21 A Path to Faith
第21章 信仰への道
スヴェーデンボリが鉱山局に新たな不在許可を求めた請願書には1743年6月の日付がある。その目的は別の著作を出版するために外国へ旅することであり,そのためには外国の図書館の書物に相談することが必要であった。必要な資料を集めて,著作を出版するのにどれほどの時間がかかるかわからないが,印刷物は約4,000ページに達するであろう,と彼は言っている。彼はこれを終え,そうして自分のさらに大きな著作『鉱物界(Regnum Minerale)』を静かに安穏として続けるために戻ることを望んだ。この著作のほうが正しく王国鉱山局の職分に属するものであった。「もし私が自分の個人的な楽しみや好みを考慮していたのなら,輝かしい法人組織〔鉱山局〕に奉仕し,公共の善に対して少しばかりではあっても自分の役割を担い――同時に自分の状況を改善し,自分の財産に配慮し,気楽に暮らし,楽しい時を過ごしながら――私はむしろ千回も自国に止まっていたであろう」と彼は言っている。少なからぬ出費,危険と悩みに身をさらす外国旅行よりも,最後には好意よりも非難に出会う可能性のある単調で退屈な精神的労働の厳しい緊張下にいるよりも,それはもっと快適な生活であったろう。
それでも,こうしたことにもかかわらず,私を熱烈に駆り立てるものは,私の一生の間に,もし私が目的を達成するなら,何か真であるものを……学界で全般的に役立つことのできるものを,後世のために,役立ちと楽しみに対して,祖国の名誉に対して,貢献できるといった方法で,日の光のもとに持ってくる願いであり,望みです。しかし,もし私が自分の計画の実行を少しでも長引かされるなら,私はまったくこれをあきらめてしまうほうがよいのです……[248]。
彼のあげた旅行の理由に注目されたい――何か真であるもの,何か役立つもの,何か祖国の名誉に貢献できるものを作り出したい。これらは,〔鉱山局の〕事務所でも理解できる,彼の目的達成のために十分な理由である。彼は,「熱烈に駆り立てられる」と言っている。われわれは,新しい著作が実際に印刷所を離れる前に,その著作そのものへの“プロローグ(序文)”の中ではっきりと述べられているように,彼の人生の中で深い変化が起こったことを知るであろう。スヴェーデンボリの驚くべき経歴を説明するために,その大変化の物語は不可欠である。
スヴェーデンボリは政治上も,また仕事上も,その時代の最も進んだ思想家に取り囲まれて生きた。彼らを親しく知っており,その多くの者は,自分たちの宗教の形式を敬虔に守っていても,その唇で告白していることを,理性と調和させることができないので,心ではそれらを否定していることをよく知っていた。彼自身としては,宗教の真理を支持しただけでなく,それらの真理は理性的に論証できると確信していた――そうした真理とは,例えば,霊魂の存在や不滅性である。霊魂をその神殿の中に,すなわち身体の中に探求することが,それゆえ,彼にとって,心を奪われる目標そのものであった。彼はこれを家で,図書館で,実験室で,談話の中で追及した。
この絶え間ない探求の成果である新しい著作に『Regnum Animale』の題名を与えたが,これは『霊魂の領域(動物界)』と訳されている[249]。それは事実,『霊魂の領域(動物界)の理法』の続編であった,ちょうどその著作が『プリンキピア』の続編であったように。『理法』の中で,彼は心臓と血液をそこから派生するすべてのものと一緒に取り扱った。しかし,あらゆる事柄から,彼は全身についてのもっと詳細な研究が必要であると確信した――
それほど久しくない以前,私は,血液・動脈・心臓,その他……を扱った……『霊魂の領域(動物界)の理法』を出版した。……霊魂に向かって急速に進めた……。しかし,この問題をさらに深く考慮してみると,……あまりに性急にそこへ進路を向けてしまった,と気がついた。……それゆえ,目的地へ向けてこの全分野を走り抜けるまでは――霊魂へ向けて霊魂の領域(動物界)全体を考察し終えるまでは,自分に猶予を与えまいと決心した。こうして,私は,自分の進路を絶えず内部へ向けることにより,霊魂に通じるすべての扉を開き,ついには神の許しによって霊魂そのものを熟視できることを望んでいる[250]。
