スヴェーデンボリが霊的な使命に従事した最初の10年間は,彼の静かな郊外の家で事実上,隠遁のうちに過ごした。次の2年間は,まさに驚くべき見解と主張の著者,そして否定しがたい心霊の能力者として,大衆の注目の的となった。その生涯の最後の10年間は,嵐,攻撃,辛辣な糾弾の年となったが,その最初の一斉射撃はドイツの出版界からであった。
スヴェーデンボリの著作は彼の同時代の者からは,ほとんど,あるいはまったく受け入れられなかった,としばしば思われている。真実はまったく逆である。彼は頻繁に当時の定期刊行物で批評され,このことは彼の科学的また哲学的著作でもそうであったように神学著作でもほんとうである。しかし,神学著作の書評は軽蔑的であった。このような好ましくない霊的な“ニュース”を含んだ本には他にどんなことが期待され得たであろうか?
スヴェーデンボリは自分の著作の頒布を確実にするため,それらを本屋で売り出す以外に,主要な人々と図書館に,親類や友達に送った。彼はまた書評のために定期刊行物発行者へも数部送ったかもしれない,しかしこれはありそうもないと思える。『天界の秘義』は,ライプツィヒの『新報』[489]やもう一つゲッティンゲンの『学報』では,好意的でなくもない注目を引いたが,しかし――おそらくその匿名のために――スヴェーデンボリが『ロンドン五部作』を発行した後の1760年までは一般人の注目を逃れていたように思える。しかしその『ロンドン五部作』が出版されると直ぐに,それらの著作は痛烈な弾劾の的となった。
最初の,そして最も重大な攻撃は,名高い学者ヨハン・アウグスト・エルネスティ博士よって1760年から1769年の間に編集された『新神学双書』の第1巻からであった[490]。エルネスティはライプツィヒ大学の最初は“雄弁法”の,それから“神学”の教授であった。彼は莫大な知識を持つ学者であって,不当にも“ドイツ人のキケロ”と呼ばれたが,その称号は機敏さよりもむしろまったくの勤勉と目覚ましい記憶によるものだった,そして確かに雄弁ではなく,それについて彼は実際に欠いていたと言われている。この骨の髄まで深く染み込んだルター派信奉者で,正統的思想の指導者は,いばりちらし,せせら笑う論争家であり,飽くことのない異端狩り屋であった。彼は狭量な教派の舵取りとなり,聖書は聖書自身の言葉によって厳格に解釈されて,人間の理解力に影響されてはならない,とりわけ神秘的で象徴的な解釈からは免れていなければならない,との原理を押し進めた[491*]
そうした原理の人間にとって,スヴェーデンボリの幻視と解放的な教義は牡牛へのかの赤い布に似ていたであろうことは想像に難くない。エルネスティは,聖書は照らしの助けがなくて見られるべきものである,と言い張った。ここでエルネスティの『神学叢書』の表紙には,文字的な意味への彼の排他的な主張を描き出している飾り模様が施されていたことに注意を喚起しておこう――冬眠し,自分の足をなめていた熊が,恐ろしくやせ衰えて,ほら穴から出現する姿であった! その銘は“Ipse alimenta sibi”(自分自身を養う)であり,これ以上適切な銘は有り得ないとスヴェーデンボリ自身が示唆している。彼は,「熊は,その内的な意味から分離したみことばの文字を意味する」「ただみことばを読むだけで,そこから何も教議を引き出さない者は,遠くからは熊のように見える」[492*]と言っている。内意の啓示を初めて攻撃したこの雑誌の表紙に,この熊を見て,微笑んでいるスヴェーデンボリを想像する者がいるかもしれない。
エルネスティは『ロンドン五部作』――『天界と地獄』『白馬』『宇宙間の諸地球』『新しいエルサレム』『最後の審判』――を見ており,それらの中で頻繁に引用される『秘義』も入手していたが,それを彼が「その著作の内容について良く知らせ,だれもが自分の金を『天界の秘密』に30ターラーも投げ出してしまったと憎しみを感じるほどの考えを自分の読者に与える」ことを自分に負わされた義務と感じたからである。エルネスティ自身は,「秘義について少しも意に介しなかった。医療を専門とする人々がそうするように」である。エルネスティにとってそれは銀30枚の価値はなかった,しかし,彼はその本の目的が秘義を持ち出すのでなく,秘義を説き明かすことであった点を見損じていた!
