31 Astonishment in Sweden
第31章 スウェーデンでの驚き
1759年6月末,スヴェーデンボリはスウェーデンに向けてイギリスを去り,おそらくオランダを経由して,第7回目の国外旅行から帰った。この時まで,彼は自分の著作の匿名性を守るのに成功しており,そしてもし,彼が二つの世界の住民として二重の生活を送っていることに気づく者がいるにしても,それは極めてわずかであった。しかし今や,彼の驚くべき心霊能力を示す一連の事件を通して,人々の注目が彼へと引き付けられる時が来た。最初の事件は,彼がストックホルムから約300マイル離れた西海岸のイェーテボリの港に到着した時に起こった。
7月19日,土曜日の4時,スヴェーデンボリと他の15人は,著名な商人ウィリアム・カステルの家での晩餐会に招かれていた。カナル通りにあるその豪邸は現在では「サールグレンの家」として知られている。
6時ごろ,スヴェーデンボリは少しの間,仲間を離れ,青白い顔をして非常に慌てて戻った。質問されて彼は,「危険な火事がちょうど今起こった,南ストックホルムで,それは非情な早さで広がっている」と言った。彼は落ち着かず,しばしば庭へ出た。彼は,「友達の家が――その名前も挙げた――すでに灰になり,私の家も火がつく危険がある」と言った。
8時に,再び外に出た後,彼は安堵して言った「ありがたい! 火は消えた,私の家から三軒目の所で!」 カステル氏の客人の中にはストックホルムに住んでいる者もおり,非常に動揺した。
同じ夕方,その話しはその地方の知事に知らされ,日曜日の朝スヴェーデンボリはその知事の家へ召喚され,その災害について質問された。彼はその火事について,それがどのように起こったか,どれだけ続いたか,どのように消えたか,詳細に述べた。そのニュースは町中に広がり,かなりの狼狽を引き起こし,多くの人々が自分の友の暮らしを,そうした火事の際に失われる莫大な財産を心配した。
月曜日の夕方,ストックホルムから使者が到着した。その者は火事がまだ猛威を振るう間に,通商局によって急派されたのである。彼の携えてきた手紙の中には,大火の進み具合が二日前にスヴェーデンボリの述べたそっくりそのままに記述してあった。火曜日に,国王の急使が,広範囲にわたる損害と財産の消失を告げるその火事の悲しいニュースを携えて,知事の官邸に到着した。その火事の第二の報告も,最初のものと同じに,スヴェーデンボリがその火事の進行中に,まさにその時に述べたその細かな様子と少しも違っていなかった。
二,三日後,大学の教師ヨハン・ローセン★1の編集によるイェーテボリ新聞には,次で始まる記事が含まれていた――「ストックホルム(発)今月の19日,不幸な火事がセーデルマルムを襲った。午後の3時に出火した,パンを焼くために建てられた木造の家に,その火はあまりに強すぎた。それはスキンナレヴィケン,ホルンスガータン,マリアガータンの全部と,セーデルマルムの市場に広がった。立派な家と財産が灰燼に帰し,その中にマリア教会もあった。風は西北西で非常に強かった」[436*]。もちろん,この記事の中に,異常なところはどこもない。しかし,スヴェーデンボリの二重の視覚とその驚くべき予知はイェーテボリの人々に忘れられなかった,そしてヨハン・ローセンの名前は数年後にこの物語〔叙事詩〕の中に現われることになる[437]。
スヴェーデンボリによる火事の異常な幻視のニュースが首都に届いたとき,彼について大衆の好奇心は非常に高まった。神学での彼の最近の出版物はまだ知られていなかった。それで彼の透視は,人々の心の中で,その霊的経験と結び付けられるはずはなかった。この時まで,彼はだれにも自分の幻視について決して話したことはなかったし,彼が『天界の秘義』の著者であることを知ることのできるものはほとんどいなかった。少なくとも,だれかがその本のびっくり仰天させるような宣言を監査官スヴェーデンボリに帰したことを証拠として示す記録文書はない。
しかし,『天界と地獄』の一冊が,その冬の間に,ストックホルムへの道を見出だしたことが,スヴェーデンボリの友達グスターフ・ボンデ伯爵★2の筆跡による1759年1月5日付の一枚の紙によって証明されている[438*] 。ボンデは,スヴェーデンボリが『ロンドン五部作』の著者であると何らかの方法で見出だすか,推測した,最初の人間であったように思える。それでも,9年後まで彼の名前はその神学著作のどの本にも付けられなかった。
スヴェーデンボリはボンデ伯爵を非常によく知っていた。エマヌエルが自著『種々の観察』の三部作を贈呈したとき,彼は鉱山局での総裁であった。ボンデはその後,国の枢密員顧問官として仕え,ウプサラ大学の総長となった。1739年に引退したが,しかし20年たった現在,別の任期で枢密院に仕えるよう呼び戻され,ストックホルムへ移住した。
この本〔『天界と地獄』〕についてのボンデの論評はその本の中で表わされた奇抜な着想への“反論”の形を取っていることにだれも驚かないであろう。例えば,悔い改めを離れて,まったくの恩恵を通しての救いをスヴェーデンボリが否定していることに彼は気分を害している。また,もしも地の上に人間が存在する前に,天使と悪魔らが存在しないのなら,どのようにヘビが楽園でエバを誘惑できたのか? もし人々の信仰が聖書の明白な文字に基づかないで,その代わりに,“内意”を求めて聖書を調べなくてはならないのなら,そのとき,だれもが自分に好ましいどんな意味をも捜し出すことによって,自分に適した特別な宗教を作り出すことができてしまう,とボンデは怪しんだ。
ボンデ伯爵は,その反論にもかかわらず,スヴェーデンボリの著作に深い感銘を受け,それらについてロッテルダムの文芸上の友ダッツェル男爵★3に手紙を書いた。ダッツェルはすぐに『秘義』を含めた著作の熱烈々な読者となった。彼は時を逸せず,スヴェーデンボリの面識を得たいとの自分の熱心な願いをボンデ伯爵に連絡した。ダッツェルはボンデに監査官宛てにメモを届けてくれるよう頼んだが,そこには,自分は若い頃から,自分は真理を得ようと努力してきた,そして今,スヴェーデンボリ様の異常な洞察力と照明を知ることになって,自分はあなたの弟子になり,あなたに従い,あなたの飲まれているのと“同じ知恵の泉の水を味わい”たい,と述べてあった[439]。この願いの返礼に,ダッツェル男爵は,スヴェーデンボリの著作すべてをドイツ語とフランス語に翻訳し,そうしてそれら著作が教育のない者★4にも受け入れられるようにしたい,と申し出た。
この〔メモを同封した〕1760年8月7日付の〔ボンデによる〕手紙がスヴェーデンボリに送られたとき,ボンデ伯爵は,自分たちの長年の友情を述べ,自分のロッテルダムの友をスヴェーデンボリに推薦している。ボンデは,「その友は自分に,春以来絶えず,これらの著作について書いてきており,それらから得た,言うに言われぬ喜びについて告げている」と言及している。ボンデは監査官に,「夏の間に彼を訪問し,彼の小庭園を眺めるという約束を忘れないように,そのとき彼は大歓迎してくれることを確信しています」と述べて手紙を終えている。