信仰によってこれらの高い真理を把握する人は,私の本から去られたい。知性に相談することもなく,啓示を絶対に信じる者は,死すべき者の中で最も幸福であり,天界に最も近く,……。私のこの著作は,理解力をもって受け入れることのできるもの以外は何ごとも決して信じない者だけを対象にして書かれている。そうした人たちは霊魂といった自分よりも崇高な存在をどんなものでも否定する傾向がある。不死性や天界といった事柄を,彼らは空虚な言葉やおとぎ話しとして否定する。彼らは自然を,この世を,自分自身を崇拝する。自分自身を獣になぞらえ,自分たちの霊魂は発散し,消滅すると考え,こうして邪悪なことに恐れもなく突進する。こうした人々だけを私は案じており,……彼らのために,私の著作を捧げるのである。
彼の熱烈な願いは,「心の中の聖なる神殿を暗くする雲を追い散らし,そしてついには,知恵の太陽である神の恩恵の下に,信仰への道を開く」ことである。「この目的が,私を駆り立て,鼓舞する」と彼は結論している。このことからわれわれは,スヴェーデンボリが無神論者に,人体に基づく議論と推論によって宗教の真理を確信させることができると考えていたことがわかる。
以前に血液を取り扱っていたので,彼は新しい著作を,血液に栄養を供給する器官,すなわち,消化器官の研究をもって始めた。プロローグで自分の方法論を説明し,「真理の光より望ましく,喜ばしいものは何もない」との広大な主張を繰り広げている。理性的な心は,耳がハーモニーやメロディーを感知し,目が自然の美しさを感知するのとちょうど同じように,物事の真理を識別する,と彼は言う。なぜなら,霊魂はその性質そのものに刻み込まれた秩序と真理を持ち,何であってもこれと調和するものの存在を本能的に感じるからである。
しかし,真理を発見するためは二つの方法がある――“総合法”と“分析法”である。総合法は「推論の糸を原理と原因から始め,その糸を原因の結果へ至るまで発展させ,解きほごしてゆく」。この方法はもっぱら高い能力を持った者に,「霊たち,天使たち,全知なる者」に属する。人間は,現象または結果から原因へと進み,外部のものから内部のものを展開させる分析法を,こうしてまったく異なった方法を用いなければならない。過去の時代には総合法が哲学で確立された様式であった,と彼は言う。しかし,この学者的な方法は人間の心に反しており,そして決して目的地には到達しない,なぜならこの方法は目的地から始めて出発点へと導くものであり,出発点での仮定が間違っているとき,人間の心を狂わせる怪物を生じさせるからである。この方法は正しく天使たちだけに,そして全知なる者に属するものであって,無知の中に生まれているわれわれのためのものではない。
一方,分析は事実から始める。その方法は材料を集め,それらを順序立てて配列し,それらから堅固な地盤の上に宮殿またはピラミッドを建築する。「私はこの方法を試みよう」と彼は言っている――
肉体の全構造を,腹部と胸部の全器官,両性の生殖器,感覚の五官を調べるために。それからある新しい学説によって[脚注*],私は“理性的心理学”への序論を示し,そして最後に,霊魂と,肉体が死んだ後のその状態について取り扱うつもりである。私が持ち出す目的のものは霊魂に関する知識である。……私は分析の方法を選んだが,この方針を公然と取った最初の者は私であると思う。
