20 Among the Learned

第20章 学者たちの間で

 「できるだけエマヌエル・スヴェーデンボリ叔父さんを訪ねなさい,しかし叔父さんが指定する時間にしなさい。叔父さんはいつも暇でいるわけではなく,時間を決して無駄にしていないからです」と,ベンセリウス司教は1740年10月25日にストックホルムの自分の息子カール・イェスパーへ書いた [237]

 実際,スヴェーデンボリの時間はふさがっていた。鉱山局での仕事に精力的に取り組んでいた。鉱石を調べ,任務をこなし,鉱山委員会での論争を決着させ,残りの時間を『繊維』の研究,それと霊魂の性質の探求に費やしていた [238]。彼は10月末にオランダから,リンチェピングに数日滞在して,帰っていた。

 弟のイェスパーは,ベンセリウス司教に「兄のエマヌエルがまだ生きているのか死んでしまったのか,私は知りません」と書き送ったとき,まだ兄の帰りを聞いていなかった。イェスパーの手紙のおもな内容は,父の遺産のうち自分の分け前として多額の金を,ラルス・ベンシェルシェルナから得ることを助けてくれるよう熱心に訴えるものだった。彼は,「私はラルスに30通ほどの手紙を書いたが何の返事もありませんでした。彼には不正に奪われていた間に私が借りていた金の多額の利息を支払う義務があります」と述べている。そしてラルスを説き伏せ,ウプサラの大きな石造りの家を売却した収益を手渡してくれるよう,ベンセリウス要求している。彼は,その家をずいぶん前にベンセルシェルナが手に入れたことを知ったのだった。合計金額は約894ポンドにのぼるが,そのいくらかは兄エマヌエルの分け前である [239]。これらの事柄が11月にエマヌエルがラルスと会ったとき決着したのは疑いない。11月は彼の名前が再び鉱山局の名簿に現われたときである。

 1739年の秋,スヴェーデンボリはアムステルダムから象眼細工を施した大理石の机をベンセルシェルナ監査官気付で送ったが,外国の家具をスウェーデンに輸入することは禁じられていたので,これが税関を通過するとき,その監査官にとってこれはかなり厳しいことだったろう [240]。この机はその後,スヴェーデンボリ自身の家の中に置かれ,結局は鉱山局に贈呈され,現在は通商省の建物となっている灰色の石造の建物の中にそのまま見られる。これは,広げられたトランプのカード・くし・手紙といった様々な物の描かれた,よく作り上げられたモザイク細工である。「あなたの多くの友達は,男も女も,この机が置かれている鉱山局を訪れ,驚きと喜びをもって,この美しい作品を調べています」とラルスは書いている。スヴェーデンボリは後になって,大理石を象眼細工する方法を説明したものを,王立科学アカデミーのために書き上げたが,これは1763年の「論文集」の中に含められて出版された [241]。彼はこの技術を習得した者がスウェーデンの王族のためにイタリア・ルネッサンスの様式で建てられている新宮殿で雇われることを願ったのである。古い城が焼け落ちた1697年以来,王族にとってふさわしい邸宅はなくなっていた。長らく建築中だった新宮殿は,その時ほとんど完成していた。建物は単純ながらも堂々としており,スウェーデンの偉大な建築家ニコデムス・テッシンの最高傑作である。彼はそれが完成する前に死んだ。仕上げは才能ある彼の息子カール・グスターフ・テッシン★1にゆだねられた。彼は父や祖父のような建築家ではなかったが,芸術のよき鑑定家であった。フランスから連れてきた木彫師と画家によって内部の装飾が美しいロココ様式★2でなされたのは,おもにカール・グスターフによるものだった。芸術の後援者としてのテッシンを述べたものがある――

 彼はすべての芸術家を,必要な者とは富を共有し,あらゆる方法で彼らの熱意を刺激しながら,自分の兄弟として処遇した。彼は彼らの輝く天分を励ましと報酬で大事に育てた。芸術家たちは,彼の意気により,自分自身の名誉と国の栄誉のために最善を尽くそうと鼓舞され,起き上がった[242]

 テッシン伯爵はスヴェーデンボリの親友の一人となり,彼の『日記』には有名な監査官についての興味深い記事がいくらか残っている(272ページ以降★3参照)。テッシンは強い性格と偉大な才能を持つ人物であり,柔らかい物腰の上品な宮廷人であって,その時代の高い文化を最もよく示す典型であった。ハット党〔タカ派・好戦派〕に属していたけれども,ロシアとの不運な戦争には不本意ながら同意しただけであって,スウェーデンの歴史上,最大の政治家の一人に数えられている。彼は最初のフランス公使〔大使の次位〕であり,それから貴族院の議長となり,そして20年間,行政評議会の委員であった。

