32 Contribution to Government
第32章 政治への貢献
スヴェーデンボリは霊的な役目を果たしているときも政治的な義務を放棄しなかった。祖国の利益のために自己の最善を尽くすことは,一貴族として家長として,自分の務めの中に含まれると考えた。彼が国会での会議に一度たりとも欠席したという証拠はない。もし,国会が開かれる年に外国にいるなら,その出席に間に合うよう,彼は帰国計画を立てた。彼はこの世の利害関係や義務から決して“超越”していたのではなく,また自分の研究を実際の職務から免除される権利とも考えなかった。しかし,会話ではどもることがあったので,口頭で議会に臨むことは控えた。そしてこの理由から,彼の貢献は「請願書」を書くことによってされた。それは現在,彼の他の分厚い手書き原稿の間に,『議会文書』という題名の草稿の形で,分離した一冊として綴じられ,保存されている[467a]。
これらの文書を評価する際,われわれはスヴェーデンボリの政治の分野での重要性を誇張しようとするのでなく,むしろそれらが彼の判断力と心のバランスを示す例として指摘したい。彼は手掛けたものは何でも,最上級によく行なったのである。それらは,この人物の性格が,もし実践的なものでないなら他に何もないほどのものであり,幻想にふける思索家のものとはそれほどに対立していることを示すので非常に価値がある。彼は直観的識別力をもっていつまでもこつこつと働き,政治的な義務を当然のこととして受け入れた。自然と,彼自身の収入と富も伴った。さて,スヴェーデンボリは民主主義を完全に信頼していたことを示すいろいろな証拠がある。彼は必要と感じたときはいつでも,すぐに民主主義の防御にまわった,彼の心にとって貴重なものは――自由を与えるからであるが――政治の自由な形式であった。
スヴェーデンボリの貢献について記すためには,スウェーデンの政治的な歴史に簡単に目を通し,そこに登場する主要な人物の人柄を書きとめておくことは必須であろう。
老いた国王フレデリク★1は1751年に亡くなった,スウェーデンは長い間の平和を享受した――もし,フィンランドの地で戦った1741-3年の短くて気乗りのしない戦争★2を除外するなら,30年間である。ウルリーカ・エレオノーラの配偶者であるこのドイツ生まれののんきな君主は,官能的な気質のおとなしい人物であり,肉欲の快楽にふける生活を送った。事実上,政治は完全に国会のものであって,国王の主権は名目上だけであった。王権の低下を常に嘆き悲しんだスヴェードベリ司教はかつて,国家顧問会議にほとんど臨席しないことから,フレデリク国王をたしなめたことがあったが,そのとき彼は,「それも不思議ではございません。そこには,国王に説教を授ける16名の者がおりますから」との返事を受けた。その放蕩生活も終わりの頃,老いた国王は手の震えのためほとんど自分の名前すら書くことができなかった。それで印章が作られたが,そのことにより国王は国家文書への署名の義務からすら解放された。国王は苦労してまでスウェーデン語を学ぼうとは決してしなかった。
当時は,前世代の重苦しく濃い青や紫色の威厳ある様式が,装飾と意匠で,フランスから広まった,さっぱりとした,明るい,優雅なものに道を譲った時代であった。人々はロココ風の家具のしとやかな輪郭を,その繊細な羊飼いと羊飼いの娘を★3,その豊富な装飾を好んだ。輝く絹で着飾った,そうして貴婦人が現われ来たる前にすら,その衣ずれの音が到来の先触れとなってほほ笑みをもって迎えられた。宮廷の大広間の空気は,公式の歓迎会ですら,なまめかしい会話に満ち,ソファー席での恋愛場面で終わった。チョウ★4の性質を真似するのが流行った,嫉妬深い夫は冒険する妻を密かに探るために,競争相手たちは,背後では悪意に満ちた批評をしながらも,お互いの面前では口当たりのよい言葉を使うためである。
国王フレデリクの霊的な性格はスヴェーデンボリの『霊界体験記』にありありと描かれている。この世での無節操と怠惰な肉体的快楽にすっかり傾倒していたので,王の死後の運命は不幸な者の間にあった,国王の配偶者ウルリーカ・エレオノーラの祝福された状態とは極めて異なっていた[468]。
フレデリクの平穏な統治に比べ,その継承者アドルフ・フレデリクの統治の性格は非常に異なるものであった。こんどの王は,知的で,思いやりのある,冷静な気質の人物であり,国会によって押しつけられた制限には喜んで優雅に従いはするが,傲慢で,頭の回転の早い,ドイツ人の彼の妻,ロヴィサ(ルイザ)・ウルリーカにはそれほど大きく影響されなかった。自分がプロイセンのフリードリッヒ大王★5の妹であることを忘れることはできなかった女王は,王権の上に置かれた制限がしゃくにさわって,いらいらしていた。慣例的な奢りの中で,スウェーデンを支配する野望に駆られて,女王は宮廷を芸術,科学,文化の中心にしようと欲したが,スウェーデンに深く染み込んだ民主主義と自分の野望を和解させるのは彼女は困難だと見出だした。女王を乗せた馬車が首都の街路を通り抜けるとき,人々は女王の目の中にその願望を読み取ったと言われている,「ああ,もしもおまえたちが私の単なる農奴であったなら!」
