14 Domestic Affairs
第14章 家族のことなど
1724年5月上旬,アクスマルからストックホルムに帰る途中,スヴェーデンボリはエーリク・ベンセリウスとアンナを訪れるため,しばらくウプサラに滞在した。ここで彼は,長らく文通会員だった“文献協会”の会議に初めて出席した――彼が個人的に参加したとして知られているたった一度の会議である。ウプサラの団体は,手紙により,ロンドンの“王立哲学協会”とその会長ハンス・スローン卿★1と接触を保っていた。卿の広範で珍しい収集物は大英博物館★2の中核を形成した。ベンセリウスは,ロンドン協会の雑誌に何か寄稿するようスヴェーデンボリに提案し,これに対し彼は,主題が冶金学であって,自分の出費を伴わないものなら,進んでそうしようと表明したようである[147]。
8月,ベンセリウスへ感謝を書き送りながら,スヴェーデンボリは彼へ,「あなたの従兄弟のアンドレアス・ヘッセリウス師と一緒に近ごろアメリカから戻った弟のイェスパーにストックホルムで会いました」と告げた。同師は植民地のデラウェアで牧師として12年間過ごして帰郷中だった。スヴェーデンボリがアンドレアスに最後に会ったのは1711年のロンドンである。弟イェスパーとは,彼らがウプサラで学生生活を送っていた時以来,ほとんど会っていなかった。その時イェスパーはたったの十五歳だった。
スヴェーデンボリの弟の経歴と性格は,スヴェーデンボリとはまったく対照的だった。イェスパーは,その父のように,イェスパーと名付けられた7番目の子供の7番目の子供であり,しかも彼の7番目の子供もまたイェスパーと名づけられた! イェスパーたちは,彼らのそれぞれが家族名を受け継ぐたったの一人であるという点でもお互いに似通っていた。司教は,この息子が若い時分「いくぶん荒っぽく」,しきり外に出て世界を見ようとする強い関心を持っていた,と記している。弟は人生の早期では勉学へ気持ちもあったが,これは厳しい教師に傷つけられ,学習への反感へ変わった,とスヴェーデンボリは言っている。「私は書物に怯え,これを無価値なものとした」とイェスパー・スヴェーデンボリは自分のことを語っている。この“厳しい教師”こそ,現在の相棒,従兄弟のアンドレアスに他ならない。司教の記事によれば,彼は忍耐を欠いた,心に友好的な雰囲気を感じさせない人物だった[148*]。
若者イェスパーは,3年間,デュッカー将軍の下でカール十二世の軍隊にいて,シュトラールズントの防戦に加わった。中尉の肩書きで軍隊を離れた。しかし彼に“若者の荒々しさ”が依然として残っており,彼の父は,“海の荒々しさによってそれを和らげよう”と思い,航海術を学ばせるため1714年にイギリスへ送り出した。ブリテン島〔イギリス〕は放縦の芽を根絶やしにするには劣る場所とわかり,それでイェスペーの父はその後また直ぐに,自己訓練を学ばせるため“西インドにあるアメリカのペンシルヴェニア”に送った。彼は呼び寄せられるまで,そこに9年間滞在した。
異教徒と種々雑多のキリスト教徒たちのその遠く離れた国で,イェスパー・スヴェーデンボリは神を知り,自分自身を知ることを学んだ。自分はそこで非常に苦労した,と彼は言っている。彼は,デラウェア川のニュージャージー側のスウェーデン人の子供たちに,丸太小屋の学校で教えることにより生計を立てた。(付録C参照)
それでも,イェスパーはアメリカが好きになり,自分の永住の地にしようと真剣に考えた。スウェーデンの移住者のことを良く言うばかりであった。彼らは,おもに聖職者たちと彼らの父なる司教によって送られてくる良い本によって,徳の高い,キリスト教徒の生活を送った。インディアンたちはスウェーデン人たちを愛し,そしてもし彼らがスウェーデン人たちを信頼しなかったなら,その異教徒たちはずっと以前に,キリスト教徒たちを追い出しただろう,そして自分たちの土地を取り戻したろう,というのがイェスパーの見解であった。
