28 Green Things Growing
第28章 植物栽培
この時期のスヴェーデンボリが,高貴な主題にどれほど深く没頭していたか,書き物机に背中をかがめてその指で絶え間なくどれだけ鵞ペンを走らせていたかを知っているとき,目先を変え,スヴェーデンボリのまったく違った光景を見出だすのは,これはほんとうに楽しいことである。なぜなら,この学者は同時に庭師でもあったからである。スヴェーデンボリが初めてホルンスガータンにある自分の小さな地所の庭にも草木を植えようとの思いを抱いたのは,フランスのある優雅な庭園であったかもしれない。その庭園の所有者は誇らしげにその客人を花壇から花壇へと導いたのだった。あるいはその思いが浮かんだのはオランダであったかもしれない,そこはチューリップやヒヤシンスが折り重なるこの世で最も色彩溢れた庭であった。スヴェーデンボリは,いろいろな種類の種を集め,またその栽培に興味を抱いて,1750年の春,ヨーロッパから戻った。
当時,名だたるほとんどの人は“自然”と直接の知人となるような趣味を持っていた。美を愛するその時代の人たちにとって,“自然”は,現代のわれわれにとっての車や映画であった。フランスの優美な女王は田舎娘を演じた。ルソー★1は貴族階級の若い婦人たちに植物学を課題とした。ハンス・スローン卿★2は地球上の各地からの標本を分類した。植物界は開放された! 自然科学はもはや本を手にした古い人たちの独占的領域ではなくなった。ハマービーにある“花の王”リンネ★3の家から,熱心な学徒らが輩出し,驚くべき新たな物を発見しようと野や森に船出していった。学徒らは,ニューヘブリディーズ諸島★4から中国まで,世界の庭園や密林を探検し,そして,今まで聞いたこともない鳥やびっくりするような新しい植物の種を持ち帰った。ある者はノバイスパニア〔北米の旧スペイン領地〕へ,またある者はキャプテン・クック★5とともにタヒチへ行った。背の高いスウェーデン人フィン・ペール・カルム★6はアメリカへ航海した。
これらはすべてスヴェーデンボリの世界の一部であった。彼もまた冒険家と呼ばれてもよい。霊的な“コロンブス”としてである。彼が新発見した王国は,静かで快適な隠退生活の中でしか探検できないものだった。スヴェーデンボリの庭は市中心部からは海峡を横切った高い崖に位置していた。セーデルマルムまたは南ストックホルムと呼ばれる地区である。この高台に立つとき,左手にはメーラル湖,右手にはバルト海への水路が広がっている。前方――北向き――見下すあたりに,宮殿,貴族院,その他の公共建築物を含む旧市街が,そしてその向こうに,北ストックホルムの新しい家々が横たわる。ぐるりと見渡すとき,教会の尖塔が点景,帆船の帆柱が線景となっている。
スヴェーデンボリの敷地は,東西336フィート〔102m〕南北に156フィート〔48m〕,全部で1エーカー〔4,047u〕よりもやや大きい長方形をしていた。完全に木の塀で囲まれており,門のあるもう一つの塀で,住まいとする家と馬小屋を含む東側三分の一の敷地,それと芝生・果樹園・野菜畑・サマーハウスを含む西側三分の二の敷地の二つの部分に分かれていた。
隣人は上流社会の者ではなかった――隣にチーズ商人のケンペ,もう片側にはロープ作りのノイマン――しかし,イレンボリ邸やトッティ邸といった豪邸もいくつかあった★7。敷地は小ぎれいだった。これは以前,宝石商が所有していたが市の役人のものとなり,スヴェーデンボリはその役人から1743年に購入した。彼の親友で銀行の重役カール・ロブサームはこの近くに屋敷を所有しており,同じ街にはスヴェーデンボリ若き日の知人クルストファー・ポルヘムも住んでいた。
