16 Father and Fatherland


第16章 父と祖国

 1733年,哲学についての大作を書き終えたスヴェーデンボリは,その出版のために海外へ旅行する不在許可を申し出た。これは承諾され,彼は第3回目の外国旅行へ向けて,5月10日にストックホルムを離れた。フレデリク・イレンボリ伯爵やその他の者と一緒であった。彼らは最初に“フィッチャ”と呼ばれる宿に泊まり,そこから一行は別れ,スヴェーデンボリとラルス・ベンセルシェルナは南へ進み,ペンテコステの一週間をアンナと当時リンチェピング★1の司教であったエーリク・ベンセリウスとともに過ごした。

 近隣の面白そうなところを遠足して楽しい日々を過ごした。6マイル〔10km弱〕離れたスチューレフォルスの美しい城〔13世紀の古城〕といった場所であり,スヴェーデンボリは『旅行記』の中で,この城を「最も美しく,心を壮快に,また鋭気を養わせるよう計算されている」と述べている[173]。別の日にはストンゲブロの戦場を訪れている。そこでは1598年,ポーランド王ジグムント★2とカール王子の間でスウェーデンの王位を決定する戦いがあった。カール王子とは,後の国王でありプロテスタントの擁護者であるカール九世(グスターヴ・アドルフの父)である。彼は,「ジグムントの部隊が勝利していたなら,この北国の住民たちは,おそらくすべてローマカトリック教の領域に住むことになったであろう。しかし,神はこれとは別の運命を定められた」と記している。

 親戚に別れを告げ,スヴェーデンボリはそこからスモランドのごつごつした丘とスカニアの肥沃な低地を通ってスウェーデンの最南端のユスタッドへ進んだ。船はシュトラールズントへ渡るための順風を待っていた。この町を最後に訪れたのは,カール十二世が戦ってその町が包囲される少し前の1714年であった。

 彼の日記には,ブランデンブルクの兵士たちについての長い記事がある。彼は,これらのほっそりとした背の高さはすべてそろった精鋭部隊の歩兵が機械のような正確さで動き,顔の向きを一斉に変える訓練に強い印象を受けた。「おそらく,ちょっとした演劇であろう」と彼は寸評する。「もし,彼らが訓練のときのような統一性を戦いでも同じように発揮するなら,アレクサンドロス大王の軍隊にも勝てるだろう,ヨーロッパの大部分からプロイセンまで従属させるだろう」。

 ライピツィヒに向かうスヴェーデンボリの旅の記録には,自然を観賞する記事は少しも書かれていない。シロアリの退治薬や窓ガラスの製造といった点では,彼の記事は詳細で明快であるが,山岳風景の壮観さは彼の注目から逃れていた。彼は次世紀のロマンチックな詩人が賞賛した踊る波やささやく木々について触れなかった。そうした事物はそのときの記録家の注意を引く対象ではなかったのである。しかし,もしスヴェーデンボリが垣根の構築について入念に書きとめているとき,彼はその垣根が取り囲む野の花については少しも見ていなかった,と結論するのは正しいだろうか?[174] 彼は芸術を無視した,と言うことはだれにもできない,彼のページが絵画と彫刻品の名作への論評に溢れているからである。それでも,科学者と学者としての特別な観察力を持っていた。彼は自分の『日記』に記している――

 これらの旅の間に私が訪れ,知己となったすべての学者を述べるなら,これはうんざりするものとなるだろう。なぜなら,私はそうする機会を,それにまた図書館を見学し,その収集品やその他興味ある物を調べる機会を決して見逃さなかったからである [175]

 ベルリンでは荘厳な王宮を訪れ,プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムの青銅の像を見るが,しかし彼の実際の興味はその国の経済状態であった。その地方の工場は繁栄しており,労働者や技術者は領主の邸宅に匹敵するような良い住居を供給されていた。別の町では,そうした労働者はたいがい掘っ立て小屋か丸太小屋に住んでいた。それでここから彼は,商業だけでなく製造業が町を裕福にする,と結論した。ここには海外から運ばれてきた商品は何もなかったからである。

 ベルリンの図書館で,彼はカール大帝★3の聖書,素晴らしい中国の書物類,精巧なできばえの『クルアーン(コーラン)』,それにまた琥珀(こはく)やサンゴでできた芸術品や美しい磁器を見た。

 ストックホルムを去って28日後,スヴェーデンボリはドレスデンに着いた。王宮の庭園には,オレンジの木々に月桂樹や糸杉が混じっており,有名な大理石の像が優雅なさまで生きているかのように立っていた。喜ばしいブドウ園が,貴族の邸宅が,川に沿って広がっている。ここは人が田園生活の喜びを十分に享受できる場所だった。

