27 Heavenly Secrets

第27章 天界の秘密

 1748年の秋,スヴェーデンボリがイギリスへ向かってオランダを去ったとき,彼の目的はロンドンで『天界の秘義』(Arcana Coelestia)を出版することであった。彼は新しい著作を匿名で出版することを望んだが,それには自分が非常に有名になっているアムステルダムよりもロンドンのほうがうまくなし遂げられると思えた。

 旅行の準備中,彼は留意品の一覧表を作っているが,これはわれわれにこの学者の個人的な家庭生活を垣間見せてくれる。忘れてはならない携帯すべきものは,茶・ペン・シャツ・ネクタイ・ハンカチ・ナイトキャップ・部屋着・絹のスカーフ・かつらケース・かぎタバコ入れ・鉛筆とペンナイフ・眼鏡・認め印付きの指輪・お金。購入しなければならない品物――靴下・シャツ寝巻のためのひも・“腹巻き”――おそらく赤のリンネル製――それと,二箱の強力な嗅ぎタバコ! 毛皮のコートを受け取りに使いを仕立屋へ行かせ,また港を船が出るときには,下宿屋の主人を見付け出して会わねばならなかった[368]

 荷詰めする書物の中に,ヘブル語の辞書,いくらかのノート,書類などがあった。彼の注釈「“the Exp. Sp.(霊的な経験)”とともに始め,その後,それらを一緒にせよ」には特別に興味をそそられる――これはおそらく彼の霊的な経験への言及であろう,これを『体験記』から抜き出し,その後に『秘義』へ組み入れたのである[369]

 『霊界体験記』の3423〜7番は「旅行中に」書かれた。11月23日,1週間につき6シリングでロンドンの下宿を確保した。6か月間だけ部屋を借りる契約だったのは,おそらく春にはオランダに戻るつもりだったのだろう。その下宿に定住し,新しい著作『天界の秘義』を始めた。

 6年の間,今やスヴェーデンボリの生活は二つの要素に支配されてきた――聖書の意味を説明する仕事と超感覚的な知覚現象である。前者は自然の内なるものの探求,そしてその後の,言葉の内なる意味の探求の結果として起こった。一方,彼の心霊的な経験は,どのような自発的な努力あるいは招きとも完全に独立したものである。新しい著作にはその本の題名にまで,これらの二つの要素が一緒に混ぜ合わされている――

 聖書,すなわち,主のみことばの中にある天界の秘密(アルカナ・コエレスティア)が明らかにされる。ここでは創世記の中にあるもの。霊たちの世界と天使たちの天界で見られた驚くべきものとともに[370]

 冒頭のページの中でスヴェーデンボリは,旧約聖書は隠された意味を含んでおり,キリスト教世界はこの深遠な事実に気付いていない,だれもこれを主からでなくては知ることはできない,と極めて肯定的に断言している。それについて彼は,あたかも,自分の信任状を,すなわち,なぜ自分を信じてもよいかその理由を示している。その導入の言葉は,全世界に向けて,彼が死後の生活について霊たちと天使たちによって教えられたことを宣言している――

 旧約聖書の単なる文字だけからではだれも,みことばのこの部分には天界の事柄,そしてその天界の中の全般的にも個別的にもあらゆるもの,主,その天界,教会,宗教的信念,それらと関連したすべての事柄の深い秘密が含まれているという事実を決して認めないであろう。文字から,すなわち,文字上の意味から,だれもが見ることのできるものは――一般的に言って――そこのすべてのものは,ただユダヤ教会の外なる儀式と法令を示しているだけである。それでも,主が使徒たちに啓示し,説明された極めてわずかな場合――生け贄は主を意味する,カナンの地やエルサレムは天界を意味する,……,また楽園も同じことを意味する――といったこと除いて,外なる事柄の中には決して現われていない内なる事柄がみことばのあらゆる箇所に含まれていることが真実である。

 しかし,みことばの中のすべての事柄が,全般的にも個別的にも,いや,最小の部分,最小の一点一角にも,霊的で天的な事柄を意味し,これらを含んでいることは,今日のキリスト教世界から深く隠された真理である。それゆえ,旧約聖書にはほとんど注意が払われない。それでも,みことばが真にこうした性格をもっていることは,これは主のもの,主からのものであるので,必ずや天界や教会,宗教的信念に関するといった事柄を内部に含むはずである,もしそうでなかったら,主のみことばと呼ばれることも,その中にいのちがあると言うこともできない,ということを少し考えるだけでも知ることができるであろう。ここから,いのちに属しているものからのみ,すなわち,その中のすべての事柄は,全体的にも特定的にも,まさにいのちそのものであられる主に関連を持っているという事実からのみ,そのいのちはやって来るのではないのか? それで,内部に主を認められないものはどんなものも生きていない。そして,みことばの中に主が含まれないなら,すなわち,主に関係しないかぎり,みことばの中のどんな表現も,神的なものではないのである。

