18 Journey to Holland, France and Italy
第18章 オランダ,フランス,イタリアへの旅
1936年夏の午後2時,ストックホルムから南に向かう乗り物に揺られている監査官スヴェーデンボリの姿が見られた。彼は,一人のイギリス人,それとスヴェーデンボリの財産の管理を引き受けた二人のスウェーデン人の商人であるボーマンとフルトマンと一緒だった。7月10日,またも彼は外国へと旅立った――4回目である。再び,宿の“フィッチャ”で旅行仲間と別れ,以前のときのように,リンチェピングへ向かった。アンナとエーリク・ベンセリウスと一、二日過ごすためである。
その家族は,彼が再び大陸への危険できびしい旅へ出発するのを知って,心楽しく思わなかった。彼の妹カタリーナの夫であるヨナス・ウンゲは書いている――
以前,あなたから私への手紙には「私は外国旅行を諦めた」と告げてあり,そのことを喜んだだけに,「やはりフランスへ旅することに決めました」とのあなたからのこの度の手紙に,それだけ私はがっかりしました(リンチェピング,1736年4月24日)。[204]
この時,スヴェーデンボリは自分の役職に対し,期間を定めない三ないし四年の不在許可を与えられた。このような長い休暇を得るため彼は,自分の仕事と共に,自分の給料の半分を鉱山局の働き仲間の三人の間で分配するよう取り決めた。書記官のニールス・ポラト★1は300ダーラーを受け取る一方,残りの300ダーラーは,弁護士ハンス・ビエルケニウスとセデルストレム男爵の間で等しく分けられた。
一体なぜスヴェーデンボリは,彼の大作『プリンキピア』を出版してすぐ後に,祖国でたった一年しか経過していないのに,またも大陸での厳しい旅行を望んだのか? それは,彼が言うには,前の著作で約束した続編を出版するためであり,帰国以来これにずっと取り組んできたのであった。この続編は今や,ただ外国の図書館からいくらかの必要な情報を集め,外国の学者に相談すればよいだけにまで完成していた。この著作は多くの者から望まれており,また雑事にじゃまされずに深く思考する心が要求とされるので,彼には自分が公務に携わるのと同時にこれを完成させるのは不可能だとわかった[205]。
実際に『プリンキピア』と『無限者』の著作の両方で,スヴェーデンボリは,さらに拡張してこれらを扱うことを約束している。あとの著作の107ページ★2で,彼は霊魂を機械にたとえながら――「この主題については,この論文が下準備となっているその著作の中で詳しく語ろう」,そして次のページには――「計画している著作の中で,霊魂は完全で,高度な意味で,純粋に機械的であり,これは宇宙が無くならないかぎり,不死であり滅びることのできないものであることを示そう」と述べている。
政府の事務局の雰囲気が,われわれの哲学者の深遠な思索と相入れないであろうことを理解するのはたやすい,今やまったく違った分野へ――解剖学と心理学――と心は引き付けられていた。スヴェーデンボリはその多才さで,音楽と絵画に,さらに工学,発明,兵器にその集中力を分配したレオナルド・ダヴィンチ★3になぞらえられてきた。彼らの一生の経路は,しばし平行線を走るように見えた。なぜなら,両者は思索的な大自然の研究者であり,両者ともその才能を一つの専門分野に閉じ込めることができなかったからである。二人とも現代の発明の先駆者であり,その時代をはるかに先んじていた。
今やスヴェーデンボリは国の傑出した人物の一人であった。スウェーデンを去る前,彼はカールスベリ城へ旅し,非常に丁重に迎えた陛下に,儀礼的な別れと不在許可を与えくださったことへの感謝の言葉を告げた[206]。