ロヴィサ・ウルリーカは,貴族の権力,特にハット党と彼らの指導者テッシン伯爵の権力を奪おうと決めた。女王の最初の行動は,国家顧問会議の議長を辞任させ,無理やり彼を皇太子――後のグスターヴ三世である――の監督人とすることであった。彼に替わってアンデルス・ヴォン‐ヘプケン伯爵,ハット党の党首も少しばかり決断力の劣る人物に変えられた。それから,女王の側に政治上の多くの指導者たちを引き寄せ,“宮廷党”を組織した,その目的は王権の拡大であった。1755年も終わろうとする頃,現在の政府を覆す手段として軍隊を用い,王の心情に近い別の形態を立ち上げようとする陰謀が計画された。女王は変革計画の中心であった。その資金を調達するため,女王は,プロイセンの自分の兄と共謀し,スウェーデン王室のいくらかの宝石を自分のものだと主張して売り払った。この陰謀が発見され,国家顧問会議は,王室の宝石の目録を作成するよう命じた,女王はそれらを決して身に付けたことはないと,怒って拒否した。同時に,グスターヴ・ホルン男爵を通して,女王は,ハット党に対して助けてくれるよう,密かにロシアの皇帝との陰謀を企てた。政府を転覆させようとするこの陰謀は発見され,そして――大司教のヘンリク・ベンセリウスやサムエル・トロイリウスによる執り成しによって,女王は厳しい譴責を免れたが――変革の企てに対する判決は主導的な陰謀者たち10名の処刑であった。彼らの間に,エーリク・ブラーエ伯爵やホルン男爵といった政府の主要な第一位の役人たちがいた[469*]。1756年7月23日,ストックホルムの市民たちに悲しい哀れな光景が示された。リッダーホルム教会前の処刑台に,何人かの王国の最も貴い血が流れた。スヴェーデンボリは『霊界体験記』に書いた――「ブラーエは午前10時に処刑され,私は彼と午後10時に,12時間後に会話した,それから,ほとんど連続して数日間〔会話した〕……」[470]。
王権は決してそんなにも低められなかったし,王国も財政的に決してそれほど悲惨な局面ではなかった。1746年以来権力についたハット党は,国を甚大な外債に巻き込み,政府は行き過ぎた大量の輸入品に支払う十分な金がなくて,大困難に陥った。
危険なほどに,スウェーデンで大酒が蔓延していた。現在では,飲酒問題を賢明に取り扱う模範国として見なされるので,これは信じるのが困難かもしれない。しかし,スヴェーデンボリは彼のある神学著作の遊び紙〔書物の巻頭・巻末の白紙〕に書いた――「蒸留酒の節度のない飲用により,スウェーデン人は没落するであろう」。
特に1755年は悪い年であった,ときに輸出に対する輸入超過は総計で,銀300万から400万ダーラーに達した。そのとき,これ以外にも,国は穀物不作に脅かされ,外国の穀物への必要が増大していた。銀行は,外国からのそれらの購入物への支払い金を調達するのは困難と判断した。この状況を救済するため,貴族院は多くのぜいたく物品の輸入を禁止しようとし,蒸留酒の蒸留を制限することで国内の穀物を節約することを擁護した。
この問題が議論されるようになったとき,スヴェーデンボリはいくつかの救済策を提案した。その一つは,「町のすべての酒場は,(今日の)パン屋のように開いた窓から,そこを通してブレンヴィン [脚注*]を買いたいと思うものはそうでき,飲み屋の中に入って,ぶらぶらするのは許されないように整備されるべきである」。彼の提案の中には,後のスウェーデンの蒸留酒規制である「イェーテボリ制度」の萌芽がある。彼はまた,アルコールの蒸留の許可を与える者に,このために以前その仕事に従事していた者たちの損失を弁済することを請け負わせるよう提唱した[471]。それにもかかわらず彼は,もしブランデーの消費が完全に廃止されるなら,それは国にとってよいことであろう,と考えた。「これは国の福祉と道徳のためにより望ましいであろう,これほどに有害な飲み物から得られるすべての収入よりも,……」
反対勢力は熱くなった。太古から,貴族たちはかつらの収入のいくらかを飲み屋から引き出していた,これは彼らの守られるべき特権である,と反論された。代弁者たちは,ブレンヴィンを人々のこの世で持てるただ一つの楽しみとして弁護した。「厳しい重労働をしなくてはならない大衆は,乾燥した粗末な食物〔干からびたパン〕を常食するよう,ときどきは酸っぱい飲み物〔酸っぱくなった牛乳〕,ときには水を飲むよう強いられている」。彼らから蒸留酒を取り上げたら,国中の統制がとれなくなってしまう!
しかし,飢饉は,予報されたように1756年に起こり,制限する立法措置の採択を後押しした。見境なく蒸留することは禁止され,違反に対し,蒸留器は一時差し押さえられ,罰金が科せられた。しかし,あまりに行き過ぎの禁止であった,それで――一般的に法律が正義の考えに傾き過ぎ,人々の同意を欠くとき常であるように――これは守られなかった。
人々は個々の家で密かに蒸留した,ついには法律をないがしろにする結果となった。輸入が禁止されていたぜいたく品の中に,コーヒー,茶,砂糖,ワイン,たばこ,外国の果物があった。禁輸品は実際に税関から消えた,しかし,それでもなお,店では売られていた,そして禁止期間中のときに,その国ではかつてないほどに非常に多くのコーヒーが消費された,と言われている!