 これがほんとうの事柄である,ということを知るのは,主からでなくては,だれにも不可能である。それで,ここで前もって,主の神的な慈悲により,私は今や数年間,霊たちや天使たちと常に,妨げられもせずに交わり,彼らが互いに会話するのを聞き,彼らと会話することが許されてきた,と述べてよいであろう。こうして,来世での驚くべき事柄を見聞きすることが許されてきたのであるが,これは以前には決してだれの知識にも,その考えにも入って来なかったものである。私は,いろいろな種類の霊たち,死後の霊魂の状態,不正直な者たちの嘆かわしい状態である地獄,正直な者たちの最も幸福な状態である天界について,そしてまた,特に,全天界であまねく知られている信仰の教義について教えられてきた。このことについて,主の神的慈悲のもとに,以下のページにさらに述べるとしよう[371]

 『アルカナ』は「創世記」を章ごと,節ごとに,一つの言葉ごとに扱っている。そこに含まれる意味の簡単な要約を最初に与えて,その後,個々の節の説明を順番に,その内意を極めて詳細に明らかにし,そうしてこのすべてが人間の救いに関連している様子を告げている。「それはまさに私にとって夜明けであった」や「議論の土台」といった表現が太陽の昇ることや,われわれの足元の土を言うのではないように,そのように見るとき,創世記の物語は物質世界をひとつも扱っていない。

 創造の第1日目は,再生あるいは新しく生まれるようになる前の人間の心の状態を描いている,と言っている。そのとき人間は,形がなく,何もない地のようである,なぜなら,その心はそのとき霊的な無知の厚いやみに包まれている――どのような善の形もなく,主や天界の生活に関するどのような真理に何もないからである。

 しかし,神の霊は“水”の上を動いている。主の慈悲は,その漠然とした生命力の欠如した心の上を舞いかけている,めんどりがその卵を抱くように人間の霊魂を抱いている――卵とはこの霊的なカオス(混沌)の状態から孵化しようとしているものである。なぜなら,神の慈悲により,その卵の中に,幼児の頃から秘蔵された善の推進力,それと特に子供時代の間に徐々に染み込んだ天界の知識のいくらかの残りのものが隠されているからである。

 人が,自分の所有する善と真理は何であっても,自分自身のものでなくて主のものであるとほんとうに悟るようになり始めるとき,そのとき彼に第1日目の光が射してくる。試練,不幸や悲しみは,自分自身が無価値な者であることを彼に目覚めさせる手段となろう。彼が闇から脱すれば脱するほど,結果として,ますます彼の霊的な朝へと向かってゆく。彼は今やその心の世界で,自分のために獲得し,築き上げたすべてのものは,自分の外なる,世俗の生活に関するといいたものである,そうして,ほんとうに善で,永遠の真理はどれも主から受け取るのである,と知る。こうして彼はあるものと他のものを区別できる,そして,これは上の水と下の水を区別することであり,一時的に価値のあるものと,永遠に価値あるものの区別である。

 今や乾いた地が現われた! 霊的なものが成長するための小さな土地が得られ,彼は自分の魂の土壌に柔らかい草を生み出すことができる。彼の中には非常に小さな生命がある,というのも,彼は依然として,自分のなす善,語る真理は自分自身からのものと思っているのに,ほんとうはそれらはすべて主からのものであると強制されているからである。さて,第3日目が明けた。彼は敬虔に語り,仁愛をもって行動する。彼の柔らかい草は成長している,しかし彼の世界は依然として動物がいない。彼の新しい真理は単に知性的である。

 それでも,二つの大きな光るもの――信仰と仁愛――が彼の心を照らし始める。それらは,彼が物質的に存在するために熱と光が重要なように,彼の霊魂のいのちにとって重要である。彼の意志は初夏の大地のように愛で温められる。彼の理解力は,ますます霊的な真理に愛着を感じ始める。

 今や初めて彼は生きていると言える! これ以前の彼には,ほとんど動物はいなかった。彼は,子供のように,自分が“自分自身から生きている”という幻想の中にいたことを知る。この幻想が捨てられたとき,動物であるはうものが彼の生き生きとした記憶から生ずる。鳥すなわち理性的思考は彼の新しく目覚めた理解力の空を飛び回る。