7月17日,彼はデンマークへ渡り,名士たちを訪れ,図書館で学び,クリスティアーン・ヴォルフの著作からの抜き書きを作りながらコペンハーゲンで数日過ごした。そこでは新しいドックが建造されていたが,彼自身,若き日々カールススクローナで乾ドック建造の監督をしていたので,これは自然と彼の興味を引き起こした。
コペンハーゲンから,アムステルダムへ行ったが,そこでは「町全体は利得しか呼吸していなかった」。しかし,彼はオランダの政府の共和国の体制にいくつかの好意的な寸評をしている。
私はここで,なぜわれらの主はこうした粗野でどん欲な人々をこのようなみごとな国でもって祝福されるのを喜ばれたのか,なぜ主はこのように長い間,あらゆる不幸から彼らを保護されたのか,なぜ主は商業と貿易と事業で他のすべての国々にまさるようにされたのか,そして彼らの国をヨーロッパだけでなく他の所の大部分の富がそこへ流れ入る場所とされたのか,と考えた。
そのおもな理由は,この国が共和国であることにあり,ここを主は君主制の国々よりも喜ばれる,ということであるように私には思える。その結果は,だれも,どのような人間に対しても名誉と尊敬の義務の中に自分を縛りつけようと強いることはなく,身分の高い者と同様に低い者も,国王や皇帝と同じ価値と重要性があると考え,またこのことは,オランダのだれもの生来の性向と気質によって示されてもいる。
彼らにとって,尊敬の念を抱く方は,ただ主おひとりであって,人間に信頼を置かない。そして至高者が最も崇められ,その場所に人間が置かれないとき,これは主にとって最も喜ばしいことである。それ以外にも,だれもが各自の自由意志を享受していて,ここからその者の神の崇拝が流れ出ている。なぜなら,だれもが,あたかも,自分自身の王であり,至高者の統治の下で支配するからである。さらにこのことから,彼らは恐れ,臆病,過度の警戒心により自分の勇気や自主的で合理的な考えを失わない。まったくの自由から,また抑制もされないで,自分たちの霊魂を,至高者の誉れへと堅く向け,高揚させることができる。至高者は,ご自分への礼拝が他のものへ分配されるのを欲しられない……。君主の権力によって抑制された心は,追従と虚偽の中に育てられ,その心は考えていることと異なることを話し,行動することを学ぶ。この状態が習慣によって根づくようになるとき,ある種の第二の性質が生まれ,そうして神の礼拝にあってすら,そうした人物は,考えていることと異なることを話し,主ご自身にまで追従の流儀を拡張するが,このことは主の最も喜ばれないことに違いない。このことが,なぜオランダ人が他の国民以上に,完全な祝福を享受しているか理由である,と私には思える[207]。
* * * * *
アムステルダムで,1736年の8月18日頃,スヴェーデンボリは『霊魂の領域(動物界)の理法』の著述を始めた。その開始には,超自然的な経験が伴ったが,そのことについてはこれが最初の記録である。彼は“金獅子”という名前の宿に滞在していて,深い瞑想の状態に入り,そのときしばらくの間続く気絶を経験した。のちに熟考してみて,この気絶は自分の頭脳を明晰にし,思考を整え,洞察力に大きな力を与える目的に役立っていたと気づいた[208]。当時,関わっていた注目すべき著作の中に,隠された真理へのこの深く透徹した結果が極めて明らかとなっている。その結論は深い研究と理性的な推論に基づいているが,しかしまた,自分の結論は正しいと励まされた,内的な確信にも基づいている。彼は,秩序ある創造の全般的理論を要約した自分の原稿の終わりに,「これらの事柄は正しい,私はしるしを持っているから」[脚注*]と書いている[209]。その“しるし”が何であったかは,『理法』の第1巻の中で明らかにされているが,そこではスヴェーデンボリは,その著作を著述中に,自分は,心を浸す「ある元気づける光と喜びの輝き」によって真理の探求を励まされた,述べている。その輝きは,「ある種の神秘的な光線――それがどこから生じるか私は知らない――頭脳の聖なる神殿を矢のように通過した」のである[210]。