エルネスティはスヴェーデンボリの『秘義』の中に秩序ある体系を見出だすのに失敗し,聖書の文字の中に明らかには見出だせない“内的なもの”をあらゆる所に探し出すことができるという考えに身震いしている。彼はスヴェーデンボリの解釈法については簡潔でむしろ正しく説明しているが,しかし死後の人間の復活の記事を描いているところに来ると,エルネスティは,「ここで物語っていることはすべて彼がトランス状態の中で知ったことである。その物語は非常に混乱し,あいまいであり,これを書いているとき,彼が意識を完全には回復していなかったことは明らかである」と述べている。
批評は次の言葉で締め括られている――「この著作からさらに抜粋することによって,私は読者を困惑させてしまうことをためらう。著者が,この幻想的な形式のもとに,自然主義★1と彼自身の哲学的見解を提示しようと努めていることを知るのは困難ではない。これは新しい種類のロマンスであり,おそらく『クリムの地下の旅』[脚注*]といったものにたとえられよう。しかし,後者が害のない小説である一方,前者の著者は,不当にも“内意なるもの”を要求することによって,聖書を濫用し,歪曲させたので,最高度の処刑に値する……」。
エルネスティは『秘義』をこのように片付けて,『天界と地獄』やその他の著作を考慮することは割愛した。しかし3年後,同じ精神で,スヴェーデンボリに対する彼の弾劾は再び始まった。エルネスティの批評をスヴェーデンボリがその時に見たかどうか,また彼の著作の方向に何らかの影響を与えたかどうか,われわれは知らない。しかし,エルネスティは,霊界で霊的な光を地上の人々からさえぎる竜の形の暗雲としてスヴェーデンボリの描いている“妨害する霊”であったことはまったく疑いないことであった[493]。
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1763年の春,雑誌『スウェーデン報知』には,「学術的著作と特異な思想で有名な監査官スヴェーデンボリ氏は,その高齢(75歳)にもかかわらず,6月の初めオランダに向け,海路で当地を去られた」との情報が含まれていた。その旅行の目的は,教義上の主題について,さらにいくつかの著作を出版するためであった[494]。
この第8回目の旅行の出発前に,スヴェーデンボリは,ドイツの哲学者イマヌエル・カントの友人で,“高い教養をもったイギリスの紳士”グリーン氏という人の訪問を受けた。グリーンは前年の夏をケーニヒスベルクで過ごしたが,そこではスヴェーデンボリの超自然的経験が人々の活発な話題となっていた[495]。
カントは,正直で,真理を愛する高潔な思想家として描かれてきた。人間の知性について強く興味を持って研究し,問い掛けた――論理は役立つのか? 空間と時間は単なる幻想か? 知性は純粋な理性的認識の手段を備えているか,またそれは神的なものに対して役立たないのか? 知識の性質へのその深遠な探求から,カントは理性と経験の両者が超感覚的な実在の証明としては頼りにならないものである,との考えを確信した。
カントは,エルネスティの弾劾よっても,また驚くべき出来事のうわさ話によっても,動じる人物ではなかった。しかし,彼はスヴェーデンボリの超自然的な能力について信用できる物語に当惑し,その見神者に,霊たちと交流していると主張する根拠を尋ねる手紙を書いた。その手紙はイギリスのある商人の手によって手渡され,監査官はそれに答えることを丁寧に約束した。しかし,返事は来なかった。カントは,スウェーデンを訪れようとしているグリーン氏に,スヴェーデンボリを訪問し,返事の遅れている理由を知るよう依頼した。
グリーンはこのスウェーデンの見神者に非常に好ましい印象を持った。彼がカントの手紙のことに触れると,スヴェーデンボリは「私は,あらゆる点で,カントの手紙への返事となる本をすぐにも出版しようとしていました。それ以前でしたら返事をしていたでしょう」と答えた。
その年,スヴェーデンボリはオランダで『神の愛と知恵』[496]を出版し,その中で霊的な実体の性質を論じている。それでカントが持ち出したと論点への答えを備えていたと考えられる。この著作は哲学的な心を持った者に対する特別な訴えであった,なぜなら,スヴェーデンボリはその中で,自分の神学的な教義を説明するために物理学と解剖学で蓄積した豊富な知識を引用しているからである。
