15 The Universe a Mechanism

第15章 宇宙の構造

 1728年,妹のヘドヴィクが亡くなった後,スヴェーデンボリはストックホルムの西地区のストーラ・ニューガータンとイェラン・ヘルスィンゲス・グレーンドの角の家に移り,召使をかかえ,賃貸料銅600ダーラーを支払った。ここに5年間,3巻の著作『哲学・鉱物学論文集』を完成させるまで滞在した。その後,彼はスルースプラン63番地にある“レントメスターレフセット”に移り,自分の持ち家に移転するまでそこにとどまった。

 この時期のスヴェーデンボリの生活を注意深く観察すると,われわれは,彼の哲学上の代表作が鉱山局で活動的な仕事期間中の余暇の作品だったと気づくようになる。これに約10年を費やしたが,彼の著作で論理が大きな役割を演じた理性的な期間での最初の産物であって,その前に科学的な探求の期間があった。ずっと以前にこの著作のための準備は始まっていた。なぜなら,1729年のいくらか前に,彼は自分の哲学体系への最初の接近である『小プリンキピア』[160]として知られる560ページの原稿を完成していたからである。この著作の中で,彼は後に出版した著作のように物質の形成について全般的な方式の概観を描いているが,しかし,名称は異なっていた。

 この時点からわれわれの興味はスヴェーデンボリの人生での外側の特徴から彼の心の発展へと移る。あたかもわれわれは,険しい思想の山腹をよじ上っていく彼を見ているかのようである,その小道は重い雲に閉ざされている。日の当たる山頂に到着するのか,それとも彼の野望は犠牲者となって墜落するのか? 自分の公務を果たしている間,彼の心は光を求めて,この高みを目指す闘争に集中していた。彼は,山頂を極めなくてはならない,そして雲の下には何が横たわっているかを見なければならないと感じた! 深遠な哲学的な事柄をどこまでも深く掘り下げて考えながら,彼は研究を続け,知識を積み上げた。

 彼はどんな種類の野望に駆られたのか? それは高位と権力を夢見たものか,すべてのことを知り,その思いのままにすべてのものを服従させようとする夢か? その野望の中には,その夢見る者が自分を宇宙の中心と見ることがあったのか? あるいは,その野望は,人類に仕えるために,自然と生命の神秘を明らかにすることへとその男を駆り立てたものだったのか? 人類に仕えるという衝動に鼓舞されたのは,満足や名誉以上に,彼の同胞の幸福からであった。彼は自分を創造の働き全部ではなく,ちっぽけな部分として見ている。彼にとって知識は手段であって,目的ではなかった。前者の種類の野心は幻滅と失望を生み,後者の野心は向上と満足へ導く。

 『プリンキピア』[161*] ――有限な創造の起源を説明する『哲学・鉱物学論文集』の第1巻――でのスヴェーデンボリの体系における視野は非常に広範なものであり,それをここで述べようとすることはあつかましいであろう! 少ない言葉でこの深遠な著作の正確な記述を伝えようとすることは不可能であっても,その基本的な概念,彼の『自然の事物の原理』,その大枠を示すことは決して不可能ではない。そしてこのことに努力してみよう,なぜなら,スヴェーデンボリは『プリンキピア』で宇宙論★1に偉大な貢献をなしているからである。

 さて,スヴェーデンボリの哲学体系を静止的なものでなく動的なものと見なすことは重要である。その体系は宇宙の起源についての決定的な言明ではなく,問題の解決へのほんとうの接近法を見出だすための熱心な努力といえる。『プリンキピア』の第1章,「真の哲学へ導く手段について」を簡潔に要約してみよう。なぜなら,その章は彼がどのように自分の方法と対象を定義しているかを示しているからである――