この大目的を完成するため,霊魂の住む全世界あるいは小宇宙〔人間〕を考察し,徹底的に調べようともくろみながら,私は競技場に入った。私は霊魂をその王国以外のどこかで探すのは無駄だと思ったからである。霊魂が結びついているその組織の中以外のどこに霊魂を見出だすことができるのか,……そして熟考の中に霊魂が自分自身を示すところがどこなのか,教えてほしい。肉体が,その像・似顔・型であり,霊魂が身体の原型・概念・源泉,すなわち霊魂は肉体に属している。こうして,霊魂は鏡の中のように肉体の中に現われている。それゆえ,私はその肉体の全組織を注意深く調べよう,かかとから頭まで,部分から部分へと,またさらに精密な研究によって霊魂の最初の器官である大脳そのものを,最後に,繊維も,また他の純粋な器官の形も,そこから生じる力と様相も調べようと決意した。
しかし,有機的・肉体的・物質的世界――肉体のことである――から直ちに,物質でもなく,そのいかなる属性も述べることのできない霊魂によじ登るか,飛躍することは不可能であるから,……私が霊魂へと導かれ,こうしてその場所へ接近する機会を得るために“新しい道”を敷くこと――言い換えれば,極めて熱烈に専心し,研究することにより私を導く,ある新しい学説を発見し,解き放ち,持ち出すことが必要であった。それらは……形式,秩序と段階,連続と共同体,交流と流入,対応と表象,調節である。これらのものを『理性的心理学入門』という題名の一冊の本として披露したいと願っている。
この仕事が完成したとき,そのとき私は,その王国――肉体――の王座に女王のように座り,法を施行し,思いのままに,それでも秩序と真理から,あらゆることを治めている霊魂のもとに,公認されたかのように入って行くことが許される。この広々とした闘技場で私の進路を全うしたとき,これは私の闘争の冠となろう。……[250]。
『霊魂の領域(動物界)』で示されたスヴェーデンボリの数多くの注目すべき分析的能力の中から,われわれは問題を単純にする能力を選ぶ。単純にするというこのまれな能力を自分に与えたとして彼が列挙しているものはこの新しい学説である。それらの学説によって,彼は人体の中のすべてのものを,機能または役立ちの観点から眺めた。彼は物事を全体から眺めた。スヴェーデンボリにとって,一組の器官は“役立ち,あるいは機能の一環”を成立させており,そして機能は,その構造物のほんの一本の糸や一つの単体のすべてを決定する。「役立ちはその器官がどんなものであるかを決定する」[251]。
このことは,現代の生理学者たちに大きな困惑を与えていた問題である腺について,彼の取り扱い方によく示されている。スヴェーデンボリによってずっと以前に表明されていた多くの見解を,生理学者たちは次第に真実であると確認するようになってきている。ある器官の存在はまさにその器官のための役立ちの存在を意味する,というのが自然の秩序正しさについての彼の信念であった。彼は,生き生きとした活動は莫大な複雑性をもった化学の中に成立することを知った。それでは,この化学的活動を実行するための実験所の驚くべき体系としてふさわしい肉体の腺の性質とは何か? こうして彼は,肝臓と膵臓(すいぞう)はそれらの排出管によって示されるよりもより多くの重要な働きを果たす,また脾臓(ひぞう)は,毒素から血液を浄化する中で,それらと役割を果たす,と考えた――現代の見解と完全に一致する,脾臓の働きがまったく謎の存在であった時代に,彼はその見解にまで突き進んだのである。
乳糜(にゅうび)の生成,すなわち血液に養分を与えることの取り扱いで,スヴェーデンボリはその問題を大いに単純化している。現在の解剖学の多くの教科書を読むとき,学生たちは,血液の栄養ということよりも老廃物の排出ということに注意を向けている。スヴェーデンボリは,栄養補給について,気高くほとんど詩的な様式で,考えを上方に向けた。内面に向けては物質的な面で身体に必要なものの補給のためとし,上方に向けてはその最高の機能に本質的なものとして,精神的な栄養物を必要とするとした。血液は物質と霊の両方から成り立っている。「どの血球も霊魂と肉体の両方を持っている」ことは彼にとって公理のようなものであった。