 6月,スヴェーデンボリは自分の『プリンキピア』の原稿を読み通し,訂正した。また宇宙論,解剖学,その他の主題についての多くの学者の著作を読んだ。

 知人の家で彼は,一冊の本,クリスティアーン・ヴォルフ★4の『宇宙論』を見つけ,この「極めて健全な基盤に立った」哲学者の形而上学についての議論に強い印象を受けた。ヴォルフの理論はほぼ正確に自分自身のものと一致している,と彼は感じた。自分の著作を修正しながら,気品ある賛辞をもってクリスティアーン・ヴォルフの印象を注記に加えている――「彼は真の哲学の発展に多くの貢献をした」[176]

 彼はカトリック教会の礼拝に参加して,その礼拝は人間のすべての感覚に喜びを感じさせることにある,と記している――太鼓,フルート,笛,ラッパの高まる音によって,さらには処女の声に匹敵する去勢されたカストラート★5の歌によって,聴覚を喜ばせる。嗅覚は燃える香のかおりによって,視覚は美しい絵画や司祭や修道士の荘厳な衣装によって満足させられる。触覚には,会衆が入場するとき司祭が振りかける水がある。味覚だけが満足を与えられずに残される。なぜなら,このことは司祭だけが飲むブドウ酒からしか得られないからである。荘厳さと神聖さとひざまずいて祈る者たちの祈祷の雰囲気の中で,感覚は高揚し,恍惚となる。こうして礼拝の聖なるものは,経路であり,これを通って至高の存在者の思いが初めて入ってくる外なる感覚,その喜びのために演出されている。ローマカトリックの教会は,魅惑するもので感覚をとりこにするものを特に工夫してきたように思える。

 スヴェーデンボリはドレスデンの美術館で絵画を研究した。彼は,ジョット★6を絵画にいのちを与えた最初の者の一人とし,ジョットにラファエロ★7,コレッジョ★8,ティツィアーノ★9,その他多く者が続いた,と記述している。彫刻では,アンドレア・ピサーノ★10,ロンバルド★11やベルニーニ★12のことを,建築では,ブラマンテ★13やその他,特にミケランジェロ★14のことは「素晴らしい方法で芸術を所有した」と記している。

 プラハでは,フランシスコ会が莫大な宝物を所有しているサン・ロレット教会の遺物を見物した。ある顕示台★15は計算できない価値の真珠に溢れ,別の顕示台には6,666個のダイヤモンドがあった,その価値は何千ターラー★16であろうか。聖ヴェンツェスラウス★17の墓を訪れたところ,その壁は碧玉やその他の宝石でできていた。周囲の全部をそびえ立つ山々で囲まれ,深い谷の中に位置したカルロヴィヴァリ★18は興味深い町であると知った。その町の真ん中では,高熱の泉が高く噴出していた。

 ボヘミアからは,彼はザクセンの鉱山地区へ旅した。今や彼は自分の本来の活動領域にいる。彼は,いろいろな種類の鉱石と,硫黄,硫酸塩,スズ,鉄,銀を抽出する方法を詳細に描いている。

 1733年9月4日,スヴェーデンボリはライプツィヒに着き,そこで『プリンキピア』の印刷を始めた。「今週6枚印刷された。神が恩恵をくださいますように!」彼は叫んだ。その印刷に一年の大半を費やしながらも,スヴェーデンボリはこの時を他の論文を書いて過ごした。というのは,彼の3巻の『哲学・鉱物学著作集』の他に,後に論じるつもりであるが,『無限者についての哲学的議論の概要』[177]と題する論文を出版しているからである。彼の『旅行記』は続く――

 ライプツィヒからはカッセル★19 へ行き,その町とシュマルカルデン★20 の間のすべての鉱山を訪れる。それから乗り物で,ゴータ★21を通ってブラウンシュヴァイクへ,それからハンブルクへ。最後にユスタッド経由でストックホルムへ帰る。1734年7月,家に着いた。国会が開かれるためである[178]

* * * * *

 3巻の立派なフォリオ二折版の本であるスヴェーデンボリの『哲学・鉱物学著作集』の中の第一巻『プリンキピア』は彼の自然哲学を首尾一貫した体系へと完全に具現したものであったが,これはブラウンシュヴァイク・リューネブルク★22 のルートヴィヒ・ルドルフ公に捧げられた。第二巻『鉄と鋼鉄について』はヘッセン★23 ・カッセル★24 の方伯★25 に捧げられ,第三巻『銅と真鍮について』はスウェーデンの国王フレデリック一世に捧げられた。

 何年もの献身的な骨折りの結実であるこれらの高価な出版物は,学界で高い賞賛を受けた。それらは鮮明な印刷と上質な紙を褒められ,十分に論評された。「全著作を通じて,真理探究への熱烈な努力と自然哲学へ稀有な直感が輝き出ている」と『学界会報』は述べている。『鉄と銅』の処理法の中で,溶解の過程を記述しているとき,スヴェーデンボリの忠誠さと明瞭さが特に賞賛された――