もともとの建物は,ホルンスガータンに面し,通用路には塀もなく開放的な小さな田舎風の家であり,その近くには馬小屋と牛小屋があった。毎朝,牧童が近所の牛を集め,共有の牧場に引き連れていった。すべての建物は赤く塗られ,屋根には瓦がのっていた[385]。スヴェーデンボリが外国に行って留守中の最初の3年間は,ニルス・アールステッド,それとその妻と3人の娘がそこに住み,屋敷を管理した。スヴェーデンボリが家に戻ったとき,みんなを収容するには居住部分が狭すぎた。それ以外にも,彼は「自分が育成する物」〔植物〕のための空間が欲しかった。そこで1752年,大工を雇ったところ,彼の“窓税”は4から13へと引き上げられた。『天界の秘義』の草稿の欄外には,梁80本・上質の厚板12荷・板25荷・扉・窓・ガラス・ちょうつがい・錠前・釘・陶製かまどの費用,作業人の賃金が記してある[386*] 。
それから,自分の地所を完全に囲む木製の高い塀を築かねばならなかった。また,自分専用の興味深い家をもともとの土地の南に庭へ向けて建てた。そこには,フランスのバロック様式で設計され,こってりと彫刻をほどこされた門を通って入る(付録E参照)。スヴェーデンボリの住まいは,簡素だが広々としており,縦57フィート〔17m〕,横48フィート〔15m〕,軒高9フィート〔2.7m〕で,瓦葺きのマンサード屋根★8で覆われている。羽目板は明るい黄土色,ひさしの下部や雨どいの縁取りは濃い赤色,窓枠は白色で塗られ,堅い材木で建築されている。居間は最初に二重扉,続いて三つの窓,一番奥に屋根付き通路で庭へと続く小さな扉があった。
二重扉を出ると,階段が〔この居間の外の〕ホールへと下って,真っ正面には,この家の切妻壁面にある窓によって明るくなった,らせん階段がある。右手には二つの前窓から明かりを採った応接間があり,青色の陶製ストーブで暖が取られる。このストーブは優美な調度品である。ここにはスヴェーデンボリの,象眼された大理石の机,オルガン,それとおそらく,彼の銀製と白のティーカップを収容する食器棚もあったことであろう[386a]。
この部屋の先は寝室であり,そこには現在,彼の肖像画が掛けられている。ここから扉が「物書き小室」につながっている。東南隅の小さな部屋であり,そこでは絶えず火が燃やされ,その火でかの学者はコーヒーを沸かした。この部屋に本は,彼の『ヘブル語とギリシア語の聖書』と『索引』以外に何もない。机の上はいつも原稿でいっぱいだった。
大きな上階は,天窓があって光がよく差し込み,ストーブで暖かく,それでスヴェーデンボリは当時“オランジェリー”〔オレンジ栽培温室〕と呼んだ〔家屋付属の〕温室として使った。われわれの哲学者は,ここで鉢植えの苗木を育て,ここを熱帯植物の冬の間の避難所とした。ヨアヒム・ヴェレトマン★9はアムステルダムから,種の順序について書き送った――
あなたの所望されたマルリウム・サナ(Mallium Sana)は,当地ではまったく知られていません,少なくとも売られていません。けれども,もっと詳しい情報を得る約束を取り付けました。少量でも入手次第,それをメロンの種と一緒に,あなたに発送いたします。ところで,あなたのココムベス(cocombes)ですが,これがココムブレの種を意味するのでないとするなら,正確には何を意味するのか悩んでおります[脚註]。それでこれに関しては注文品を送るよりも,あなたからの正確な情報を待ったほうがよいと思っております。チューリップ,ヒヤシンス,その他の球根は霜の降りる前の秋に地に植えてください。もし,春に植えるなら芽が全部出きらず,花は咲きません。その上,球根は腐ってしまいます……[387](アムステルダム,1750年2月10日)
何年か前,ストックホルムの王立図書館で,1752年用の小さな「暦」が発見され,その余白はスヴェーデンボリの手書きの覚書きでいっぱいだった。そのほとんどはロンドンの印刷屋へ送った『アルカナ』のページ数の記録である。毎日のページの末尾にわずかな言葉を記している,例えば――
ジョン・ルイスへ,205,206,207,208ページ,4,700番まで
教会,しかし,そこにではなく
日めくり暦のページの裏側に,スヴェーデンボリは,何の種を,庭のどの仕切りに,そのどこに植えたか書き付けている。ホウレン草・パセリ・ビートの記入がある。彼はカミルレを手に入れ,満足していたことがわかる。
第1仕切り――アーティチョーク〔キク科の多年生葉菜〕
第2仕切り――レモン,中央にカミルレ,その後ろにイトスギ。