この混乱の最中のとき,アメリカの植民地でフランスとイギリス間の戦争が勃発した。ハット党は,自分たちはスウェーデンを有利な状況に変え,同時に国内の戦線で自分たちの党の衰弱を防ぐ方法を見出だしたと思った。
イギリスは,ハノーヴァー王家★6を通じてプロイセンと同盟していたが,このことはヨーロッパ大陸に紛糾を招いた。フランスは,プロイセンに対抗する盟約を結んでいたオーストリアならびにロシアと同盟した。フランスの同盟国であるスウェーデンは,フリードリッヒ大王に対抗する同盟に加わるよう促された。そして戦争★7に加わる報償として,ポメラニア★8とが保証された。これは短くて,栄誉ある戦争となるはずだった,それで心の底ではつねに好戦的なハット党は――当時は奇妙にもロシア皇帝の仲間であったが――誘惑に屈伏した。ロシアと一緒にする戦争は,女王に完全な屈辱を与えるであろうし,同時に人々の心を不健全な経済状態からそらすので,特に心地好いものに思えたのである。フリードリッヒ大王が,ザクセン★9に進軍することによって★10ウェストファリア講和条約★11――1648年に締結され,スウェーデンでは1720年に支持された――は破られ,十分な口実が見出だされた。戦争は1757年9月に宣告された★12,しかし,装備も悪く訓練も貧弱なスウェーデン軍隊は,フリードリッヒ大王のよく訓練された兵士たちに対抗できなかった。
スウェーデンが敗北するにしたがって,ウルリーカ女王の意気は盛り上がり,ついには,その兄の成功を喜ぶことをほとんど隠そうとさえしなかった。国家顧問会議は,「女王はスウェーデン政府の戦争計画を兄に漏らしているのではないか」と疑った。その戦争の運命は多くの浮沈をもって1762年の5月に不名誉な結果をもって終結した,しかし,戦争で疲弊したスウェーデン市民には大きな安心をもたらした。
今やわれわれは,なぜ名高い紳士たちが極めて熱心にスヴェーデンボリが女王に明らかにした秘密を知ろうとしたか知るのである! しかし,女王陛下が彼女の弟★13に言ったことは決して知られないであろう,その見神者は決してこれを明らかにしなかったからである。スヴェーデンボリの友人たちは,彼の生涯についての記事で,後世に対しこのことを一言も触れなかった。おそらく彼らはそれを忘れてしまったか,あるいは,時の経過とともに,それは重要でなくなったと思えるようになったからであろう。女王の秘密を知ろうと期待してスヴェーデンボリの門戸の前に馬車を止させる紳士たちの熱心さの気配をわれわれが汲み取れるのは,ただ家政婦から漏れ聞く言葉を通してだけであった[472]。
ポメラニア出征に,国は銀6,200万ダーラーの費用と数千人の血気盛んな兵士を要した。2度わたって,ハット党はその強烈な約束に従って国を勝利に導くのに失敗した。しかし,戦争には賠償となるものがあった。ヴェストマンランドの,ペール・エーリク・アスベリといった多くの従軍者は,その背嚢(はいのう)に袋いっぱいの,たくさんの新しい“ヨルドペロン(“地の洋梨”すなわち,ジャガイモ)を,そしてその腕には彼女の小さなクナーベ★14を連れたドイツ人の妻を連れて帰郷した。結果として生じる人種混合はスウェーデンの人種にいくらかの健全な変化を与えかもしれない,そしてその語彙は確かに豊かなものとなった。ジャガイモはその国の歓迎すべき新しい栄養源となった。それらはなんと美味であったことか! 何と役立ったことか! ゆでて,少しの塩を振り掛ければ,ジャガイモはパンと肉の代わりとなり,それで人々は同一度に何日間もそれらだけを食べて暮らせた。復員軍人はそれらをスウェーデンの固い耕地に植え付け,最初の年ですら,その土地は子供たちの楽しいごちそう生み出した。
* * * * *
変動する外国為替相場は悪くまたさらに悪くなっていた。貿易の平衡を規制すると思われた官庁は,その試みに失敗した。20年の間に,〔中世ハンザ同盟の中心地〕ハンブルクの通貨であるリクスダラー★15は,その額面以上に途方もなく上昇した。そのため,1760年の国会は,財政の特別委員会を設置し,その長官に通商顧問官のアンデルス・ノルデンクランツを任命した。
スヴェーデンボリは,ノルデンクランツの推奨した法案は効果がなく,国に有害であろうと確信した。1760年11月17日,彼は国会に『外国為替』という題名の文書[474]を提出した。その長い文書の中で彼は,スウェーデンでは,すべての国々のように,為替を規制するものは通貨だけである,と論じた。彼は言っている,進んで通貨を手放そうとする商人はだれもいない――それが金貨であろう銀貨であろうと銅貨であろうと――為替手形が貨幣そのものの実際の市場価値以下となっているなら,商人は外国からそれ以上ものを得ることができるのである。
為替相場の高騰によって,そのバランスを回復するために,そこで銀貨は国から出て行く。スヴェーデンボリは言っている,近年,為替相場はこうしてスウェーデンの貨幣1 リクスダラーはその交換率をハンブルクの通貨35マルクから66マルクの水準に高騰した――すべては「お金を表わすが,お金ではない」紙幣の過剰流通によって引き起こされた。彼は言っている,今や為替相場は,通貨でなく,鉄のような商品で定まり,このことは海外に投資する商人に,スウェーデンの為替相場を規制する力を与えている。この結果は,価格の上昇と税金の増大であり,これに比例した賃金の増加がなければ,人々はその害を被り,役人たちは賄賂によって自分たちの給料を増やすことに追いやられる。彼は宣言している,もし事態のこの状態が続くなら,スウェーデンは滅亡の国となるであろう。
この悲惨な状態の原因は,財産に基づいて銀行に紙幣の発行〔貸付け〕を許してきたことにある。これは,自分のあらゆるものを抵当に入れ,そして今では現実を無視した豪華さの中に生きる者らによる浪費生活を導く。その国は外面的には豊かであるが,内面的には貧しい。なぜなら,人々は自分自身の土地を持たず,銀行が持つからである。
救済策としてスヴェーデンボリは,財産を抵当とすることは止め,貸付けは徐々に回収され,そして鉄が為替相場の基準となるべきである,と提案した。またさらに彼は,歳入を増大させ,穀物の消費を縮小するため,アルコール飲料の制限を弁護した。「これらすべてを熟慮することが,国会の一員として,私は自分に課せられた義務と考える」。通貨は最高度に重要な問題であった,国の全般的な繁栄はこれに依るからである,「なぜなら,国での通貨は身体での血液に似ているからである。その生命,健康,強壮,防御はそれに依るのである」