 彼は,最高度の誠実さをもって,溶解人たちが長らく,また嫉妬深く,多くの場合,非常に愛している子供たちからさえも隠している秘密を明らかにしている。何世紀もの苦労と勤勉と経験から得られた秘密を公表するのは公平でないとの空虚な口実のもとに,利己心や嫉妬から,自分たちの技術(の知識)を他人に出し惜しむ者たちの敵意をなんら気にしていない。
 さらに,スヴェーデンボリ氏は,鉱物界に関するこの著作で,二つの部分より多くのものは自分の著述とはしないで大いに謙遜している。そして,これとは反対に,他人の著作から第三部を集めた,と正直に述べている。……彼は,ほとんど全ヨーロッパで用いられている溶解の過程を……かくも明確に,かくも詳細な注意をもって,かくも正直に提示している。これを読めば,作業そのものが自分の目の前にある……。読者は多くの場所を知っている……そこでは調査の目的で入る部外者にかんぬきを下ろし,建物や道具を錠で閉ざしている[179]

 ここでわれわれはスヴェーデンボリが初期の手紙の一つで言っていることを思い出すのである――

 私が今,あなたにお送りするものは……実に秘密と考えられていますが……部外者がこれらの事柄を得て,それらにある程度精通するのは困難です。しかし,私の単純な考えによれば,冶金学では決して秘密があってはなりません。そうした知識がないなら,だれも自然の探究でなんら進歩できないからです[180]

 スヴェーデンボリがフィンランドの鉱山主ヤコプ・フォルスコールから受け取った手紙は,その著作から恩恵を引き出した者は鉱物学の学者だけでないことを証明している。真価を知る鉱山主は,この有益で非常に必要な本を請い,その手紙に,こうした天才がその国に現われたことを心の底から神に感謝している。今では「塵の中で汗をかいている者である私は,最も高貴で,多くの科学の精通者であられる誉れ高きあなた様の著作から,その暗闇を照らすための光を導くことができます」[181](フィンランド,コスキス工場。1734年8月27日)

 学識ある鉱物学者であるヨハン・フリードリヒ・ヘンケル議員★26 は,ザクセン★27 のフライブルク★28 からスヴェーデンボリへ手紙を書き,「困難であればあるほど重要な企画」である鉱山学辞典の準備のために,スウェーデンの鉱山と鉱山学についての情報に関して,その助力を求めている[182]

 『鉄について』の著作は最近スウェーデン語に訳され,「鉱物学の歴史での基本的なもの」と評価されている。ストラスブール★29 では,粗鉄を鋼鉄に変える方法についてスヴェーデンボリの記述は非常に重要だと見なされたので,3年後に,『アルザスの鉄鋼についての論文』の著者はスヴェーデンボリの著作から数章取り入れて,これを出版した[183*]。その時まで,アルザス地方の人々は最も上等な鋼鉄は国外から輸入していた。鋼鉄を製造する方法について何か知ることのできるフランス語の本はなかった。彼らは,もし自分たちの鉱石を鋼鉄に変えることができるなら,多額の金銭を節約でき,国に大きな利益となるだろう,とわかった。1762年,『鉄について』の全編がフランス語で出版された[184*]

 『哲学・鉱物学論文集』の出版は,当時の最も学問のある名高い人物としての地位をスヴェーデンボリに定めた。しかし,これは彼の野心の対象だっただろうか? その答えは『プリンキピア』第3部の補遺★30 で述べられた中に見出だされるであろう――

 私がだれからも好評を得るか,得られないか,これは私にとってどうでもよいことである……。私には他の人々に,いろいろな輝かしい世の賞賛を獲得した才能ある著者たちの原理を捨てて,その代わりに私の原理を受け入れよ,と強要するつもりはない……。もし,私のつき進めた原理が,その中に他の著者たちによって主張された原理よりもさらなる真理が存在するなら,……時が来ればひとりでに大衆の同意が続くであろう,……もし現在でないのなら,いずれ将来に。

* * * * *

 1734年7月3日,スヴェーデンボリは鉱山局に再び出席したが,翌日,彼と監査官レーイェルにカールスベリ城での女王の聖名祝日★31 の祝賀会に出席するため欠席の許可が与えられた。5日には,鉱山調査人の候補者を検討するため仕事に戻った。その年,鉱山局は一夏中開かれた。おそらく国会もまた政治的な緊張に対応するため開かれていたからであろう。

 スウェーデンに最初の敗北を引き起こした国ロシアに対する反感が高まり,バルト海沿岸の領土を失った恨みがくすぶっていた。大衆はほとんど再び武器を取らんばかりだったが,顧問会議の議長である政府の長アルヴィド・ホルンは賢明で,穏健な指導者であった。彼もまた同じ感情につき動かされていたが,しかし彼の怒りは政治家としての分別により和らいでいた。フレデリック国王はかつてホルンとその盟友を,彼らがロシアへの反対運動を嫌がることから“ナイトキャップ”と呼んだ。“キャップ”のあだ名は,自分たちを“ハット”と自称する若い反抗する党によって喜んで取り上げられ,彼らはナイトキャップを被って休もうとする古びた時代遅れの頑固者たちを取り除き,ハットを被って行動のための準備をしているもっと勇気のある愛国者たちの党に席を譲るよう主張した。蔓延する無感動に嫌気して,人々は英雄的国王カール十二世の時代を,敗戦と壊滅的な搾取を忘れて,ただ輝かしい勝利だけを思い出して,回顧し始めていた。