ヒエンソウ・サルビア・スミレ・スイートピー・アメリカナデシコ・亜麻・マツムシソウをどこに植えたかについて多くの記述がある。小さな木の向こうにイヌハッカ・ケマンソウ・大爪草が育っている。〔接ぎ木用の〕台木はいっぱいあった。鳥小屋のそばのバラ園の中には,長い茎のピンクや甘く薫る白いバラ,3種類の風鈴草と「新しい庭で育った青バラ」が栽培されていた[388*]。
「もしあなたに二つの長上着があるなら,その一つを売り,あなたの心を養う花を買え」と中国の古い諺に言われている。花に対するスヴェーデンボリの興味は,純粋に美への愛からであろう。彼の友達の一人によれば,「自分の子のように,彼は花の女神フローラ★10の変化に富んだ美しい色の子供たちを愛した」。それと,植物の雌雄によるリンネの体系の基盤である受精といった問題にも興味を持っていたのかもしれない[389]。
「暦」によれば,1752年4月19日,ちょうどこの日チューリップのつぼみが開き,庭師の娘マリヤの結婚を祝った。彼女の人当たりよい〔結婚式の〕後見人はスヴェーデンボリが結婚式へ臨席したことを誇ったことであろう,とわれわれは思いたい。おそらくそのときスヴェーデンボリは霊の中で,天界で見られると記述したような「婚礼の庭」を認めたであろう。そこでは灌木や花がすべて雌雄一組みになって成長するのである![390]。
二,三日後,特に興味深いことを記している――
今日の午後,最前列の長い仕切り三つにアメリカの種を――それら全部に桑の種を植える。4番目の仕切りに,庭の端まで,ある種のさやの生る,アメリカからの木を植える。三つの種……中央にはアメリカスズカケノキ・ブナ・3本のアメリカハナミズキ。2列のエンドウ豆の両側の4列全部にアメリカトウモロコシ,10種のうち2種。奥の四角い仕切りには,アメリカメロンの間に3種類の種を配置した。仕切りの真ん中には,つるつるしたつやのある黒い種(スイカ?)。若木の後ろにアフリカメロンの種[391]。
スヴェーデンボリは,どこからアメリカの種を得たのだろうか? 当時オランダから球根を得るのは,現在よりもやや面倒ぐらいで済んだであろう。しかし,アメリカは途方もないほど遠く離れており,ストックホルムの一庭園が,桑・ブナ・ハナミズキを入手するには特別な代理店のようなものが一役かんでいなければなるまい。
そのようなことが起こった――1745年,スウェーデン科学アカデミーは,スウェーデンの土壌でも十分に成長する耐寒性の強い新しい植物の種を手に入れるために,植物学者をアメリカに送り出した――スヴェーデンボリはその会員だった。その植物学者とは好漢フィン・ペール・カルム★6であり,山岳地帯の月桂樹である美しきカルミア★11は彼を記念して名付けられた。その旅の報告は印刷され,いまだに興味の的となっている。1748年9月5日,彼はフィラデルフィアにいた。
彼は,「私は新大陸に到着したのがわかった。見渡す限りどこもかしこも,私の知らない植物が目に入り,ある種のものは決して見たことのないものだったからである。木を見るたびに立ち止まり,仲間にその名前を尋ねた……。最初の2日間は,よく調べてみようという気など起こらず,ただ歩き回り,草木に目を見張るだけであった」と言っている[392*]。
しかし,すぐにカルムは,フィラデルフィアに住むおもな者に紹介状を提出した――それにはベンジャミン・フランクリン氏も含まれ,同氏は彼にあらゆる必要な情報を与え,いろいろと援助した。「私の父は,ここへ移住し,この土地を耕すようにと最初に送られてきたスウェーデン人の一人である。父はフィラデルフィア一帯が巨大な森林であった時の思い出話しをしてくれた」と語る91歳の老紳士に会った,とカルムは述べている。
1751年8月1日,カルムはアカデミーの会員のため手に入れた種の荷物とともにストックホルムに戻った。その種のいくらかはスヴェーデンボリのためのものである。彼は明らかにこの調査旅行の出資者だった。「気づかないうちに,私はヨーロッパに大いなる不幸をもたらすことになりそうだった」とカルムは自分の旅について述べている。「私は非常に良好で腐ってもいないように見えるスイートピーの小さな荷物を携えていた。包装を解くとスイートピー全部が虫に食われているのがわかった。どの豆の穴からも虫が頭を出してのぞき見し,ある虫は新しい風土を味わおうとして這い出ていた。私はすぐさま包みを閉じ,こうしてこの破壊的な動物の逃亡を阻止したことに満足したのだった」