 「もし心が感覚器官とよく結び付いているなら,別の言葉で言えば,もし人間が真に理性的なら,彼は永久に知恵を切望する……。目的を達成しようと願う者は,同じく手段を得ようと願う。現在,特によく真に哲学的な知識へと導く手段は,三つある――経験・幾何学 [脚注*]・推論の能力である。

 ……哲学により,ここではわれわれの世界,すなわち幾何学の法則に従属する世界にあるすべてのものの構造についての知識と理解される……。これまでの秘密であった根源的な自然の働きは,掛け離れた存在であり,われわれの視野からほとんど隠されていた。これを哲学的に説明しようとの試みることは,困難な仕事である……

 そうした大海の中で,常に私に案内を与え,私の手に舵輪(だりん)となる経験と幾何学なしで,私は帆を広げる危険を犯してはなるまい。これらの助けと導きをもって,私は人跡未踏の深みのつつがなき航海を望んでいる。それゆえ,これらが私の道を照らし,導く,私の二つの星であるようにと……」

 経験は一人の人間や一時代に閉じ込められない,と彼は言う。現在では科学ははるかに進歩し,秘密で目に見えない自然の働きを調査することの必要性が後回しにされるほどである。それでも,あまりに多くの事実に,人は迷宮を探検するかのように、迷わされ、困惑する。最初にその形状の全体的概念を得ないで,迷路の複雑さの中に,道を見失う。もし,人があまりに多く集積された事実を所有するなら,それらは単に真の哲学へ到達するための困難を増大させるものでしかない。

 スヴェーデンボリは,与えられた問題のすべてを一人の個人として実際に知ることがまだ可能であった時期の終わりに生きた。知識の集積により,今日ではこのことはもはや不可能である。当時,化学,物理学,解剖学で知られていたことは比較的ごくわずかだった。酸素の性質,水や血液の組成,スペクトル分析や元素表は知られていなかった。顕微鏡,温度計,はかり,空気〔真空〕ポンプといった道具は不完全であり,精密でもなくて,今日の基礎物理学の教室では使用にすら耐えないとして捨てられるであろう。1000分の1の温度の変化が今では適当な装置で観察される。1ミリグラムの100分の1が測られるが,こうした計測は18世紀には夢見ることもできなかった。当時,偉大な化学者,天文学者,数学者たちによって明らかにされてきた自然の法則は,それでも,これに引き続く世紀の間は挑戦されないままに残された。

 人間は動物とは教育のみによって区別され,そして教育は,経験による対象の認識および経験と推論と判断の間の関係から得られる,とスヴェーデンボリは言う。教育は,最も微妙な震動と交流するための小さな薄膜や器官に命じ,配列し,こうして霊魂への秘密の通路を開く。人間は教育されたものになる。「ああ! しかし,結局。われわれの知恵とは何か?」「無限なものに対する有限なもののように,確かにそうしたものである。それゆえ,無限の知恵を思えば――われわれの知恵は無である!」と彼は叫ぶ。

 最もよく教えられた者が常に最も賢い者では決してない。科学的知識は知恵への単なる第一歩である。知識の配列,知識を推論の輪の中で繋げる能力,これが知恵を構成する。真の哲学者は,どのように自分の知っている事柄を消化し,それらから推論するかを知らなければならない。画家は絵の具を所有し,線を引けるからといってその芸術の達人ではないし,楽器を製造できる者が必ずしも音楽家ではない。

 有限なものはその起源が“無限者(造物主)”にあり,このことなしに有限なものは始まることも存在することもない。しかし,すべては法則,幾何学の法則によって支配される。自然の物で最小のものと同様に最大のものも,機械的な方法で働き,幾何学すなわち計量の法則によって支配されている。ここでわれわれは主要な主題に至るが,これは単にこれまでの章で論じたスヴェーデンボリの以前の著作で蓄えた概念を発展させたものである。動物の体はその寸法と関係ない法則に支配されている。ゾウやクジラの足や肺は,目に見えない非常に小さな小動物の足や肺と同一の方法で動く。