外交為替の問題についてのスヴェーデンボリ洞察力やその他の貢献に対して,彼に特別財政委員会の席が与えられた。しかし,彼は,この委員会は法律に反して設置されたものだと考え,それで辞退を願った。全委員は,「市民院」の一議員であるキャップ党のアンデルス・ノルデンクランツ顧問官によって任命された。彼らは秘密厳守の誓いの覆いに隠れた下で活動した★16。
ノルデンクランツは,財政的な危機についての700ページの分厚い本を出版し,これを国会の四院★17で意見として述べた[475]。「毒と鬼火★18満ちている」,非常に退屈な本であり,「3ページ目で一つのあくび,10ページ目では眠りに落ちる」とテッシンはこれを評した。この本の中で著者は,裁判官,議員,公務員の無能さを非難しながら,国の悲惨な状態に警告を鳴らした。彼は,国家のすべての役人は上級公務員も下級公務員も,教会と軍隊を除いて,2年または3年ごとに変えられるべきだ,といった政治の形態の最も根本的な改変を提案した。
これは非常に危険な主張である,とスヴェーデンボリは考えた。そして国会への請願書で,委任されてきたことなのにその失政のために,政府に対する不満を増大させることに反対した[476]――
間違いはあらゆる国で,まただれにでも起こる。しかし,もし政府が単にその過失から判断されるべきなら,それは個人を単に彼の失敗と不完全さから判断することに似るであろう。
国会の名誉ある各院は,鷹揚にも私が長々と解説することを,そして私の意図する以下の事柄を説明することを許してくださるであろう。
1.もし正直な心と自国の繁栄への愛を持つ個々の者が,自分の欠点と過失のすべてを数え上げ,人々の間で公けにしなければならないのなら,それによって,彼の名誉は傷つけられ,すべての人々の目から,また彼自身も,価値がなく,見下げ果てたものとして見られはしないか? このことを明らかにするために,通商顧問官ノルデンクランツと私自身の例を引き合いに出せる。弱さと無知から起こる私たちのすべての過失は,追跡され,数え上げられ,あしざまに言われるべきなのか,私たちはすみやかに公衆の面前に黒いカラスとして現われなければならないのか? それでも,私たちの善良な意図を持った目的と私たちの国の繁栄のために善良な性向は,私は思う,国の他の親切な人々のように,私たちにとって現われている。
2.あらゆる人間には,他人の欠点を見出だし,それらに好ましくない判断を下すことよりも彼にとって行なうのに楽しく容易なものは何もない傾向がある。私たちのすべての者が,生まれつき,兄弟の目のなかにちりを見出だし,自分自身の中のはりを見ず(マタイ7:3),また,ぶよはこして除くが,らくだは飲み込む(マタイ23:24)傾向があるからである。高慢で,悪い性質をもったすべての者は,他人の欠点を見つけ,非難することに思慮分別を置く。そして寛大で真のキリスト教徒のすべての魂は,過失は弱さから起こり得るものとして大目に見て,故意になされたようなそうした悪には激しく抗議しながら,すべての事柄を状況にしたがって判断することに思慮分別を置く。
3.同じことが,全般的な方法で,政府にも起こる――過失,数多くの過失,あらゆることの中に見出だされるであろう,そうして書物はそれらでいっぱいになろう。公正と公共の善を損なうイギリスやオランダでなされてきた,私が聞き,また私自身の経験から知ったすべての過失を知らせようとするべきか,私は本全体を嘆きで満たすことができると信じる。そのとき,それでも,スウェーデンの私たち自身の政府はヨーロッパで最善である。……すべての住民がその生活と財産を安全に暮らし,だれも奴隷でなく,彼らがみな自由であるからである。
4.名誉ある国会の各院は,私がさらに高い次元へ進むことを許してほしい。もし,この世で,天使的な性質を備えた人々からなる天界的な政府が存在しても,それでもそこには,人々の欠点とともに弱さによって引き起こされる過失があるであろう。そしてもしそれらが捜し出され,報告され,過大視されるなら,この政府もまた,罪人呼ばわりによって土台を削り取られ,それによって次第に,好意的な人の間に,政府を変え,滅ぼそうとする欲望が起こるであろう。
5.最善の政府は,そして最も賢く整えられた政府は,スウェーデンの私たち自身の政府である。そこでは,すべての事柄は,最高の指導者から最も低い者まで,統治の公正さという目的で,鎖のようにつながり,互いに結び付いている。
スウェーデンの政府の完全さを数え上げた後で,論説の結論は――
財政委員会が,今日,その任務に入ろうとするとき,国会のこの前の会議以来なされてきた過失と思える事柄を,大なり小なり,弱さから引き起こされる失敗は大目に見て,無知から起こるそれらは修正して,しかし,悪の意図からなされたものは罰して,公正にしたがって,調べ,処理するよう,私は最も強く主張する。しかし特に,あまりに多くの欠点を数え上げて,民衆と現在招集されている国家の各院の心に,私たちの間に設立されているすぐれた政府に対する不満を醸し出さないよう留意することを,私は委員会に望んでいる。古いことわざによってこれを例えれば,「カリブディスを避けて,スキラにぶつかる者」★19「極楽鳥の卵と思った卵から,バジリスクが生まれた」であろう★20。
それから,スヴェーデンボリはノルデンクランツによって指摘された特に9つの点を挙げ,それらを簡潔さの傑作ともいえる文書で,一つ一つ論駁した。彼は,顧問官が勧告するように,すべての政府の役人を2年または3年で変えてしまうなら,どれほど有害なことか,またこれら熟練者を新しい者と置き換えることがどれほど不可能なことかを示した[477]。
ノルデンクランツの別の勧告は,政府の役人は国会での投票権を持ってはならない,または何らかの委員会の委員となってはならない,というものである。スヴェーデンボリは,このことは国家の全構造をひっくり返し,その安全を損なうであろう,と説明している。