 テッシン伯爵は新しく設けられた科学アカデミーの会員である。これはスヴェーデンボリがイタリアにいて不在中に,モルテン・トリエヴァルト★4,アンデルス・フォン-ヘプケン,カール・リンネ,ヨナス・アルストレーマー★5によって創設された。スヴェーデンボリが帰国するとすぐに,彼らは監査官を会員となるよう招き,彼の名前は1740年11月26日,会長のリンネにより推薦された――この有名な二人の間の交際の文書による唯一の証拠である。12月10日,スヴェーデンボリは満場一致でアカデミーの会員として受け入れられ,1月,協会の書記である優れた才能の持ち主であり精力的な若い伯爵アンデルス・フォン-ヘプケンによって迎えられ,自分の席についた。フォン-ヘプケンはスヴェーデンボリの最良の友の一人となった。12年後,彼は急な昇進により事実上のスウェーデン首相となった。

 「入会挨拶」〔手紙〕は,スヴェーデンボリがそのときこの招きをどのように感じていたかを明らかにしている――

 あなたがたの科学協会の会員として私を選んでくださったことを,そのときあなたがたが満場一致という好意と優遇を喜んで私に示してくださったことを,私は,皆様方に心から感謝申し上げるとともに,光栄に思います。私としては,私が科学の進歩のために奉仕しようとの関心を抱いているかぎり,私はあなたがたに確約いたします,私は決してどのような努力も惜しまず,苦労も厭いません。そしてこの目的のために,科学の真の対象であるもの,すなわち,それらを手段として,公共の福祉と至高者の栄光を増すために,また敬意を表わすために,本協会のそれぞれの方々が誓約されています。この目標を達成するために,私は自分のわずかな能力にしたがってどのようなものでも,貴協会へ奉仕を捧げることを怠りません。

  愛情を込め,尊敬をもって皆様方へ,
  あなたがたの最も従順なしもべ エマヌエル・スヴェーデンボリ[243]

 彼が最初に寄稿した論文は『ウプサラでの磁針の偏差について』であり,これはスヴェーデンボリが不在中に協会で読まれていたセルシウス教授による論文への回答として書かれたものである。摂氏温度計の発明者として有名であるアンデルス・セルシウス★6は,ウプサラ大学の天文学の教授として彼の父ニールス・セルシウスの後を継いでいた。彼はスヴェーデンボリの数学の教師であったペール・エルフヴィスの甥であり,若きスヴェーデンボリによって非常に強く望まれていた天体観測所がついにウプサラにできたのは彼の影響によるものであり,そのところでセルシウスは気象学と磁気についての注目すべき著作をものにした。セルシウスは彼自身の観測と計算の結果を記述し,『原理論』でのスヴェーデンボリの計算を批判し,スヴェーデンボリの計算は理論のみに基づいている,8°以上の違いによって間違っている,と主張した。「このことから,監査官の仮説にいくらかの手入れを要することは完全に明らかである」。スヴェーデンボリはこれに答えて,自分の理論上の計算とセルシウス教授の実測の間には,主張するような8°13' の違いはなく,ほんの1°にしか達しないものである,と主張した。

 スヴェーデンボリの生涯を研究する一般の者にとって,彼の述べたことの中で“隠された事柄を追及するのに二つの方法があり,その方法に与えた彼の定義―― a priori★7,すなわち総合法と a posteriori★8,すなわち分析法――である”ということは興味の主要点であろう。前者の方法は古代人たちにより,後者は「思考を休ませることに同意しているように思え」,感覚に訴える経験にだけ閉じこもっている今日の学者たちによって用いられる,と彼は言う。彼は両方の方法が必要であることを認めているが,しかし,科学の殿堂を建て始める前に行なえるたった一つのことは何世紀もの間の事実と経験を積み重ねることであると考える者には同意しない。彼は,セルシウス教授がウプサラで行なった正確な計算における実際の役立ちに対して感謝している,なぜなら,どんな理論も,それが確立するためには,実際の観測によって調べられなくてはならないからである。論争は翌年まで続き,議事録の中には数多くの記述がある [244]

 1741年1月29日――スヴェーデンボリの53回目の誕生日のことである――監査官は科学アカデミーに自著『霊魂の領域(動物界)の理法』を寄贈した。しかし,学界と文化的な仲間との彼の関係は,彼が霊的な使命に船出したその後,ほとんど完全に絶たれた。科学アカデミーとの結び付きは単に形式的なものとなった。それでも,この協会は彼の貴重な原稿を受け入れ,彼の死後,それらを最高の敬意をもって保存した。