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見ることのできないものは,われわれが見,手に触れるものよりもその実在性を信じるのは難しい,それでもこの真理は原因の探求とともに確信される,と彼は論じている。愛と知恵は,エーテルの中に漂うある名状しがたい本質ではなくて,現実の実体であり,形である――事実,実在そのものである。宇宙は,実際に神的な実体から創造された,しかし,それは神ではない,なぜなら,被造物は連続によってではなく,接近によって神を受ける。すなわち,それら被造物に神的なものが流入することができるが,しかし,それらは決して神的なものの一部となることはできない。それらは有限であって無限ではない。神は,その最内部の本質では,無限であり,天使たちによっても人間によっても,接近できないものである。神自体は,唯一の独立した実体であり,実在であられる,創造は,神の神的な愛によって,その神的な知恵を媒介としてなされた。〔『神の愛と知恵』の〕冒頭の言葉は――「人は愛といったものがあるのを知っている,しかし,愛が何であるかは知らない」。神おひとりが愛そのものであられる,なぜなら,神はいのちそのものであられ,天使たちや人間はいのちを受ける容器であるからである。宇宙のすべてのものは,神的な愛から創造され,そしてすべての被造物は――動物,植物,鉱物――は人間に関係する〔61番〕。自然をそれ自体から考える者は,目から考えて,理解力からは考えないが,しかしそうした推論は誤っている,なぜなら,「目からの思考は理解力を閉じるが,一方,理解力からの思考は目を開ける」[496]からである。
創造は,時間と空間を超越した霊的な太陽によってなされた。この神的な太陽の熱は愛であり,その光は真理である。霊的な太陽からは,三つの分離した度,または三つの段階の霊的な空気が出ている。これらの空気は,自然界の空気が物質的な熱と光を自然界の太陽から運ぶように,神の愛と知恵を有限の存在〔人間〕へと,運び,やわらげ,適応させる(184番)。
スヴェーデンボリの『プリンキピア』は,これらの哲学的概念を説明するための豊富な材料を提供している。単純なものから複雑なものへと,順序正しい形態の進化は,スヴェーデンボリの体系の本質そのものである,しかし,科学的著作に見られるような,単に自然の進化から発展したというような人間の知性そのものからのどんな概念も,完全に彼の体系からここでは遠ざけられている。
「すべてのものは主によって,生きている太陽を通して,創造され,死んだ太陽を通しては何も創造されない。……理性を欠き,いのちとは何であるか無知である者だけが,すべてのものは自然から,いのちですら,自然からやってくると考えることができる。自然は何ものにもいのちを分け与えない,自然はそれ自体ではまったく不活性なものであるからである。なぜなら,死んだものが生きているものに働きかけることは……完全に秩序に反しており,それゆえ,そのように考えることは健全な理性の光に反しているからである」(166 番)。
『神の愛と知恵』は,いろいろな“分離した度”を,すなわち人間の心の分離した水準を,そしてそれらがどのように段階的に開かれてゆくかを詳細に扱っている。
『神の愛と知恵』の続編は,『神の摂理』[497]と題されて同じ年に出版された。前著で神の宇宙創造の業を扱ったので,この第2の著作では神のその維持を扱っている,なぜなら,神の摂理は神の愛と知恵による統治であるからである。それゆえ,この著作は前の著作で提示された議論に基づいている。
摂理の目的は,人類から天界を形成することである。摂理はすべての事柄の中に無限のもの,永遠のものを見る。なぜなら,主は恣意的に行動されないで,人間の救いを促進するご自身の永遠の法則にしたがって働かれるからである。人間は理性にしたがって自由に行動すべきである,とは摂理の法則の一つである。それゆえ,人は,悪をその外面的な生活からあたかも自分自身からのように避けなくてはならない。他にはなくこのようにして,主は人間の内部のいのちから悪を遠ざけることがおできになる。主はだれも強制されない。人間を救いへと導くものは神と協力するのは人間の意志である,さもなければ,神との結合の中に相互的なものは何もない。聖人らしさは世から隠遁することによって得られるのではない。「天界へと導かれる生活は世から引退した生活ではない,世で活動する生活である」。真の仁愛は――すなわち,真に霊的な生活は――あらゆる状況において,約束や仕事において,誠実に,公正に行動すること,そしてこれが神の法則に一致しているとの内なる信念からから成り立っている。単なる敬虔な生活は,天界に向かわず,そこから遠ざける,と彼は主張する。