 人間の霊的な心は成長し,これは十分に生きたものとなった。穏やかな動物が生ずる,これは純粋な生きた情愛が増大するのである。神はそれらを祝福し,それらに「増えよ,地に満ちよ」と言う。心は,今や,愛から行動する,単なる信念や服従にかわって。すべての終わりに,人間が神に似せてその形に創造される。

 信仰が愛と結びつくとき,聖なる休日は人間の内なる心に存在し,主の御業は完成する! 神は休まれ,それを「非常によかった」と呼ばれる。再生された霊魂は,自己本位の悪との戦いで勝利を収めた。ほんとうの人間であるアダムが生れ,天界の楽園へ導かれるための準備が整った。

 このように見てきた創造の7日間を,スヴェーデンボリは,完全な状態にある人間,創造主がそうあるべきと意図される人間を描いている,と言う。そして,そうした性格だったので,最古代の人々は地上で生活すると同時に天界でも生活した。彼は続ける。これらの人々は天使たちとの会話が開けていた,また喜ばしい夢や幻を通して教えを受け取ったりもした。彼らには直観的に知る能力があった,物事が真であるか偽であるか,そして後者の場合,それを恐怖とともに認めた[372]

 子供らしい卑下と偉大な力と結びついた依存は,われわれの大部分にとってまるで異質なものなので,時たま,現在ですら,この完全な状態を体現する人から明らかになるものが存在しなかったなら,そうした天的な性格を想像するのはほとんど不可能であろう。そうした人は,見せ物,慰み物である世俗の事柄を嘲笑して,神と手と手をとって歩く。彼は他人への奉仕という崇高な目的に全力を注ぐ。彼は主への愛に燃える,報われようが報われまいが。彼は,主が自分に道を示してくださらないのならそこに希望がないと感じ,そして,祈りの中で,全知の方と心から交わる。その人の疲れを知らない闘争と力強い信仰ゆえに,また自分自身を無と見なしているゆえに“測量の杖”といった人である,その杖によって,われわれのだれもが自分自身を判断する。そのような人は神の御国を建設するために彼に与えられたすべての考えを主に帰する,そして天使のような忍耐をもって,孤独と偏見に立ち向かい,現在経験していることの中にある幸福を,そして永遠の未来への確かな希望を心から味わう。

 『天界の秘義』の第1章に,スヴェーデンボリが“最古代教会”と呼び,黄金時代でもあるこの原始時代の人々の性格が描かれている。彼らは「創造の秩序の中に生まれて」おり,彼らの直感は一種の“内なる感覚”であった。愛が彼らの心のすべてを支配し,彼らの意志と理解力は一つのものとして活動した。こうして,人間の考えることは何でも,その顔と目から輝き出た。欺きは怪物のような邪悪であった。彼らは天幕に住み,羊飼いであった。それぞれの家は神の教会であり,父親は祭司であり王であった[373]

 モーセが創造物語と洪水以前に暮らしていた父祖たちの記事を集めたのはこれらの最古代の人々の子孫たちからであった。彼らは,詩のように,霊的な物語を劇的で比喩的な物語に作り上げることを喜んだのであった。

* * * * *

 あらゆるものが善であった人類に,どのように悪が発生したのか,これもまた『秘義』に説明されている。人間には選択の自由があり,常に高い能力から低い能力へと転換し,支配力が与えられる可能性がある。時の経過とともにこのことが起こった。アダムを典型とする教会の子孫たちは自分たちの知識を,内なる,直観的な方法で得ることを続けなかった。その代わりに,彼らは蛇のささやく欺きに耳を貸した,蛇とは彼らの低い性質である。彼らは知識の木の実を食べた,すなわち,彼らは感覚が語りかける事柄を信用し始めたのである。女――自己の愛を表わす――は,男――理性的な心――を歪曲し,そうしてこのことは低い愛による扇動を隠した。禁じられた果実を食べることは,信仰の事柄を自己の知性によって探ることであり,ついには,このことにより,アダム“教会”の最後の子孫は天界の楽園の外へ追い出されてしまった。

 エホバの声は,まだその園で聞かれた。彼らは依然として,直感の賜物を持っていた,しかし罪を意識し始め,恥じて,彼らの創造主から隠れた。彼らの外側の,外なる心である土地は今やのろわれてしまった。彼らはひたいに汗してパンを食べ,炎の剣を持ったケルビムは彼らが以前に生きていた幼児のような無垢の状態に再び入ることを妨げた。