4日後,この手紙へのスヴェーデンボリの返事は,ダッツェルの要求に含まれる微妙な問題を扱っているが,それは彼の親切と機転の好例である。丁寧に,彼は,自分の本は匿名で出版しているので,広くだれとも交際することはできない,と説明し,そしてダッツェル男爵が私の著作に満足を見出だしたことを私が喜んでいる,それは彼が天界から明るくされているしるしである,なぜなら,そこで取り扱っている事柄はそうした照明なしでは把握することはできないからである,と述べてほしいとボンデ伯爵に依頼している。
彼の返事が,ボンデのロッテルダムの友の奥義に達したいとの大望を満足させたかどうか,この問題についてこれ以上の文書が明るみとなっていないので,われわれは知らない。しかし,そのうちに,町中でスヴェーデンボリとその特異な千里眼が話題となった。当時彼は自分の友に自著を贈呈し始めていたので,何人かの学問のある者は,彼の著作を知り始めていたとはいえ,彼が博学な公文書係りのアントン・ヴォン-シェルンマン★5に語ったように,彼は自分の贈呈本を知性のある賢明な者に限定していた。それらの者の中に彼の本の頒布を援助したヴォン‐シェルマン自身が含まれていた。スヴェーデンボリは,この者に,好奇心をそそる,いくぶん冗談めいた献辞をもって,自分の科学的な著作,著名な『化学』を贈呈した――
私の最初の成果であるこれらの論文を,友であり著者である Em. スヴェーデンボリより,貴族・騎士(ナイト)・公文書保管庁の顧問官A・シェルンマンに贈呈品として与える。騎士は,霊的な意味では,それは奥義を呼ばれるが,知識と知性の人を意味する。それにまた,星は,その意味で,真理と善の認識を意味する。シェルマン(=星-人)は,こうして,星の人は知識と知性の人である[440*]。
アンデルス・ヴォン-ヘプケン伯爵へ,スヴェーデンボリは自分の蔵書であったスワンメルダム★6の『自然の聖書』を贈呈した。後の著作で,そこから,長い引用がなされている[441]。賢明な者たちの間に二人の司教ハレニウス★7とメンナンデル★7がいた。両人とも『天界の秘義』の贈呈本を受け取った[442]。
スヴェーデンボリの異常な主張によって好奇心を掻き立てられた名高い者の一人に,前首相のカール・グスターフ・テッシン★8がいた。彼の『日記』は同時代の人物や事件に関する逸話の豊富な情報源である。それらはセーデルマンランドのメーレル湖畔にあるテッシンの美しいオーケレー城の中に保存されている。フォリオ版で29巻になるグスターフ伯爵の最大の宝物に,来る日も来る日も,彼は自分の論評や会話を,天候についても毎日記録することを決して忘れずに書き下ろした[443]。1760年2月28日,テッシンは次の性急な印象を書き留めた――
顧問官スヴェーデンボリは,人間の頭の中で起こるとりとめもない考えと想像力の極致,われわれの間のその生きた実例である。私の聞いたことであるが,彼は園芸用温室の中に住んでおり,自分を人間のうちで最も幸運な者であると見なしている,そしてそのとおりである。なぜなら,来世と親しく交わることを通して,彼は,知っている者も知らない者も,自分は,すべての死人を見,話すことができる,と信じているからである。
数日後にこれに書き加えた――「通商顧問官ポルヘムの埋葬式が行なわれているとき,スヴェーデンボリはその行列に参加した。そしてポルヘムがやって来て,彼の脇を歩きながら,彼が,『これらは一体何なのか』と尋ねたので,スヴェーデンボリは彼に,『これはあなたの葬儀ですよ』と教えた」[444]。
テッシンは書いている――
風変わりな人間と面識を持ってみようとの単なる好奇心から,私は1760年3月5日の午後,監査官スヴェーデンボリに会いに行った。彼は遠いホルスンスガータンに住んでいる。大きな敷地に,さっぱりした小さな木造の建物と庭園を所有している。私はそこに,およそ73歳の,故スヴェードベリ司教の容貌に完全に似た,しかしそれほど背は高くない一人の老人を見出だした。その目は弱々しく,口は大きく,顔色は青白く,しかし元気で,友好的で,話好きであった。私を歓迎しているように思えた。多くの前口上を述べるつもりはなかったので,私は直ちに『天界と地獄』の著作について話し始めた。
彼は,「自分用の一冊以外にたった二冊を持っていた。これを次の国会で,二人の司教に手渡すつもりであった。しかし,私は私の知らないうちに,その一冊が国内に持ち込まれ,ボンデ伯爵閣下に売られていると聞いたので,私は事態を再考し,自分の手元の一冊を枢密顧問官ヘプケン伯爵へ,もう一冊を出版物の監査官であるオエルレイク顧問官★9へ与えた。私は翌春さらに50冊がイギリスから来るのを期待している,そのとき,一つを私に送ろう」と言った。
彼は〔私の〕数多くの異議に特に備えていたようには見えなかったが,ためらいがちな様子でどもった。彼は,「私は天使たちやこの世を去った者たちが自分に語ったことを他言することを禁じられている。しかし,16年間,私がこの世を暗闇と過誤――これらは最近,神の存在そのものが事実上否定されるほどに増大している――から導き出せるようにと,神はこの種の啓示を私に授けてくださった。……私が一人でいるとき天使たちやこの世を去った者たちが自分のところにやって来るが,半年より前に去った者はほんの小数である。なぜなら,彼らは次第に,世俗の事柄を忘れ,彼らの天界の家にとどまるようになるから……。この前の水曜日,枢密顧問官エーレンプレウス★10が私と一日中一緒だった。彼は自分の社会で裁判の職務を果たしていた。しかし,彼は,現在自分の持っている光に比べて,以前に自分の持っていたわずかな洞察力を恥じている」と言った[445]。
彼は,「すべての天界は諸社会に分かれており,それらすべての社会はそこの人々の気質に従って分類される。それで,すべての構成員はお互いに気が合う。同じ気質でない夫婦の場合,彼らは実際にあの世で出会うが――すべての親戚と知人は最初はそうする――しかし,後になって,互いに自分のそれぞれの社会に方向を定め,そこで彼らは他の伴侶を得る。なぜなら,その者に従って,あの世の境遇はすべて,この世の生活と似たもととなる,ただ段階が違っている」と言った。なおまた彼は,「数千の地獄がある。それらは同じく諸社会に分けられ,神によって統治されている。そこでは全能の神に従って,刑罰が加えられる」と言った。
彼が私に,私があの世に行くとすぐに私は必ず枢密院顧問に任命されることを保証したとき,われわれの会話は中断した。彼に謝意を表わしたが,私はその役職にはこの世で十分だと彼に断言した。
テッシンは別の時に書いている,「私は,人様の生き方を決して気にしない。しかし,それでも,私は監査官スヴェーデンボリの人生と生活様式についてあらゆる情報を得たい。われわれの伝記★11が空想家の間で真っ先の場所を占めるようになる者に関連するあらゆる事柄を含むために……」
この意図を継続させて,テッシンは,一緒に食事をした彼の妻,幾人かの身内の者,フェルセン伯爵夫人★12を連れて,6月30日月曜日の午後,2回目の訪問をした。この訪問は,「ホルンスガータンにある,スヴェーデンボリへのこぎれいな庭と哲学的に建てられた家で」と描かれている。テッシンは述べている――