だれもが改良されることができ,そこに運命予定説(宿命論)といったものはない。神の摂理は,人間の生まれた日から死ぬ日まで,そしてその後,永遠に,その人間を救おうと常に働いている。しかし,悔い改めがなくて,純粋な慈悲や恩恵による一瞬のうちの救いは不可能である。なぜなら,心は有機的な構造であって,悔い改めはこの構造の変化をもたらすからである。どのような生活を彼が送ったにしろ,単なる慈悲によって救われると考えている者にとって。悔い改めは無意味な言葉である。純粋な恩恵からの救いがあるとすれば,主は無慈悲な方とされるであろう,「どうして,主は多くの者が地獄へと断罪されるのを見過ごすことができるのか? 主はまったくの慈悲から彼らをみんな一瞬のうちに救うことができるのに」(340番)と言うであろうからである。
摂理の働きは人間には明らかでない。彼にはあたかも自分の自身のものであるかのような良き衝動,思考として現われるが,そのときほんとうはそれらは主のものである。「主の神的な摂理によって導かれる者はみな,自分自身の上方に高められ。彼らは主によって,人間の中にあるものを見ることさえする。それは主のものであって決して人間のものではない。これと異なって信じる者は,自分の主人の財産を自分の保管下におき,それらを自分のものと主張する者に似ている……彼は財産管理人でなく盗人である」(316番)
この二つの深遠な著作を出版する前に,スヴェーデンボリは上記の内容を限られた紙面で非常に不十分に描いたものであって,未出版の『黙示録講解』におもに含まれる題材を拡張させたものである,『四つの主要な教え』として知られる四つの論文も出版した。
それらの最初のものは『主についての教え』であり,スヴェーデンボリは,古い教会が終局に来ていたゆえに,主が新しい教会を設立されようとしていることをそこの“まえがき”とし,率直に告知した。「数年前に出版した五つの小著」を数え上げた後――ロンドンでの諸論文のことである,264ページ〔第30章「死後の生活」〕参照――彼は述べている,「今や,私に現われた主のご命令によって,次のものが出版される――『主についての新しいエルサレムの教え』『聖書について』『生活について』『信仰について』その他」。
『主についての教え』[498]はもっぱら,主ご自身が肉となられたみことばであることを主題とした。人格においても本質においてのその両方で神は一つである,そして主は神である――容認された三一性の教義に対する大胆な攻撃であった。(しかし,「アタナシウス信条」に述べられたあらゆることは,もしあなたがたが諸人格の三一性の代わりにこれを一人の人格の三一性と理解するなら,真実であると彼は言う)。聖霊は主から進み出る神的なものであり,またそれゆえ,人間のもとに現われ,人間を照らし,教える主であられる。御父,御子,聖霊の三一性は,主イエス・キリストのうちに含まれているものである。
“あがない”についてのスヴェーデンボリの説明は,伝統的な教えから逸脱したものとして,やはり根本的なものであった――
「教会では,主は人類のあがないをなすために御父から遣わされ,そして主は十字架刑を被ることで御父の復讐の裁きをなだめた,と信じられている」,この功績は,単にこれを信じることによって,その人間に転嫁される。一方,スヴェーデンボリは言っている,主の功績は何も人間に転嫁されることはできない,救いは,彼が自分の悪を思いとどめ,罪の悔い改めを果たした後で,与えられることができる。主はこのことを地獄と戦い,勝利されたことで,また律法のすべてを,十字架の受難でさえも成就されたことで,可能にされたのである。
これらは革命的な教義であることに,スヴェーデンボリは完全に気がついていた。「教会の更新は,最近,霊界で行なわれた。そして自然界の教会の更新が行なわれるであろうことは,小著『最後の審判』の中で部分的に,その著作の『続編』の中でもっと十分に示されるであろう」とこの論文の最後で言っている。