 最初の人類は今や悪の影響に服従し,時の経過とともに,悪はその子孫たちを最低の深みへと引きずり落とした。それでも,この悲惨な霊的な貧困から抜け出る希望と約束が生じた。人類は天界から受け継いだものから永久に締め出されるのではなかった。蛇をのろう一方で,エホバ神は次の言葉を付け加えられた――

 「わたしは,おまえと女の間に,またおまえの子孫と女の子孫の間に,敵意を置く。彼は,おまえの頭を踏み砕き,おまえは,彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)。「だれもが,これは主がこの世に来られることの最初の預言であると気づいている。実際,このことは言葉そのものから極めて明らかである……メシアが来られようとしていることが」[373a]

 それから,容赦ない戦争状態が,自己愛の蛇――肉体とその感覚の誘惑――と天界的な愛およびその信仰との間に起こった。しかし,時が満ちると,女の裔(すえ)である,受肉された主は,地上にやって来られ,みずから戦いに加わり,堕落した人類の中に蓄積されたすべての悪の力に対して,そうしてこの“蛇”に勝利することによって,ご自分の神的人間性を通して人類の完全な状態を回復された。

 これらの最古代の人々の心は,愛または願望にもっぱら支配されていた,と語られている。それゆえ,彼らが完全な状態からしだいに堕落して,悪の衝動によって占められたとき,彼らは絶対的に悪を犯すことを控え,その悪い欲望を抑制することはできなかった。理性のある裁判官としての席から自分たちの衝動を眺めるには,そうして自分たちが欲しる事柄を断罪するには,無力となっているほど彼らの意志は完全にその理解力と一緒になっていた。それゆえ,彼らの心は,自らを崇高なものとする恐ろしい幻想と危険な錯覚によって氾濫を起こした。彼らは自分たちの目から見て“ネフィリム”すなわち,巨人であった。彼らは自分たちを神である,したがって自分たちの考えは神的であると想定した。彼らの神への愛は神への強烈な憎しみと変わり,自己愛が彼らを完全に占拠した。

 「神〔エホバ〕は地上に人間の悪が増大し,その心に考えの想像することが一日中すべて悪だけであるのを御覧になった。……地は暴力で満ちた……」(創世記,第6章)

 破滅がこの堕落した世代に降りかかったが,それは洪水の形をとった。これは物質的な水による洪水ではなく,最初の人類を窒息させ,天界との結合を引き裂いく,悪と誤謬の氾濫である,とスヴェーデンボリは言っている[374]

 しかし,すべての者が滅んだのではない。そこには,“ノア”と呼ばれる者たちがいた,その性質は変化していた。彼らは内なる世界と親しく交わる能力を失ったが,直感に代わって,新しい能力である良心を与えられた。良心によって,彼らは自分自身の意志から離れて理解し,見て,こうして,悪へ傾くことに抵抗することが可能となった。これが“黄金時代”に続く,“白銀時代”の特徴であって,これは「古代教会」と呼ばれた。その教会の人々には“天的”に代わって“霊的”な特徴がある,と語られている。彼らは夢や幻からでなく,また彼らの自発的な意志から移って,あたかも離れるかのようにして,彼らの理解力に訴える教義上の教えを通して導かれる。彼らの行なったすべての事柄は,直感を通して本能的にやって来るものに代わって,理性の光の中で吟味された。彼らは自分たちの知恵を彼らの先祖たちから伝えられたものから導いた,こうして,最古代の人々の知恵を,言い伝えと伝統の装いの中に保存した。これらの伝統は最終的に石や木に絵として刻まれ,こうして彼らは文字,すなわち象形文字の案出者となった――文字は象徴的な対象物によって概念を描写するものであるが,これは芸術の起源でもある。この古代教会は,カナンの全地に,そしてアッシリア,エジプト,バビロニア,カルデア,メソポタミア,シリアといった周囲の国々に,そしてさらに遠くはギリシアとローマに広がった,とスヴェーデンボリは言っている[375]

 しかし,時の経過とともに,古代教会もまた堕落した。宗教の真理は単なる記憶の事柄へと劣化し,それからさらにまた変質し,偶像崇拝へと変わった。これが,地中海沿岸の人々の広く行きわたった多神教の起源である。イシスとホルス★1,ディアーナとアテーナー★2,ダゴンとアシュタロテ★3が神の場所を占めた。元来はそうした豊かな霊的内容をもった事柄の単なる抜け殻だけが残った。ついに心に霊的なものを少しも保有しない国民が発生した,と語られている。その国民の美徳とは,まったくの“服従”である。