 しかし,力学の法則をまぬがれているものがある。たとえば,動物の“知性的原理”である,すなわち,狐の巧妙なたくらみや策略の知恵のような,その霊魂である。そうしたものは,確かに法則に従う,しかし,その法則は力学の分野を越えている。しかし,知性そのものは力学的なものでなくても,知性はそのように働いている。

 真の哲学者とは,前述の手段によって,構造的な世界の目に見えないもののほんとうの理由と知識に到達できる者である。人間は原始の堕落していない状態では真の哲学者であった,それで,“絶対者”“すべてのすべてであられる方”をあがめることができた。「哲学者がその研究の終りに到達したとき――すべての現世の事柄の極めて完全な知識を何も学び残しているものがない,自分が獲得したと思えるなら――そこで彼は止めなければならない。なぜなら彼は決して“無限者”の性質を,その“至高の知性”を知らないから……」。

 今日,人間は堕落した不完全な状態の中に生れている。その本来の知性の状態はいろいろな悪徳によって暴力を振われ,その最上の繊維〔脳細胞〕はゆがめられてきた。今や強欲が人間の意思を支配して推論の能力を弱め,そしてその不純な動機と欲望は肉体と心の間に介在する器官をかき乱した。たとえば,怒りといった感情は,この結合を破壊する。酩酊はこの結合を麻痺させ,分析力を混乱させ,破壊する。堕落した快楽や食欲のほしいままにすることは,人間を揺りかごのときから汚染し,傷つけるようなものであり,あたかも厚い雲が太陽と目の間に割り込むかのように,その心の視野をぼんやりとさせ,受け継いだ知性に影を投げかけ,無秩序に陥らせる。

 スヴェーデンボリが『プリンキピア』の中で表わした考えのいくらかは,後の彼の著作の基盤となっている。これらの概念の一つを彼は古代ギリシャの哲学者から受け継いだ――すなわち,“自然は,その最大の産物と最小の産物において似通っている” [脚注**]と言う原理である。この貴重な思想の種は,熱心な学者〔スヴェーデンボリ〕の心の中で成長し,彼にとって,全宇宙は秩序と調和を示す劇場であるかのように拡大された。この原理に助けられ,物質の構成における巧妙な推測をなすこと,そして後には,脳と神経系の内部の構成の先見的な説明をなすことができた。そしてそれ以上であった,なぜなら同じ考えからスヴェーデンボリは後の神学的な教義である“段階”の基礎となる概念を得たからである。

 スヴェーデンボリの宇宙の体系における別の基本的概念は,働きかけるもの(能動)と受け止めるもの(受動)の法則である。常に,働くものと働きかけられるものがある,とは彼にとって公理であった。後に,これは彼の“流入と受容”の教義の基礎となった。

 さらに,「だれもが推論の光から,幾何学の原理に従っている自然を認める。これは,自然への本来の道,最も単純な進路を,真に力学的に追及している」[162]

 “無限者”がなければ,原因がなくて何物も存在できない。それゆえスヴェーデンボリは,“無限者”から産出さられた単体から継続的にあらゆるものが作られた,と考えた。彼はこの単体を“最初の自然点”と呼び,「これは,他のあらゆる物が形成され,存在する手段であり,実に,純粋な運動である,なぜなら運動がなくて何物も存在できないから」と言った。この単体についてはただ単に限界だけが述べられる,すなわち,宇宙の創造に目を向けたときの境界だけが定められるのである。この単体の別の側面は“無限者”へ向けられているかのようであり,それゆえ,限界がない。

