PART TWO: THE SEARCH FOR THE SOUL (1735-1744)
第2部 霊魂の探求(1735-1744)
17 Man the Goal of Creation
第17章 人間、創造の目的
『プリンキピア』では,スヴェーデンボリは無限者と有限体だけを扱った。無限者は神と,有限体は空間および時間と同一のものとされた。“霊”の存在,すなわち,無限者と有限体を媒介するものは論じていない。こうして,その哲学によっては,彼は唯物論者へと分類できない――なぜなら,その学派は無限者を否定するからである。また唯心論者へとも分類できない――なぜなら,その学派は霊と神の間に区別を認めないからである。
『プリンキピア』を完成させた後,それが印刷機を通過するのを目にしながら,スヴェーデンボリはライプツィヒにいた。無限者と有限体の間の関係についての疑問が彼の心に起こり,彼はその問題を大胆にかつ鋭く取り組んだ小論文を書いた。彼にとって,創造の全部が目的への手段であること,そしてその目的そのものとは,最終の目標とは,死ぬことのない霊魂を持った霊的な存在である人間であることは明白であった。『無限者』[196]についての論文は,人間の霊魂の不死性を証明しようと努めている。この論文はそのことを信じない哲学者に向けて述べられ,特に著者が無神論へと向かう学界の支配的な動向を考察しているとき,その著作にはある悲しみの調子が漂っているように思える[197*]。スヴェーデンボリはこれをたった一か月で書き上げたのであろう。彼は「もしこの主題のすべてを詳細に述べたなら,この著作に一か月ではなく数年間従事することになる……」と言っているからである。
彼の心に起こっている新しい展開への価値ある手がかりが『無限者』の著作に含まれている。この著作は,彼の仕事である物質的世界,すなわち大宇宙と,その縮図たる宇宙であり,彼の関心事である人間,すなわち小宇宙との重要な鎖となっている。この著作の中の「機構」★1という言葉の用法は,スヴェーデンボリの心の中に広がっていた観念についての興味深い一例である。ある者は,ここに冬のつぼみが緑に変わり,葉が萌え出で,また若枝が将来の大枝と伸びてゆくのを見ることができであろう。後に,「機構」という用語は,もっぱら物質的なものに規定されて用いられるが,それでもここでは,これは,霊魂や精神に似た,はっきりと限定されるかまたは有限な,何か秩序ある活動を包含している。
このむしろ控えめな著作(スヴェーデンボリの場合,八折り版で270ページの本は小さい!)もまた,学界で注目を持って受け入れられた。書評が『学界会報』の1735年の12月号に現われたが,おそらくスヴェーデンボリはこれをヴェストロゴティアからストックホルムに戻ってから初めて見たであろう。書評者は『無限者』を,「スヴェーデンボリの高く精練された心の結実である。その心は非常に卓越しており,崇高な主題のために大いに適合している」と言っている[198*]。
これからの簡単な記事の中では,われわれは,その著作の中でスヴェーデンボリの学術生活での二つの離れた時期の間の輪となるような性質を説明するかもしれない,ただそのようなものだけに注目しよう。この本は親戚のエーリク・ベンセリウス司教に著者の愛情を示しながら捧げられている――「当時,私の心に研究への準備が整い,熱望しているとき,それでもためらい,また無知であったにもかかわらず……,現在の研究へと向けられたのは,あなたの忠告と望みによるものでした」
彼はなぜ単純な文体を用いるか説明して,「私は,形而上学の術語が心をあいまいにしないように,そして心が“物”から離れて“言葉”に執着しないように,それらの術語を放棄することを試みている」と言っている。
彼の最初の命題は,「哲学とは,もしこれがほんとうに理性的なものなら,決して宗教に反するはずがない。それゆえ,神聖な主題について,それらは啓示されたものであるとの断定から,哲学者の手は,神聖な主題と結ばれても,それを控えてもならない」というものである。誤りは,無限者について議論することからではなく,“方法”――有限な領域でそれと物を比較すること――から起こる。
信仰の事柄は,いったん各個人がそれらを理性によって確信したなら,そこには,人間の喜びを失うことも,死そのものさえ,どんなものすら存在せず,その後,それらのものから人間の方向を変えさせることができるほど非常に強力に人間の心に影響を及ぼし,それほど心は心自身を大いに尊重している。……われわれは神を,霊魂を,人間の救いを,死後の幸福を扱っているので,これは理性の全力を費やし,あらゆる神経を張りめぐらす価値がある。
