「著者不在の間に友によって」投稿されたものとして同じ雑誌に現われた★6。手紙による証拠からは,明らかにスヴェーデンボリ自身がこれを書いている。

 『種々の観察』もまたライプツィヒの雑誌で注目され,「観察と実験の集成,ここにのみ知識の発展の希望が横たわる」“科学的なノート”として賞賛された[124*]。まったく異なった注釈が,『われわれの時代の学問の歴史』(Historie der Gelehrsamkeit unserer Zeiten)と自称する新しい雑誌に掲載された。これをスヴェーデンボリは家に帰った後に初めて見たのである。雑誌は匿名で発行され,大部分が抜粋からなっていた『Acta Eruditorum 』(学界会報)が行なったよりももっと辛辣な分析をするものである,と自認していた。その雑誌は,スヴェーデンボリの冊子に見られる多くの誤植を記し,彼の言い回しが優雅に欠けていると指摘し,そして,高度な幾何学の奥義に大いに精通しているとの世評を,明らかに彼は望めまい,と結論した。彼らは,彼の「物理学の理論はその発見者たちの想像力に基づいている」と批評した。その著者は,原始の海底の強力な運動が大きな玉石を放り上げることを可能にしたというスヴェーデンボリの仮定を特に,これはすべての者の知っている静水力学の法則にまったく反することであるとして同意しなかった――スヴェーデンボリ自身も,氷河の流れによる効果であることに気づかず,少しもわかっていなかったことである。

 最もわれわれの興味を引くものは,その「数学的な立脚点」についての彼らの批評である。たとえば,物質の起源を論じて,スヴェーデンボリは書いている――

 もし分子の性質が幾何学と同じ起源から導かれるとするなら,そのとき直線の起源はどこにあるのか? 直線は無限の点が長さへと結合されたものではないのか? そしてもし直線が幅へと結合されたのでないのなら,面はどこから生じるのか? 無限の面が高さへと結合されるのでないなら,立体はどこから生じるのか? もしわれわれがすべての物質の始まりを,形も次元も,幾何学的属性もなく,ただ数学的な点があったと考えるなら,場合は同様である。そしてそのとき,それらの点の間に運動が考えられるのである[125]

 これに反対する批評は――単なる数学的な点の中に運動の存在する余地はない――というものであった。

 このことなら,をわれわれはよく知っている……直線は点から構成され,平面は直線から構成され,立体は平面から構成される……。数学的な点は,〔物質構成の〕部分ではなく,単に直線の始まりや終わりを示し……想像の中だけに存在する目に見えない,しるしにすぎない。人が「点の運動が直線を描く」と言うとき,これは単に想像の中に存在する直線である……。数学者たちが「数学的な立体は点,直線,平面から実際に成り立っている」と述べてはいても,厳密な物理学者または数学者はそのようには言おうとしないであろう。そして,まったく正当にも,われわれは,「どうして著者はこの異常で不可解な意見を持つようになったのか」との疑問に導かれるのである。

 しかし,一体スヴェーデンボリはただ単に数学的な点からの創造を心に抱いたのだろうか? それともまったく異なる何かを意味したのだろうか? 前に引用した彼の著作の続きの部分で彼が何と言っているかに注目しよう――

 しかしながら,ここで,読者は,前もって無限から面または立体が形成されていなければ,運動は存在し得ない,と反論するであろう。私は運動を当然のものとしている,と答えよう。私は運動を当然ながら〔次のように〕思っている……,しかし,もし尋問者がこの運動の原因を要求するなら,私はその人に,有限な心ではこのことを洞察することはできない,と言おう。なぜなら,最初の運動は,明らかに至高の運動者から,至高のいのちから,神から,すべてのものの創造者から起こらねばならないからである。その運動者は,その原始の運動によって,われわれの公理に従う,幾何学を統治する原理と同じ性質を,ご自分の世界に加えられたのである。

 批評家たちは,スヴェーデンボリが彼らの反論を先見し,すでに彼らに答えていることに注目し損なったのだろうか? 彼は,「“点”は性質を欠いたものではない,そうではなく創造者によってある定まった属性を与えられている」と説明するのである。後になって,彼の筆先から,“点”に関するさらに多くの議論が流れ出たが,これはこの先の章で論じられるだろう。彼は神学著作の一つで,明確な神の概念なしの最初の物質と形についての議論の無益さについて言及している。彼は言う,そうした議論は,“空虚なもの”となり,心を,「点,そしてその後に幾何学的な直線からの」世界の物質の創造へと導くであろうが,「これは本質的には無である,なぜならそれら〔点や直線〕について何も述べることはできないからである」[126]

 さて,『学習の歴史』に載っている批評を続けよう――

 われわれは,少しの言葉で,スヴェーデンボリの言う空気の分子の単純な性質を単に考察してみる。すでに述べたように,これらは小さな泡である。しかしそれらの最も外の殻は純粋な火の分子から成っている。著者の想像によれば,これらの火の分子は泡の形でなく丸く,堅く,比較的小さいものである。これがなぜ,われわれの地球では,空気なしで火は存在しないかの理由であり……。この理論によれば,堅く,泡の形状をしていない火の小球が,どのように数学的な点から成立するのか? そして,どのように,どうやって空気の泡が小さな火の球で取り囲こまれ,同じく,輝かしく飾られるのか?[127*]