 スヴェーデンボリがノルドベリ★32 へ「カール十二世について」の手紙を書いたのはこの時期であり,これは以前の章で引用されている(第6章の原注64が付けられた部分参照)。カール十二世のチャップレンであったイェラン・ノルドベリ博士は,1731年に今は亡き国王の伝記を書くよう委任され,これに没頭していた[185]。彼の記事は部分的には国王を知っていた他人からの報告から成り立っており,その中にエマヌエル・スヴェーデンボリも含まれていた。

 新しい党は自由の名のもとに行動を要求した。彼らはカール・イレンボリ伯爵を指導者として,ドイツ皇帝により後援されたロシアの候補者★33 に反抗して,ポーランドの王位を要求するスタニスワフ・レスチィンスキ★34 を支持した。重大問題は,スウェーデンにロシアと危険な戦いをする余裕があるかどうかであった。

 この問題は1734年の国会の秘密委員会で決定されたが,スヴェーデンボリはそのメンバーだったと思われてきた。しかしこれを証明する証拠はほとんどない。それでも鉱山局の出勤簿に,彼は数回,「貴族院に遅れた」とあり,彼の「議会の書類」の中には,『ロシアとの戦争を反対する』ことを強く主張する政治的立場での請願書の草稿が保存されている[186]

 スヴェーデンボリは,スウェーデンにはもはやかつてのような並外れた力はない,と論じた。国には小さな軍隊だけしかなく,長い戦争を支える財力を欠いている。フランスといえば,その約束以外に期待するものがほとんどない,と彼は考えた。一方,ロシアは今では以前よりも強力である。その兵士たちはよく訓練されており,装備もよい。それで,たとえスウェーデンがバルト海沿岸の領土を回復するのに成功できたにしても,これは単にスウェーデンを嫉妬深い隣国からの攻撃の危険にさらすだけであろうし,その戦争は回復した領土がもたらすことのできる以上の金銭を出費させるだろう。これに反して,もしスウェーデンが中立に止まり,その資源を節約し,工業と商業に励むなら,他の交戦国から利益を引き出せる,と断定した。スウェーデンが戦争に突入しなくてはならないとしても,攻撃されるまで待つ方が国のためであり,そのときこれは侵略戦争ではなく,防御の戦いとなる,と考えた。

 名誉については,最大の名誉は,賢明な経済を通して,国を富ませる努力によって,尊敬される地位を獲得することに存在するだろう。「そのとき,われわれはオランダやイギリスと同じように尊敬されるであろう。両国はそうした手段により完全にヨーロッパ列強の間でその名誉を維持している」。これに対して,もちろん,他の国々がスウェーデンは疲弊したと信じているであろう場合に,宣戦布告は力を示すことになる,と主張できる。よいではないか,そう信じさせておこう。戦争を起こし,今は単なる主張であることを確定的な事実となるような疲弊状態を現実に国にもたらすことになるよりはよい。「単に強さと勇気を持っていることを示すために他国を攻撃することは誤った名誉であるが,攻撃されたときに勇敢に自国を守ることは真の名誉である」と主張した。隣国は,スウェーデン国の脅しとその繁栄,またその債務を放棄しているのを目撃するとき,そしてその軍隊がよい状態にあり,国会の各院が「われわれは常に自国を防衛する準備をし,それをもって,バルト海のロシアの権力と均衡を保たねばならない」と協調しているのを見るとき,常にスウェーデンを恐れるであろう。

 ポーランドのスタニスワフについては,彼の被った多くの不幸と彼が正しく王位に選ばれた者である事実との両方の理由によって,スウェーデン人で彼が王位を継承するのを望まない者はいない,と彼は言明した。スタニスワフはあらゆるスウェーデン人の心を捕らえたが,それでも健全な政策はあまりに大きな犠牲が伴うことを許さない。スヴェーデンボリは,スタニスワフの運命で国益を危うくするな,と忠告している。

 「この請願書が国会の秘密委員会に大きな影響を及ぼしたと思える理由が十分にある」とある注釈者は言う,「そして,その国が6年以上も,戦争の恐怖と悲惨な敗北の屈辱を味わわなかったのは,部分的にはスヴェーデンボリの影響による」[187]

 1738年,アルヴィド・ホルンは政府を辞任するよう余儀なくされた。好戦的な“ハット党”★35 がとって替わり,間もなくロシアに戦争を布告したが,その戦争はスウェーデンの惨禍となって終わった。1743年,トゥルク★36 での講和で,スウェーデンはロシアにフィンランドの大きな地区を割譲することを★37 ,そしてロシア皇帝の近親者であるホルシュタインのアドルフ・フレデリックをスウェーデン王位の継承者として受け入れることを強いられた。これらの事件は余りに遅くではあるが,スヴェーデンボリの推奨した政策の賢明さを証明した。彼は何が起こるかを,強制された王位継承に至るまでも,予見し,正確に述べたからである。