 イスラエルの国民は,主によって「教会の表象物」へと形成された,その表象物の中に,宝石の小箱の中へしまうように,以前に人類の知恵そのものを成り立てさせた事柄の知識を保存することができたのである。壺を洗い,動物の生け贄のともなった儀式主義の表象的な礼拝で,何を行ない,どのように振る舞うべきかを,子供に語るように,彼らは詳細に語られた。動物の生け贄という宗教の形式すべての中で最低のものの中へ,神は人間の形を取られ,ご自身を世に入らせようと計画されたのである。

 極めて全般的であったが,『天界の秘義』で描かれた創世記の最初の11章を通じて流れている概念はそうしたものである。アダムとノアは二人の人物ではなく,二つの宗教的時代であった。そこの記事は歴史ではなく,ただ真理を象徴するものであった,とスヴェーデンボリは言っている[376]。なぜなら,モーセはこれらの11章を書き写した古代人に吹き込まれたもとの記録は,歴史的な正確さに一致すべきであるなどとは考もしないで,すべての事柄を象徴的な言葉で書いた人によって作文されたものだからである。それゆえ,この記録,または古代の聖言は,決して文字的に,または科学的に,正当性を持つものと理解してはならない。

 真の歴史はアブラハムの物語でもって始まっている,それは歴史的な物語として語られているが,それでも,文字上の物語からはまったく異なる内なる意味を含んでいる。これはあたかも文字が存在しないかのように文字を離れて抽象的に理解されるべきである! アブラハムはアブラハム以上のもの,ヤコブはヤコブ以上のものであった。

* * * * *

 この本の各章の間に,スヴェーデンボリは数多くの彼の霊的な経験を組み込み,聖書を解説する上で,これを極めて重要なものと考えた。彼はこれらの経験からの真理を他人に確信させることの困難さについて幻想を抱かなかった。拒否される可能性があっても,彼は死後の世界について知ったことを印刷し,発行することを思いとどめなかった。

 彼は霊たちと天使たちについて,天界と地獄について,しばしば『霊界体験記』から書き写した記事から,多くの驚くべき事柄を物語った。「これは実に信じられないように思えるが,しかし真実である」とこれらの説話の一つの後で述べている[377]

 霊たちと天使たちは,私自身が彼らを見ることができるように,この世の物を私の目を通して明らかに見ることが,また私に語りかける人間の話しを彼らが聞くことが許された。これはときどき起こったことであり,彼らが非常に驚いたことであるが,ある者は,私を通して,肉体の生命にいた彼らの友達を,……見た。ある者は,結婚した配偶者と自分たちの子供を見た。そして私に,近くにいる,そして見ていると彼らに告げてほしい,またあの世での自分たちの状態を報告してほしいと願った。しかし,私は……彼らがこのように見られていると告げることを禁じられていた。その理由の一部は,彼らは私を気違いと呼ぶであろう,すなわち,そうした事柄は心の狂乱した妄想に違いないと考えるであろう,ということである。彼らはこれを口先では承認するだろうけれど,心では,霊の存在を,すなわち死者がよみがえることを信じないことが私にはよくわかっているからである。

 私の内なる視覚が初めて開かれ,霊たちと天使たちが,私の目を通して,この世とその中にある物を眺めたとき,彼らは,これを奇跡の 中の奇跡と呼ぶほどに非常に驚いた。彼らは,このような方法で天界と地上の,また地上と天界の交流が開けたことの新しい悦楽に感動した。この喜びは数か月間続いた,しかし後にはありふれたものとなった,今では彼らは少しも驚かない。……これらの事柄は以下のことを示している,人間は地上に生きている間に,同時に天界の中に天使たちの間にも生きている,またこれと逆に……しかし,人間はあまりに物質的になったので,自分自身に天界を閉じてしまった。

 人間は死ぬと,「肉体の内側の部分は冷たくなり,生命をもった物質は,人間から,それがどこにあっても,無数の迷路のように織り交ざったものに中に閉じ込められていても分離する……」。人間の霊は有機的物質から成り立っているので,あの世にやって来た人間は,この世で経験するものとほとんど同じ感覚と思考をもって,自分は同じ体の中でまだ生きていると考えてしまう[378]