われわれに,西側にある広大な新世界を興味深く描く絶好の機会であるのに――トウモロコシ,白い花のハナミズキ,おいしいスイカ,宝石のようにきらめくハチドリ――イェスパー・スヴェーデンボリは後世に,自分の生活のあからさまな事実を記録した,ほんの二,三の短い記事を残しただけである[149]。
これら非常に異なって生活した二人の兄弟が出会ったときに居合わせ,もちろん,18世紀のおごそかな言葉で「これまでどうしていたのか……」などと言う彼らの会話を聞いたなら,どれほど興味深かったことだろう。エマヌエルは弟に新世界での鉄工業の状況について質問する機会を持てたかもしれない,イェスパーは,「デラウェア川とスクールキル川★3」に沿ったかじ屋の仕事場や鉄工場に非常に精通していたからである。そこでは植民地の住民のために,溶けた鉄が砂の模型の中に流し込まれ,釘や鉄鍋その他の料理具に製造されていた[150*]。
イェスパーはエマヌエルに,クリスティーナ(ウィルミントン★4)からの帰りの航路のことを,小さな船で波また波に揺られて,何週間も海で過ごしたことを,日ごとに激しく緑の大地を恋い求めたことを,イギリスの海岸が目に入ったときの最終的な安堵を,語ったことだろう[151]。
イェスパー・スヴェーデンボリが出生の地に戻り着いたとき,幸運が待っていた。兄のイマヌエルが自分たちの義母の財産のうち,彼の持ち分として銀4,571ダーラーを支払ったが,これは思いがけない恵みであったろう。実際,彼の父は手紙を書いてイェスパーにその幸運を知らせていたのだが,しかしその手紙の日付は1724年4月20日であり,その時,彼は帰路にあったので,これが彼に届くことはなかった。その手紙は新世界に対する司教の信念を示しているので興味深い,彼は息子にそこにとどまるよう勧めている――
そこでうまくやっていくようにしなさい。こちらにいても,おまえは自分の時間を有意義に過ごせないだろうから,何にもなるまい。おまえは字がうまいし,計算も上手だ。ありがたいことに,おまえは結婚していない。十分な持参金を持った良い妻を見つけるようにしなさい。神に自分の良い道を示してくださるよう願いなさい。私は神におまえのことを委ねている。敬具。
おまえの愛する父,J・スヴェードベリ[152]。
帰郷して1年後,イェスペーは依然として,アメリカに戻ろうかどうか確信を持てなかった,兄エマヌエルへの手紙でこのことを相談しているからである――『私は大いに行きたい気持ちなのですが,こうしたことにはしばしば良き忠告が非常に重要です。ある者は戻るよう助言し,ある者は思いとどまらせますが,たいていの者は思いとどまらせます」[153]。
アメリカに戻ることについてどのような忠告をエマヌエルが弟に与えたか,われわれは知らないが,しかし,3月6日,イェスパーは船出するつもりでいた,旅券を手に入れていたからである。しかし3年後,彼はクリスティーナ・シルヴェルスヴェルトと結婚し,田舎に引退してそこに“スヴェーデンダール”と呼ばれる小さな農場を購入した。その所でイェスパーとクリスティーナは10人の子供――8人の娘,2人の息子――の家族を育てた。その一人から現在のスヴェーデンボリ家の分家が派生している。
スヴェーデンボリの妹カタリーナの夫,首席司祭ウンゲは,彼自身とイェスパーが地所を購入し,そこにウンゲはいくつか建物を建て,それを妻や子供に分け与えて幸福であることを告げる手紙をエマヌエルに書いている。
なぜ,エマヌエルもまた結婚して,快適な家族生活に落ち着かないのだろうか? 彼の親類はその独身生活を心配したようである――
弟のイェスパー・スヴェーデンボリは,彼もまた自分でやってゆけるように小さな地所を買いました。彼の場合,一番良いことは,彼は控え目で経済的であり,浪費することもなく,善良で敬虔な妻を持っています……。私はあなたによく考えるよう望みます,どういう理由であなたは良い結婚の機会をすべて逃してしまうのですか? オッテル少佐はターム氏の長女と結婚の約束をしました。現在,最も善良で可愛らしい妹が得られるかもしれません。あなたはそれ相応の行動を取らないのですか? 私はターム氏が好意的に考えてくれると思っています。それぞれの娘にかなりの持参金がある,と信じていますので,全国中でこれより良い縁組は見つけ出せません。神の名において勇気を奮い起こしなさい,そして神の恵み深い摂理のうちに成功を信じなさい。時は遅い手段や長い熟慮を許しません,遅れる危険があります(ヴォンガ,1729年3月18日)[154]。