彼は私に,「私はヘドヴィク・サック伯爵夫人(フレセンの義理の姉妹)としばしば一緒した。彼女は今――これは彼の言葉である――非常に元気で,私が来世について語ったすべてのことはほんとうだった,と証言した」と語った。その空想の中で喜びを見出だした心の衰弱した者を,幸福とあるいは不幸と呼んでよいものか,私にはわからない。彼は私に,アムステルダムで出版された四折判の『脳』についての本をくれた。だれか『脳の治癒について』を書くべきだろう。その他の点では非常に親切な心の者,愉快な紳士に,その本が必要であろう……。信仰はすべて事柄での中で最も神聖であって,これに理性は入ることが許されていない[446]。
依然として,テッシンは自分の結論に完全に満足することができなかった,なぜなら,彼は,スヴェーデンボリの本を読み,学び続けたからである。そして,その後,論評している――
すべての空想家のうちで,おそらく,スヴェーデンボリ氏は最も明快に書いた者の一人であろう。彼は論じ,文献から引用し,議論と理由などを加えている。全体の構成には,ある種の関連性があり,よく考えぬいた思考がその全部に特色として確立されている。さらに,その本には,退屈にならないで読み通すことができる非常に多くの新しいこと,予期しない真理が含まれている。191番で彼の言っていることは……天界での空間に関して,よく論考した夢である。著作全部を通じて,人はスヴェードベリ司教の息子を認める。彼は父よりもさらに深遠で偉大な夢想家である……。これらすべては,人がムハンマドのクルアーンに与えるのと同じような信頼をもって読まれるべきであろう[447]。
その春,スヴェーデンボリが霊たちと交流しているとのニュースが最初に漏れたとき,首都でかなりのセンセーションを引き起こしたが,このことはアクセル・クローンステッド鉱山の顧問官であり,彼の若き同僚の鉱物学者ダニエル・ティラスの手紙から明らかである。1760年3月16日にティラスは書いた――[448]
数年前,私は不思議で神秘的な哲学者との交わりに加わる栄誉を得ました。私たちは今では正しい人だと思います。ほんのすこし前,私が町を出発する前に,町中の大部分の者がその事件に気づいて,そのことについて一息も付かないうちに驚くほど早さ広がりました。その者とはスヴェーデンボリです。彼は,だれであれ自分の選んだ死者と交流し,彼が望むなら,この世を去った以前の自分の友だちを,彼らが天界にいようと地獄にいようと,あるいは名状しがたい第三の場所にうろついていようと尋ねることができます。彼は議員エーレンプレウスと,同じくイレンボリ伯爵と多く語り合っており,彼らの状況について,十分な記事を与えています。彼は,ある建築物についての計画をホーレマン男爵(宮廷の建設者)から得るために彼を尋ね,そして彼が自分の庭園を散歩しているのを見出だしています……。女王ウルリーカ・エレオノーラは健康です。現在,女王は別の高貴な紳士と結婚し,祝福の状態の中で暮らしています。彼と会話し,最近この世を去った私の(妻の)ヘドヴィック・ロイテンホルムが結婚したと聞いて,私はすっかり動揺してしまいました。もし妻がイスラム教国の王妃となったとしたなら,そんなことまっぴらごめんです。
彼の報告するこれらすべての事柄は,どこかの点で,ネジも巻かれずにゆるんでいる時計仕掛けのように思えます。彼は,霊たちとの交流についての本を書き,これをイギリスで出版しています。私はまだそれを見ていません。私は,これらすべての物事に,これを昨日テッシン伯爵自身の口から聞かなかったなら,どんな信用も置くまいと思っていました。……私はあなたがここにいらしたら,私たちは一緒に彼のところに行けるのにと思っています。しかし,その場合,私はあなたに最初に,“Risum teneatis, amici”★13と注意して置くべきでしょう」(1760年3月16日,ストックホルム)。
一週間後,ティラスはこの問題を続けた――
……この前の手紙を書いて以来,私はこの不思議な人物と交際していました。多くの者は彼を狂っていると考えますが,しかし私は私自身の考えを表明する前に,事態をもっと徹底的に調べたいと望んでいます。ヘプケン議員は三、四時間ほど彼を訪問されました。同じくテッシン議員も……。さて,この驚くべきニュースを聞いてください――最後の審判は1757年にすでに起こっており,彼はこのことについてよく知っていて,あたかも彼がそこの書記であったかのように語り,詳細を書き留めました。その時以来,裁判委員会は続いており,当事者〔裁判用語〕は到着するやいなや裁かれているとのことです。この情報を広めないでください,私はその責任を取りたくないからです。これら事柄は,ここの何千もの人々に知られていますが,私はこれを,広く知られるよう彼らに勧める価値があるものとは思いません(1760年3月24日,ストックホルム)。
ティラスはテッシンの特別な友の一人であった。テッシンが首相を辞職してから4年間が経過していたが,彼はまだ行政評議会の一員であった。文化と美に対するテッシンの根強い愛は続き,極上の美術品を収集する彼の努力に,彼の蔵書と彼の独特な鉱石の飾りだんすに表われていた。冬の間,テッシンは貴族院の真向かいにある大邸宅に住んだ,しかし1760年の夏の間,一家は王宮から馬車をほんの40分駆ったところのスヴィンデルスヴィクと呼ばれる小さな田舎の領地に居住し,その所で王の諮問評議会が開かれた。スヴィンデルスヴィクはテッシンの裕福な友クラエス・グリルの地所である。彼はアムステルでのスヴェーデンボリの取引銀行家アントンとヨハン・グリルの兄弟である。そこからは海を見下ろすすばらしい景観が得られ,高い断崖に沿った遊歩道,大庭園,よく備わった図書があった。「一言で言えば,自然の戯れ,グリル氏の富と好み,亡くなった惜しむべき私の友ホーレマン男爵の美術,これらが,これに等しいものはほとんどなく魅力的に配列されて,スヴィンデルスヴィクの人々を楽しませた」とテッシンは言っている。
テッシンの町屋敷★14,ここに土曜日の午後,自分の関係者,美術や学問の愛好家を集めるのは彼の習慣であった。鉱物学者ダニエル・ティラス以外にも,そこには図書館員カール・クリストファー・イェルウェルと,先が上方に曲がった鼻の小さな金髪の男として描かれて,その莫大な学問にもかかわらず社交生活の飽くなき愛好家であったアントン・ヴォン-シェルンマンがいた。そこには正餐を主宰した女主人,グスターフの魅惑的な妻ウルラ・スパーレ伯爵夫人,そして親密な友フェルセン伯爵夫人やブリタ・スパーレ,その他の婦人たちもいた。
この気品ある社会に,1760年9月,尊ぶべきしもべエマヌエル・スヴェーデンボリが着飾って足を踏み入れた。われわれは,テッシン伯爵が彼を描写しているように,流れるようなかつらと半ズボン,「彼のラベンダー色のビロードの上着,黒い絹のチョッキ,大きな金の締め金のついた靴で」着飾っていたと思う。テッシンの甥のフレデリク・スパーレ伯爵の日記[449*]には,9月27日に,テッシンが,スヴェーデンボリとヴォン-シェルンマンを迎えてスヴィンデルスヴィクへ運ぶ馬車を用意したとの記事が含まれている。そして正餐のあと、「いつもの玉突き遊びの代わりに,だれもが,スヴェーデンボリの話しを聞くために席に残った。交わりは夕方の6時前に都市へ戻るためにお開きとはならなかった」。正餐は当時,早くから供されたのである!