彼はこのしるしをのちに再び述べている――「私はある小さな著作を書いている間,数か月の間,家の炉床の炎のような生き生きとした炎を見ないで過ごす日は,ほとんど一日もなかった」。これは,彼が言うには,神の承認のしるしであった。このことは,彼の著作の中で見出だされるその種のものの最初の言葉である。
『理法』を著述中,別の所で,スヴェーデンボリはまた,呼吸の特殊な形態のことを,彼が幼少の時に習慣となっていた,静かな,ほとんど感じられない呼吸作用についての経験を語っている[211]。
同じくこの年に,スヴェーデンボリは自分の夢を記録し始めた。
* * * * *
8月にアムステルダムを去り,パリへの道の途中,運河船でベルギーを通ってロッテルダムへ進んだ――楽しい旅であった。人々はさらに礼儀正し,彼らの丁重さはオランダ人の重々しく無骨さと鋭い対比をなしていた。
二人のフランシスコ修道会の修道士が甲板上に数時間も立って,おそらく同行の旅人のために,敬虔に祈っていた。
そうした祈りは,その祈りが誠実で純粋な心から起こったもの,そしてパリサイ人〔偽善者〕の精神からでなく純粋な献身の心から捧げられたものなら,確かに神に快いに違いない。なぜなら,祈りは多くの助けとなり……[212]。
修道士に対する彼の良い評価は,彼がフランスに着いたとき変わった。そこでは人々は惨めに生活していたのである。
どこでも,修道院,教会,修道士たちは非常に豊かであって,そこの土地の大部分を所有していた。修道士たちは慢心し,裕福であった。それらの財産を失うことなく,堂々たる完全な軍隊を作れるだろう。彼らの大部分は怠惰な生活を送っており,……彼らは,貧しい人々に言葉と祝福以外に何も与えず,その一方,貧しい者から,ただであらゆる物を得ることを強要している。これらのフランシスコ修道会の修道士たちは何の役に立つのか? 彼らのうちのある者は,ほっそりとして,痩せていて,しなやかで……当意即妙の応答をした……。私は聖人を崇拝することに関して神父と議論した……。彼はこれが崇拝であることをまったく否定した。
彼は,フランスには14,777の修道院があり,30万から40万人の宗教階級の人々がいて,9,000 の大邸宅を所有している,と記している。「宗教階級は国家のすべての財産の五分の一を所有している。もしこの状態がさらに長く継続するならこの国は滅びるであろう」。彼はフランスの歴史について,彼のノートが大きく膨れるほど徹底的に研究した。彼は人々の悲惨な状態を見て,革命が起こりかけている兆候を知った。
1736年9月3日,パリに着き,“ホテル・ハンブルク”に宿をとり,最初の一週間は観光に多くの時間を費やした。彼はリュクサンブール★4の庭園,ノートルダム寺院,王宮などを訪れた。有名な人物を訪問し,劇やオペラも見た。
しかし,これらのことは気晴らしであった。彼の深い心は計画中の著作に占められていた。快適な散歩中,彼は「空気の中の分子の形態について考察していた」。彼は新しい本の序文の最初の草稿を書き上げたが,それは,知恵の本質は至高者の存在を認めることにある,という議論を具体化したものだった。
10月2日,彼は,国王ルイ十四世による王室の後援の下に,ペティ博士を校長として最近設立されたばかりの外科と解剖学の学校から石を投げれば当たる距離にある,リュエ・デ・ロブセルヴァトールの古い通りの中の新しい宿に移った。スヴェーデンボリがパリで解剖学を研究したことについて,彼のノートには何も述べられていないが,その後に続く彼の解剖学の著述から示唆されることも一緒に考慮するとき,このことは確信できる。約1年半にわたる彼の『旅行記』での記事は非常に少ないが,おそらく,この時期に彼は忙しく,大作『霊魂の領域(動物界)の理法』に没頭していたのであろう。原稿はしばしば書き直され,解剖学の資料が積み重なるにつれ,著作の計画は変更された。