 新しくやって来た霊は,最初,天使たちと善霊たちに受け入れられるが,自分と似た者と自由に交わることができるので,彼は次第に自分自身の喜びと野望にやって来て,肉体の中で送っていたのと似た生活を追い求める。三つの天界があり,それぞれに,さらに内的で純粋な天界が続き,それぞれは相互愛の調和によって無数の社会に区別されている。主はそこでは太陽として現われ,天使たちの生活の言語に絶した喜びと,無数の祝福のすべての源である。また地獄も三つあり,そこに住む者たちは願っている欲望――憎しみ,復讐,残酷,姦淫,欺き,盗み,貪欲,その他の悪である――と幻想の種類にしたがって群れをなしている。

 天界と地獄の中間には“霊たちの世界”があり,そこにこの世から出て来たばかりの霊魂が最初に到着する。その時,とスヴェーデンボリは1750年に言っているが,そこは「どのようにして最大の者となり,すべての物を所有するか,としか考え,計画しない」キリスト教世界からの悪霊で満ちていた――最後の審判が行なわれようとしていたしるしであった。

* * * * *

 『天界の秘義』第1巻は1749年の夏の間にロンドンに現われ,パテルノステル通りの印刷人ジョン・ルイスによって販売された。新しい主題を扱った他の著作でしてきたように,スヴェーデンボリは『秘義』もまた匿名とした。しかし,前のときと違って,この匿名は長く続いた。スヴェーデンボリは,この世に自分の考えを与えながら,どのように自分のプライバシーを守るかを学びとっていたのである。装丁していない四折判で640ページの本はたった6シリングで売られた――印刷人の評価からすれば,断然に,あまりに安い値段である。その印刷人は広告で,この著作は「堂々と豪華に印刷されています。しかし,このことは,そうせよとの気前のよい著者の絶対的な命令でした。というのも私には,この賞賛するに足る仕事を成し遂げるための,資金も精神も不足していたからです」[379]言っているからである。

 1749年9月,ロンドンの雑誌『月刊:紳士情報(Gentleman's Monthly Intelligencer) 』は『天界の秘義』第1巻の簡単な記事を載せた。これはスヴェーデンボリの使命の初穂であった。彼は,自分が伝えるようにと与えられた神からのメッセージを印刷物によって世に送り出したのである。最初の売れ行きは,彼は多く期待していなかったが,その期待よりもはるかに少なかった。彼は『体験記』にメモしている――

 私は,2か月で4部しか売れていないことを知らせる手紙を受け取った。そしてこのことが天使たちに知らされた。彼らは実に驚いた。しかし,次のように言った。このことは主の摂理のままにされなければならない,これはだれも強制するといったことのできないものである,そうすることができても,信仰を持っている者が最初に私の著作を読むのでなくて,だれか他の者が読むのは適当でない,これは主が世に来られたときに起こったことから知られる,主は人間にご自分のことばとご自分自身を受け入れることを強制することができたが,しかしだれも強制されなかった,使徒たちに関しての場合もそうだったように,しかしそれでも,受け入れる者たちが見出だされた,すなわち,信仰を持つ者たちがいた,その者たちへと使徒たちは送り出された……[380]

 他の場所で彼は,どのように自分の教義が人々に受け入れられるかをより明快に論じている――

 悪霊らが,これらの事柄をだれも受け入れ(=把握)はしない,人々はそれらを拒否する,とほのめかした。……5種類の受入れ方がある。最初の者はまったく拒否する,その者らは信仰の敵である。彼らの心に浸透しないのでこれを拒否する。別の部類は物珍しいものとして新しい事柄を喜ぶ。第3の部類は,それらを知性的に受け入れるが,生活に関しては,以前のままにとどまる。第4の部類は,説得されて受け入れ,彼らの生活が改良されるまでに浸透する。第5の部類は,この新しい事柄を喜びをもって受け入れ,確信する[381]

 この天界からの知恵はゴールドスミス★4やゲーンズボロ★5のロンドンには大きな評判を生じなかったが,この新しいメッセージを喜びをもって受け入れた一人の男がいた。彼の名前はちっぽけな価値のものを示唆するが,しかし彼の価値は決して軽視できない。スティーヴン・ペニーはこの新しい啓示を受け入れたと知られている最初の人物である。

 1749年10月15日,ダートマスからの手紙でペニーは,『秘義』を読んで得た自分の「異常なほどの満足」を表明し,そして続編を自分に送ってくれるよう要求している。「私は旧約聖書の歴史部分を理解することを長らく切望していた……キリスト教徒の知識のために,新しいものとして,喜ばしい,有益な,必要なものだと判明した……。しかし,この啓発された著者は……彼に反対する聖職者たちのかなりの大群に対し,筆を執る覚悟しなければならない。彼らの権力も越えることのできない範囲内に規定されているのはありがたいことである」[382]

 この熱狂的な手紙は印刷人に非常に歓迎され,彼は機を逸することなくこれをクリスマスの日の『ロンドン・デイリー・アドヴァタイザー』〔新聞〕の折り込み広告とした!