スヴェーデンボリに対するテッシンの関心は続き,彼は冬の間中全部,土曜日の集会に参加するよう招待された。しかし,これはおもに,ヴォン-ヘプケンの場合のように,スヴェーデンボリの神学の論理的な主張によるというよりも,むしろ好奇心から引き起こされた個人的な関心からであった。
春に,その首都に新たな大騒ぎを引き起こす事件が起こった。ストックホルムへ派遣されたオランダの大使ド-マルテヴィル氏は前年の4月春に亡くなっていた。約1年後,ある金細工師が,ド-マルテヴィル夫人に,彼がその夫に売った銀食器一式の支払いを請求する勘定書を差し出した。未亡人は,彼女の夫は几帳面に勘定を精算する習慣であった点から見て,この請求に驚いた。彼女は,オランダ通貨で総額25,000ギルダーに達するその勘定は支払われていると確信した,しかしいくら探しても,その金細工師の領収書を見出だせなかった[450]。
ド-マルテヴィル夫人の亡き夫の友,ロシアの大使オステルマン伯爵が彼女にその心配事をスヴェーデンボリに依頼したらどうかと示唆したと信じてもよいらしい。彼女は,数人の婦人に,近所に住むその奇妙な,驚くべき人物と知り合いたいとの願いを述べ,それで彼女らは一緒になって,ある日,彼を訪問することを決めた。
記録によれば,上方の温室へ向かって開かれた天窓のある高い天井の立派な部屋へ,監査官は彼女らを丁重に受け入れた。その後,庭へ案内した。ド-マルテヴィル夫人が彼に自分の亡き夫を知っているか尋ねたとき,彼は知らないと言った。彼を煩わせること詫びた後,その未亡人は自分の願いを述べた。人々が言うように,もし,この世を去った霊魂と会話する異常な賜物をお持ちなら,自分の夫に,銀食器の領収書の件について尋ねてもらえでしょうか? スヴェーデンボリは彼女の願いに応ずることに何の異論もなかった。
スヴェーデンボリがこの事件をロブサームに物語る中で,彼は,「その婦人が自分の失われた領収書について語ったとき,私は彼女に,もし自分がド-マルテヴィル氏に会うなら,問題となっていることを彼に言いましょう,と約束した」と述べている。これを彼は,二,三日後に行ない,霊界でその大使に会った。ド-マルテヴィル氏はスヴェーデンボリに,「その同じ晩に家に行き,それを探そう」と確約した。「しかし,私は未亡人への返事は他に何も受けなかった」とスヴェーデンボリは付言した。
ド-マルテヴィル夫人によれば,彼女がスヴェーデンボリを尋ねた八日後に,彼女の亡き夫が夢の中に現われ,その領収書のある場所を指摘した。イギリス製の引き出し付きの大机の中である。他の記事では,彼女は夫の言葉を繰り返している――
「私の娘,おまえは領収書のことで心配している。私の机の引き出しを引き出してみなさい。おそらく,領収書は,引き出してから,押し戻されて,その後ろになった」
この夢は,午前2時頃に起こった。未亡人は起き上がり,喜びに溢れて,示された場所に,領収書だけでなく,紛失したと思っていた一揃いのダイヤモンドのヘヤピンを見出だした。それから,彼女は床に就き,午前9時まで眠った。
11時頃,スヴェーデンボリが来て,到着を告げるよう願った。ド-マルテヴィル夫人から一言も聞かないうちに,彼は彼女に,「昨夜,私はいろいろな霊に会いましたが,その中に,ド-マルテヴィル氏がいました」と語った。スヴェーデンボリはその大使と話したかったが,彼は,「私は自分の妻のところに行って,大切なことを告げなくてはならないから」と言って拒んだ。その後,「約1年ほど過ごしたこの居留地を離れ,もっと祝福された場所に移ります」とも言った。
「失われた領収書」の事件の4年後に,この物語のもっと劇的な異説がイマヌエル・カントに語られている。カントは,「スヴェーデンボリは,訪問者たちの面前で,ド-マルテヴィル夫人に秘密の引き出しの正確なその場所を述べた。それで全員が立ち上がり,夫人に付き従って二階へ行くとそこに,彼らが非常に驚いたことに,その書類が隠された仕切りの中に見つかった」と言明している。以上に関してロブサームの簡単な言説は,スヴェーデンボリが確信をもって彼に「私は問題の事柄を明るみに出した以外の役割はしていません」[451]と語ったことに基づいている。
* * * * *
失われた領収書の物語よりもさらに人目を引き重要なものは,同じ年の秋に起こった女王の秘密の出来事である。この物語は,前のものに似て,いろいろな人によりさまざまな形で語られているが,それらからわれわれは,最も信用できる記事として,その事件のたった3日後にテッシン伯爵の『日記』に書かれたものを選ぼう[452]。われわれはその前に,この問題についてスヴェーデンボリに面会し,その大事件に先行する事柄にいくらかの光を与えるデンマークの一役人からの簡単な記事を紹介しよう。
1761年10月末のある日,ウルリク・シェファー伯爵の訪問を受けた,とスヴェーデンボリは語っている。伯爵は彼に,明日,自分と一緒に宮廷へ行けないか,と尋ねた。それで,スヴェーデンボリは,自分が宮廷に行くよりも他の事柄に従事していることをよく知っているのに,なぜ,シェファー伯爵はこのことを提案されたのか質問した。
シェファーは答えた。女王が二,三日前,彼女の姉妹ブラウンシュヴァイク★15の公爵夫人からの手紙を受け取られた。そこには彼女が『ゲッティンゲン新聞(官報)』[453]で,死者と話をすると主張するストックホルムの人物について読み,彼女の非難または批評が述べてられていた。また,女王からの手紙に一度もその問題について述べられていないのを,彼女はなおさら不思議に思う,とあった。それで,女王は居合わせた者たちに,そうした人物がいるのはほんとうか,その者は気が狂っているのか,と尋ねられた。これに,シェファー伯爵は,気が狂っているどころか,分別も学問もある人物です,とお答えした,そこで,ロヴィサ・ウルリーカ女王★16は,その者に会いたいとの望みを表わされた。そのとき,シェファー伯爵は,彼と親しくしているので,彼に申し出てみましょう,と言ったのであった。
これを聞いて,スヴェーデンボリは彼と宮廷へ同行することを承諾した。
王と王妃が現われ,宮廷で外国の大使やその他の著名な人物を談話され,それから,シェファー伯爵に近づいた。彼はスヴェーデンボリを紹介した。
女王は彼を見て,満足の意を表わし,彼に,
「あなたが死者とお話しできるのはほんとうですか?」と尋ねられた。
「ほんとうです」と彼は答えた。
「それは他人に伝えるか,または他人から伝えられることのできる技術ですか?」とさらに女王は尋ねられた。
「いいえ」
「それでは,それは何ですか?」
「主の賜物です」
「それでは,あなたは亡くなったどなたとも話すことができますか,それとも特定の人物とだけですか?」
「だれとでも話すことはできませんが,しかし,私がこの世で知ったような人,王や王子のような人のすべて,名高い英雄のすべて,行為か著作で私が個人的に知った偉大で学問のある人物,したがって,私が概念を抱くことのできるすべての者と話すことができます。私が一度も会ったことのない人,その人についての考えが浮かばない人と,私は話すことができませんし,したくもないことは,おわかりいただけると思います」と彼は答えた。
それで女王は尋ねた,
「近ごろ亡くなった私の弟への頼みごとを,あなたは引き受けてくださいますか」(プロイセンのアウグトゥス・ヴィルヘルム〔1722-58〕は,1758年6月12日に死んでいる)
「心から,喜んで」と彼は答えた。
そこで,彼は,王とシェファー伯爵と一緒に,女王に付き従ってその部屋の窓際に行った。その所で,女王は彼に頼みごとを与え,これに対し彼は返事を持ってきましょう,と約束した[454]。
この後,スヴェーデンボリは王の食卓に招かれ,そこでは人々は彼に無数の質問をし,これに彼は滞りなく答えた。彼が女王に自分の出版した本をいくつか贈呈する許しを願ったのはこの機会であった。