1738年3月12日,スヴェーデンボリは朝の3時にパリを去り,イタリアへの旅を開始した。そこでさらに1年半過ごすつもりであった。ブルゴーニュをその美しい城とブドウ園とともに通過し,危険なアルプス越えしてトリノを目ざした。サヴォイ★5への景色が広がっているグランドクロアで一夜を過ごし,ついに彼はフランスとイタリアを分ける最後で最高の頂点モンスニを通過した。3月21日,旅行者たちの生命は昨夜に降った雪で危険に晒された。彼らの乗るラバは雪の中をほとんど泳ぐばかりであり,一行は余儀なくラバから降ろされた。彼らが18人であり,50人から60人の人夫を伴っていたのは幸運だった。
トリノでは,イースターの祝典の間に,目を見張るような行列を目撃している。「6人の修道士が,身体から血が流れ出るように自分をむち打った。他の者は相当な重さの十字架を運ぶ。他の者は腕を伸ばしたまま歩く。さらに他の者ははりつけのしるしを運んでいる。多くのロウソクで飾られた舞台装置,その上には等身大のキリストがマリアと一緒に描かれていた」。
4月7日,ミラノへと旅した。この旅行で,彼はヴェツリーノ★6から置き去りにされ,信頼できない他のガイドと一緒の旅を余儀なくされた。「しばしば,彼は自分の持ち物を整えながら,短剣を抜いた」とスヴェーデンボリは言っている。「私は警戒し,そして彼に,私が少しも金を持っていないと思わせた」。
2日後,ミラノで堂々たる聖堂を見物した。彼は,自分の皮膚を肩にかついだ聖バルトロメオの像に言及している。しかし,むき出しになった筋肉は,非常に良く彫られてはいるものの,今は解剖学の学徒である者に感銘を与えなかった。彼は修道院で若い修道女たちと会話し,彼女らの花を買った。ミラノから北イタリアを横切ってヴェロナへ行き,そこではオペラを見た。その歌と踊りは,フランスのオペラをはるかに凌いでおり,比較するならフランスのものは単なる子供の遊びに思えるほどである,と彼は記している。壮大に建ち並ぶ教会堂,古代の円形劇場。行路をさらに東へと進め,4月19日の夕方,彼はヴェネツィアに来た。サン・マルコ寺院とサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会を訪れ,キリストの昇天の祭典に参加し,ヴェネツィアと海との象徴的な結婚を目撃した。そのお祭り騒ぎは2週間続いた。彼はオペラに見に行き,ある一人のフィレンツェ人と一緒に,リアルト橋のそばに宿をとった。
8月9日,スヴェーデンボリは,著述を終えて,パドヴァへ出発した,と記している。どの著作のことであろうか? 草稿にいろいろと示される事柄から,これは,彼の最初の生理学の著作,大脳についての研究であると結論された[213]。
その後,フィレンツェで,その優雅な宮殿,絵画,彫像を楽しんで,いくらかの時を過ごした。
ウフィツィ美術館★7には,ヨーロッパで最も立派な品々,新旧の珍品,宝石,モザイク細工やその他があるが,これらは描写不可能である。そこにはヴェネツィアの主要な像がある……。メディチ公たちの建てた礼拝堂は,おそらく最もすばらしい美術品で埋もれているであろう……。ピッティ宮★8には最も美しい絵画がある……。大聖堂近くのサン・ジョヴァンニ〔聖ヨハネ〕洗礼堂は,以前はマールス〔軍神〕の神殿であった……。その扉の青銅細工は最も貴重なものだった。ミケランジェロによれば,これに似たものは存在しない。ある者は,それらはパラダイスから下ってきたものだ,と言う[213a]。