 “最初の点”はたまたま頭に浮かんだのではなく,知性の働きまたは意思による。これは有限な物と“無限者”の間の媒介であるから,無限性のあるものがこれに含まれる。これは二つの顔を持つヤーヌス★2に似ている,彼は神話上の神々の門番であって,同時に両側を見る。すべての有限な物はこれを最初の原因とする。点は幾何学的には見られない,それは純粋で,運動の総計であり,力学的な事物の世界より先に存在するからである。それでもこれは理性的に見ることができ,そして実にただこのようにしか見られない。しかし,それは決して,それゆえ,無ではない。本質的には,これは運動ではなく,“コーナートゥス”である,すなわち、運動への,すべての運動で最も完全であるらせん運動への努力である。らせん運動へのこの努力によって,これは恒常面を形成する傾向を持つ。これを立証する方法はない,とスヴェーデンボリは付け加えているが,しかし,これは自然の流れと傾向に調和している。運動は唯一の媒介であり,これによってどんなもので作り出される。スヴェーデンボリは,活動する運動と潜在する運動を区別し,それらに別々の名前を与えた最初の者であった。この章の終わりに,「真理が私のただ一つの目的であり,目標である」と彼は言っている。

 点または単体が,組み合わされたらせん運動へ流れ込むことから,最初の物質的存在,自然の最小のものである“第一有限体”が作り出され,そしてこれから,順に,世の中の他のあらゆる物が作り出される。これは幾何学的であり,有限なものである。その部分は想像もできないほどの微粒子ではあるが,それにもかかわらず,らせん形に配置され,こうして第一有限体は,赤道や極,子午線やその他のもの持ち,またこのことから軸運動と前進運動の両方が与えられる。有限体がその前進運動へ揺れ出すとき,これは能動的と呼ばれるが,しかしこの運動をしないときは受動的である。(スヴェーデンボリは不安を残す表現をしている。まったくの最初から,読者は“能動的”“受動的”“有限体”その他といった新たな言葉の使用によって悩まされるに違いない)(付録D参照)。

 第二有限体は第一有限体から先に似た運動によって起こる。これら二つからすべての複合体の最初のもの――宇宙の元素を成り立たせる要素となる粒子,宇宙の第一大気――が形成される。第一元素を構成する小さな渦巻きに似た単位の中では,能動的な第一有限体が中心を占めているとき,第二有限体は表面を占めている。

 この第一元素は引き続くすべての元素の起源であり,そしてそれゆえ,すべてのオーラで最も普遍的なものであって,空間を満たし星と星を結んでいる。この最初の大気の単位が圧縮されると,その結果それらの中心にある“能動体”は逃れ,第二有限体がその中心に満ちる。ここから新しい存在物――第三有限体が得られ,そこからさらなる組み合わせによって,第二大気が発生するが,これはこの世界の磁気的元素である。

 第二元素,すなわち磁気元素の粒子は,第一元素のように圧縮されたり拡大されたりする。大きき活動的な太陽系空間の周囲で,それらは変化し,圧縮によって,スヴェーデンボリが第四有限体と呼ぶ新しい存在物となる。第二大気は太陽系の渦巻きを構成し,磁気現象の根本的な原因でもある。われわれには今や,太陽系の惑星たちの親である太陽がある。

 宇宙の組成についての考察をさらに進める前に,スヴェーデンボリは『プリンキピア』の第2部で,磁気とその力の透徹した議論をしている。彼によれば,第二元素,すなわち磁気元素は,中心軸である太陽の周囲で渦巻き状に回転して動く発散気を構成する。これらの発散気は,磁石を励起させ,その粒子を配列して,磁極から磁極へと秩序だって並んだ力線を作り出す。鉄の磁化は,豊かな経験によって証明されるように,磁気オーラまたは磁気大気が鉄の粒子に流れ込むことができるときの,鉄の粒子のそうした整列である。