テッシンによれば,およそ三週間後,テッシン自身が監査官のところに行き,起こったことの情報を直接手に入れ,それを直ぐに書き留めたとの非常に注目すべきうわさが広まっていた。それは“女王の秘密”の事件について最も信頼性のある証言となっている。11月18日に書かれ,テッシンの記載は続く――
「三日前(この前の日曜日),スヴェーデンボリは再び出かけ,自分のいろいろな本を引き渡した後,女王との謁見(えっけん)を求めた」。女王自身が後に,「スヴェーデンボリが入ってきたとき,私はトランプをしていました。あの方は個人的な謁見を求めてきました」と述べた。女王は,言いたい事はどんなことでも皆の前で伝えたらよい,と返事をしたが,しかし,スヴェーデンボリは女王陛下に,「私は,私が言わなくてはならない事を,立ち会い人たちの前で明らかにすることはできません」と断言した[455]。
これに女王は動揺し,自分のトランプを他の婦人に与え,ヴォン-シュヴェーリン議員に自分に一緒に別の部屋に来てくれるよう求めた。女王はヴォン-シュヴェーリン氏を出入り口に立たせ,スヴェーデンボリとその部屋の他方の端へ歩いて行った。「彼はそのとき女王陛下に,彼が他のだれにも秘密を守らなくてはならない何か個人的なことを話した」とテッシンは言っている。そのあと直ぐに,女王は青白くなり,あたかも卒倒するかのように二、三歩後退(あとずさ)りし,少ししてから興奮して,「それは私の弟でなければ他のだれも語ることのできないものです!」と叫んだ。
スヴェーデンボリが女王陛下の激しい狼狽に気づいたとき,彼は行き過ぎた行動を詫びた。
部屋を出て,彼は控えの間にいたヴォン-ダリン顧問官に会い,自分がさらにもっと事態を追及して,そこでそこから女王が慰められるであろうことを,顧問官から女王陛下に告げてくれるよう願った。「しかし,私はおよそ10日ないし12日してからでないとそうする気になれません」と私〔テッシン〕に付け加えた。「もし,それ以前にそうするなら,女王陛下の心に,同じような恐ろしい,おそらく,もっと強烈な影響を与えるでしょうから」
「一時間半の間,彼が私に語ってくれた他の事柄と同様に,どれほどこのことが異常に見えても」テッシンは続けている,「それでも私は,すべては間違いのないことと感じるのでこれを書き記しておく。女王陛下の明らかな狼狽はその部屋にいたすべての者によって全員一致で,また,カール・シェファー伯爵によれば他の者の間でも証言されているのだから」。
女王もまたこのことについて,「私は信じなくてはならないことについてまだ疑っています」と付け加えて,同じように非常に似たことを語っている。しかし,女王はスヴェーデンボリに新たな証言を与えた。「もし,あの方がそのことをなされたなら,私は,あの方が他の人以上に知っている,と確信させられたでしょう」
おそらく,これは,彼がもう10日ないし12日してから言おうと意図していたことに言及しているのであろう。
「われわれが知るかぎり,これらの事柄は,非常に多くの証人によって確認されており,信ずべきものとして見なす必要があることは非常に明らかである」とテッシンは結論している。「どのように解釈するかについて,われわれは,今のところ,あえて述べることをしない。われわれにとって,スヴェーデンボリの心の状態が,高くて異常な,まさに神的なほどの洞察と抑圧されていない想像力の混合物であることはあまりに確かなと思える。彼は並々ならぬ非凡な性格の者らの一人,必要もなく探求する者には謎の存在であり,そのゆえ,可能性や理解できる範囲を越えている」。この含みのあるそして完全に意味をなさない説明をもって,テッシンはこの問題を終えることにした。
スヴェーデンボリとスウェーデンの女王の間で交わされた秘密は何であったか? それをだれもが知りたがった。その事件の後,幾日も,馬車がその監査官の戸口の前に止まり,そこから王国の第一級の紳士が女王を非常に恐れさせたその秘密を知ろうとして降り立ったが,しかし彼はそれを漏らすことを堅く拒んだ[456]。別の記事では,スヴェーデンボリは,カーロッテンブリ城で今は亡き弟と別れるときの女王の会話の言葉そのものを女王に語ったと言われている。
スヴェーデンボリがこの秘密を語っていたなら,それは重大な暴露となって,スウェーデン女王は戦時に敵国と共謀していたという反逆罪の告発を受けることになったであろう,スウェーデンはそのとき,プロイセンと戦っていたからである★17。ほんの数年前,ロヴィサ・ウルリーカは,王権を拡大しようとして革命を企てたとの告発をからくも逃れたばかりであった。しかし,この物語の意味するものを理解するためには,女王の性格と同じく,その時代の政治的局面を何かしら考慮する必要がある。これは別の章に譲ろう。
スヴェーデンボリの個人的な生活について尋ねる者に,これまで,また他にも,その詳細を教えたのは彼の新しい家政婦マリア・ベリであった。その前の召使はホルンスガータンの家から1757年の秋に去ってしまっていた。マリアの夫カール・ヴェッセルは庭師であった。この裕福な夫婦に子供はなかったが養子とした9歳の娘がいた。それと彼らと一緒にマリアの姉妹と召使の少女も住んだ[457*]。
スヴェーデンボリはめったに教会へ行かなかった。真理であった彼の思想と反する説教から,彼は教化されなかった。また主の聖餐にもそれほど多くは与からなかった。このため,彼は1760年度の国会に出席していた,近親の司教たちの一人から「親切な諌(かん)言」を受けた。彼は,自分の場合は,主に特別な使命を与えられて天使たちと常に交わっているのであるから,この宗教上の行動について他人の場合のように,同じ光のもとで見られることはできない,と答えた。しかし,司教が彼に秘蹟を遵守することで良い手本を示すことになると気づかせたとき,スヴェーデンボリは,前年の火事の後,マリア教会の会衆のために仮に建てられた教会の祭壇の前で聖餐に与かろうと決めた。彼はそこの聖職者たちを特によくは知らなかったので,その二,三日前に,どの牧師のところに行ったらよいか自分の召使たちに尋ねた。彼らは年上の牧師を推薦した。
「だめです」とスヴェーデンボリは直ちに言った,「彼はすぐかっとなる人物,暴力的な祭司です。私は彼が説教壇から雷を落とすのを聞いて不愉快になりました」[458]。
彼らがその教区では人気がなかった助祭を推薦すると,スヴェーデンボリは,「それは私の望む人です。私は,彼が自分の考えるままに話し,そのために人気を失ったと聞いています。この世ではよくあることです」と言った。
スヴェーデンボリの透視は宮廷界での人々の注目を引きつける話題となった。彼は,事実上,当時の見識のある貴族たちに,興味をそそる難問を提出したのであるが,その者たちは,哲学を通して巡礼の旅にあったその見神者につき従うことはできなかったし,霊魂を探求する中で彼が次第に上昇していったことも見えなかった。啓示者としての彼の主張に対し,彼らが肯定的な感触を持つであろうことはほとんど期待できなかったのである[459]。
クラース・エケブラート伯爵の日記に,その時代を象徴する事件が記されている。1762年6月16日水曜日,彼は“王の庭園”を散歩した――
すべての者がお互いに個人的な愛情で結び付ついている様子を眺めるのは愉快だった。あちらこちらに貴婦人が見られたとき,そのそれぞれに常にパートナー役の付き添いがいた。“王の庭園”で人々の莫大な集まりがあった。王族たちはわざわざ自分たちが忠臣によって見つめられるようにするため立ち止まった,その忠臣の観察はしばしば実に滑稽だった。監査管スヴェーデンボリがそこにいて,彼はロシアの女帝が私の祖父とパラダイスで結婚していることを語ったが,これは価値があるので書き記しておく[460*]。