 彼は当時,公務と政治に非常に忙しかった。職務を何度も休んだが,気が進まないからだとされた。1741年9月3日,彼は,イェラン・ヴァレリウスと田舎で一週間過ごし,自由な気晴らしのための欠席許可を得た。10月9日には,転居するために休んだ [245]。新しい住まいはスルーセン64番,「レントメステレフセット」と呼ばれる南向きのアパートの二階の一室であり,これは明らかに結婚した親戚カール・リンネから引き継いだものである。一階は喫茶店★9であって,この刺激的な飲料を愛したわれわれの哲学者には便利な場所だった [246*]

 しかし,スヴェーデンボリはこれら場所から場所への変更のすべてを,学問への興味を最優先して決定したのではなかったように思える,なぜなら,1743年3月26日,彼は,市の会計係りで家柄のよいカール・セゲルルンドから,銅貨6,000ダーラーで,南ストックホルムにある家と庭を購入したが,ちょうど彼はスタルボと他のダラカールリアの鉄工場での自分の持ち分をフレデリク・イレンボリ伯爵へ36,000ダーラーで売ったばかりである。そして6,000ダーラーは,それらの代金のうちまさに現金で受け取った金額だったのである。彼の義母サラ・ベリイアからの遺産は,彼の母サラ・ベームからの遺産のように,こうして同じ者の手に渡った。なぜなら,1729年に彼はシンクスカッテベリにある持ち分もまたイレンボリに売っていたからである。それでスヴェーデンボリは今では新たに得たこの不動産を除いて,すべての既得権利から解き放たれた。ストックホルム市の公文書保管所に保存されている地所の測量の記録には,それは“もぐら”と呼ばれる地区の,ホルンスガータンに位置する建物と土地とされている[247*]。

 しかし,彼がその地所を整備し,そこへ移ったのは3年後であった。その年の夏にスヴェーデンボリは再び,外国の土地で2年間以上暮らすために祖国を去ったからである。この時もまた,当時銀貨1,200ダーラーに達していた彼の給料は,鉱山局の他の者たちの間で配分された。

 女王ウルリーカ・エレアノーラは亡くなり,国王フレデリクは病気だったので,一時,スウェーデンに支配者がいなかった。ロシアとの見込みのない戦争は――これをスヴェーデンボリは政治家たちに対して非常に強く警告した――フィンランドの地で戦われ,スウェーデンの敗北に終わった。侵攻したスウェーデンの大軍は早期に,ロシアの少数の軍隊によって追い返され,悪き指揮官と貧弱な装備だけでなく,ほとんどはスウェーデンの国力の弱さに起因するが,戦争は大失敗に終わり,兵士たちの間に士気は失われた。“ハット”党は,その好戦的な熱情から致命的な失策をもたらし,今や人気はなかった。スヴェーデンボリが正確に予言したように,フィンランドの土地は失われ,ロシア女帝エリザヴェータ★10はスウェーデンの王位の継承者を思いのままに命じた。

 先の女王には継承者がなく,女帝エリザヴェータの選択の矢はホルシュタイン・ゴットルプ家のアドルフ・フレデリックに向けられた。彼に女帝は将来の戦争を防ぐことを彼に期待した。この王子は,その血管〔気質〕に少しばかり王の血が流れている者として大部分のスウェーデン人に受け入れられた。王子は,率直で善良な性質であり,芸術と科学を愛した。彼は“キャップ”党を好んだが,その一方,彼よりも権力はあるけれども,人に好かれないドイツ人の妻ロヴィサ・ウルリーカ★11は“ハット”党を気に入り,彼らの才能ある闘士,C・G・テッシンとその友人らを昇進させ,彼女の派手できらびやかな宮廷で厚遇した。


原注
237 『ターフェル』T,367ページ。
238 原稿のまま残された作品。『繊維』『繊維の変質』など。アクトン『1745年以前のスヴェーデンボリの著作一覧』参照。
239 『ターフェル』T,365ページと比較。
240 ラルス・ベンセルシェルナからE・スヴェーデンボリへの手紙。ストックホルム,1740年2月22日。『ターフェル』T,364ページ。『手紙と請願書』485-6ページ。原注541参照。
241 『ターフェル』T,586ページ以降。
242 『ターフェル』T,648ページ。
243 〔文献省略〕『手紙と請願書』487ページ以降参照。
244 『ターフェル』T,565-85ページ。
245 鉱山局議事録,ストックホルム。『ターフェル』T,457ページ。