 スヴェーデンボリは“ロシア帝国科学アカデミー”へ自著『哲学・鉱物学著作集』を一組み贈呈し,ロシアに対して友好的な素振りをしている。その協会の議事録には,1734年11月11日,アカデミーが委員会に,これらの著作にわれわれの王国に役立つ何かが含まれているかどうかを調べ,報告するよう命じたことが述べられている。その後,スヴェーデンボリの鉱物学上の著作についての42ページの報告書が“帝国アカデミー”に手渡され[188*],12月には,学識ある著者へ,その優雅な贈物に感謝し,その協会の仲間に入るよう彼を招待する手紙と,返礼としてその協会の出版物のいくつかが発送された。

 1735年の3月と4月の間,鉱山局の数名の委員が病気のために仕事を休んだが,スヴェーデンボリはそれに含まれなかった。おそらく,インフルエンザの流行であろう。同年の7月,スヴェードベリ司教が亡くなった。葬式は,習慣であったが,非常に後になって行なわれた。スヴェーデンボリとベンセルシェルナがヴェストロゴティアでの司教の葬式に列席する許可を求めたのは,1736年の1月10日だったからである。葬儀の日取りは29日に定められた。

 ブルンスボには,親しみある物がいくつもあり,それらはエマヌエルに父のたくましい性格を思い出させた。二つの銀の燭台は,父のウプサラ大学での時代を回想させたであろう。学生たちはこれを去りゆく学部長に贈ったのである。父は彼らに,「すべてにまさって神を恐よ。このことなしに他のすべての学問は無益である。いや,有害ですらある」と教えた。敬虔と正直は幸福という料理になくてはならない材料である,とスヴェードベリは確信していた。良心が方向を示すとき,恐れを知らずに突き進むことは,これと別物である。両方の性格が息子のエマヌエルに引き継がれた。

 壁には,聖書を前にして背筋を伸ばし,その聖なる書物を指差して座った司教を彫り刻んだ見事な銅版を見ることができた。この銅版は1712年の2月のある夜に起こった火事からほとんど奇跡的に逃れた。2時間のうちに,館とその中のすべての物は灰となったが,銅版は損傷することなく回収された。この知らせがエマヌエルに届いたとき,当時外国にいたが,彼はその事件をラテン語の詩で記念した[189]

 この善良な司教は実際に火事に追いかけられたように思える,生涯に4度,彼の家は全焼し,彼の図書は消失した。最初の大火は,ウプサラで,立派な新邸が完成したばかりのときだった。2度目は1702年の大火事が町を焼き尽くしたときである。ブルンスボの邸宅は1712年に,また1730年に再度焼け落ちた。司教からの手紙のいくつかが王立記録保管所に見出だされ,それには痛ましくも「今では一冊の本も持ちません。一冊の本を購入するにも,衣類や住居その他あらゆる物を他人に依存しなくてはなりません」と陛下に助力を訴えるものが含まれている。しかし,最初に,何としても,本である!――スヴェーデンボリの父は膨大な著述家であるのと同じく,熱烈な愛書家だった。

 これほど多くの不運にもかかわらず,スヴェードベリ司教は決して落胆しなかった。「神はこれまでずっと,私にあらゆる物を,昔ヨブになされたように倍にして取り戻してくださり,そしてさらに快適な家や住まいを与えてくださった」。彼は,特別な摂理が自分に働いている,と堅く信じていた。たとえば,アメリカへの自分手紙が――そこのスウェーデンの教会員を牧する指導者へ書かれたもの――一枚も失われていないことを感謝して記録している。かつて,船がその積み荷全部と一緒に海で滅んだときですら,彼の手紙を含んだ小荷物がフランドル地方の海岸の漁師によって,ほとんど損傷もなく回収され,アメリカに到着する船の船長に引き渡された。「このように,神は私の書いた物にその御手を伸ばされています。それらはおもに敬虔な業を実践するよう促すものです」と彼はヨハン・ヘッセリウスに手紙を書いている[190]

 父の書斎から,エマヌエルは一冊の本を手にしたことだろう,ラテン語の代わりに母国語を使用する擁護者として書いた『シボレテ』★38 と題する司教の本である。父はなんと堅固な闘士だったのだろう! もし自分が正しいと信じたなら――彼が旧友の一人である著名な言語学者ウルバン・イェルネと論争したように――司教は戦場を離れることをひどく嫌う人物だった。両者はスウェーデン語の純正化と綴りの改良――これには多くの基準を必要とした――に熱心な人だった。しかし,その推奨するものでは,彼らの意見の違いは激しかった。司教をいらいらさせるものの多くは,“hor”(聞く)のところを“hoor”のように,いらない母音をダブらせること,また“mig”(私に)のところを“migh”のように完全にいらない“h”を使用することであった。彼は『シボレテ』を自分の見解を擁護するために著述した。しかしイェルネは,スヴェードベリの主張をとらえて,その旧友を「紙の浪費家」「無鉄砲な攻撃人」の一員に数えて,そうした者は「げんこつでなぐられる」べきだとした。