『聖書についての教え』[499]の中で,彼は,みことばの神聖さはその内的な意味または霊的な意味に由来する,と宣言している。現在では,この意味が人間にまったく知られないまでになってしまい,この理由から,聖書からの霊感は疑われるようになった。そこに丘々や木々,山羊や羊といった非常に多くのこの世の事柄を読むとき,人々は,「これが清いものでありえるのか? これが神的なものでありえるのか?」と自問する。こうした疑いは対応の教義についての無知から起こってくるが,聖書はその対応にしたがって書かれているのである(1-6番)。
「すべての宗教は生活からのものであり,宗教の生活とは善であることを行なうことである」とスヴェーデンボリは『生活についての教え』[500]で言っている。彼はすべての人間から認められることを,すなわち,善良な生活を送った者は救われ,悪の生活を送った者は断罪されることを論証しているが,しかし,「最初に悪を罪として避けるまでは,だれも良い生活を送ることはできない」と主張している。それゆえに,人間を救うのは単なる信仰ではなくて,彼が霊的になるに比例して,すなわち,悪を避けるに比例して持つことになる信仰である。「悪人の信仰は,知性的な信仰であり,そこには意志からの善は何もない」(46番)。しかし,だれも殺人や憎悪を避けるかぎり,その者は隣人への愛を持つ。姦淫を避ければ避けるだけ,彼は貞節を愛する。盗みを避けるに比例して,彼は誠実を愛し,偽の証言を避けるに比例して,真理を愛する。もし罪であるという以外の理由で悪が人によって避けられるなら,彼はほんとうにそれらを避けているのでなく,単に世の前にそれらが現われることを妨げているだけである。この教義に,信仰のみによる救いの理論をくい止めておく釘を残す余地はない。
『信仰の教え』[501]では,同じ論点がさらに押し進められている。信仰は,人が仁愛を抱いていなければ,だれも持つことができない内的な認識である。スヴェーデンボリは,人間が知的に把握しない信仰は何も認めない,盲目の信仰は天界にその居場所がないのである。霊的な概念は,人が真理に感動しているなら,単純な者でも学問のある者でも,だれによっても理解できる。照らされることは,これはまたはあれは真である,と認識すること以外の何ものでもない。
「もし,だれかが心の中で考えるか,あるいはだれかに『だれが信仰である真理の内的な認識を持つことができるのか? できっこない!』と言うなら,どのようにしたらもてるかその者に告げさせてほしい。悪を罪として避けよ,そして主のもとに行け,あなたはそれを望むだけ持つであろう」(12番)
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アムステルダムで次に出版したものは『最後の審判・続編』[502]であり,スヴェーデンボリは前の著作でカトリック教会の審判を描いたように,そこでは改革派教会の審判を描いた。当時のプロテスタント教会の破滅を引き起こしたものは信仰のみの教義であった――これは「黙示録」にミカエルと彼の天使たちに反抗して戦う大きな赤い竜として描かれている。最後の審判の時以前に,神の真理と人間の心の間で邪魔していた霊的な障害物のゆえに,その審判の後,直ちにではないが,新教会に啓示がなされる,とスヴェーデンボリは言っている。
この小冊子の出版の根本的な理由の一つは,最後の審判後の世界の状態を明らかにするためであった。彼は霊たちの世界で出会った多くの者のこと,マホメット教徒,アフリカ人,ユダヤ人,クエーカー教徒やモラヴィア教徒といったいろいろな宗教の人々のことを告げている。
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アムステルダムでのこれらの著作を出版した後,スヴェーデンボリはロンドンの王立協会の会員に贈呈するための本を携えてイギリスへ行った。それらがどのように受け入れられるかについて,彼がどのように考えていたかは『霊界体験記』6098番に示されている。そこにはイギリスの主教に霊たちの世界で出会い,彼はスヴェーデンボリにその著作はイギリスでまったく拒否されると語った。その主教はそのときイギリスの貴族やオックスフォードの司祭たちの間で彼が用いて成功したスヴェーデンボリの著作の効果を無くする,いろいろな悪賢い方法を明らかにした。