 他にもまた,『秘義』に感銘を受けた者がいた。「ペニー氏の手紙を公表してからすぐに,威厳があり,賢明そうな学問のある老紳士が本屋を訪問し,(この本の)著者がだれなのか尋ねた。彼は大いに喜んで知人になりたいようだった。彼は熱を込めて,「私は,自分の全生涯で,こんなにも驚くべく人物を見たことも,聞いたことも,読んだことも決してない!」と述べた。

 ルイスは,この著作は以前にどんな言葉でも決して試みられなかったような聖書全体の講解書であることを意図している,と述べており,この本が大いに売れると期待して疑わなかった。彼は『広告』の中で「イギリスには聖書の注解書や解説書がたくさんありますが,それでも……この著者はこれまでだれも通ったことのない聖書の深淵に通ずる新しい道を勢いよく突き進まれました。著者は他のどんな注釈書をひねくりまわしたり,写し取ったりしてもいません。その思想はすべて著者自身のものです。この『秘義』は,わずかばかりを通りいっぺんに読んで理解できる本ではありません。この著者の思想は崇高で深遠です。繰り返し熟読されるなら,読者はその敬虔な心に高貴な食べ物を得るでしょう」と認めている。

 ルイスが与えている詳細には興味深いものがある――

 『天界の秘義』の著者は疑いもなく非常に学識のある偉大な人物であり,その著作は知識階級によって高く評価されています。それでも,その偉大な才能以上に謙虚さおいて卓越した人です。それで自分の名前を公けにしようとなされません。……この偉大な著作『天界の秘義』が世でどれほど成功するか,これを現在決定することは不可能です。もし学問ある者がすべて,利発で敬虔な,ダートマスのペニー氏と同じ心を持つなら,成功を危ぶむ必要はありません……。

 おそらくイギリスで第1巻が印刷されているのを見ている間に,スヴェーデンボリは第2巻の準備をしていた。1750年2月,その印刷は始められた。彼はこれを一般の読者がラテン語版と同時に英語版の両方を得られるように,また第2巻全部が整うまで待たせないように分冊で出版することにした。ルイスによる「第2巻への広告」――直前の引用文はここから取っている――の中で,彼はスヴェーデンボリが第1巻のために200ポンドを,また第2巻の印刷のためにも同額を前払いした,と言っている。「創世記」第16章の翻訳は「著者自身の要望に応えて,善良な性格で学問のある紳士ジョン・マーチャント氏によってなされた。著者の彼の困難な仕事に報酬を与えた」[383]との情報を提供する確かな証人の言明を除けば,英語版は出版者自身の意図による,と考えられている。

 英語版の題名は『Arcana Coelestia or Heavenly Secrets, which are in the Sacred Scriptures or Word of the Lord, laid open…together with the wonderful things that have been seen in the world of spirits and in the heaven of angels.T.,1750年,定価8ペンス』★6
この珍本はほんの数部が今日まで残っている。その一つはスヴェーデンボリ自身の所蔵本であり,現在はストックホルムの王立図書館にある。別の本がペンシルヴェニア州,ブリン・アシン,新教会アカデミーの図書館にある。

 第2巻のラテン語版の印刷のための手書き原稿は,スヴェーデンボリがその冬を過ごしたフランスからロンドンへ送られた。『秘義』の第1巻が印刷された後,1749年の秋にスヴェーデンボリは医者から必要な休息をとるよう忠告されたようである。それで翌年を社交人の集まる温泉場エクスラシャペル★7で過ごした。

 アムステルダムに住むスウェーデン人の商人であり,スヴェーデンボリの代理人として働いた友人のヨアヒム・ヴェレトマン★8によって,いくつかの手紙がその地へ送られた。1750年の手紙は,スヴェーデンボリがその時,故国へ帰る準備をしていたことを示しており,また,アムステルダムに立ち寄った際,故国へ携行するため保管してある本の小包にも言及している[384]

 その時代の多くの人々の特徴と同じに,ヴェレトマンは珍しい植物や花の愛好家であって,そしてその時,スヴェーデンボリから種や球根の注文を受けていた。そしてそれらはストックホルムにある彼の庭に植えられることになる。おそらくスヴェーデンボリは,これらの小さな地上の種と,自分によって人々の心に蒔かれ,天界の秘密を新たに開くことになるこれらの貴重な天界の種との間の“対応”を認識していたのではないだろうか?