ノルデンクランツは,派閥によってなされる権力を,その腐敗のゆえに攻撃した。スヴェーデンボリは,派閥によってなされる腐敗した施策や権力を妨ぐことは不可能である,しかし,専制政治へ戻ることの危険はそれ以上に懸念すべきことである,と述べた。彼は言っている,「自由な政府での腐敗した施策は,絶対君主制の大きな波に比べれば,小さなさざ波のようである。絶対的な君主制,あるいは専断的な君主制では,寵臣が,また寵臣の寵臣が,じつに絶対君主そのものが,自分たちの熱情を考慮し訴える人々によって腐敗させられる。これについては多くの恐ろしい例が引用できる」。彼は,銀行の上に権力を振るうイェルツ男爵の欲望を甘やかし,武器を担げる者をすべて軍隊へと強制することによって国を滅ぼしたカール十二世の例を引用している。イェルツ男爵は,国王の戦争への熱情に迎合することによって,国王自身を堕落させた。「ここから,一人の絶対的な,専断的な君主が1年のうちに,派閥や徒党が……100年で行なえるよりも,さらに大きな不幸をもたらすことができると知られるであろう」。
そのとき,スヴェーデンボリはまさにノルデンクランツの委員会にねらいを定めて指摘した――「著者は(派閥によって)なされる権力について,こうして騒ぎたてるのであるから,恣意的な君主によってなされるものにはさらに我慢できないはずである。私は著者に次の場合を熟慮されるよう望む……一人の者が48人を任命し,……自分自身が議長である委員会をつくり,それらのメンバーを,その委員会で処理され,議論されたことを誓いによって漏らさないよう,しばりつける」。この皮肉は顧問官を激怒させたに違いない,彼の財政委員会はまさにここに描かれたように設置されたのである。
スヴェーデンボリは,人々がノルデンクランツの本の冗長さと脱線によって混乱させられ,指導者ノルデンクランツの提案は大いに賢く,学のあるとの誤った印象を引き起こさないために,その本が広く議論されよう忠告した。顧問官ノルデンクランツは,堂々とした,荒削りな男,たたき上げの,独学の,頑固な気質と鉄の意志の人物であったが,才気縦横の,文句なしに正直な市民であった。われわれの時代でなら,ノルデンクランツは進歩的な人と呼ばれたに違いない,そしてそのあらゆる欠点とともに,彼が当然の挫折に出会ってよろけながらも政党に対立したことは認められたに違いない。ハット党の多くの者は,スヴェーデンボリのその間にいたが,自分たちの政党の腐敗に,また開放的な法律制定へ向けての改革の必要にも,よく気づいていた。しかし,スヴェーデンボリは,政治形態の急激な混乱は野心的な宮廷党に機会を与えることになる,無制限な君主制を復権させることになるとして,これを避けることにその努力を集中させた。それでも,彼の心は開放的な手段によるよりむしろ伝統的なものの自然的な形式,形の完全な枠組みに傾いていたことは疑いない。彼はきっすいの政党人であったことは決してなく,個々の問題が持ち上がったとき,その利点にしたがって判断した。
スヴェーデンボリは,ノルデンクランツが気を悪くしないようにとの希望を表明した手紙を同封して,その顧問官に自分の『ノルデンクランツの本についての意見』を一冊送った。その弁明は……「私たちの政治の形態と私たちの自由は,私にとって貴重です。あなたは私の意見に強い言葉で反駁するどのような理由も見出だせないでしょう。私たちに設立されている政治の形態について……その根本的な柱をひっくり返そうとしてあなたの書かれたことを公表する上で,私は柔らかな言い方で,きつい言い方をせず,厳しい言葉を使わなかったからです。あなたが私の意見についてあまりに強い言葉で表現しようとなさらないかぎり,これを私は予想していませんが,これからも,私はきつい言い方を追い求めるつもりはありません……」[478]。
ノルデンクランツの返事は――
「……私たちの同胞市民を啓蒙するというそうした殊勝な熱意によって,憲法に反して,また真理や公正に反して犯したいくつかの誤りをもって,活動するあなたには,私自身により提供されるであろうものよりも,よい機会は与えられないでしょう。しかし,もしあなたの名誉がここうしたことから――真理を犠牲にしてまで――あなたは私のものの価値を低下させることを探し求めた――多く傷つくなら,私はあなたに,そのための非難を私の上に置かないようお願いしなければなりません」。彼は,スヴェーデンボリが出版物で自分への批評を公表するよう主張した。「私は,あなたに,公的にしろ私的にしろ,憲法に反して書かれたとの告発が,検閲官にも私にも,私たちに対してもたらされないことを確信してほしいと望んでいます。私たちは反逆罪の告発としての告発を拒絶します,これは生命や名誉や財産の損失によってのみ償うことができるものであるから……」[479]。
スヴェーデンボリの文書は1月12日に貴族院で読まれ,ノルデンクランツの返事は一週間後〔18日〕に,監査官が市外にいるときに届いた。しかし,16日に,スヴェーデンボリは,議事録に対して次の釈明をもって戻っている★21。私が自分の請願書で書いたことはノルデンクランツの人格に言及しようしたのではなく,“私たちの優秀な政治”に対する告発をもたらし,人々を不満にさせ,こうして革命への道を準備するすべての者に言及したのである,これによって国がはからずも恣意的な専制君主の手に陥るかもしれないからである。スヴェーデンボリはその本の中に政府を称賛する言葉を一つも見出だせず,ただ初めから終わりまで,ただその欠点だけを見出だした。「しかし」と彼は加えている,「私は,生まれながらに,見たり聞いたりするあらゆるものに誤りを見出だそうとする傾向にあるすべての者を許すのである。彼らは,『あらゆる鳥はそのくちばしの形にしたがって歌う』のことわざにあるように,自分の性質と性癖に従うしか,外にしようがないからである」[480]。
彼は同じ日にノルデンクランツンへ,請願書の中で顧問官について書かれたあらゆることを自分自身へ適用していることについての自分の気持ちを表わしたメモを書き送った。「私がその中で,あなたについて述べており,そしてあなたを私と同じ部類に入れていますが,これはあなたを免除する目的のためです,続くどんなことからでもそれがあなた自身に帰せられることを防ぐためです」
「私は春が来たら,私の庭であなたとの交わりを持つ栄誉に預かりたいと望んでおります,私はあなたが,公文書保管庁のオエルレイク顧問官とその奥様とともに,そこで楽しむことを望んでいます」[481]。