 自然は,最小のものにあるように最大のものにあって,小宇宙にあるように大宇宙にあって常に同一である。磁石は宇宙の縮図である! それぞれの太陽系または渦巻きは大きな磁石であり,それ以上に,太陽自身も同様に巨大な秩序の中に配列されており,その軸は銀河,天の川である! しかしわれわれはここからスヴェーデンボリが,世界の巨大な配列の中に多様性はありえないと考えたと思ってはならない。幾何学の法則はどこにあっても同一であるが,力学の法則は異なった太陽系では異なって働く。「他の世界では,空気とエーテルは,もしそれらに似たものが存在するなら,同じように振動することはない」。したがって,視覚や聴覚器官は違った世界では違ったように働く。アルキメデスは彼の力学によって世界をその場所から動かせると豪語したが,力学的要因の異なるそれらの世界では,自分の技術が消失しているのを見出だすとき自信を失うかもしれない。スヴェーデンボリは言っている――

 観察から,われわれは,われわれの無知の程度がいかに大きいものかを結論してもよい。だれもが自分の知恵を,自分が獲得した物事の知識によってはかる。その者自身の情報の限界を,獲得できるすべてのものの限界だと考える。なぜなら彼は他のすべてのものに無知だからである。彼の知識の範囲は彼の知恵の範囲であり……それゆえ,彼は自分が非常に賢い人間であると想像する。自分の無知の程度がどれほどのものであるか気づかない……。それゆえ,われわれの知識は非常にわずかなものにしか及んでいないと知ることは最も高度な知恵のしるしである[163]

 有限体の主題を要約するにあたって,スヴェーデンボリは,第三有限体が第一元素から生じるのと同じように,すなわち圧縮から,第四有限体が第二元素または大気の粒子から生ずると思った。太陽と惑星の全部の混沌としたものは,この第四有限体をもとにして構成された。星雲物質である。これが太陽を取り囲み,太陽が外側に行動することを妨げ,こうして太陽系の渦巻きに限界を設定するが,これは適切にも“空間”と呼ばれるものであろう。しかし,それでもまだ,そこに“時”はない――時間も日も年もない。東も西も,世界もない。それでも,活動する太陽系空間には,世界を生み出すことのできるどんなものもあった。古代の哲学者たちは,すべてのものが生み出される推定されるこの混沌を好んだ。オウィディウス★3は熱弁をふるう――

  大地と大洋とすべてを覆う天が分離した形に発達する前,
  大自然の顔は,すべては存在したが,一つの様相を帯びていた。
  これはカオスと呼ばれた――荒々しい形のない塊――
  不活発で,ただ巨大な重量――調和しない種の集まり。
  まずく組み合わされ,巨大な塊に圧縮されたた物……[164]

 モーセの創造物語もまた,原始のカオスの形態に一致する記述をしている――「地は形もなく,空虚だった。闇が深淵の上を覆っていた……。神の霊が水の表面の上を動いていた」(創世記,第1章)。

 スヴェーデンボリは,太陽のまわりの星雲状の塊に働く運動結果を描いている。そのとき太陽にはその軸のまわりを回転する非常に濃密な外皮〔クラスト〕または雲がある。遠心力によってこの外皮の中の物質は活動的な中心から外側へと次第に遠くへ移動して,大きな空間を占めるが,ついにはつぶれ始め,太陽を包む帯または幅の広い円にまで細くなる。この帯はいつかは壊れ,われわれの太陽系の惑星の数に応じた大小の球体となる。それぞれの球体の中心部分は第四有限体から成っている――原始の変幻自在な物質である。