イギリスの聖職者たちや指導者たちに送った『天界と地獄』やその他の著作が,その彼ら自身よって拒否されたことが,スヴェーデンボリがその後の著作をアムステルダムで印刷する誘因となったと考えられてきた。別の理由は,以前の印刷人ジョン・ルイスが死んだことである。彼はあの世でルイスに会い,彼を不誠実な者と描いている。彼のための天界の道は横木でふさがれていたのである[503]。
ルイスの仲間で,『天界の秘義』を実際に組版した者であるハート氏もまた死んで間もなかった。ハートはルイスとまったく異なる性格であった。彼はロンドン滞在中のスヴェーデンボリの個人的な友人であり,しばしば夕刻をともに過ごした。彼は当時およそ10歳のハート氏の孫娘を愛した。それでロンドンに来たスヴェーデンボリがポッピンスコートにあるハート氏の家を訪れることは自然であった。彼がその印刷人の息子に出迎えられ,小話してから,中へ迎え入れ,「あなたの旧友ハートは亡くなりました」と告げられたとき,スヴェーデンボリは答えた――
「よく存じ上げております,オランダにいる間に,またイギリスへ来る定期船に乗っている間にも,霊界でお会いしています。お父さんは今は天界にいません,回り道をしていますが,良い道を歩んでいます」
未亡人と息子は驚いた。彼らは,スヴェーデンボリがその場しのぎの嘘をつくことはしないと知っていたからである[原注504]。
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1764年の夏の終わり近くにスヴェーデンボリは第8回目の外国旅行から戻ってきていたに違いない,というのも彼は8月にストックホルムから大司教メンナンダーに手紙を送っているからである[505*]。この時までにアムステルダムで出版された著作は,いくつかの外国の雑誌で書評されていた。それらが出版されるとすぐにエルネスティが取って返すように攻撃し,痛烈な批評の対象としたこと,また以前に彼が『天界と地獄』を不当に批評したように,この度の『四つの教え』を軽蔑すべきものとして断罪したことを見ても驚くことではない。この書評でも,また前の批評でも,エルネスティはスヴェーデンボリの名前を上げてはいないが,彼は著者がだれであるか知っていると宣言している[506]。
エルネスティが耐えることのできないものは,神性についてのスヴェーデンボリの体系である。彼は,これらの教義の著者は普通のキリスト教徒をその“三つの部分から成る神性”ゆえにあざ笑い,それに代わって“神は人格と本質において一つであって,その方は主であられる”と宣言している,と言う。エルネスティには,これがあがないの全部を駆逐してしまうけしからぬ誤った考えであることは明らかであった。なぜなら「もし,キリストが神なら,人類に復讐の罰を加えることのできる神は残らない」からである。
『聖書についての教え』の論点の大部分は「漠然としていて粗野な」ものとして全般的な烙印を押す一方で,エルネスティは,その中には「それほど悪くないものがある」と認めている。『生活についての教え』もまた,その中にはよいものも多くあるが,それでもそれは,彼の意見では,「永遠の祝福の原因は高潔な生活であるという誤った原理に基づいている」。しかしスヴェーデンボリの『信仰ついての教え』はまったく悪い! 信仰と仁愛と真の秩序は,彼により変えられた。エルネスティは言っている――
彼 (スヴェーデンボリ) は、愛のない信仰の教えをわれわれに非難する。彼はわれわれに善業は救いをもたらさないというわれわれの教えをとがめる。そして全般的に,彼は,理解力は信仰の従順さの下に従属すべきだという教えを断罪する……。そして天界で起こったと仮定される物語によって,このばかげたことをなそうとする(『信仰の教え』42,43番参照)。このように教える人物は,ヨハネの黙示録の中の竜によって,また「ダニエル書」のやぎによって表わされる……これを,これまでだれも悟らなかった,と言う。この告発に答える必要はない,なぜならこれは他の者らによって何百回も答えられてきたからである。しかし,プロテスタントの信仰の教義に対抗するこの熱意がどこを起源としているのか推量するのはたやすい……。他の点では学問のある人物がこれほどにもどこまでも遠くさ迷い,また著者もその読者も,こうした幻想的なあいまいさという疫病に苦しまねばならないとは,嘆かわしいことである。また非常に高価であって……。