 スヴェードベリがイェルネの印刷物による攻撃を初めて見たのは,国王カール十二世をルンドに訪問した1718年のクリスマス週間のときであり,そのすぐ後,自分を擁護する主題で5時間の大演説を大衆に聞かせた。「気合いが入り,評判が伴った」ことに彼は満足した。ただスヴェードベリが訪問した際に起こったことはミステリーのままに残る。年老いた司教は国王の好意を失った,とのうわさが出回った。カール王は聖堂でのスヴェードベリの説教を喜んでいない,司教は今やあまりに年老いており,説教を求めるべきではない,と命じたとうわさされた。ルンドでの司教自身の説明は,まったく異なっていた。彼はエマヌエルに,「私と国王との関係は極端に心底からのものだった,王は繰り返し王の食卓に私を食事に誘った,そして陛下と何時間も話しをした」と語っている。感情を害していたのは宮廷の取り巻き連中だった。ヨハン・ローセンアドラーへの手紙で彼は言っている――

 貴族たちの大部分は,私が「われわれは,神を受け入れない生活を過ごすことによる罪人としての厳しい罰を現在受けるであろうし,将来も受けであろう」と言ったことを喜んでいません。「すべての人々があなたがたを良くいうとき,あなたがたはわざわいです。彼らの先祖は偽預言者たちをそのように扱ったからです」(ルカ6:26)。私には自分の頭の髪の毛よりも多くの敵や反対者がいる,と知っています[191]

 エマヌエルは,これら二人の傑出した者が公然と攻撃し合うのは痛ましいと思い,それで彼がストックホルムに行ったとき,父とウルバン・イェルネの間の論争を鎮めようとした。しかしイェルネはこの試みに反対し,司教に言及する手紙を友達に書いている――

 彼の息子,監査官……は,私たちの論争を静め,私たちの間に目こぼしを確保しようとしました。しかし,これは私の意思に反しています。……私は彼(司教)を(彼が私を取り扱うと)同じように取り扱い,公然と,彼のあごひげに羽アリを投げ付け,そうして,彼に自分の偉そうなあごひげ(veberandam barbam)をかきむしらせることで仕返ししようと思っています。私にとって,司教が思いっきり怒りを爆発させ,最も苦い胆汁を飲むのは良いことです。私には,彼の人柄が思わず飛び出してくるのを期待するのに十分な完全な理由があります。彼が私に対して行なったからです[192]

 自分の『賛美歌』が没収されたことは,イェスパーを生涯の終わりまで苦しめた。彼自身の作品である優れた賛美歌が含まれているこの本は,敬虔主義★39 の烙印を押され,破棄処分にすると決められた。後になって女王が,彼にそのいくらかをアメリカに送ってよいとの許可を与えたとき,彼は息子エマヌエルにそれらを自分自身のために取って置くよう言いつけた。「もし,おまえが10冊を許可されるなら,50冊取りなさい」と冷静に指図している。結局,それらは彼の本であった! 父と息子は学問の上では非常に違っていても,親しい間柄だった。「私の『説教集』は現在,検閲を受け,準備が整った」と司教はエマヌエルへの最後の手紙で書いている。「もし,おまえがその支払いをするなら,そこからかなりの利益を得るであろう」[193]

 今や尊敬すべき司教の闘争も終わった。彼の遺体は,近くのヴァルンヘム修道院にある2番目の妻サラ・ベリイアの傍らに埋葬された。弔辞は,エーリクとラルスの兄弟であるイェーテボリの司教ヤコブ・ベンセリウスが読んだ。

 イェスパー・スヴェードベリはしばしば教条主義にいらいらし,その自己顕示欲は疑いようもなく,常に自分が正しいと断言しはしたが,彼は,主の献身的な追随者であり,天の御国を地上に反映させる教会を建設することに熱心な純粋なキリスト教徒であった。彼は業の伴わない信仰である“信仰のみ”の教義を絶えず攻撃した。〔以下はスヴェードベリの主張〕人間が身体上の罪にどれほど生きようとも,もしその者が教会に行きさえすれば,信仰がその救いを成し遂げる,と考えることは非常に間違っている。多くの者はそうした人を,良きルター信奉者,善きクリスチャンと呼ぶ。もし,それらの者の一人に「あなたは救われていると感じていますか?」と問うなら,「そのとおり,私には信仰があります」と答えるだろう[194*]

 父の六十三歳の誕生日を祝って書かれたエマヌエルのラテン語の詩は,親への自分の愛情を写し出しているので,そのいくつかはここの記事を締め括るのに適しているだろう――そのもったいぶった文体にもかかわらず[195]

   起きよ,サッポー,夜が明ける前に,
     行け,竪琴を喜びをもってかき鳴らし,
   その旋律の音をもって目覚めさせよ。
              私のまどろむ父を。

   行け,その目に眠りが残っているか見よ,
     日の始まりを喜んで眺めようとするか,
   その寝床の回りに音楽を吹き込め,
           あなたに捧げられた歌を。

   万歳,誕生日,喜ばしい冠をもって,
      数え切れない音楽の炎がふさわしい,
   処女の歌う誕生日の歌,
              ハープと竪琴!