 これらの惑星の塊は,次第にそれらの軌道を広げながら,たくさんの渦巻きとともにその重さと釣り合いの取れる軌道をそれぞれが見出だすまで太陽からはるかかなたをゆっくりと揺れている。あるものは小さな球または衛星を連れている,われわれの地球は月を連れている。これらの衛星は,それぞれの惑星に与えられている特別な渦巻きまたは大気の中に浮かんでいて,スヴェーデンボリはこれをエーテル,または第三元素と呼んでいる。エーテルの泡は,前のオーラの構成単位よりも大きくて比較的受動的である,なぜならそれらの能動的中心である第一元素の構成単位を包むものは第四有限体から成り立っているからである。エーテルは光を反射する大気であり,電気現象の出現を与える。それぞれの地球あるいは惑星の周囲には,今ではじっとしている別の大気が形成されている――空気である。エーテルが視覚のための媒介であるように,これは聴覚のための媒介である。空気の粒子はエーテルの分子に似ているが,構造はもっと粗く,密である。その表面は第五有限体で成っていて,その構成単位の中心は磁気オーラである。火は第四と第五有限体の活動から生じる。最初の不活性な粒子――水の粒子――は,大気のようではなく,まったく物質的である。

 「われわれの原理の筋道は,単純なものから究極のものへと,一つの輪も壊れることなく,展開される。それゆえ,われわれは,一つのものから,そして同じ力と原因から,すべてのものがどのようにそれらの起源から導き出されるかを知るだろう」。彼は『プリンキピア』の体系での四つのオーラを,後の自分の教義に適合させて,三つに減らした。

 『プリンキピア』での有限体は,構造ではほとんど違わず,おもに寸法で異なっている。第一と第二有限体の寸法の比率は,仮に,1:100と想定されているが,われわれの哲学者は,これが1:1000であろうことも認めている[165]

 スヴェーデンボリの“有限体”について現代物理学の発見と関連させていろいろな試みがなされてきたが,それでも,完全で満足な結論には達していない。ある研究者は第五有限体を酸素とし,他の研究者は第四有限体を水素に比している。ある者はスヴェーデンボリの第五有限体を現代物理学の電子と見なしている。原子が活動のエネルギーや場での実際の群れである,という中心的な概念に関しては,スヴェーデンボリと現代科学は一致している。陽子と中性子★4の原子核とこれを衛星のように配列されて取り囲んでいる回転する電子たちを仮定する原子構造の新しい理論に注目するとき,研究者たちは,スヴェーデンボリが内部の能動体を取り囲む受動有限体の外側の層を構成するとして描いていた基本的な粒子を思い出す。われわれはスヴェーデンボリが,ケプラー,デカルト,ライプニッツといったすべての初期の宇宙論者のように,仮定された渦巻きによって天体の起源と運動を説明したことを知っている。最近の実験は,エーテルの流れを反証する傾向にあり,そうして〔以前の〕科学が仮定してきたような固定したエーテルの存在に疑問が投げかけられた。それでも彼らは,空気のような,地球とともに運動するスヴェーデンボリの仮定するエーテルを反証できない[166*]

 スヴェーデンボリの体系の特徴は,宇宙の最小の部分のあらゆるものが活動に満ちていることである。植物だけでなく鉱物もその部分から発散気を放射する。磁石とその力線の実験から,また燐光のようなそうした現象から,スヴェーデンボリは物質の粒子の中に活動性があると結論した。エーテルまたは第三大気に影響を与える活動性であり,彼はこれを目に光を伝播する媒介であると仮定した。彼が最初に結晶学,磁性,燐光を学んでいなかったなら,彼は物質の構造についての自分の目覚ましい理論に到達できなかったのは明らかである[167*]

 物質についての自分の概念の真実性を将来の時代は認めるだろう,とのスヴェーデンボリの確信は,物質の原子が目に見えないものだったとの仮説を放射性物質の発見が完全に反証した1899年に,決定的に正しいものとなった。キュリーの実験室で,瀝青ウラン鉱と呼ばれるウラニウムの混合されたものを置いた机の引き出しの中の鍵が,暗い中,その下に敷かれた感光紙の上に,その姿を写しているのが見られた――そして,何年もの勤勉な探求の後,ラジウムが発見されたのである。こうして,物質の最小の構成単位はエネルギーの一群であるとの最初の現実の証明が,ラジウム放射線の発見をもって,現代科学にもたらされた。それ以前では,そうした考えのどんなものも空想的なものとみなされたのである[168*]。しかし,物質のほんのちっぽけな粒子から,実際に物質的な存在物の恒常的な流れ,高速度で金属版を通過する十分な強さの流れが出ていると発見されたとき,そしてさらに,この放射線が磁気の流れによって,屈折させられ,違った種類の光線に分離される,と発見されたとき,物質についての古い原子論は崩壊した。まさに石が声を上げた★5のである! もはや推測ではなかった。