直ぐさま他の雑誌にも寸評が現われ始めた。1763年の秋,ハーグで新しく出版された本『科学と美術についての叢書』の中に,3ページの書評が現われた。それは次の言葉で始まっている――
「もし,著者が再三再四繰り返しているように,これは直接の啓示によって霊感を与えられたものであることが真実なら,当然この神学よりも注目され尊敬されるものは決して存在しない」[507]。
書評者は,スヴェーデンボリがフランスを統治する王の曾祖父ルイ十四世に霊界で会ったことを述べている記憶すべき物語に特別な注意を喚起している。ルイ十四世は世で生きていた間は真面目で敬虔な人物であった,そして霊界では大いに尊敬され,そこではフランス国民の最良の社会を統治している,とスヴェーデンボリは言ったのであった。別のフランス語の雑誌は,同じ主題を「この著作を,その数多くの空想を出版する動機を想像することができない」[原注508]と論評している。
ロンドンでは『月評』はその新しい著作を辛辣にあざ笑った。「われわれの読者は,劇場の作品が,陛下の命令で,また上流階級のある方々の特別な願いで上演されたことは聞かれたかもしれないが,しかし「主の明らかな命令」によって出版された本のことは以前には決して聞いたことがないであろうと思う……」。その記事は,「ミドルセックス★2の陪審員にこの著作の中味を審理させるなら,『偉大な才人は狂気にあまりに近い同類である』ので,彼らは全員一致で,気違い沙汰である,との評決をもたらすことを疑わない」[509]と推測して終わっている。
この書評は恐ろしい結果を生んだ。このことは大衆に『続・最後の審判』を注目させることになったが,その中では,当時のモラヴィア教徒らの霊的な状態が描かれていた。著者は,霊界でモラヴィア兄弟団の者ら,ヘルンフート派★3の信者らと多くの会話をした,と述べた。彼らは自分たちが使徒教会の残りであること,そして兄弟としてお互いに挨拶し,他の者たちよりもさらによく主を愛していると主張し,自分たちはそれゆえ,真のキリスト教徒である,などと口達者に話した。しかし,その間ずっと,彼らの内なる思考は反対方向に走っていた。彼らは隣人への仁愛を,また主への愛も,少しも抱いていず,旧約聖書を福音書記者にわずかしか用いられなかった価値のないものとした。スヴェーデンボリは,あの世で彼らの秘密の教義が暴かれると,モラヴィア教徒らはキリスト教世界から追放され,荒れ地へ送られた,と言明した。
その著作の著者としてスヴェーデンボリの名前は述べられていない,しかし,彼の以前のモラヴィア教徒の知人は,それがだれの著作であるか非常によく知っていた。ロンドンでのスヴェーデンボリの親友の一人,クリストファー・スプリンガーは以下の事情をわれわれに教えてくれる。スヴェーデンボリの以前の下宿の主人であるブロックマーは「彼が“霊界に関する続編”の記事で,モラヴィア兄弟団に反抗的なことを書いたことを忘れることができなかった」,そこで自分の宗派の者に,傷つけられたことに対する復讐を誓った。「宗派心の強い人は,暴露されることを好まない」とはスプリンガーの寸評である。激怒したモラヴィア教徒らは,スヴェーデンボリの死後にその恨みを晴らした。(〔本書の〕エピローグ参照)。
* * * * *
スウェーデンの出版界はもっと好意的にスヴェーデンボリの神学著作を扱った。最初の注目はサミュエル・アルナンダーの『神学著作選集』[原注510] に,そして次のものはカール・クルストファー・イェルウェル★4 の『スウェーデン報知』1763年の1月号に現われた。イェルウェルはストックホルムの王立図書館の補助図書館員であった。またスウェーデンの最初の文芸雑誌の編集者であり,祖国の歴史と一般的な情報に貢献し,その生涯ではほとんど報われることのなかった慎み深い人物であった。
イェルウェルは書いている――