腹部の内臓すべては血液を作り上げることに向けて定められている,と彼は言う。静脈は胃と小腸の消化液から栄養分を吸い取り,この“乳糜”を門脈の組織を通して浄化のため直接に肝臓へ運ぶ。これと異なる経路によって,小腸の乳糜管は乳のような液体,乳糜を腸間膜の腺へ引き入れ,これを胸管の中へと渡す。全領域に安全と幸福を供給する胸管は,スヴェーデンボリが身体のまさに枢軸と見なした器官である。これらに基づいて,乳糜は鎖骨下静脈に,そしてそこから心臓へ運ばれ,そこでこれは血液を作るために「霊魂と結合,または結婚する」,と彼は言う。彼は乳糜をその結婚式のために準備している処女になぞらえた。霊魂または霊との結婚または結合のためのこの準備は,胸管の中で,乳糜をリンパ液と混合しているときである。リンパ液(白い血液または純粋なエッセンス)は,このように媒介の役割を果たす――あたかも,乳糜(花婿)と霊(花嫁)の間のきずなのような存在――スヴェーデンボリはこれを花嫁に付き添う若い女性にたとえた![252]
肉体の腺は,非常に最近になるまで謎に覆い隠されていた問題の一つである。スヴェーデンボリの時代には,脾臓のような器官は無用の部品であるか,自然の過誤か,または単に隙間を満たすことを意図している部品である,といった見解がしばしば表明された。肉体の栄養補給の上で,腺は何かよくわからない機能を果たしていることが,ときどきほのめかされた。しかし,最近では,内分泌腺は解剖学者から多く注目されている話題である。腺は,それらが生産する内分泌液のために最も重要なものであるとわかってきている。それらは調整の働きを行なうが,これなしで生命は不可能であろうし,成長は野放しとなろう。
肉体の中に霊魂の座を知覚するという願いに鼓舞されていたスヴェーデンボリは,特にこれらの器官の中に努力目標を見つけた。それらの器官が自然の隠された力に極めて近いものだからである。彼は腺の問題に自分の新しい学説による単純化する力を適用し,驚くべき結果をもたらした。腺は静脈の中に新鮮なリンパ液を撒き散らし,乳糜を血液に合うよう順応させる,と彼は言う。「乳糜,血液,肉体,大脳,それと霊魂の状態が必要とし,要求するものに対し,それら〔腺〕は,それを供給するものの量と質,流動性とエッセンスを調節し,調和させる」[253]。それらはリンパ液を調整し,精製して,これを肉体の必要に合わせて加減する(182番)。こうして鋭くも彼は,「肉体の状態に適合させるため,腺はそれらの状態を,その結果,その体液★1の性質を,その大部分を変える」(183番以降)ことに気づいた。
彼は三種類の腺を知った――(1) 唾液,胃液,胆汁,その他といった使者の腺。これらは消化を助ける,または組織を潤滑にする液を注ぎ出す。(2) リンパ液の大きな循環を構成し,白い血液,中間の血液を運ぶ伝達の腺。(3) 脾臓,甲状腺,脳下垂体といった内分泌腺。これらの機能は,血液の中に密かに入って,血液の“霊”をもっと生き生きさせるよう浄化することである(454番末尾,407, 275, 436番, 81番以降)。胸腺や副腎のようなあるものには,胎児の生命の間にそれらの主要な役立ちがある(437-8,275番)。脾臓のように,血球に働きかけるものもある。肝臓は,他の役立ちのほかに,血液を分離し,これを準備し,血液のための新しい栄養物を精製し,こうして腹部の内臓の機能を完結させる。さらに,腺は血液と霊に良好な状態を取り戻し,そして,生殖腺,すなわち生殖器官の場合から明らかなように生命の永続性を目指している(183番)。
「腺の王子,一族の原型と頭」である大脳は,また化学的な製造所でもある。なぜなら,大脳は,力の流れとして神経繊維の中へ“光を放ち”,そして“霊”となり,赤い血液の主要な成分となる生命を与えるエッセンスを生み出すからである(189, 190番)。脳の基底部にある脳下垂体を――現代の生理学者はこれを支配的な腺,内分泌腺の全組織の主要な調節器官と見なしている――スヴェーデンボリは血液の流れの中に入り込む“動物霊気★2”の関門として描いている。血液を単なる死んだ液体と見なすことからほど遠く,彼はこれを,その最も奥まった所に,霊魂そのもののまさに秘密のものと力を運ぶ,生きているエッセンスと見なした。