フィレンツェを去り,9月25日に夕方,彼はフラミニア街道★9を経由し,ポルタ・デル・ポポロ〔人民の門〕を通って,ローマに,スペイン広場★10へ到着した。「私は最初,“三人王”のホテルに泊まった。しかし後に,クリスティーナ女王が以前に占めた邸宅のすぐ下のホテルに移った……」
スヴェーデンボリが訪れた有名な場所を全部述べれば,旅行案内書の繰り返しになるであろう。明らかに,彼の見損じた場所はほとんどない。彼はボルゲーゼ公園★11を,その噴水とすばらしい像の収集品とともに見物し,最近の作品からは,ベルニーニのダフネー像について特記している。ヴァティカン宮殿。パンテオン★12。サン・ピエトロ大聖堂。コロッセオ★13。アッピア街道。カピトリーノ美術館★14。ファルネーゼ宮★15をその牡牛★16とともに見物した。「サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会のすぐ隣りに“聖階段”★17がある,そこでは人々はその階段を跪いて昇り,そして至聖所すなわち礼拝所に這い上がる」。
ヴァティカンでは,ヴィラ・ルドヴィージ★18にあるラファエルの絵画を,その壮大な庭園と数え切れない立像と壺類を賞賛した。「私がもっとも好んだのは」,彼は言う,「サテュロス★19であった,また並木道のあるもの……私はヴァティカン図書館にいた。そこで壮麗な絵画,美しい瓶(壺)類,大広間……を見た。私はウェルギリウス★20とテレンティウス★21の手稿を,また古代の仮面も見た。同じくすばらしい新約聖書も」(ヴァティカン写本は5世紀からのものである)。スヴェーデンボリは,自著の『哲学・鉱物学論文集』をヴァティカン図書館に贈呈したかどうかを述べていない,がしかし,そこの『禁書目録』の中に含まれているのが,後の旅行者に発見された。おそらく,その著書が神聖な主題について習慣に囚われずに論じているからであろう[214]。
1739年2月13日,スヴェーデンボリはローマを去り,ジェノヴァ経由でパリへ戻った。おそらく,ジェノヴァでマルセーユに向けて乗船し,南フランスを通ってパリへ戻ったのであろう,がしかし,ここで不意に彼の『旅行記』は打ち切られている。その続きの書かれたページはスヴェーデンボリの相続人によって持ち去られ,決して戻らなかった。おそらく,それらページには,解剖学の学徒によって経験された個人的な性質の夢の記録がいくらか含まれていたであろう[215]。
スヴェーデンボリは,6月26日付けのラルス・ベンセルシェルナへの手紙から明らかなように5月上旬にパリに戻った――
私だけでなく,あなたの親戚のみんなが,あなたが健康で,無事にパリに到着したことを心から喜んでいます。このことについて,私たちは,あなたからの3月14日付けの歓迎すべき手紙から確信しました[216]。
パリから,スヴェーデンボリはアムステルダムへ行き,そこで『霊魂の領域(動物界)の理法』の第1巻を完成させた。その原稿の端に次の言葉を記入したとき,彼の心は深い満足に満たされた。
1739年12月27日,時計が12時を打ったとき,私はアムステルダムで著作を書き終えた[217*]。
今や第1巻は出版の準備が整い,約9か月間の組み版と校正が続いた。1740年の9月の初め,彼はハーグの友プレイス大使を訪問し,10日には,最新の著作を一部,彼に送った[218]。
帰路のデンマークでは,10月24日,『理法』の第1巻の著名入りのものを一部,コペンハーゲンの王立図書館の図書館員グラム博士に贈呈した。11月3日,ストックホルムに戻り,公務の再開に備えた。
脚注* Haec vera sunt quia signum habeo.