エケブラート伯爵の母,エヴァ・デ・ラ・ガルディエはスウェーデンの名家の出であった。彼女の祖父,マグヌス・デ・ラ・ガルディエはクリスティナ女王★18 のお気に入りであり,多くの美しい城を建てたことで知られている。エケブラート伯爵の母方の祖父マグヌス・デ・ラ・ガルディエは――その名前の卓越した伯爵の息子――21年前に若くして亡くなっていた。ロシアのエリザヴェータ女帝★19 ,ピョートル大帝★20の娘は先の1月,53歳で亡くなっていた。スヴェーデンボリは,『霊界体験記』の中で,デ・ラ・ガルディエとロシアの女帝が霊界で出会い,彼らが互いに引き付けられ,これに続いて結婚した,との喜ばしい記事を載せている。デ・ラ・ガルディエは,来世で,前の妻とは彼らの心が似ていないことにより別れていた。女帝は,この世で彼女の求婚者たちだったいろいろな男に会ったが,彼らみんなと心が合わないとわかった。最後にデ・ラ・ガルディエと会ったとき,彼らは本能的に自分たちがお互いのために生まれついていたと知った。エリザヴェータはロシア人の最良の社会を統治していた,そしてデ・ラ・ガルディエもまた,霊界での大きな社会を治めていた,とスヴェーデンボリは言う。彼らが結婚すると決めたとき,白い美しい衣の天使が,その簡潔な儀式を行なう聖職者として送られた。彼はその二人に結婚に同意しているかだけを尋ね,それから神の祝福が彼らの上にあるようにと願った。このことは1762年3月5日に起こった,したがってスヴェーデンボリが公園〔王の庭園〕でデ・ラ・ガルディエの孫に出会ったおよそ三か月前のことである[461]。
歴史からは,女帝エリザヴェータが鋭い判断力と如才ない外交的手腕,それと彼女の父ピョートル大帝から受け継いだ政治的才能を持っていたと信じられる。「彼女に決断力がなく,ぐずぐずと先延ばしするように見られるものは,それはほとんどたいてい場合,決定の賢明なる停止であった」。このことはスヴェーデンボリが〔以下の〕二つの機会に表明したことを考慮するとき,非常に興味深い。
最初のものは彼の友カール・ロブサーム[462]が記している。彼はある日スヴェーデンボリを,ストックホルムの帝国公使館の礼拝堂専属の司祭オロノスコウという名前のロシアの修道士と一緒の食事に招いた。ロブサームの知遇を得ていたこの敬虔で信心深い人物は,彼からスヴェーデンボリのいくつかの著作を借りて,これを最大の喜びをもって読んでいた。その食事はオロノスコウがこの驚くべき著者に会う機会を持つために準備されたのだった。
そのロシアの司祭はスヴェーデンボリに,女帝エリザヴェータに会ったかどうか質問した。
「しばしばお会いしました。女帝は非常に幸福な状態におられることがわかっています」がスヴェーデンボリの返事であって,これを客の一人がフランス語に通訳した。
その答えは司祭の目に喜びの涙をもたらした。彼は,「女帝はいつも善良で,正しい方でした」と言った。
「そうです」とスヴェーデンボリは言った,「人民に対する女帝の優しい感情はその死後に明らかになりました。あの世で,それが見られたからです,女帝は,神に祈り,その助言と助けを求めないでは,決して会議に行きませんでした。ご自分が国とその民を良く治めることができるためにです」。
司祭は沈黙と涙をもってその喜ばしい驚きを表現した。
二番目のものは数年後デンマークで起こった。スヴェーデンボリがスウェーデンの領事の家での食事によばれたとき,女帝エリザヴェータの霊界での状態について言及した,との記録がある(第39章参照)。スヴェーデンボリは最近亡くなったデンマークの国王フレデリク★21に会ったか,と質問されて答えた――
「はい,私はその方に会ました,そして非常に幸福であることがわかっています。その方だけでなくオルデンブルク家★22の王はすべて幸福であり,王たちはみんなで協力しあっています。嘆かわしいことに,私たちスウェーデン (ヴァーサ家) の王たちの場合はそうではありません,その何人かはそれほど幸せではありません」
それから付け加えて――
霊たちの世界では,私は,ロシアの今は亡き女帝エリザヴェータほどに申し分なく仕えられているお方をだれも見ていません……。どれほど女帝に欠点があったにしても,善良な心をお持ちでした……。女帝は次から次へと手元に送られてくるたくさんの布告や書類への署名を意図的に延期されました。そのため,ついには女帝は調べたり熟読したりすることができないほどにそれらを増え,大臣たちの報告を信じて,できるだけ多く署名するしかなかった。女帝は私室に退いた後,ひざまずいて,もし,私が,自分の意志に反して,何か不正なものに署名したなら,許してくださるよう神に請いました[463]。
この時のものと思われるその王族に関する別の逸話が,「神を恐れ,真理を愛した人物」としてよく知られていた「G氏という者」によって,次の言葉で語られている――
1762年,ロシアの皇帝ピョートル三世が死んだまさにその日,スヴェーデンボリは私とともにあるパーティーに参加していた……。会話の途中で,彼の表情は変わり,もはや彼の魂は彼の中にはなく,何か(奇妙なこと)が起こったことは明らかだった。彼が回復するとすぐに,どうしたのかと尋ねられた。最初,彼は話そうとしなかった,しかし,しきりに促された後,彼は言った,
「今,まさにこの時間に,皇帝ピョートル三世が牢獄で死にました」 彼はその死に方を説明した,そして付け加えた――
「皆さん,この日のことを,新聞に載る皇帝の死の発表記事と比較するために記録しておいてください」
新聞は間もなく皇帝の死を発表したが,それはスヴェーデンボリが述べたまさにその日に起こっていた。叔母である女帝エリザヴェータによって後継者に指名されていたピョートル三世は,1762年1月5日,ロシア皇帝の位についた。その少し後,ピョートル〔三世〕の妻でありドイツの王女であった女帝エカチェリナ★23は彼に対する反乱を指揮し,自分がロシアの支配者であると宣言した。7月17日,ピョートルは共謀者の一人によって牢獄で締め殺されたが,これは,スヴェーデンボリの内なる目の前でそれが演じられるのが見られた,と彼が報告している悲劇であった![464]。
ストックホルムではスヴェーデンボリの幻視についてよく問題とされるようになっていた。意見はさまざまであった。その透視力に,ある者は全幅の信頼を寄せ,ある者は不可解なものとしてやり過ごし,また他の者は空想的な物語として拒絶した。しかし,スヴェーデンボリ自身は,その申し分ない性格のため,例外なく尊敬された。たくさんの逸話が生じたが,それらのすべてがどれも信用できるとは立証されていない。信頼度のやや劣る物語の一つに,フランスの公使館員J・B・ヴォン-シェレル教授[465]に帰せられるものがある。彼は監査官と個人的に知り合いだったが,彼の教義を信じることはできなかったことがわかっている。
その教授は以下のように述べている。ある夕方,スヴェーデンボリは友だちといた。夢中になって彼の霊たちの世界の情報を聞いた後,聴衆は,その異常な霊的能力力が信用できるか試すことにした。彼はこれらの出席者のうちだれが最初に死ぬか言うことになった。
スヴェーデンボリはその問いに答えることを拒まないで,少しの時間の後に,そのとき彼は深く沈黙の瞑想の中にいるように見えたが,彼は率直に答えた――
「オーロフ・オーロフソーンさんが,明日の朝4時45分に亡くなります」
この予言は,非常な確信をもって言明されたので,一同は狼狽状態に陥った。オーロフソーンの友である一紳士は,どうなることか知るために,翌朝,告げられた時間にその男の家へ行くことにした。途中で,彼はオーロフソーンの召使に会った,その者は彼に自分の主人が卒中に襲われ,ちょうど亡くなったところであると告げた。オーロフソーンの部屋の時計が,彼が息を引きとったまさにその瞬間に止まるという特異な状況も生じた,針はその時刻を指していた!