* * * * *
スヴェーデンボリに戻ろう。彼にとって庭とは,結局,気晴らしの一つであった。彼がどれほどこの気分転換を必要としたかは,その著述量を考慮してみれば明らかである。毎年,ロンドンの印刷屋へ『天界の秘義』最新巻用の原稿を送っていた。8年間で,四折判★128巻――英訳の八折判★13だと12巻――を著述し,これ以外にも手元に置くための同じ量の本文を書いている。草稿を書き上げ,それから印刷人のための清書原稿を作るのが彼のやり方だった。『秘義』の初版には印刷人の数多くのミスプリが含まれていたので,この最初の草稿が保存されていたのは幸運だった。スヴェーデンボリは,もちろん,校正の機会を持たなかったが,しかし,このミスは次の版で学者たちによって現存する草稿★14と注意深く比較され,改正された[393]。
こうした深い研究には,四六時中,家に閉じこもった完全な静けさが要求されるが,スヴェーデンボリは決して世捨て人ではなかった。科学アカデミーで一緒の会員サムエル・サンデルスは,彼を「愛想のよい,陽気な気質の,社交を好む人物」と評した。カール・ロブサームは,しばしばスヴェーデンボリの家を訪れる特権を,また自分の家で,さらにまた親類の家で交わる特権を得たが,その彼は言う――
過酷な仕事からの気晴らしとして,スヴェーデンボリは知的な人々との交際を楽しんだ。常に彼はその人たちに受け入れられ,多くの尊敬を得た。スヴェーデンボリは独身のまま全生涯を過ごしたが,しかし,これは女性への無関心によるのではない。彼は上品で聡明な女性との交わりを純粋な喜びの源泉の一つとして,高く評価していたからである[394]。
それで,ときどき,優雅な馬車がホルンスガータンに止められ,装飾用モールを付けた〔光沢ある〕サテン織りの服の紳士が,羽毛とファージンゲール★15のスカート姿のすてきな婦人に手を貸すために,降り出てくることもあった。彼らはちょっと立ち止まって,監査官スヴェーデンボリの住む家の前の可愛らしい花壇を賞賛したことだろう。またもしかしたら,彼らの友の居間から流れ出てくるバッハのメロディーに互いの笑みを交わし,そのリズムに合わせて拍子を打ったかもしれない。北国の夏の日の遅い晩には,われわれの学者は仕事に一息入れ,オルガンに時を過ごしただろうからである[395]。
訪問者たちを想像してみよう。フレデリック・イレンボリ伯爵とその妻はスヴェーデンボリに居間へ迎えられ,銀のポットからコーヒーを給仕されるが,このポットはブランケンブルグの公爵〔ルートヴィッヒ・ルドルフ〕から監査官への贈り物だった。続く会話には笑いと真面目な話題が入り交じった。友人たちは,ストックホルムで自分たちと一緒の愛すべき監査官を喜んだ。確かにスウェーデンは住むのに快適な国である! その上,そこの人々は多くの分野で進歩している。最近,彼らは旧暦からグレゴリオ暦〔現行の暦〕に変えたが,このことだけが,スウェーデンを大部分のヨーロッパ諸国より11日程遅らせたのであった〔もちろん,軽い冗談〕。
当時,アドルフ・フレデリック国王★16とプロイセン〔プロシア〕出身の彼の女王が何年も待たされた後でやっと移ることのできた新しい宮殿としてのすばらしい建物があった。哀れな女王ルイザ・ウルリーカ★17にとっては,彼女の相続した国でならさらに幸福だったろう! 実に,王権は大いに削られていた。それで新しい宮殿は,もちろん,プロイセンと兄フレデリック〔いわゆるフリードリヒ大王〕の宮廷を恋しがる彼女の慰めとはならなかった。この宮廷の方が彼女にはスウェーデンの宮廷よりも魅力的に思えた。国王が権限を得たくても,カール十二世があまりに権力を乱用したので,もちろん,貴族階級にはこれをほとんど期待できなかった。農民と聖職者らは,いつものように,貴族たちに反抗して国王側に付いた。これには期待できた。しかし,国は依然として“ハット党”と“キャップ党”★18に二分されていた。スヴェーデンボリは,「すべての政党は,その一分派の,どの党員も,相手を粉砕しようとする個人的な首切り斧を持たないなら,だれもが国益を最初に考慮するなら,すぐさま同意できる」と思った。