無限者と有限なものとの間の比率について,これは存在しない。有限なものをどれほど分割しても,人は決して無限者に近づくことはできない――これは測りがたいものである。ある哲学者は,自然と神は一つであり同じものである,との結論を引き出した。そうした推論によって,人はついに自然を崇拝する者となる。有限なものは原因なくては何も存在できないからには,無限者は存在するに違いない。
最初の根本的な存在物については――最初の創造された形――スヴェーデンボリは読者に『プリンキピア』を参照するよう述べている。根本的なものの中に,例えば,引き続くものを生み出す能力を置いている。われわれは結果を見るとき,その原因に驚嘆しなければならない。ちょうど,精巧な職人芸による時計のような機械的な道具を見るとき,その歯車類ではなく,「発明した人物の頭の中にあるそれらの機構」という原因を驚嘆すべきである。そこで,自然崇拝すればするほど,その者は神性のさらなる崇拝者となるであろう。われわれは,自然を注意深く観察することと,人体の構造を熟考することの二つによって神を認めることへと導かれる。こうした驚くべき結果は,偶然に存在するようになったとすることはできない,なぜなら知性を放棄した原因を含むことになるだろうからである。それでわれわれは,ある力を承認しなくてはならない。その力によって,すべての元素的な物が秩序をもった始まりから発出して,秩序ある終わりのものに到達するのである。無限者なる神は宇宙の創設者であられる。
これらの議論を別にして,神の存在と無限性について人間の霊魂の中に暗黙の同意がある。多くの事柄が自明である,と彼は言う。例えば,「われわれの霊魂の感情であって,われわれに神の存在と無限性を指示する」“調和”という感情は,霊魂が啓発を欠いていてそれほど発達していないとき,そしてあまり霊魂自身の考えに煩わされていないとき,生来のものに思える。自分自身の推論以外にどんな力も用いない哲学者は,そして神性を自然に帰する哲学者は,粗野な偶像崇拝者と少しも違わない――後者は,理性があまり発達していないし,前者は過剰に発達している。
しかし,ある者は神について有限な概念を抱き,神の力を地上の支配者の権力に似せて,過誤に陥る。その者は神を“正しい”接近によって自分の側に取り込んだお気に入りの友達としてしまう。そのように推論する者は,その心での最上のものを世俗の事柄に置く。
有限な心には,無限者と“無”は同じものに思えるかもしれない。これは間違っている。原因なくしては何も与えられない。無からは無しか生じない。
無限者と有限なものの間に関係があるのは知っている,しかし,それは自然的でも,機械的でも,幾何学的でも,物理的でもない。それについて何も知られていない。無限者と有限なもの連結は,神のひとり子によってもたらされる★2。それゆえ,連結は無限そのものである。理性は無限者の性質を探求するのに少しも有効ではない。しかし,われわれは,「人間は究極の結果である,創造における神の目的である」と知っている。すべての物は,人間を“目的”とするよう意図されている。
われわれは水・火・地が人間を形成し,維持するのに貢献しているのを知る。なぜなら人間はそれらによって養われ,それらから造られているからである。……空気から聞くことを,エーテルから視覚を得ており,……われわれは,人間に付与する同じような稀薄な元素を示せるかもしれない。
神の目的が完成されるために,理性の働きが人間に与えられている。人間の中には,何か神的なもの,神性を受容するものがなくてはならない。そうでなければ,目的は成されない。人間は神を認めることができ,神を認めている。人間は神が無限であることを信じることができ,信じている。神の性質に無知であっても,それでも人間はその存在を認めることができ,認めている。人間は無限者との特殊な結合による結果の愛や喜びを感じる。こうして,人間の中にある真の神性は神の存在と無限性を承認することと,神の愛を喜ぶこと以外の何ものでもない――人間はその中に神の目的が宿っている究極の結果である。
至高の存在者は,人間に与えた霊魂が肉体の意志に屈服するであろう,そこから最初の目的が失われるに違いないと予見された。これを予見されて,神は人間に,霊魂を支配する肉体に打ち勝つ手段として理性の働きを与えられた。しかし,神がそのひとり子を備えられ,そのひとり子に“神の目的”を満たすようにするまで,神の目的はずっとくじかれてきた。そのひとり子は有限なものと無限者との間の“仲介者”である,なぜなら,この方を通して,神的なものの何か,すなわち,神がいる,この方は無限者であられるということを知り,信じる能力がわれわれに備わるからである。しかし――
霊魂は有限か,無限か?