この助言にスヴェーデンボリが何と考えたかは知られていない。しかしわれわれは,この3年前に,彼がカールスタード★5の司教エンス・ストイシウスの娘に結婚を申し出たことを知っている。その婦人の父からその祖父,ウプサラの大司教マシュー・ストイシウスに送られた手紙の中に,その消息が見出だされる。
私の愛する娘スティーナ・マヤには,ちょうど今,修士(マギステル)のアルネル氏,修士のスヴェーデンボリ監査官,侍従のセデルクロイツといった何人かの求婚者がいます。そして私としては,デューベン首相と同じように,私の境遇に最も合致する者としてアルネル氏を一番気に入っていますが,しかし,娘はセデルクロイツを好んでいるのを知っています……。私は彼の求婚を拒んでいませんが,愛するお父さん,あなたにこの事を知らせる前に,そしてお父さんの意見と祝福を得る前には,いかなる決定的な答えも出しません。神が栄光とすべての者を満足させる御業を示してくださいますように!(1726年3月20日)
スティーナ・マヤは十七歳で,三人の大司教と二人の司教の子孫であり,彼らの一人は有名な大司教ホーカン・スペーゲルだった。彼女は自分の選んだ者と結婚し,13年以上暮らした[155]。この手紙は,スヴェーデンボリが“ポルヘムの娘”に落胆したことが――一般に信じられているように――幸福な結婚への願望をすべて完全に彼から消してしまうことはなかった,この証拠を与えるものとして特に興味深い。しかし,そうしたことはその後,翌年の秋に,彼が初めて町の中でアパートを借り,召使を雇ったことの原因となったであろう。これは,今や三十九歳となったエマヌエルが彼自身の住居で落ち着こうと覚悟したことを示しているように思える。そのアパートは,マルムトリスガータンとドロットニンガータンの間のブルンケフーフヴデット10番地の,彼の義理の弟ラルス・ベンセルシェエルナが部屋を持ったのと同じ建物である。
1725年の夏の間,スヴェーデンボリお気に入りの甥エーリク・ベンセリウスの息子がストックホルムの彼のところに滞在し,その間その叔父は彼に物理学と高等数学を教えた。若いエーリクは今や二十歳となって,冶金学を生涯の仕事にしようとしていたが,このことはエマヌエルを非常に喜ばせたに違いない。彼は常に,甥がこの方面に進むことを励ましていたのである[156]。
スヴェーデンボリがポルヘムとトロルヘッタンの運河の建設に働いていたとき,その甥は十二歳だった。彼はその時ですら,エーリクの将来を計画していたようである――
“小さな”エーリクによろしく。私は,彼が相変わらず機械学と作図に傾倒している,と聞いています。彼が自分の個人指導教師を離れる頃になったら,私は彼に私の後に続くよう助言したいです。その時,私は彼のためになるようなあらゆる方法を探し,もしこれが望ましいものなら彼に数学やその他のことを教えましょう(スティエルンスンド,1717年2月★6)。二、三か月後に彼はエーリクが天然痘にかかったのを知った。「私は彼に何かの害が降り懸からないかと大いに心配しています。快復したとの言葉を待ち望んでいます」[157]。
スヴェーデンボリは常に優しい配慮をこの若者に示している。彼はエマヌエルがウプサラで姉のアンナと一緒に暮らしているときの1705年に生まれた。彼はしばしば“小さなエーリク”にプレゼントや彼の愛情のしるしを持ってきたし,また彼の手紙は甥への言及でいっぱいだった。1715年夏の手紙のように,「弟エリクルス」★7のかわいいラテン語の手紙はその返事にラテン語の即興詩を呼び起こした[158]。