 「人類は物質に囲まれて住んでいるが,その物質についての信念のすべては現在,不完全だけでなく基本的に間違っている」とある科学者は言った。「すべての物質を構成している分子は固定したものではない」と他の科学者は言った。著名な現代科学者のある者たちは過去を見直し,スヴェーデンボリの『プリンキピア』で無視されてきたページをめくってみて,自分たちの結論が彼の理論とどこまでも目覚ましいほどにも合致しているのを大いなる驚きをもって発見した! 『プリンキピア』の体系はすべての疑問に答えていない。あらゆる細目にまで成功しているとはいえない。スヴェーデンボリは不完全な数学者ではあったが,物質を作り上げているエネルギーは内部からやってきている示すことで,物質の動的な概念に到達するのに成功したのである。彼の神学著作の一つにある言葉に,啓示として彼が後に主張した概念を把握するために彼の初期の哲学が準備されていたことが示されている。彼は『真のキリスト教』の中で述べている――

 あらゆる金属や石の中に自由意志に類似したものがなかったなら,金属も石も,一粒の砂さえも存在しない。なぜなら,これらすべては自由にエーテルを吸い込み,その本来の本質を吐き出し,使わなくなったものを捨て,新しい物質によって復元しているから。……ここから,それぞれそのもののまわりにスフェアを持っている[169]

 ビュフォン★6,カント,ラプラス,ライト〔不詳〕やランベルト★7の概念のあるものは,スヴェーデンボリがすでに発表した「惑星は太陽の塊に起源を持つ」「諸太陽は“天の川”の軸のまわりに配列されている」「さらに大きな星の体系が存在し,その中に銀河も配列される」といったことと著しい類似性を帯びている,とスヴァンテ・アレニウス★8は指摘している[170]

 スヴェーデンボリの後の多くの学者たちが意識的にあるいは無意識的に,彼の概念を採用したという事実から,最近の作家は次のように主張するようになった。「世界の起源について哲学的な土台に基づいた見解を獲得しようとする人間精神による試みの歴史を物語るとき,カントやラプラス以前にその結論を導き出した人物――エマヌエル・スヴェーデンボリ――のことを述べるのは歴史的な公平さに対する明らかな義務である」[171*]

 『プリンキピア』の著者は,以下の深遠で神秘的な主題に,常に深い卑下をもって接近していた――

 われわれの肉体の視野の範囲内で把握する対象はわずかなものである。ただ心だけで把握されるべき対象が無数にある。かくも莫大な星空は,おそらく,単に一つの天体を形成している。この宇宙は無限の中でただ有限なものでしかない,そしてわれわれの太陽系の渦巻きはそこのほんの一部を構成している。おそらく,われわれが天空に見上げるのと同じような他の天体が無数にあるかもしれない。われわれ自身の天体がただの一点とみなせるような,まさにそれほど多くの,それほど広大な天体である。しかし,全天空は,どれほど巨大であっても,それでも有限であり,したがって限界を持ち,無限に比べれば一点ですらない。したがって,すべての天体も,すべての天の万軍も,無限に比べれば一点ですらない。目に見える星の広がりの全部が,これはわれわれの目には計り知れないが,有限の宇宙に関してはただの点であり,われわれの太陽の渦巻きが星の広がりのほんの一部を形成し,われわれの世界が太陽の渦巻きのほんの小さな部分であるなら,われわれは真に問うであろう,「人間とは何か?」と。人間はいろいろな見せかけをするが,そんな存在なのか? 道徳的虚栄,なぜそれほどうぬぼれに膨らむのか? なぜ被造物の残りすべてのものがおまえの下にあると思うのか? ちっぽけな虫けら! おまえのまわりのおびただしい数の驚くべき被造物を見るとき,何がおまえをそれほど尊大にし,慢心させるのか? 視線を下げ,おまえ自身の上に目を注げ,取るに足らない小人よ! 見よ,そして知れ,天地の組織の中でおまえはなんと小さなしみであることか。おまえは熟考してこれを覚えよ,もし偉大でありたいなら,おまえの偉大さはここにある――“最大者”であられ“無限者”であられる方,この方を崇拝することを学ぶことの中に[172]