* * * * *

   あなたの若き日々はすでに久しい,
     それでも,あなたの齢はなお喜ばしい,
   これからも,あなたの子孫の数は,
            あなたの年齢に等しい。


原注
173 『旅行記』,『ターフェル』U,5-8。
174 ジョージ・トロブリッジ『スヴェーデンボリの生涯』(ロンドン,ニューヨーク1913年)第3章末尾。
175 『ターフェル』U,8-22。
176 ヴォルフによれば,あらゆるものはライプニッツ〔Gottfreid Wilhelm von Libnitz(1646-1716);ドイツの哲学者,数学者〕が“モナド”と呼んでいる,広がりのない,しかし性質はすべ
て異なる単純な物質に帰着される。モナドは“予定調和”によって交流している。スヴェーデンボリは“単体”の用語をヴォルフから適用したように思える。ヒューゴ・Lj・オドナー「クリスティアーン・ヴォルフとスヴェーデンボリ」(「ニュー・フィロソフィー」1951年,237ページ以降。1736年7月,スヴェーデンボリはヴォルフの『自然神学』の本を見ている。この主題はさらに『霊魂と肉体の交流』で追求されており,そこではスヴェーデンボリは霊的な“流入”と自然的な“流入”の性質についての議論を述べている)
177 “Prodromus Philosophiae Ratiociniantis de Infinito,…”ドレスデンとライプツィヒ,1734年。
178 『ターフェル』U,6。
179 『ドイツ学界会報』ライプツィヒ,1734年10月,407-420ページ。(参考文献省略)
180 ベンセリウスへの手紙,プレスシッタンにて,1724年2月14日。『手紙と請願書』327-8。
181 『手紙と請願書』455-6 。
182 フライブルク,1732年11月21日。『手紙と請願書』449-50。
185 カール12世のチャップレン〔お抱え牧師〕であるイェラン・ノルドベリ博士は,亡き国王の伝記を書くよう1731年に委任されていた。彼の記事の一部は国王を知っていた人から成り立っていたが,その中にスヴェーデンボリも含まれる。スヴェーデンボリの手紙では,「自分はいまだにカール国王により与えられた数学の文書を所持している」と述べられているが,その文書は見つかっていない。ノルドベリの著作は1740年に出版され,ドイツ語,フランス語,英語に訳された(参考文献省略)。『ターフェル』T,558-565ページ。『手紙と請願書』458以降参照。
186 『ターフェル』T,483-493。『手紙と請願書』466以降参照。
187 同上書,485ページ。
189 『ターフェル』T,153。
    “この無傷な肖像,灰燼の真ん中から,
     置かれている,教父の館が燃え尽きた夜に,
     そのようにあなたの名前が,あなたの愛する思い出が,
     おお父よ,いつまでも,炎と葬式(火葬)の積み薪から
     いつまでも生き延びますように”
190 『ターフェル』T,149。
191 J・スヴェードベリからJ・ローゼンアドラーへの手紙,ブルンスボ,1718年2月28日,『ターフェル』T,155-9。
192 ウルバン・イェルネからE・ベンセリウスへの手紙,1718年11月26日,(参考文献省略)。
193 J・スヴェードベリからスヴェーデンボリへの手紙,1731年3月1日,『手紙と請願書』443-4。
195 (英訳出典省略)『詩作集(Opera Poetica)』1910年出版,25-27ページ。〔1716年8月28日,63歳の誕生日に捧げられた。下記[参考記事]参照〕