この友好的な素振りは,ノルデンクランツ男爵からは,その熱くなった返事によって無視された。再び彼は,スヴェーデンボリにその告発を印刷するよう挑み,そしてもしその返答が秘密に出回るなら,それらを文書誹毀(ひき)罪に相当するものとする,言った。ノルデンクランツは,スヴェーデンボリの告発には,罪人呼ばわり,または最も恥ずべき種類のうそつき呼ばわりという,憲法に反したものが書かれている,と見なしたのであった。彼は,そうした迫害に対する防備のために貴族院へ戻った[482*]。
スヴェーデンボリは,国会の四院以外に秘密に何も流布させたことはなく,それがそれについての印刷物のすべてである,と返事をした――「“罪人呼ばわりや最も恥ずべき種類のうそ”の言葉は,あなたの頭からあなたのペンに流れ出すべきではありません,なぜなら,そのような文体で書くことは理性的な人というよりも非理性的な人であるしるしですから」。彼は,ノルデンクランツに,無礼で攻撃的な,侮辱的な表現を控えるよう,それらが自分にはね返ってくるから,と示唆した。
ノルデンクランツの手紙に非常に混乱したスヴェーデンボリは,その返事を彼へ送る前に何度も下書きをしている。この問題は,彼が貴族院の議事録に,顧問官ノルデンクランツに対する告発を引っ込める声明をなしたことで棚上げとなったようである。彼は叫んだ,「神がこれらすべてから,彼と私を保護してくださった!」。「私は,ただ適切なやり方で,私たちのスウェーデンの政治に関するものは何でも,その本から抜き書きし,それについて注釈したまでである。それ以上のことは意図していない,なぜなら,そのとき,論争なしで明らかなものを論じていたからである」[483]。
* * * * *
事態はハット党をあまりに巻き込むようになっていた。今や国は重税を課していた。スウェーデンの交易は意気阻喪し,地は兌換されない紙幣の洪水によって麻痺した。2月28日,首相のヴォン‐ヘプケン伯爵は彼の同僚であるパルムシェルナ男爵とシェファー伯爵とともに,戦争の責任を負うものとして,議会から辞任させられた。あるいは,数年前,彼らがブラーエや他の共謀者に荒々しい処置を行なったことに対する責任もまた忘れられてなかったのかもしれない。
この強制された辞任は不正である,とスヴェーデンボリは考え,その首相は国に対し自分の義務を行なった人物であると弁護して,国会へ『A・J・ヴォン-ヘプケン伯爵閣下のために』[484]という請願書を提出した。彼は論じた。ヴォン-ヘプケンはポメラニアでの戦いにはただの6,000人の軍勢を送り込むよう忠告した,そして,20,000人を送ると票決したのは国家評議会であった。軍隊が送られた後では,もちろん,戦場での軍隊のために供給を行なうのはヴォン-ヘプケンの義務である。ヴォン-ヘプケンが忠告したように,人数が限られていたなら,国はそれほどにも重い維持費用を負うこともなかった。ヴォン-ヘプケンは祖国に最善をなすという正直な目的のもとに行動してきた,そして国会の信任を得ることも続けなければならなかった。
『自由の保護についての率直な見解』[485]と題するその後の請願書で,スヴェーデンボリは,さらに別の角度から,際限のない専制君主制が,どれほど損害の大きいものかを,「なぜなら,われわれは地球の隅とも呼ばれる最北に住んでいるが,もし絶対君主制が私たちの間に再度導入されるなら,均衡の取れないものとなり,われわれのための保護は何も残らない」からである,と示している。支配者の性向の中には,他のあらゆる人間に存在するように,生まれながらの悪い性癖が根付いており,誤った信念が隠されているであろう。だれもが自分の命や財産を,だれであろうと一人の個人の絶対的な権力に託してはならない,なぜなら,神おひとりが主人であり,われわれは,この世ではこの方の単なる家令であるからである。
その恐ろしい結果をただ一つだけ数え上げれば,“バビロンの淫婦★22”がどれほどザクセン★23を支配する王子を,またイギリスの前の王家(スチュアート王家)を,そしてまたプロイセン★24とポーランド★25の支配者を悩殺し,魅惑したことは,だれもが知っている,と彼は言う。その淫婦がスウェーデンの君主をたやすく惑わし,思慮を失わせないという,どのような理由があろうか? 彼女はクリスティナ女王★26に行なった。もしわれわれの政治の高貴な形態がくつがえされ,われわれの計り知れぬほど貴重な自由が失われるなら,われわれは奴隷制度に身をさらすことになる。「起こるかもしれないこと,もしかして起こるであろうことを考えるとき,私は身震いする。もし私的な利益が――それによって公共の善が厚い暗闇に覆い隠される――この国を支配するようになったらと。なおまた,私には,絶対的な権力を持つスウェーデンの王と偶像との違いがわからない。なぜなら,すべての者は心と魂を一方と同じく他方にも傾けるからである。人々はその意志に服従し,その口から出ることを崇拝する」
フランスとの同盟は,近隣の権力がスウェーデンに何らかの困惑を引き起こした場合,スウェーデンにとって最善の防衛となる,と彼は考えた。フランスはスウェーデンから離れた位置にあり,それで領権の主張や富の拡大のために,この二勢力の間にねたみが起こる可能性はないからである。
次の二つの基盤,(1)スウェーデンの優秀な政治形態の保護,それと(2)最も重要な同盟国との関係維持,これらは二つの柱であって,これらの上に国の繁栄と安全は依存している。彼は,ヴォン-ヘプケン,パルムシェルナ,シェファーの3名の議員はこれら二つの柱を支持したとの証明を与え,それゆえ,これら諸氏を議会に,特にヴォン-ヘプケン伯爵は,司法により有利に宣言がなされている限り,呼び戻すのが正しいことであるとの意見を述べた。後に,彼らに好意的な反動が起こり,追い出された議員の3人全員の復権がなったが,しかし,ハット党の権勢はほんのもう1年ほどしか続かなかった。