この確証されていない逸話は,ある者には非常に重要と認められているが,われわれにはむしろいかがわしく思える。スヴェーデンボリは将来の事柄の予言をまれにしか行なっていないので,時計の奇跡的な停止は,少しばかり以上の純粋な作りごとの臭いがする。そこで,この物語は当時出回っていたうわさの一例としての重みしかない。
もう一つの逸話は,「信用できる紳士」により語られたと言われているが,もしそれがほんとうなら,スヴェーデンボリの機知を非常によく証明している。学問のある年代記作者アシェティウス・カール博士は述べている――[466]
大司教サムエル・トロイリウスは,トレセットのゲーム――当時非常に流行した三人のプレーヤーのためのトランプゲーム――で遊ぶのが最大の楽しみであった。彼は賭け事仲間の一人である通商局の総裁エルランド・ブローマンを失っていた。その高位聖職者はブローマンの死から少し後の大きな集まりでスヴェーデンボリに会い,その見神者をからかい自分自身も,またその場の残りの者も楽しまそう思って,冗談めいた口調で彼に尋ねた,
「ところで,監査官。霊界について何か知らせてくださいよ。私の友のブローマンはそこでどのような日々を送っているのかね?」
スヴェーデンボリは直ちに答えた,と言われている。「ほんの二,三時間前に,私は彼が悪魔王の仲間のうちでトランプの札を切り混ぜているのを見ました。彼はトレセットのゲームをしようとしきりに閣下をお待ちしております!」
「このように会話は終わった」とカール博士は記している,「そして,二人のうちどちらがその来客たちの笑いの対象となったかを知るのは難しくない」
エルランド・ブローマンは非常な俗物であるとの評判であった。彼は放埒な王フレデリク一世のお気に入りであり,その王の情婦フレーケン・タウベの姉妹と結婚した。『夢日記』の中で,スヴェーデンボリはかつて,ぜいたく・富・誇りを追い求めることに惑わされていた,そしてその性質は彼にエルランド・ブローマンという人物として表れた,と述べている★24。ブローマンの霊的な状態は次のように描かれている――
世にいる間,陽気に,ただ世俗の事柄だけを気にして生きた,私の知っていたある人物がいた。死に臨んだとき,彼はそのときの悔い改めによって,祭司やすべての者が彼は天界に行くだろうと信じるほどの,だれよりも敬虔な覚悟を示した。私は死後三日目に彼と話した。そのとき,彼は直ちにそこの知人たちに会い,この世で楽しんだような物を見た。彼は前の生活に戻ってしまった。それで,死のときの彼の悔い改めは,まったく何にもならなかった[467]
原注
437 『ターフェル』Ⅱ,227。
439 『ターフェル』Ⅱ,228-31。
441 ストックホルム,科学アカデミーで。『ターフェル』Ⅱ,233-4。
442 『ニューチャーチライフ』1896年,186ページ参照。リンネもまたスヴェーデンボリの本を自分の図書に所蔵している。オックスフォード大学のボドレー図書館は,スヴェーデンボリが贈呈したと思える一揃いの『秘義』を所有する。
443 本書の著者は,1915年の夏,セーデルマンランドのオーケレー城で,その領地の現在の所有者であるG・F・エンデルレイ氏の好意により,テッシンの原日記から,これやその他の記事をコピーする特別待遇を得た。オーケレー城は1756年にカール・グスターフ・テッシンによって建てられた。立派な肖像画,タペストリー,フレスコ画,そのすべては人々を極めてありありとスヴェーデンボリの時代へと誘う。荘厳な表玄関で時を打つ時計は,遠い過去からの声であり,時代物の金箔を着せた鏡の中に,人々は容易に,ロココ式の騎士とその婦人たちの髪粉をつけたかつらと宮廷風の優雅さを思い描く。テッシンの家族の手からこの領地が離れたとき,古い蔵書は永久にオーケレーに残すという条件付きであった。
C・オードナー(シグステッド)『スヴェーデンボリに関する新たな文書』ニューチャーチライフ1916年,95ページ以降参照。
444 テッシンの日記,1760年2月28日。『ターフェル』Ⅱ,398-401;647-666。
445 『霊界体験記』5996番参照,1759年12月13日後に書かれている。
446 『ニューチャーチライフ』1916年,95ページ以降参照。
447 テッシンの日記,オーケレー,1760年7月4日。第二巻,890-91ページ。『アカデミーコレクション・スヴェーデンボリ文書』(ブリン・アシン)に写本あり。
448 『ターフェル』Ⅱ,395-7。
450 『ターフェル』Ⅱ,633-46。「失われた領収書」の事件は12の異なった方法で,12の異なった証人によって語られており,それらのどれも,非常に細かな点では確かに疑問がなくもない。それで,ほんとうに起こったことについては,いくらか矛盾する記事から精選しなければならない。われわれは,スヴェーデンボリの友達であり隣人のカール・ロプサームの証言におもに基づき,これに「カンツレリン・フォン‐コルン夫人(Frau
Canzlerin von Korn)(ド-マルテヴィル夫人)による信ずべき記事」(1805年1月27日付)を付け加えて,物語の合成画を作らなければならない。気分がすぐれないことによって,彼女は自分の2番目の夫,デンマーク人の将軍ヴォン-エルベンにこれを「自分の真実で紛れもない言明」として書かせた。明らかな誤りゆえに,ターフェル博士は,これを証言として信用していない。これは,スヴェーデンボリに対する中傷が広く流布している時に書かれており,そして書いた者の目的は明らかに,彼の妻から,真偽の疑わしい妖術使いが彼女を訪問していたとの外見を取り去るものだった。
原文献はハーグ王立図書館の中のヴァン-ガンス(van Gaens)の論文の間にある。これは,ターフェルの文献と少しだけ異なっている。『アカデミーコレクション・スヴェーデンボリ文書』(ブリン・アシン)に写本がある。
451 『ターフェル』Ⅱ,635-6。
452 『ターフェル』Ⅱ,647以降;432以降。『ニューチャーチライフ』1916年,186ページ以降参照。
453 “Gottingeschen Anzeigen von gelehrten Sachen ”(ゲッティンゲンの広報,学問上の事柄について)。この雑誌の中に,スヴェーデンボリについて記述したどんな記事も見られない。
454 トゥクセン将軍は,この点について,自分はスヴェーデンボリに尋ねた,と言っている。女王が彼に委託事項を与えたとき,だれかが女王の言ったことを聞いたかどうかである。「彼は,『わかりません,それでも,女王は非常に小さな声で話したので,王とシェファー伯爵しか,それを聞けなかっでしょう,もし彼らが注意すれば』と答えた。この記事は信頼できる,亡くなった尊ぶべき人物自身がこれを私に語ったのだから」。トゥクセンの証言は,デンマーク語の原文から英訳されて,アウグトゥス・ノルデンシェルドによって出版された。(女王の弟,皇太子アウグトゥス・ヴィルヘルムはフリードリヒ大王の継承者と認められていた)。『ターフェル』Ⅱ,650以降,『ニューチャーチ・マガジン』(ロンドン)1791年267ページ以降。
455 『ターフェル』Ⅱ,655-6。女王ロヴィサ・ウルリーカからフリードリヒ大王のアカデミーの会員ディュードネ・ティェボーへ。
456 『ターフェル』Ⅰ,65,注。
(その3)
458 『ターフェル』Ⅰ,36。これは「悲哀と能弁をもって常にその教会を聴衆で満たした」教職者のことであろう。彼が死んだとき,ロブサームはスヴェーデンボリに彼が祝福された状態にいるか尋ねた。「この男は」とスヴェーデンボリは答えた,「偽善者たちの地獄の社会へ直行しました。というのも,説教壇にいる間だけ,彼は霊的な心を持ったからです。それ以外の時には,彼は自分の才能を世での成功のために費やしました――慢心した人物です。偽装や欺くための技巧はむだです。それらはすべて死とともに消え去り,人は不本意ながらも自分が善人であるか悪人であるかを示すことになります」『ターフェル』Ⅰ,45。
459 『霊界体験記』5997番。「単純な者は賢明な者が理解しない事柄を理解する。私は「黙示録」についての『解説』の中で内的な知性に属する事柄を,例えば,天的・霊的・自然的な人について,また段階的な善と真理について書いた。私は書き終えたときティスラ・マーケットに住む☆既婚のある婦人――心からの単純な信仰の持ち主――と談話した。彼女はあらゆる事柄を明確に理解した。しかし,そこにいたある学者は理解しなかった――確かに理解できなかった。多くの者もそうであった」(1760年6月12日から1761年8月15日の間に書かれた)