談話の際,監査官は最近の自分の手入れぶりを見せようとして客人を広い庭へと誘ったかもしれない。彼らは木の門のところで立ち止まり,耳を傾けたであろう,この庭は歌声にあふれているからである。右側のライムやリンゴの木から鳥たちが夕べの祈りを声を震わせてさえずる。これに応えて左側の鳥小屋の囚われの歌手たちが合唱する。歩み進むと,小さなあずまやで交差して出会う四つの道で分割された芝地が目に入る。客がこの中央にあるあずまやに入るとき,スヴェーデンボリは,「これはあるイギリス紳士の庭園で見た物を真似しました」と説明するかもしれない。このあずまやは,平らな屋根と装飾された蛇腹〔ひさし部分〕のある格子造りで,それに心地好いベンチ・長いす・腰掛けが付属していた。
西側の小道はスヴェーデンボリの美しい小さなサマーハウスへと続く。これは正方形で,彼の住まいのように,外側は黄色に塗られた板で覆われ,小さな金色の玉と星を載せた小塔を冠していた。この居心地よい部屋で,監査官は,暑い季節の間,多くの著述をなした。ここからの通路は彼の蔵書を宿した小部屋へとつながる。
中央のあずまやから南へ走る小道は,バラ園を通って,大きな鳥籠に行き着く――粗い目の真ちゅうの針金で作られた大きな鳥小屋である。ここで訪問客は,大小さまざまな色とりどりの鳥が止まり木やぶらんこを飛び跳ねているのを見て楽しむであろう。秋には,監査官は可愛らしい鳥たちを自分の家の大きな二階に取り込む。そこで鳥たちはスウェーデンの冬を切り抜け,春をその小さな心で待ちわびながら,さえずる。
立ち去る夫婦が賞賛すべき隣人である隠退した監査官に別れを述べるとき,それは自然の秘密を深く探究し,哲学と解剖学で学術的な大作を書き,生涯を孤独な独身で過ごすことを選んだ友が長い間立って見送ってくれることへの挨拶であった。死人の魂との会話を保ちながら,二つの世界に住むことを意識している者を訪問していたなどと,彼らはつゆにも思い至らなかった。スヴェーデンボリの外面的な態度に,『天界の秘義』の著者であることを感づかせるものは何もなかった。このことがスウェーデンで公けとなるまで,彼は15年間この状態にいた。
イレンボリ夫人――エリサベト・シェルンクローナ――が,スヴェーデンボリに分厚い茶色の四折判の子牛の皮で装丁〔高級製本〕された『マリヤの選んだ良い方』という題名の本を贈呈したのはこのような機会であったろう。この本に著者名はないが,エリサベトが敬虔な人への宗教的啓発のためにこれを書いたのである。彼女は,「心の単純な者にとってただ一つ必要なものは,キリスト教の信仰に向けて私たちの勤めと義務を熟慮し,聖書の言葉を瞑想することである」と固く信じていた。この気品ある婦人の深く宗教的な心情を知っていたスヴェーデンボリは,神のみことばの教えを人々が敬意を持って読むようにという彼女の願いに心から感動したように思える。彼の名前――“Em. スヴェーデンボリ”――が記入されたその本が今日まで保存されている[396]。
エリサベトは,フレデリック・イレンボリの没後10年して1769年に死んだ。イレンボリの性格は『霊界体験記』に余すところなく描かれている。この世でイレンボリ伯爵夫人として知られていた婦人がスヴェーデンボリの未来の配偶者として霊界で彼を待っている,という逸話が言い伝えられている[397]。
脚注* これは実際にキュウリ(cucumber)を意味した。また,malliumはカミルレ(☆)の正式名であった。sanaは薬用であることを示す。
(☆訳注:俗にカミツレ,地中海地方原産キク科の薬用植物の総称。カミツレの花を乾燥させたものには強い香りと苦みがあり,発汗・消炎薬などに用いる)
原注