さらにもっと注目すべきものは,『脳』[254]と呼ばれるその後の著作の中に記された推論である。そこでは彼は,『理法』でのように,脳の生き生きとした動きを論じ,脳の運動は心臓による循環と同時ではなく,肺の動きと同時であると言明した。彼は,脳脊髄の液体を深く研究した。大脳の灰白質に高い機能を割り当て,また脳の皮質の中にいろいろな運動機能の局在性を示した。
このことは,スヴェーデンボリの観察や結論がすべて,現代の基準から見て正しい,と言うのではない。ヴィーン〔ウィーン〕のマックス・ノイブルガー教授が,「欠陥,間違い,不完全な証明はスヴェーデンボリの時代の欠点である。しかし,〔われわれの時代の入り口まで輝かしく届いている〕着想は,予言的な先見は……スヴェーデンボリ特有の,心の所有物であり,それらの真理は現代科学によって驚異的に立証されている」[255]と言ったとき,彼はスヴェーデンボリの限界を極めて正確に定めたのである。この言葉をスヴェーデンボリの日記の中に書かれている彼自身の告白と比較してみよう――「欠点は私のものである,しかし真理は私のものではない」
* * * * *
『霊魂の領域(動物界)』は1744年ハーグで第1部と第2部が出版され,第3部は後にロンドンで発行された。さて,同時代の科学界によってこの著作はどのように受け入れられたのか調べてみよう。『霊魂の領域(動物界)』の書評は,1744年の夏,『推論双書』の中に現われた。数年前,この雑誌はスヴェーデンボリの方法を詳しく引用し,非常に歓迎していた。今やその見解は,彼はあまりに突き進んでしまった,というものである。霊魂によって彼の意味するものを書評者は把握し損ねた。スヴェーデンボリが計画した「内容表」――この中で彼は全部の著述を完成させると17部の論文となると言っている――を論じた後で,書評者は溜め息をついて――
私はスヴェーデンボリ氏の計画をあまりに膨大なものと考える。私には,最小限,初めの3巻と同じ厚さの4冊か5冊の本の出版を余儀なくされることなしに,彼がどのようにしてこれを十分に実現させることができるのかわからない……。
2か月後,『新報(Neue Zeitungen)』に,この著作の寸評が載った。そこでは,著者自身が,『理法』を「自分の先走った産物の一つ」として認めることをためらっていないと述べている。(スヴェーデンボリはその時代を先んずるという許しがたい罪を犯したのである!)
1747年,『学界新報(Nova Acta Eruditorum)』の書評に,『霊魂の領域(動物界)』の第1巻,第2巻の辛辣で不公平な記事がある。匿名で出版された『理法』の著者がスヴェーデンボリであることをほのめかしながら,書評者は鋭く注釈している――「もしスヴェーデンボリ氏がこれ〔匿名〕をしたのなら,彼は他の人間から,本からの栄誉を彼自身に帰せられることを恐れたからである。彼は安全にこれを避けたのであろう……」。書評者は,腺の性質についての著者の深い推論を,極めて多くの「想像の産物とばかげたつまらない物」とし,彼はまったく匿名で,多くの事柄を完全に把握し損ね,最終的には嘲笑をもって受け入れ,すべての事柄を,「スヴェーデンボリの夢」でしかないとして退けた[256*]。
『新報(Neue Zeitungen)』では,スヴェーデンボリは「ひとつも重要でない事柄に関してしばしば多くのページを書く」能力を持っていると思われた。書評者は,多くの事柄が,特に触覚と味覚の主題についてが,大半の読者の把握を越えていると信じた。「他人から借りてきたのだろうと疑われる危険をまったく招くことなくして、あらゆる種類の特殊な理論で自分の名を成そう願う者にとって,スヴェーデンボリ氏の書物は大いに役立つことが証明されるであろう★3」[257*]。