 この攻撃に対するスヴェーデンボリの応答は,『スウェーデン文献会報』(Acta Literaria Suecia)に「静水力学の法則」と題されて投稿され,そこでは,ドイツの論文(『学問の歴史』)での批評にただ短評しているだけである,そこには――

 その序文に,これらの著者たちは匿名であり,だれも指図する者や上に立つ者を持たないし,自分たちの間に約束事もないと言っている。どの寄稿者も互いに知らないし,それでも,他から鼓舞されることもなく,彼らは,自分たちは上述の題名で年刊を生み出している,と言う。彼らがだれなのか,また何者なのかは,私たちと関係ないのか? しかし,彼らは匿名であり,規則も指導者もないので,危険なしに,彼らは旅人を待ち伏せする。私たちは彼らに知らせたい,彼らがどのような種類の論争であっても,それに挑むにしては,このことは上品でも,賢明なことでもないと考える,と [128]

 スヴェーデンボリへの批評は,想像力が観察力よりも優れた能力であることを考慮し損ねていた。これは哲学者に,また芸術家やあるいは実業家にも同様に不可欠な能力である。スヴェーデンボリが想像力を欠いたなら,今日のわれわれに,彼はプリーストリ★7の酸素ガスの発見における先駆けとなった,と呼ばわれたことは,また内部の性質の法則を説明するのに幾何学を適用したことによって,フランスの偉大な化学者デュマから結晶学の創始者とされたことは,起こりそうもないことなのである[129]

 『学問の歴史』はまったくの短命であった。その後,一冊か二冊発行され,その存在は終わった。しかし翌年,“Neue Zeitungenn”『新報』の批評記事で,著者はスヴェーデンボリの水圧についての仮説を攻撃し続けた。

 スヴェーデンボリはベンセリウスへの手紙の中で,「一方は仮面をし,もう一方は素顔の最も卑劣な論争」と名づけて,これに再び加わるのを拒んだ。「おそらくこの批評家は陰口好きな人間であろう,なぜなら,彼は,海底の全山脈の運動を私が主張していると考えて★8私の立脚点をほとんど理解できていないように思えるから」。それにもかかわらず,スヴェーデンボリはこの主題について学者たちの気に入るようなさらなる論文を用意するつもりだった。彼は約束している,「その後,この論証を顧問官のポルヘムに送ります。そして彼の判断を得てから,あなたに,ハレ★9にいるヴォルフ★10と,ライプツィヒにいるユリウスにその写しを送ってもらいたいのです」(ストックホルム,1724年5月26日)[130]

 スヴェーデンボリが約束の論証を書いたという証拠はない。それでも,この論争はその後の彼の印刷物での表現をもっと注意深くさせる効果を生んだようである。のちの著作で,彼は並々ならぬ厳格さを示しているからである。


原注
119 『手紙と請願書』266ページ。
120 『ターフェル』T,189。
122  Methodus nova inveniendi Longitudines Locorum...アムステルダム。1721年。
125 『種々の観察』ロンドン,1847年,85ページ。〔1976年,SSAから再版されている〕
126 『真のキリスト教』20番。
128 『科学・哲学論文集(SSA,1992)83-84ページ。『種々の観察』78,82 ページ参照。
129  『スヴェーデンボリ国際会議での論文』(ロンドン,1910年)の7ページ,また,A・H・ストローの『現代科学とスヴェーデンボリの自然の原理との関係…』(ストックホルム,1904年)の35ページ参照。デュマは「われわれは,球体が集まって,立方体,四面体,錘(すい)その他いろいろな結晶体がつくられるという最初の概念をスヴェーデンボリに負っている。そしてこれは数人の卓越した人物により,(特にウォラストンにより)復活された概念であった」と言っている。J・J・G・ウィルキンソン『スヴェーデンボリ略伝』の25ページ参照。
130 『手紙と請願書』333ページ以降参照。


訳注
★1当人と同じ名を持つ聖人の祝日“フレデリクの日”。フレデリク王の誕生日は4月28日である。
★2 grande dame[フランス語]社会的に名声を確立した婦人。
★3 ブリタの娘エヴァ・シュヴェーデ(1717没)の夫である。
★4 焙焼とは融解点以下の温度で金属またはその化合物を焼くこと。酸化させたり,粉鉱を焼き固めたりするためにこれを行なう。焙焼炉は種々の硫化鉱石の焙焼を行なって酸化物とする炉。
★5 Conrad Quensel(1676-1732);ルンドの数学教授。
★6 同誌7-9月号。
★7 Joseph Priestly(1733-1804);イギリスの科学者・神学者;酸素を発見し(1774),ソーダ水を発明(1772)した。
★8 不正確な引用である。正しくは「スウェーデンでは大きな石が平原に見られることなどを知らない」。
★9 ドイツ南西部のザール川に臨む都市。
★10 Christian von Wolff(1679-1754);ドイツの有名な数学者・哲学者。1723年の11月,ヴォルフは市民の秩序を破壊する教えを広めたかどにより国王によってハレから追放された。これをスヴェーデンボリが知らなかったことは明らかである。

〔研究誌『荒野』第16号,1997年11月〕