385 スヴェーデンボリの財産はストックホルムの王立図書館に公式に記載されている。『ターフェル』T,390-93。ここの記事はロブサーム,サンデルス,コリン〔本書37章参照〕,イェルウェル〔王立図書館員〕といった者らのさまざまな証言に基づいている。『ターフェル』T,31;4-51,U,421
以降;402 以降,717-35参照。以下参考文献省略(付録Eに転載しておいた)。
386a 霊界体験記』3753番。
387 『ターフェル』U,226以降。
389 『真のキリスト教』585。他の参考文献省略。
390 『結婚愛』316番。
391 原注388参照。
393 参考文献省略。『ターフェル』U,977;T,43,no.37。
394 参考文献省略。『ターフェル』T,30-51。
395 スヴェーデンボリのオルガンは,ストックホルムのスカンセン〔公園〕にある「北方博物館」のサマーハウスの中にある。
396 スウェーデン語による原題名省略。題名は『マリヤの(選んだ)良い方,すなわち,ただ一つの必要な事。……キリスト教信仰の教義についての残り物』〔「ルカ」10章42節参照〕。第1巻,ストックホルム,1752年,第2巻1756年。エリサベト・シェルンクローナにより匿名で出版された。スヴェーデンボリの署名のある第2巻はストックホルムの王立図書館にある。
397 フレデリック・イレンボリについて『霊界体験記』5161,5976,5983を見よ。エリサベト・シェルンクローナは1769年に亡くなった。「フレデリック・イレンボリの妻が真の花嫁として天界でスヴェーデンボリを待っている」との逸話はスウェーデン人歴史家フリクセルに負う(文献名省略)。「この逸話はチャールズ・オーガスタス・タルクによって提供された。彼はおそらくこれを,父のハートレーからか,またはスヴェーデンボリのイギリスのある友達からか得た」とウイリアム・ホワイトは『エマヌエル・スヴェーデンボリ,その生涯と著作』(ロンドン,1867年,U,500ページ)で述べている。他の参考文献〔新聞〕省略。
訳注
★1 J・J・Rousseau,1712-78;フランスの思想家。田舎に溶け込む生活を愛した。
★2 Hans Sloane(1669-1753);イギリスの医師・博物学者。
★3 Carl von Linne(1707-78);スウェーデンの植物学者。植物分類法の創始者。
★4 南太平洋,オーストラリア東北東にある火山およびさんご島群。
★5 Captain J・Cook(1728-79);イギリスの航海家。3回にわたり南太平洋・南極海・オーストラリア海岸などを探検したが,ハワイ諸島で原住民に殺された。
★6 Finn Pehr Kalm(1715-79);スウェーデンの植物学者。
★7 “チーズ商い”には「つまらないことに立ち回る」,“ロープ作り”には「わなかける」といったよくない意味がある。イレンボリは後出。トッティは不詳。
★8 上部の傾斜が緩く,下部が急の2段になった屋根。下部に採光用の窓をあけ,屋根裏部屋として使用。フランスの建築家マンサール(1598-1666)の創始による名称。
★9 第27章の訳注8。
★10 ?ローマ神話?“花と豊穣と春の女神”。
★11 アメリカ東部産のツツジ科の常緑低木。花は白,コネティカット州・ペンシルヴェニア州の州花。
★12 もとの全紙に違いがあるので約24cm×30cm。ほぼA4判と思える。
★13 約6×9インチ。ほぼA5判に相当する。最も多い判である。
★14 印刷人に送られた清書原稿は,破棄され,存在しない。
★15 16-17世紀に多く着用されたスカートのヒップを誇張する仕掛け。
★16 カール12世の後,その妹ウルリーカ・エレアノーラとその夫フレデリック1世が王位を継承し,1751年の1世の死後,アドルフが王位を継いだ。
★17 反ロシアのプロイセン王フリードリヒ大王の妹が妃に選ばれた。
★18 ハット党は,フランスが支持,ロシアに割譲した領土回復を熱望した。キャップ党は,ロシアが支持,平和政策を掲げた。
〔研究誌『荒野』第37号,1999年5月〕