原注
368 『ターフェル』T,383-6。これらの覚書きは,『イザヤ書と創世記の索引』として以前に使用された書物の中に,それとまた草稿のままの『霊界体験記』の余白のページに書かれている。
369 スウェーデン語(省略)原文には「the Exp. Sp. とともに始め,それからそれらを一緒にせよ」とある。『聖書の索引・T』の凸版写真395ページ参照。ターフェル博士は,この覚書きは『秘義』の原稿に言及していると思っている(T,384それとU,973),しかし,アクトン博士は,『秘義』は1748年12月の初旬頃まで始められなかったことを結論的に示している(『聖言の講解への序論』132ページ。注釈とこの続きのページ〔邦訳『転身期のスウェーデンボリ』の166ページ以降,原註347〕)
370 Arcana Coelestia quae in Scriptura Sacra, seu Verbo Domini sunt, detecta: hic quae in Genesi. Una cum Mirabilibus quae visa sunt in Mundo Spirituum et Coelo Angelorum, London, John Lewis, Vol.T,1749, to Vol.X,1753. Ibid.,…hic quae in Exodo…Vol.Y,1753 to Vol.[,1756。
371 『天界の秘義』1-5番。
372 『天界の秘義』6-13;125番。
373 『天界の秘義』218番以降,1114-1129番。
373a 『天界の秘義』250番。
374 『天界の秘義』563番〔番号に誤植があると思え,修正した〕「内的な呼吸」がやんだとき,続いて“窒息(息を止めること)”が起こった。スヴェーデンボリは,この“窒息”の性質を理解できた,と言っている。彼自身の呼吸が,かなりの時間,外なる空気の助けなしで内的な呼吸ができるよう,主により作られていたからである。『霊界体験記』3317番以降,特に3320,3326番。(第1章5ページ参照)
375 『天界の秘義』560番以降。
376 『天界の秘義』1404番以降。
377 『天界の秘義』67-72番。
378 『天界の秘義』1880番; 168-189;314-323番,その他も。
379 『ターフェル』U,492ページ以降。
380 『霊界体験記』4422,1464番。〔1464番は誤植と思える〕
381 『霊界体験記』2955番。
382 『ターフェル』U,498-9。
383 『ターフェル』U,974,注。R・ハインドマーシュ著『新エルサレム教会の勃興と発展』1861年,ロンドン,6ページ参照。
384 『ターフェル』U,223-6,それと607-8。


訳注
★1 イシスとは古代エジプトの主女神。死者の守護神,復活神として崇拝される。牛の角をもつ姿で描かれる。ホルスとは鷹の姿(頭部)をもつ天空神・太陽神。
★2 ディアーナ;?ローマ神話?月の女神で処女性と狩猟の守護神。英語読みでダイアナ。アテーナー;?ギリシア神話?知恵・芸術・戦術の女神。
★3 ダゴン;ペリシテ人が礼拝した(おそらく)半人半魚の主神(士師記16:23)。アシュタロテ;バアルの妻と考えられる豊穣・性愛・多産の女神(士師記2:13など)。
★4 Goldsmith(1728-74);アイルランド生れのイギリス詩人・作家。
★5 Gainsborough(1727-88);イギリスの肖像・風景画家。
 当時実在したこの二人の名前を直訳すれば,それぞれ“金の細工人”“利得の都市”であり,金(gold)や利得(gain)を連想させる名前である。後出のペニー(penny)がイギリスの最低の通貨単位であり,“安物”の意味を持つことと対比させるためこの名前を持ち出したのであろう。こうした“言葉遊び”はなかなか翻訳しきれるものではない。
★6 すでに訳出してある『題名』とほぼ同じなのでこの訳は省く。
★7 アーヘン(ドイツ西部の,ベルギー・オランダ国境近くの都市)のフランス名。
★8 ヨアヒム・ヴェレトマン(Joachim Wretman);スヴェーデンボリは1749年9月中旬アムステルダムを訪れた際,そこに住むスウェーデン人実業家ヨアヒム・ヴェレトマンに会った。以前に何度かアムステルダムを訪れたときに知りあって以来,二人は親しい友だちであった。ヴェレトマンは種や球根の販売人であり,スヴェーデンボリはそのときからそれらに非常な興味を抱いた。

〔研究誌『荒野』第36号,1999年4月〕