霊魂は法則に従うか?
有限なものの中には,力学的な法則以外に何もないのか?
有限なものは外延を離れて考えられか?★3
霊魂の中には,能動的なものと同じく受動的なものがあるか?
霊魂を機械と比較するのは正当と認められるか?
霊魂は不死か?
もし,霊魂が有限かつ自然的に創造されたものなら,霊魂もまた力学と幾何学の対象であるとの結論を逃れない。このことは,霊魂が霊的なものではない,また肉体とともに死ぬものである,ということを意味するのではない。純粋な世界に住み,存在する,最も完全で有限なものは何であれ,神の恵みによって,破壊から守られる。決して死を味わうことはない。活動的な本質は霊的であり,物質的ではない。
霊魂が支配される法則は,現在は知られていない。しかし,われわれの後世は,それらの法則を知り得ないものとはしないであろう。
われわれは,地球の限界を知らないけれども,陸地が自分たちの土地で終わっていない,しかもはるかに離れてもいないところで陸地は確実に終わると知っている,ある国の未開で教育のない住民に似ている。そしてそのうち,彼らが旅行し,ある湖または大洋の海岸にやって来たとき,彼らは,われわれは地球の果てを見出だした,と叫ぶ。しかし,彼らの子孫は航海術を学びながら,経験によって,これが地の果てではないと見出だし,そしてついに,地球は丸いことを発見する。そうして,彼らは水陸から成る全地球を一周する。要約すれば,子供たちは両親よりも啓発され,両親が知り得ないと宣言し,したがって達成しようと試みるのをあきらめたものすら知り,そうして彼らは自分たちの先祖たちの単純さを笑う。……なぜ霊魂に到達することを,その力学的働きに判断を下すことについて,最終的に失望するのか? ……なぜ,今日,われわれが現在,過去の哲学者を笑うように,われわれの後世からわれわれ自身が笑われることを未然に防ごうとしないのか?
〔神の〕最終目的を自分の中に持つ者は決して死ぬはずがなく,無限者と永遠に関わりを持つ。霊魂の不死性は,われわれの肉体そのものによって宣言される。愛については,その非常に快い感覚をもって,その性質が純粋であるように純粋であり,子孫の繁殖によって永続性を目的とする肉体の粗野な部分に充満している。
私の現在の目標は,私の能力を尽くして,特に霊魂の性質や特性を論証することであり,それから,それらの与えられた特性から,霊魂はそのすべての性質が無にならなくては決して死ぬはずがないことを示すことである。そうしたものが私の目標であるので,実に際立って鈍感なちっぽけな牧師でないかぎり,だれがこれに着手するのをよくないことと思うか,私は知らない。
人体は,諸要素の運動すべてを受け入れる薄膜から成り立っている。耳の薄膜は空気の波動を受け入れ,目の薄膜は光線を集める,その他など。より微妙な波動を受け入れる,より微妙な薄膜もまたあるのではないだろうか?