短い見習い期間の後,若いエーリク・ベンセリウスは鉱山局に入り,すぐにダラカールリアにある大銅山の管理官に任命された。数年後,われわれは彼の叔父が引き続き彼を気に入っていた実際の証拠を発見した。スヴェーデンボリは,エーリクが数か月間ドイツに行き,そこの鉱山を調査する旅費を負担していた。1760年,エーリク・ベンセリウスは監査官となり,3年後に参事として退職した。彼はクリスティーナ・エレンホルムと結婚し,ハンス・エマヌエルという名前の息子を残して,自分の田舎の屋敷で亡くなった[159*]
原注
147 ウプサラ大学図書館所蔵,科学協会の議事録。それと『ターフェル』T,339-340参照。
149 しかし,イェスペー・スヴェーデンボリは『ドイツに響き渡る最後のラッパ』という題名の奇妙な本を著している。この本は東からの侵入によるヨーロッパの破壊についての予言を含んでいる。「世界の悲しむべき状態は,福音教会が聖書をただ文字的な意味に取ったことの結果である!」と著者は言っている。(参照文献省略)
151 航海は特に,彼らがロンドンに着いた後,4人の小さな子供を残して亡くなったアンドレアスの若い妻には厳しかった。最も下の子はたったの8週児であった。5日後には,その旅人たちはスウェーデンに向けての船に乗り込んだ。ヘッセリウスの子供の間にはクリスティーナで生まれた者がいるが,エマヌエル・スヴェーデンボリはその“不在”名付け親〔保証人〕となり,その者は彼にちなんで“エマヌエル”と名付けられた。(参照文献省略)
ヘッセリウスは彼の兄弟2人をアメリカに残した――サミュエルは,Upper Merion, Pennypack Creek, Neshamina それと合わせた教区を含むWicacoa(フィラデルフィア)会衆の牧師として仕え,またグスターフは新しい国の地図制作家として仕えた。グスターフ・ヘッセリウスはすぐれた芸術家であって“アメリカ絵画の父”として知られるようになった。彼の大油絵「聖餐」は,新世界の最初の“祭壇背後の壁飾り”であり,現在「アメリカスウェーデン歴史博物館」(☆)に架けられている。アンドレアスは,彼の弟ヨハンのように自然科学に興味を持った。彼がアメリカから持ち込んだ立派なコレクションは後にウプサラ博物館に収容された。植物誌から動物誌まで,新大陸の楽しい観察を豊かに含んだ“新しいスウェーデン”を描写した彼の手記は,最近,英訳が出版された。(参考文献省略)
(訳注☆:フィラデルフィアのF・D・ルーズベルト公園にあり,17世紀以降のスウェーデン系アメリカ人によるアメリカ発展への貢献の跡を展示している)
152 『ターフェル』T,347-5。
153 同上書T,342-3。
154 同上書T,350。
155 スヴェーデンボリ研究者たちにとって興味深いこの付加記事は,ヘルマン・ルンドストレーム博士によってスカラのディオセサン図書館で発見され,出版された(参照文献省略)。スティーナ・マヤの肖像画はサンデマールの領主の邸宅で見られる。
156 『ターフェル』T,343。
157 『手紙と請願書』146,164ページ。
158 『手紙と請願書』65ページ。
訳注
★1 Hans Sloane(1660-1752);『神の愛と知恵』344参照。
★2 大英博物館はハンス・スローン卿の蔵書とコレクションを基にして1753年に設立された。
★3 Schuylkill, ペンシルヴェニア州南東部の炭田地帯に源を発し,南東に流れてフィラデルフィアでデラウェア川に合流する。
★4 Wilmington, デラウェア州の港市,人工7 万。
★5 スウェーデン南西部ヴェーネルン湖沿いの市,人口7.4万人。
★6 この部分は『手紙と請願書』から訳出した。シグステッド女史の原文はこれと相当異なる
★7 Ericulus,ラテン語で“小さなエーリク”の意味。このとき10歳である。ラテン語で人名を綴ることはよくあった。しかし『手紙と請願書』では“Ericus”となっている。
〔研究誌『荒野』第20号,1998年2月〕