脚注* 「幾何学」により,スヴェーデンボリは,計測の項目,すなわち幾何学の法則に入るあらゆるものを意味している。

(訳注) 参考記事:『プリンキピア』(英訳書,第1巻19ページ) には――
2.知恵へ導く第二の手段は,これによって目に見えない自然の秘密は錠前を開けられ明らかになるが,幾何学と理性的な哲学である。これによってわれわれは経験を比較し,それらを分析的に消化し,法則,規則,類似のものへと変え,そこから以前には知られていなかったさらに進んだ原理や真実へと進む。

脚注** [Ut Natura]…"similis in maximis producendis fuerit, prout in minimis."

原注
160 原ラテン題名省略。『スヴェーデンボリ科学著作集』第2巻に本文収録。『手紙と請願書』436ページ,1729年11月27日付の手紙でこの著作に言及していること参照。(参考文献省略)
161 『プリンキピア』第1部,第1章。以下の説明(?)省略。
162 同上書,第1部,第2章。〔『プリンキピア』の第1部,第1章にも第2章にもこの言葉は見当たらない〕
163 同上書,第3部,第2章の末尾。
164 同上書,第3部,第4章。
165 後者〔1:103の比をとる〕の見積もりを採用すれば,水の分子または“第六有限体”は10181,000の6乗)エネルギーの原始点を含むだろう――現代物理学での数学上,含蓄ある数字! レコムテ・デュ・ノユィ〔不詳〕によれば,1立方cmの気体には1019の分子が含まれると計算される。参考文献省略。
169 『真のキリスト教』499。
170 スヴァンテ・アレニウス「宇宙論者としてのエマヌエル・スヴェーデンボリ」,『スヴェーデンボリ科学著作集』第2巻の序文。注569も参照せよ。
172 『プリンキピア』A・Clissoldによる翻訳。1846年,ロンドン。第2巻,第3部,第1章〔末尾〕,238-9ページ。


訳注
★1 宇宙論とは宇宙の起源・構造を研究する哲学,天文学の一部門。
★2 Janus,門の守護神。門が前後にむいているところから,彼も前後にむいた二つの頭をもつ。門はすべての行動の始めであることから,この神は(祈りや犠牲を捧げるとき)神々の先頭に置かれた。ローマの暦の一月は彼の名前を冠してJanuariusと呼ばれた。
★3 Publius Ovidus Naso(43BC-?AD17);ローマの詩人。
★4 原文はelectron(電子)であるが,これは原子物理学の学説と合致せず,中性子(neutron)の誤記と思えるので修正した(☆)。
★5 「ルカ」19:40 参照。
★6 Buffon(1707-88);フランスの博物学者,哲学者。
★7 Johann Heinrich Lambert(1728-77);ドイツの哲学者,天文学者,物理学者,数学者。
★8 Svante August Arrhenius(1859-1927);スウェーデンの物理化学者。ノーベル化学賞(1903)。

(☆)著者は『プリンキピア』から自由な引用をしており,その引用箇所については,『叙事詩』からではなく,原文の英訳書から訳した部分も多い。

〔研究誌『荒野』第21号,1998年3月〕