『霊魂の領域(動物界)』は,スヴェーデンボリが次第に感謝の意を示さなくなった世界へ提供した彼の純粋な解剖学研究の最後の作品であった。真価を認めてもらえずに,彼は一人で突き進んだ,自分自身のために描いた道を――常に前方へ,常に上方へ,常に内部へと。彼は深く研究したが,その出版を思い止どまったものがある。それらには,『脳』についての多量の論文,他にも『感覚』,『生殖器官』,そして『心理学』についての注目すべき議論が含まれている。彼の未出版の原稿の間に見られるさらに広範な研究のほんの少しを述べただけであり,そしてそれらは今世紀になって日の光を見たものである [258*]。
『脳』の著作を評論して,現代のある医学博士は言っている――
スヴェーデンボリの到達した結論の大部分は,私が裁定できるかぎり,断然に,極めて独創的であり,またそれらの多くは先駆者であるスヴェーデンボリの仕事に少しも気づいていない他の研究者たちによって以前から確認されてきたものである。スヴェーデンボリの推論の多くは間違っており,また他のものは依然として研究が待たれる……。(しかし)この著作を読むとき,人は,200年前に完成して出版されて以来この本が神経生理学の歴史的発展の上にどのような影響を与えただろうか……,そして依然とこの著作の中に,神経解剖学者を示唆するであろうものが発見されていることに驚かざるをえないのである[259*]。
スヴェーデンボリは『霊魂の領域(動物界)』が同時代の者たちからの好意よりもより多くの敵対的な批評に出会うだろうと予感したが,これは十分に確認された。しかし,この認識不足から,彼は連続的な解剖学の著作の出版を止めたのでは少しもない。これは,次章でよく示されるが,書評が現われる前に,彼がさらなる出版を見合わせることを決定した事実から明らかである。
スヴェーデンボリは意図した到達点――霊魂そのものの発見――にどれほど近づいたのか? これらの方法によって,これに到達することは可能だったのか? 「私は霊魂を探し出すことだけを目的としてこの解剖学を追求してきた。もし私の労苦が解剖学と医学に何らか役立つなら,これは私にとって満足なものとなろう。しかし,もし霊魂の探求に何らかの光を与えるならさらに満足なものとなる」と彼は述べている [260]。
彼は信仰への道を切り開いた。しかし,この道によって,信仰という山の頂きへ登る前に,〔学問の〕断念という苦い谷間へと導かれた。われわれは,彼が進路を変えること,求める対象を獲得できる前に,その時の方法を放棄し,自分の自我そのものを退けることを知るであろう。
脚注* 太字は著者(Sigstedt)のもの。
原注
248 『手紙と請願書』498-8ページと『ターフェル』T,485-9ページを比較。
249 『Regnum Animale, anatomice, physice et philosophice perlustratum』ハーグ,1744年。
第1部「腹部の内臓」,第2部「胸部の内臓」。第3部は後になってロンドンで発行された。(『ターフェル』U,937ページ。アクトン『大脳』への序文参照)
250 『霊魂の領域(動物界)』への序文。
251 『霊魂の領域(動物界)』第1巻,第1章,「舌について」冒頭。
252 同書,第1巻,「腺について」164番以降,202番以降。
253 同書,第1巻。
254 『脳』T,ロンドン,1882年,R・L・ターフェル編集・翻訳。
255 『スヴェーデンボリ会議』〔での論文集〕ロンドン,1912年,124ページ。
260 『理性的心理学』フィラデルフィア1950年,2ページ。〔ここで引用の『文献』(1890年)は新版のものに変更した〕
訳注
★1 血液・粘液・黒胆汁・黄胆汁。これらにより体質や気質が決定されると考えられた。
★2 “Animal sprit”については第19章参照(その訳注も)。
★3 『霊魂の領域(動物界)』は,まず他人の著作の成果を述べ,それに基づいて推論を展開している。この方法についての書評と思える。
〔研究誌『荒野』第28号,1998年10月〕