アンデルス・ヴォン-ヘプケン伯爵が引退した後,スウェーデンの首相役はクラエス・エケブラード伯爵によって補充された,彼は,前任者と同じに,ハット党の一員であり,プロイセンと和平を結ぶことに反対した。それにもかかわらず和平の動きは切迫しており,イギリス政府の中に強力な擁護者がいた。それゆえ和平運動の事務局が,一種の政治的な国外追放者とされてロンドンに住むあるスウェーデン人に委託された。その人とはスヴェーデンボリの親友クリストファー・スプリンガーである,彼は民主主義の原則を熱烈に擁護したため波乱の多い人生を送った。1743年,市民院の代弁者であったスプリンガーは,政治上の強敵に会い,投獄され,追放された。劇的な逃避とロシアやその他の場所での多彩な冒険の後,彼はイギリスに落ち着き,そこで指導者たちの信頼を勝ち取った。スウェーデンとプロイセンの和平を実現させる支援金として総計100,000ポンドが彼に与えられた。その講和条約は実際に1762年の5月,エケブラード首相とその追随者たちがこれに反対したにもかかわらず宣言された。
スヴェーデンボリは戦争を憎み,その生涯を通じ,首尾一貫してこれに反対を表明した。若い頃,彼はカール十二世によるノルウェー戦役から逃れたことを神に感謝している。1734年には,彼はロシアとの戦争に反対する請願書を国会に提出している,そして,今はプロイセンとの戦争を速やかに終えることに賛成した。彼は日記に,「地には平和――そうなりますように!」と書き付けた[486]。
ヴォン-ヘプケンは当時の政界に対するスヴェーデンボリの貢献を次の言葉で要約している――「彼はすべての場合に健全な判断を保った。彼はあらゆる事柄を明確に見て,あらゆる問題について適切な自分の考えを述べた。1761年の国会における財政問題について最も堅実で最もよく書かれた請願書は,彼によって提出されたものであった」[487]。実際,これらの文書の中で,スヴェーデンボリは,実際家によってしばしば誤解される問題に対し非常に多くの独創性と洞察力を示している。そこには,彼は大蔵省の優秀な大蔵大臣になれただろうと思わされるものがあった。
ノルデンクランツとの和解の願いは1年後の新年の日に満たされた。監査官の友達ニコラス・ヴォン-オエルレイクは書き送った――
「通商局の顧問官ノルデンクランツ氏は,監査官殿と私を,明朝10時に教会に来られるよう,その後,一緒に食事をするよう招待しておられます。彼はご自分の馬車を送られ,上記の時間に私はその馬車で監査官殿をお尋ねいたします。私はあなたがたご両人が良い友達となれるよう切望いたしております」[488]。
脚注* 文字通りには“ブランデー”であるが,現在はジャガイモから造られるジンの一種である。しかし,以前は穀物から造られた
原注
467a (スウェーデン語題名省略)『ターフェル』Ⅱ,991。
468 『霊界日記』4725m,4765m,5799番。ポルヘムのように,フレデリク一世は自分自身の葬式をスヴェーデンボリの目を通して見た。彼は数時間も続く(教会の)鐘の音さえ聞いた〔葬式の際に鳴らされる弔意を表わす鐘の音であろう〕。彼は,死んでいるのに,見,聞くことができることに最初は驚きを表わした。その後,再び生きていることを喜んだ,と〔彼から〕言われた。スヴェーデンボリは,あとになって非常に卑しい状態にあるその王を見ている,彼は色好みと怠惰な肉体的快楽に完全に溺れていたので,不幸な者と運命を共にしていたからである。王の配偶者ウルリーカ・エレオノーラは,夫よりも5年先にあの世に移っていたが,祝福された者たちの間にいた,とスヴェーデンボリは言っている。1761年8月15日,彼は彼女と,彼女のように“みことばを学び,霊的な真理を愛した”彼女の霊界での配偶者〔おそらく〕を見た。彼らは自分たちの家へ,壮麗な宮殿へ〔馬車で〕運ばれた。『霊界体験記』6009番。
470 『霊界体験記』5099番。
471 『ターフェル』Ⅰ,493-5。(他の参考文献省略)
472 『ターフェル』Ⅰ,65,注。
474 『ターフェル』Ⅰ,497-503。
475 アンデルス・ノルデンクランツ著『財政の自然な体系による国の救済法』(原題名省略),ストックホルム,1760年。
476 『ターフェル』Ⅰ,511-515。
477 『ターフェル』Ⅰ,515-21。
478 『ターフェル』Ⅰ,521。
479 『ターフェル』Ⅰ,523。〔この手紙は1761年2月1日付けのもの〕
480 『ターフェル』Ⅰ,527-8。〔1761年2月17日に『議事録へ』と題され貴族院に提出された〕481 『ターフェル』Ⅰ,528-9。〔この手紙(下書きが残されている)に日付はないが2月17日付けのもの。なお,検閲官オエルレイクは,ノルデンクランツともスヴェーデンボリとも親友であった〕
483 『ターフェル』Ⅰ,530-33。〔『議事録へ』と題されたこの覚書(声明)は1761年2月19日,ノルデンクランツへの手紙を書いたと同じ日に貴族院の議事録に綴じられたようである。9枚のきれいなこの文書が残されていることから,この覚書は国会で配布することが意図されていたことが示される。なお,「神がこれらすべてから,彼と私を保護してくださる」とは同覚書で引用されたスウェーデン国「刑法」(第4章,第8条)の言葉である〕
484 (参考文献省略)『ターフェル』Ⅰ,536以降。
485 『ターフェル』Ⅰ,538以降。
486 『霊界体験記』5994番。
487 『ターフェル』Ⅱ,408。
488 『ターフェル』Ⅰ,536。
訳注
★1 1 フレデリク1 世(1676-1751,在位20-51)は女王ウルリーカ・エレオノーラ(41年死去)の夫であり,20年に王位を譲られる。同王の治世下,文化面での活動が盛んに行なわれ,また法律は近代化し,農業は改良され,29年に科学アカデミーが創立された。
★2 1741年ロシアのピヨートル大帝の娘エリザヴェータが皇帝イワン6世に対して企てたクーデターを援助し,帝位簒奪を成功させた。しかしその代償である,バルト海地域の旧スウェーデン領の一部を変換するとう彼女の約束は破られ,逆にエリザヴェータ女帝は,42年にスウェーデンを攻撃し,フィンランドを占領した。翌43年のオーブの和約でロシアは,スウェーデンがホルンシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フリードリヒ(フレデリク)を皇太子として受け入れることを条件に,フィンランドをスウェーデンに返還した。本著で“短くて気乗りのしない戦争”と評されているが,これはスウェーデンがロシアに隷属する結果になったことを指すのであろう。