訳注
★1 Karl Gustaf Tessin(1695-1770);当時の最も傑出した,最も精練された,最も裕福な政治家。ハット党の指導者として,アルヴィド・ホルンの政策に反対し,彼から首相を引き継いいだ。14年間(1738-52)スウェーデンの政治の独裁者だった。1754年,宮廷での人望を失い,オーケレーの屋敷に引退し,そこで亡くなった(70)。1760年3月,テッシンはスヴェーデンボリを訪問した。その後,彼の神学著作をいくらか読んだが,納得しなかった。彼は著作を狂信的なものと考えたが,そこにはまた良いものも含まれていると認めた。
★2 18世紀フランスの建築・美術・音楽の様式。
★3 第31章「スウェーデンでの驚き」の箇所であり,そこにはテッシンの『日記』から,スヴェーデンボリについての記事が紹介されている。
★4 Marten Triewald(1691-1747);機械学での才能で著しい人物。1716年,ニューカースル(石炭輸出で有名なイングランド北部の港市)の石炭鉱山の所有者リドレー氏に鉱山調査人として雇われた。1717年,彼らは鉱山の一つから水を汲み上げる“空気作用による機械装置”であるニューカメンエンジン(水揚げポンプ用初期の蒸気機関,ニューカメンとは英国機械技師の名前)の改良を試み,トリエヴァルトは鉱山で使う蒸気ポンプで数々の改良をもたらした。彼はスウェーデンに1726年へ戻り,1728-29年には貴族院に部屋をもち,物理学と機械学を講義し,これにその市の最も卓越した人々が受講した。1739年にストックホルム“王立科学アカデミー”の創立委員となった。それ以前にイギリスの“王立協会”の会員ともなっている。
★5 Jonas Alstrom(1685-1761);スヴェーデンボリより3歳年上。祖国への愛に燃え,その工業の発展に遠大な計画を持った人物だった。アルストレームはイェーテボリ北方の約20マイルの小さな村,アリングソースに貧しく生まれ,スウェーデン国内の低賃金の仕事をしてからの数年後の1707年,ロンドンに行き,そこですぐさま事業に成功し,適度の幸運を得た。1710-13年,スヴェーデンボリがロンドンでアルストレームに会っているのは疑いない。ロンドンでの生活から彼は,スウェーデンとの織物製品の輸出貿易がどんなに大きいものか知り,スウェーデンにも織物工業を設立しようとの願いが生じた。この目的のため,彼はフランス,オランダ,ドイツを旅行し,機械を購入し,その計画実現のための技術職人を獲得している。1723年11月,これらの機械や職人はスウェーデンに到着し,アリングソースでの工場設立のために下準備がなされたが,アルストレームはオランダに残り,さらに機械と職人を入手していた。1724年6月,職人とその家族の宗教的自由を与えることも含めて,アリングソース工場設立の特権を王から得て,同年の10月には,織物の製造が本格的に始まった。このために,アルストレームはモロッコからヤギを,イギリスとスペインからは羊を輸入し,羊を繁殖させるための会社まで設立した。このようにスウェーデン国自体で生産される原料によって稼働させることから,仕事は栄え,ついにはスウェーデンでの大織物工業の基盤ができた。アルストレームは,ジャガイモとタバコ栽培ももたらした。1739年,彼はスヴェーデンボリもその初期の会員の一人である“王立科学アカデミー”の創立者の一人となった。1751年,貴族に叙階され,名前はアリストレーマー(Alstromer)となった。1761年に,富豪としてだけでなく,スウェーデンの繁栄に貢献し,学問を奨励したことへの名誉を与えられて亡くなった。彼は常にスヴェーデンボリ家の友達であり,1769-71年,スヴェーデンボリの教義がイェーテボリの教会法廷で厳しく攻撃されたとき☆,彼の息子たちのクラエスとパトリックは迫害への反対を強く表明した。(☆第41章「イェーテボリでの異端裁判」参照)
★6 Andres Celsius(1701-44);スウェーデンの天文学者,ウプサラ大学教授(31), ウプサラ天文台長(41)。
★7 ア・プリオリ。演繹的に,先験的に,論理に基づいた。ラテン語で“先のものから”の意味。
★8 ア・ポステリオリ。後天的に,経験に基づいた,帰納的な。ラテン語で“後のものから”の意味。
★9 coffee house;(軽食のできる)コーヒー店。
★10 Elizaveta Petrovna(1709-62);ピョートル大帝の娘,ロシアのロマノフ家の女帝(41-62)。スウェーデンと戦い(42),翌年南フィンランドに地を得,またオーストリア継承戦争,七年戦争等を通じてプロイセン反対の側に立ち,フリードリヒ大王を苦境に立たせた。18世紀後半に優れた学者,文人を輩出したモスクワ大学は,女帝の治世下に開設された。
★11 Lovisa Eleonora(1720-82);フリードリヒ大王の妹。

〔研究誌『荒野』第27号,1998年9月〕