訳注
★1 スウェーデン南部の都市,11万。ストックホルム南西160km。
★2 Zygmunt3世(1566-1632);スウェーデン王(在位1592-99)としては発音が変わってシイスムンド3世(Sigismund)である。
★3 Charlemagne(742-814);フランク王(768-),および西ローマ帝国皇帝(800-)。
★4 Christian von Wolff(1679-1754);ドイツの哲学者,数学者。
★5 Castrato[イタリア語]17〜18世紀,少年の音域を保つため去勢した歌手。
★6 Giotto de Bondone(1266?-1337);イタリアの画家・彫刻家・建築家。
★7 Raffaello Santi(1483-1520);イタリアの画家・彫刻家・建築家。
★8 Antonio Allegri de Correggio(1494-1534);イタリアの画家。
★9 Tiziano Vecellio(1477?-1576);イタリアのヴェネツィア派の画家。
★10 Andrea Pisano(1270?-1348);イタリアの彫刻家,ジョットの影響を強く受けた。
★11 Lombardo;15-16世紀の彫刻家・建築家一族。
★12 Giovanni Lorenzo Bernini(1598-1680);イタリアバロックの画家・建築家・彫刻家。
★13 Donato Bramante(1444-1514);イタリア盛期ルネサンスの建築家。
★14 Michaelangelo Bounarroti(1475-1564);イタリアの彫刻家・画家・建築家・詩人。
★15 礼拝のために聖体を飾る台。
★16 昔のドイツの大型銀貨。
★17 Saint Wenceslaus(907?-929);ボヘミアの大公,チェコスロバキアの守護聖人。祝日9月28日。
★18 Karlovy Vary;チェコスロバキア西部の都市,人口6万,鉱泉保養地。
★19 西ドイツ東部,ヘッセン州の都市,人口10万。
★20 ドイツ中部チューリンゲン州西部の市,人口1.7万。1531年シュマルカルデン同盟☆が形成された地。
(☆シュマルカルデン同盟とは,宗教改革時代初期の1531年,ドイツ新教派諸侯および諸都市が,神聖ローマ皇帝とそのカトリック同盟国に対抗して新教運動を守るべくSchumalkaldenで結成した同盟。Augusuburg宗教和議(1555)でルター主義が合法化された)
★21 東ドイツ南西部の古都,人口6万。
★22 西ドイツ北部ニーダーザクセン州の都市,人口6万;中世のハンザ都市。
★23 西ドイツ中部の州。
★24 ヘッセン州の都市,人口20万。
★25 1806年までのドイツの領主の称号,皇帝直属で公爵と同格。
★26 Johan Henkel(1679-1744);医師,化学者,鉱山学者。鉱山学の著作でヨーロッパでの名声を得た。当時も先端化学者であり,多くの国々から彼の下で研究するためザクセンに学生がやって来た。
★27 東ドイツ南東部の地方・旧州。
★28 西ドイツ南西部,シュヴァルツヴァルト西麓の都市,人口17万。
★29 フランス北東部アルザス地方の中心都市,人口25万。
★30 英訳書の第2巻365-6ページ。“補遺”となっていても,いわゆる“あとがき”に近いもの。
★31 name day。当人と同名の聖人の祝日。
★32 Andersson Goran Nordberg(1677-1744);牧師,スヴェーデンボリの古くからの友である。
★33 アウグスト3世(1696-1763)である。ポーランド王(1734-63)。ロシアの援助を受けてスタニスワフを追放,王位についた。第2次シュレジエン戦争(1744-45)でオーストリアのMaria Theresaに味方し,プロイセンのFrederick大王に敗れた。
★34 Stanislow Leszczynski(1677-1766);ポーランド王(1704-09,33-35),ザクセン選帝候兼ポーランド王アウグスト2世に対抗,スウェーデン王カール12世の支持でポーランド王(1704-09)になるが,カールがポルタヴァで破れたのちにアウグストに追われた。アウグストの死後帰国(1733)したが,ポーランド王位継承戦争が続き,ロシアに支持されたアウグスト3世に再度追われた。スヴェーデンボリは霊界で1768年11月16日に初めて彼に会っている。
★35 ハット党は38年の議会で重要な委員会の選挙に勝ち,組織的な政党として65年まで政権を握った。外交政策ではスウェーデンの軍備強化とニスタット条約の修正要求を目標にしていた。
★36 Turku(スウェーデン語名はオーボAbo)フィンランド南西部の港市・古都,人口16万。
★37 ここは史実と合わない(Sigsted 女史の気ままな運筆)。41年スウェーデンは,ロシアのピョートル大帝の娘エリザベータが皇帝イワン6世に対して企てたクーデターを援助し,帝位簒奪(さんだつ)を成功させた。しかしその代償であるバルト海地域の旧スウェーデン領の一部を返還するという約束は破られ,逆にエリザベータ女帝は,41年にスウェーデンを攻撃した。その後のロシアとの戦争はスウェーデンに悲惨な結果をもたらした。42年ロシア軍はフィンランドを占領した。翌43年のオーボの和約でスウェーデンがホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレデリックを皇太子として受け入れることを条件に,フィンランドをスウェーデンに返還した。このことはスウェーデンをロシアの従属下におくものであった。
★38 内容は不明だが,「士師記」12:6の故事から取った題名であろう。
★39 17世紀末ドイツのルター派内に起こり,信仰の内面化・敬虔化を主張した。

〔研究誌『荒野』第22号,1998年4月〕



[参考記事]
 スヴェーデンボリの“OPERA POETICA”(1910年ウプサラ大学版)から、ここに引用された原詩の部分を次に掲載しておきます。

   Surge nunc Sappho, cape mane multo
   Barbiton dextris, citharamque lavis:
   Dum cubat stratis Genitor, qvaterna
             Carmina plectas.

   Num sub Auroram vigilet, relustra,
   (Fidus Aurora solet esse Custos,)
   Tunc Eum circum canor, atque festa
             Vota susurrent.

   Lux adest festis celebranda votis,
   Digna ter centum Clarium canore,
   Atque Sapphonum, fuerintve mille,
             Ore lyraque.

       * * * * *

   Pallui o qvam! cum veniebat annus:
   Ille vivendi solet esse meta
   Pluribus, charisque Patrum Senumque
             Terminus avis.