薄膜は張り詰められていなければならない,ぴんと張ってなければ,運動を受けとめられないからである。薄膜が触れるときはいつでも,感覚が刺激される,薄膜は霊魂と肉体の間の仲介器官にほかならないからである。霊魂はすべての振動の中心である。霊魂は,全身に散らばっており,物質的には,『プリンキピア』に述べられている高度の有限体から合成されている。読者はその著作を参照されたい[199]。
もし霊魂は完全に力学的な運動や力から成っている,またその表面はまったく幾何学的な形をもっている,と仮定するなら,われわれは霊魂についての知識に到達することをあきらめる理由はない。
もし神が私にいのちと余暇を与えるのをよしとされるなら,私は自分の探求がどのような段階に到達したかを詳細に示したい。……われわれが知識を所有すればするほど,われわれを幸福にするものが,われわれを不幸にするものが,ますます増える。ここから,キリスト教徒である哲学者は人間のうちで最も幸福かもしれないし,最も不幸かもしれない。
* * * * *
ある流れはそれと反対の流れを引き起こすが,このことは物質的世界におけるように精神的世界では確実に真実である。そうしてスヴェーデンボリの時代に神秘主義が横行したことは,心霊現象を力学的に説明するよう彼を刺激したかもしれない。そして同じように,神を否定する傾向は,宗教を理性化する試みへと彼を急き立てたかもしれない。この時期の出版されなかった研究の中で,彼は観察している――[200*]
無知は否定への最短の道である。人間は霊魂に無知であり,その存在を疑うゆえに,神を信じない。もし,物が力学的なものなら,彼らは,それゆえそれは滅びると考える。霊魂は実際に力学的であるが,しかし滅びることのできない力学的ものが存在する。もしこれが示せるなら,私は多くの疑問が止むと思う。……霊は物質的でもなく力学的でもない,それゆえ,その存在を疑うべきである,と人は言う――これに私は驚かない。なぜなら,霊は造られたものであり,したがってそれは有限であり,無限ではない。……霊についてどんな概念も持つことができないので,人々はこれを否定するようになる――無知の隠れ場,領域に逃げ込む。人は,霊魂が最も繊細な感覚――深く隠されたものへの感覚――を享受することができるのを知らないので,それゆえ,無知であり,否定する。……彼らは,霊魂はその起源をただ無限者にだけ持つことができる,この方にあらゆる有限なものも原因がある,と知るようになる。……もし知性と記憶が力学的でなかったら,構造的にどのように記憶が引き起こされるのか,医学の助けによって可能なのか?
死後に生きることができる霊魂とはどのようなものなのか? と彼は問う。答えは,これは分解されないに違いない,なぜなら,人間の霊魂は第一と第二の有限体から成っており,そして,これらは他のどんな低次の実体による破壊力に影響されないからである。一方,獣の霊魂は,磁気的あるいは第二の元素から形成されているので,滅びるものである。霊魂,天使たち,不死性,死後の生命,これらはすべて幾何学的に論証されることができる。
哲学者たちは,感覚は震動にある,と見なし,そしてこのことが論証されるかもしれないと期待して,これを主張する者に好意をもって微笑みかける。このことは,この事実の中に真理が横たわるしるしである。「それゆえ,もし震動が適切に推論されるなら,世界はただちに同意して微笑む」。明らかにスヴェーデンボリは,小著『震動について』の中で公表した概念を拡張していた。そこでは彼はすべての生きている本質は震動にあることを論証しようとしたのである。
学界は過去に偉大な進歩をなしてきた。彼は言う――
そこで今では,推論と経験から,われわれはついに原因そのものに到達した地点,すべてのものが力学的に働いていると見なせる地点にいると思える。……なぜ,われわれはもっと先へ進み,われわれの後世が確実に確立するであろうものを確立しないのか――すなわち,われわれのこの肉体,知性,理性,霊魂そのものが力学的であるという真理である! そのうち,いつの日か学界はこの立場にやって来であろう[201*]。