(☆訳注:ラテン原典版には「ティスラ・マーケットに住む」の部分はスウェーデン語で書かれている。ラテン語(それを和訳)に「ティフヴラエ店の中で」と訳されている)
461 『霊界体験記』6027番。(他の参考文献省略)
462 『ターフェル』Ⅰ,37-8。
463 『ターフェル』Ⅱ,432-3。シグネ・トクスヴィク著『エマヌエル・スヴェーデンボリ,科学者・神秘主義者』(New Haven,1948年)327-8ページ参照〔今村光一訳『巨人・スウェデンボルグ伝』462-3ページ,ロシア女帝エリザヴェータについての部分〕。
464 『ターフェル』Ⅱ,489-91。「アムステルダムでの」会合と記述されているが,スヴェーデンボリは当時アムステルダムにはいなかった。疑いもなく,この書き間違いはこの事件を(また聞きで)物語った者が当時オランダにいたという事実に帰せられよう。スヴェーデンボリがストックホルムにいたことは,(イ)1762年6月16日,エケバルド伯爵が彼に会っている,(ロ)同年8月13日のスヴェーデンボリの署名の手紙から明らかである。ここからターフェル博士はスヴェーデンボリが実際に行なった海外旅行をもう一つ多いものとしてしまった! 『ターフェル』Ⅱ,619;995,1165参照。
465 『ターフェル』Ⅱ,715-17。
466 『ターフェル』Ⅱ,725,1245。
467 『霊界体験記』5492-5番。ここの記事での“Er. Br.”の記述はエーリク・ブラーエに言及しているとされたが,『霊界体験記』の索引ではブローマンの名前がある。しかし,ブローマンは1757年に死に,しかもこの逸話は“その死のすぐ後”とされているので,これはスヴェーデンボリの霊界経験が3年後になるまで一般には知られていなかったという事実の光の中で考察されなくてはならない。(他の参考文献省略)。〔この原注の後半の記述「しかし……」は無視してよいと思う。『霊界体験記』5492番の前後には「最後の審判」が記述されており,それは1757年に起こっているからである〕
訳注
★1 Johan Rosen(1726-1773);修辞法と詩の大学講師。文芸能力と機知に富んだ人物。彼が創刊し,編集した週刊雑誌によって,イェーテボリの人々に広く文学を味わう心を吹き込むように努めた。
★2 Gustaf Bonde(1682-1764)伯爵;スウェーデンの最も古い高貴な家系の一つのその子孫であった。1727年に,父から子へと直系の家族による枢密院(国王の諮問機関)の一員となったとき,彼はその職務を果たす20番目の一員であった。彼はホルンの平和政策の支持者であり,ハット党が権力を握ったとき,無理やり辞職させられた(1740年3月)。続く21年間,彼は自分の私有地に引退し,研究と著述の時を過ごしたが,それでもそれらの初期の年月にはウプサラ大学の総長としての職務を続け,彼はそこで多くの重要な教育上の改革を導入した。総長には1737年に選出された。1761年,キャップ党が権力を取ると,彼は再び枢密院の一員となり,死ぬまでそこに止まった。彼の文書の中には,『天界と地獄』や『最後の審判』についての論評があるが,それは彼がスヴェーデンボリの教えを受け入れなかったことを示している。
★3 Louis Baron d'Hatzell;彼について1750年にハーグにいた以外の事実はほとんど知られていない。1754年に彼のための結婚予告が公にされている。彼はハンブルクの代理大使としてオランダにいた。(イタリア国の)コンスタンティン勲章を受けている。
★4 注釈するまでもないと思うが,当時「教育を受ける」と言えば,ラテン語などの古典語を学ぶことを意味した。著作はラテン語で書かれ,出版された。
★5 Andres Anton von Stiernman(1695-1765);“公文書保管庁”という名の記録文書保管所の所長であった。スヴェーデンボリは彼に本の送付(オーボ大学に『天界の秘義』)を委任した。
★6 Swammerdam(1637-80);オランダの博物学者。顕微鏡を用いて初めて赤血球を記載(1658);リンパ管の弁を発見(1664);主著『自然の聖書』(1737-38)。
★7 両人とも後の第35章「初期の信者たち」に登場する,そこを参照。
★8 Karl Gustaf Tessin(1695-1770);その時代の最も傑出した最も教養のある最も裕福な政治家の一人であった。ハット党の指導者として,彼はアーヴィッド・ホルンの政策に反対し,彼から国家の首相を継ぎ,14年間(1738-1752)スウェーデンの政策の指揮者であった。1754年,宮廷の人気を失い,彼はオーケレーの自分の領地に引退し,そこで1770年に死んだ。1760年3月,テッシンはスヴェーデンボリを呼び,その訪問の後,彼の神学著作をいくつか読んだ。しかし,これらは彼を納得させなかった。彼は著作にはところどころ狂信的なものがあると思ったが,それでも,それらにはまた善い物も含まれていると認めた。
★9 Niklas Oelreik(1699-1770);ルンド大学で数学,後には哲学の教授として仕えた。1732年,大学の図書館員に任命され,これは彼のための特別な職業であるかのような才能を発揮した――図書の歴史といった分野で。1744年,海外旅行から帰り,2年しないうちにグスターフ・ベンセルシェルナの後を継いで出版物の検閲官に任命された。彼は熱烈なハット党員であり,1755年に表向きの編集者として『エン・エールリック・スヴンスク』(栄えあるスウェーデン)という週刊新聞を公刊した。これはスウェーデンで発行された最初の政治的定期刊行物であり,当時,ハット党で主流となっていた精神で書かれ,政府の手による強力な武器であった。そして一方では,キャップ党の苦々しい憎しみを引き起こした。党は彼に12,000ダーラーの俸給で報いた。貴族に叙され,その名前をヴォン-オエルリクと改めた。
★10 Carl Didrik Ehrenpreus(1692-1760);スヴェーデンボリと同時代にウプサラ大学の学生であり,1748年にその大学の総長となった。彼はストラールズントの包囲戦ではカール12世と一緒であった。明らかに国王のお気に入りであった。1718年に上告のための高等裁判所の監査官に任命され,そこで彼は後に顧問官となり,その格別な裁判能力は高く評価された。同じ年に,港での関税の徴収は,エーレンプレウスが経営上の役員をしている会社に賃貸された。その会社は,総額488,700ダーラーを支払う,それに加えてその総額を越えたとき,受領高の84パーセントを支払う,という了解を取り付けた。その結果,国王は実際に1,167,400ダーラーを受け取った。この了解事項が消滅したとき,エーレンプレウスはその更新を申し出たが拒否された。「自由の時代」がやって来ていた,国家は自分の税関で徴収することを決定した。その結果は,収入の減少と密輸の増大であった。
★11 テッシンの日記には,いろいろな者の伝記も述べられていたのであろう。また“われわれ”とは,ある程度,この日記の読者を意識していたのであろうか。
★12 フェルセン伯爵は貴族院の議長である。
★13 「友よ,笑ってはいけませんよ」ぐらいの意味。risus=笑い・嘲笑の対象,teneo=差し控える・抑制する,amicus=友人。
★14 town house,(領地の)田舎に本邸を持ち,市中に邸宅を設けた。
★15 ドイツ中部の旧公国。
★16 Lovisa Eleonora(1720-1782);フリードリヒ大王の妹。女王からの手紙がウプサラ大学の図書館にある――その時は王に死なれた王妃であった――その手紙の中で彼女の秘書J・F・ベイロンに「ラテン語のスヴェーデンボリの著作を二冊送ってください」と要求している。
★17 “七年戦争”(1756年~63年)の最中である。プロイセンとオーストリアの戦いであったが,スウェーデンはオーストリア側について途中から参戦した。
★18 Christina(1626-89);女王在位(1632-54)。
★19 Elizabeth(Yelizaveta)(1709-62);女帝在位(1741-62)。
★20 Peter the Great(1672-1725), 帝政ロシアの始祖。
★21 Frederick V(1723-66);在位1746-66,デンマークでは産業を起こし,ノルウェーでは文芸を保護し,教育を促進した。
★22 クリスティアン1世からフレデリク7世まで(1448~1863,16人の王による)デンマーク王国を統治した王家。
★23 Catherine II(1729-96);女帝在位(1762-96)。
★24 『夢日記』40番,同書の原注21参照。
〔研究誌『荒野』第41,42,43号,1999年8,9,10月〕