原注
204 J・ウンゲからスヴェーデンボリへ。『手紙と請願書』477-8ページ。
205 『手紙と請願書』477 ページ以降。
206 『ターフェル』U,76。〔原著からは[206]の位置が脱落しているが,おそらくこのあたりに付くべきものであろう〕
207 『ターフェル』U,86。
208 1744年10月26-7日の夢の記録を参照。『夢日記』101 ページ。〔『夢日記』【282】である〕
209 『微粒子の哲学の概要』(Corpuscular Philosophy in Brief),『科学・哲学論文集』162ページ。
210 『霊魂の領域(動物界)の理法』19番;『霊界体験記』2951番。
211 『聖言の講解』6905番;『霊界体験記』3464番;『霊魂の領域(動物界)の理法』第2部42番。『大脳』(1938年,フィラデルフィア)訳者の序言,26ページ参照。
212 『旅行記』,『ターフェル』U,89以降。『脳について』(1738年,ヴェネツィアでの著作)。翻訳者の序文18ページ以降参照。アルフレッド・アクトン博士により英訳で1938年に出版された,こうしてその著述から200年後に(遺稿であったものが)世に出た。博士は,これを『ヴェネツィアでの著作』と呼んでいる,著者がヴェネツィア滞在中に書いたものだからである。この著作はスヴェーデンボリが書こうと思っていたものではなかったし,彼の計画がパリの外科学校での研究によって変更されたこととも密接な関係がある。血液と心臓から始まっている『理法』の第1巻は,翌年アムステルダムに戻ったときにこれを再開したものであった。
213 『旅行記』,『ターフェル』U,114以降。
214 『禁書目録』〔要検閲図書表〕1758年,ローマ;238ページ。
215 『ターフェル』U,130。
216 『手紙と請願書』482ページ
218 『手紙と請願書』487ページ
訳注
★1 Nils Porath(1690-1753)は鉱山局書記。スヴェーデンボリに替わって1763年に,自分の給料に300ダーラー増額されて臨時監査官に任命された。2年後,彼は監査官の保証を与えられるが,これは次に監査官が空席となったとき,その給料の全額をもらえることを意味した。このことは1744年10月,監査官ヴァレリウスが亡くなったとき実現した。
★2 ラテン第2版(1886年)の190 ページ,英訳書の165ページ。
★3 Leonardo da Vinci(1452-1591);イタリアの画家・彫刻家・建築家・科学者。
★4 パリのセーヌ川左岸にある宮殿・庭園。
★5 フランス東南部の地方,もと公国。
★6 vetturino[イタリア語]乗合馬車(vettura)の御者。
★7 フィレンツェにあるメディチ家の収蒐品などを収蔵する美術館。
★8 フィレンツェにある建物。当時,政治的・経済的に大勢力を得たLuca Pitti(1394-1472)が建造させた。1550年から大公の住居。現在は絵画館。
★9 ローマに発してアドリア海岸のアリミヌム(現在のリミニ)に至る古代ローマの道路。
★10 ローマの中心街にある広場。
★11 ボルゲーゼは16-19世紀に重きをなしたイタリアの名家。シピオーネ・ボルゲーゼは枢機卿となり,ローマ市北郊に名苑ボルゲーゼを造営し,美術品を多く蒐集した。
★12 アグリッパが27B.C.に創建したローマの神殿。609 年以来キリスト教の会堂。
★13 古代ローマ最大の円形演技場。
★14 ローマのカピトリウムの丘の上に建つ美術館。1471年に教皇シクストゥス4世が古代彫刻のコレクションをローマ市民に寄贈したころに始まり,以後歴代教皇らの蒐集品が加えられた。
★15 ローマにあるルネサンス盛期最高の建築の一つ。枢機卿ファルネーゼ(のちの教皇パウロ3 世)のために1514年建設が開始され,1546年ミケランジェロに受け継がれた。現在フランス大使館。
★16 アンティオペーのふたごの息子が母を虐待したディルケーを牡牛に縛りつけて復讐するという神話を主題とした,ファルネーゼ家旧蔵の大理石群像。
★17 スカラサンタ(イタリア語 Scala Santa)。ローマのサン・ジョヴァンニ教会の北側にある28段の大理石の階段;伝承ではピラトの法廷にあった階段で,キリストが受難の時にこれを降りたとされ,聖ヘレナ☆によって運ばれてきたものだという;現在は木でおおわれており,参詣者はひざまずいてこの階段を昇る。
(☆)Helena(248-328)はローマ帝国の皇后;Constantine大帝の母;早くからキリスト教に改宗し,大帝のキリスト教信仰に影響を与えた;伝説ではキリストの十字架を発見したとされる。
★18 ルドヴィージはイタリアのボローニャの貴族の一門。Ludovico(1600-32)
は大司祭,ローマにVilla di Ludovisiを建設した。
★19 酒神Bacchus に従う半人半獣の怪物で,酒と女が大好きな山野の精。
★20 Publius Vergilius Maro(70-19B.C.);ローマの詩人,作品『アエネーイス』
★21 Publius Terentius Afer(190?-159B.C.);ローマの喜劇作家。
〔研究誌『荒野』第24号,1998年6月〕