* * * * *
この論文★4にスヴェーデンボリは『キリストを信じる』の記事を添えている。そこからわれわれは次の文を抜き出そう――
「だれも神を信じることによらないで救われないことは明らかである。だれもキリストを通してでなければ救われない。……キリストがご自分を示され,世の帝国のためでなく霊魂を救いにやって来た,と告げ,宣言されたのはご自分の意に適ったことであった。もし,われわれが信仰を受け入れ,それに相応しいものになるなら,われわれはキリストの中にわれわれが守らなくてはならない礼拝と生活の実像を見出だすであろう」[202]。
スヴェーデンボリはこの時期に未出版の多くの研究を書き残しているが,これらはやり過ごさなくてはならない。それらのうちで重要なのは『霊魂と肉体の機構』の論文である,その中で彼は言う――
第一と第二〔有限体〕の能動的なものがほんの小さな空間を形成し,そしてそれらのまわりに受動的な表面が形成される。こうしてあたかも最も薄い膜が作られ,その中には能動的なものが包まれている。われわれはこのような霊魂を持っており,そうした薄膜は最高度に能動的で最高度に収縮性があるに違いない。……そうした広がりが全身に分配されていて……あらゆる最も薄い繊維に入り込んでいるので,もしそれがある部分に存在するなら,全部に存在する。
もし学界が〔知識において〕過去にあったような成長を続けるなら,最終的に生命体の機構についての知識に到達するだろう,「そのときこの主題について,われわれの無知は明らかとなる。それゆえ,同じ方向へ急ごう,われわれが子供のように笑われないために」。彼は自分のさらなる研究は次のものであると提唱している――
生命体と霊魂に関するすべての事柄は,最初の哲学あるいは形而上の哲学によって,自然的な物の分析によって,幾何学と力学によって,形状と計算によって,経験によって,人体の解剖によって,結果によって,体と心の感情によって,聖なる書物によって,証明されなければならない。このように,この理論は研究されるべきである。……われわれが神について無知であり,これを疑う理由は,太陽を途中で遮る非常に多くの雲があるように,そこに非常に多くの秘密があることである……[203]。
原注
196 原題“Prodromus Philosophiae ratiocinantis de Infinito et causa finali Creationis …”(『無限者と創造の目的原因それと霊魂と肉体の働きの機構についての哲学的推論の先駆け』)1734年,ドレスデンとライプツィヒ。ジェームズ・ジョン・ガース・ウィルキンソンにより英訳されている,1847年,ロンドン。
199 『プリンキピア』第1部,第5章から第7章。
202 『心理学論文集』3-4ページの『キリストを信じる』。
203 『霊魂と肉体の機構』12〔と13〕,24,29番。
訳注
★1 mechanism;機械(装置),構造,仕組み,とも訳せる。
★2 突然に(彼の信念として)「(神の)ひとり子」の概念が持ち出されている。
★3 これらは第2章の「小見出し」である。この「外延」についての小見出しの後に「霊魂は純粋に単純なものか?」「霊魂は単純で有限なものか?」の2つの小見出しが省略されている。続く§2には「霊魂は幾何学的・力学的法則に縛られるか?」「霊魂を機械と比較する――どの意味で正当化されるか?」「霊魂は不死か?」などの「小見出し」が続いている。
★4 「この論文」とは不正確な記述である。『キリストを信じる』は簡潔なメモであり,1920年になってからアルフレッド・アクトンが翻訳/編集した『心理学論文集』(原注202)を指すと思う。なお,原注200の文献名は“Psychologia”p52。原注201 は『霊魂と肉体の機構』24番,『科学・哲学論文集』13ページ以降,となっているが,そこにこれらの記事は見当たらない。
〔研究誌『荒野』第23号,1998年5月〕