★3 原文“its delicate shepherds and shepherdesses”,ロココ風様式に取り入れられた“何か?”であろう。訳者には不明。
★4 チョウ(蝶)には,“移り気な人,(特に)うわついたおしゃれな女”の意味がある。
★5 Frederick the Great(1712-86);プロイセン第二代の王(40-86)。
★6 ジョージ1世からヴィクトリア女王までのイギリス王室(1714~1901年)。
★7 いわゆる“七年戦争”。1757年,スウェーデンはこの戦争に巻き込まれフランス側についてフリードリッヒ大王と敵対したが,幸い領土を失うこともなく,62年5月プロイセンとの和議で戦争から抜け出すことができた。
★8 バルト海沿岸の旧ドイツの州,現在ドイツとポーランドに分割所属。
★9 東ドイツ南東部の地方・旧州。
★10 1756年8月29日,7万の軍勢でザクセン侵入。10月16日,ザクセン軍降伏。
★11 1648年に結ばれた“三十年戦争”終結の条約である。(締結は女王の独断であるが)「スウェーデンでは1720年になって支持された」←このことは訳者には確認できない。
★12 スウェーデン軍はプロイセン領ポンメルンに侵入したが,プロイセン軍と正面きって戦ってはいない。ロシア女帝エリザヴェータの死(62年1月5日)の後を継いだピョートル3世の仲介により,5月21日,ハンブルクの和約を結んでプロイセンと講和した。本文の後の記事に見られるように祖国に“ジャガイモ”をもたらしたので「ジャガイモ戦争」と称される。
★13 女王の兄はフリードリッヒ大王であるが,弟はアウグストゥス・ヴィルヘルム(1922-58)である。
★14 Knabe,ドイツ語で“男の児”の意味。
★15 昔のオランダ・ドイツ・デンマーク・スウェーデンなどの硬貨。
★16 1760年12月の国会で,貴族院から24名,市民院と農民院からそれぞれ12名,計48名からなる「財政委員会」設置の異例な要求が認められた。委員はノルデンクランツにより指名され,国会に報告するまでその内容を秘密にするとの誓約をさせられた。
★17 スウェーデン国会は四つの身分(階級)である“四院”から成っていた。いかなる法律も国会通過前にその三つの階級から同意されねばならなかった。(1)
貴族階級,貴族の家の家長から構成された。これは最大で,最も影響力をもつ階級であった。(2) 聖職者階級,異なる教区から選出された司教は職権上のこの一員である。(3)
市民階級,選ばれた市民によって(さらに)選出される。
(4) 農民階級,各地区で,ある階層の農民によって選ばれる。
★18 追ってみても達成できない目標・つかまえられない人などの意。
★19 カリブディス(Charybdis)はシチリア島沖合の渦巻き,舟を呑むと伝えられる。スキラ(Scylla)はカリブディスと相対する危険な岩。すなわち,「一方の危険を避けて,もう一方の危険に落ち込むこと」。英語に“between
Scylla and Charybdis”(進退きわまって)の表現がある。「前門の虎,後門の狼」。
★20 バジリスク(basilisk)はアフリカの砂漠に住み,ひとにらみまたはひと息で人を殺した伝説上の爬虫類動物。なお,この部分に「basileusはギリシア語で“王”である!」との著者によるかっこ書きの追加文があるが本文からは省略した。(英語“basilisk”の語源はギリシア語“basileus(王)”)
★21 このあたり,短日間の出来事であり,著者Sigstedtに前後関係の混同がみられるようである。
★22 すなわち“ローマカトリック教”のことである。「黙示録」14章~18章参照。同書18章には“バビロンの淫婦”である“ローマカトリック教”の宗教信念にいる者ら(富と主権を求める者らである)への最後の審判が描写されている。以下の話は国の支配者がカトリック教に帰依することと独裁的主権を発揮することを重ね合わせて語っている。
《付記》原著を読んだ時,最初この部分に何が書いてあるのか全然わからなかった。特に“バビロンの淫婦”がなぜここに突然出てくるのかである。スヴェーデンボリの要請書のこの箇所にも“バビロンの淫婦”の記述はあるが,「すなわち“ローマカトリック教”のことである」と述べられている。著者シグステッドに記述不足を感じるのは私だけではないであろう。
★23 ルター存命中,ザクセンは宗教改革の発祥地であった。
★24 フリードリッヒ大王である。彼の政治観は“啓蒙的”であるが,絶対君主であった。彼がカトリック教の擁護者であったかは明らかでない(ご教示ください)。ここでは彼が皇太子であった時,父王の命で神聖ローマ皇帝カール6世の姪と結婚したことを指すようである。
★25 ポーランド王ジグムント(スウェーデン王としてはシスムント3世)である。グスターフ・ヴァーサ王の統治中,スウェーデンはカトリックからプロテスタントに変わった。しかし王の次男ヨハン3世は熱心なカトリック教徒となり,ポーランドの王女と結婚しジグムントが生まれた。ヨハン3世はスウェーデンを統治中,宗教的寛容を遵守した。しかし,その後継者ジグムントは(その間,ポーランド王に選ばれていた)そうした寛容を見せず,彼とプロテスタントの間に亀裂が明らかとなった。この頂点が1598年9月リンチェピングでの血の戦いであった。この戦いに勝利したのはグスターフ・ヴァーサの三男カールに率いられた側であった。1年後,ジグムントは退位させられ,カールがカール九世としてスウェーデン王位に着いた。この戦いはスウェーデンの宗教の運命を左右するものであって,ジグムントが勝利していたらこの北国の人々はローマカトリック教に束縛されて生活したであろう。
★26 スウェーデンの女王(1626-89,在位1632-54)。10年間スウェーデンを統治した後(前半は宰相の輔佐を受けた)退位した(54)。翌年ローマカトリックに改宗し,スウェーデンを去り大陸へ向かった。ローマをしばしば訪問し,聖職階級からもてはやされた。68年からは定住し,そこで亡くなった(89)。
〔研究誌『荒野』第44,45,46号,1999年11,12月,2000年1月〕