これらの啓蒙時代にあって,監査官エマヌエル・スヴェーデンボリは特に彼に対して新しく啓示されたことによって,「すなわち――見,聞いたことから」(viz: ex visis et auditis)★5,啓示されたみことばの説明と解釈に取りかかった。それを彼は自分の宗教の新しい光の源と呼んだ。彼の物理学と鉱山学の著作は知られているが,しかし聖書解釈の神学著作はそれほど知られていない,それらはロンドンで出版された数多くの四折判の本に含まれている。それらの著作は非常に数が少なくて……,神学を学ばないといったそうした読者のために,それらの題名を知らせることをためらう。しかし,それにでも読者の蔵書にこの珍にして非凡な本を加えていただきたいと願う。それらの内容がわれわれ自身のちっぽけな把握力を遥かに超えていると立証することができるので,まったくの安心感をもって,そう勧めることができる[511*]。
そのときイェルウェルはスヴェーデンボリの最初の六つの神学著作の題名を与えたが,これはそれらの本がスヴェーデンボリによる著作であると初めて公に認めたものである。翌年〔1764〕,それらをさらに四つ紹介したとき,常に注意深い報告者であったイェルウェルは,このように注目すべき人物について直接の情報を得るため,この名高い著者を訪問すべき時であると決心した。
* * * * *
そこで,1764年8月28日,その図書館員は,南ストックホルムの高台に上り,花で満ち,晩夏の陽射しの中,最近オランダから輸入され,角錐状に刈り込まれ,鼻を刺激するツゲの植えられた監査官の中庭へ案内された[原注512]。スヴェーデンボリは今や年取っていたが,それでも自分の庭の手入れを依然と楽しんでおり,イェルウェルは花の間で作業中の彼を見つけた。
彼らはよく談話し,イェルウェルは王立図書館に戻った直後に,日付と署名をもって,今回の訪問の記事を書き留めた。この文書は,76歳という尊ぶべき年齢のスヴェーデンボリの姿を伝えるものとして信じるにたるものなので特別に興味深く,価値がある[513]。
王立図書館,1764年8月28日午後。少し前,私儀,末尾署名者は,監査官エマヌエル・スヴェーデンボリの訪問から戻った。王立図書館を代表して,彼が最近オランダで出版した著作を一部もらい受けるため訪問した。
私は,ストックホルムの南部にあるホルンスガータンの彼の屋敷に隣接した庭で彼に会った。そこで彼は簡素な服を着て,植物の世話に精を出していた。彼の住む家は木造である,低くて園芸小屋のようであり,窓は庭の方向に向いている。私を,あるいは私の用向きを知らないらしく,彼は微笑んで言った――
「ひょっとして,あなたはこの庭を散歩したいのですか?」
私は,彼を訪問する光栄を得たかったこと,また王立図書館を代表して,われわれはあなたが王の書記官ワイルドへ与えられた以前の著作を所持しており,特に完全な一揃いを所有したいので,最近の著作をいただきたいことを答えた。
「大いに喜んで」と彼は答えた。「そうでなくとも,私はそれらを王立図書館に寄贈したいと思っていました。私が出版した目的は,それらを知ってもらい,知的な人々の手に置くことだったのです」
私はその親切を感謝した。その後それらを私に見せ,また私と一緒に庭を散歩した。
彼は老年であり,白髪がかつらの下からあらゆる方向へはみ出していたが,元気よく歩き,話し好きで,確かな喜びをもって語った。その容貌は実際にやせこけ,肉がついていないが,機嫌よくほほ笑んでいた。やがて,自発的に自分の見解を語り始めた。そしてこれこそ,それらを自分自身の耳で聞くことが私の第二の目的であった。私は熱心に注意して聞いた,彼のどんな言葉にも挑むことなく,あたかも自分自身の啓発のためであるかのように,ただ単純に質問した。丁重な質問により彼から引き出した話しの内容は,おもに次のものから成り立っている――
彼の神学の教義体系は,これを彼は,他のキリスト教徒と共有する私たち共通の啓示である聖書に基づき,基本的にこれから成り立つとしている。信仰のみは有害な教義であって,善業は,いつかは改良され,そして永遠への祝福された生活へ導かれるための適切な手段である。善業をなす能力または力を獲得するために――私はどこでもスヴェーデンボリの言葉を使っている――唯一の神へ祈ることが要求され,人間もまた自分自身で努力しなければならない,というのも私たちが改心するために神は私たちを強制されず,また奇跡を働かれないからである。その他のことに関しては,人は,学びながら,節度をもって敬虔に生活する正直で慎み深い人と同じような生活を送って,自分に定められた場所で生きるべきである。あがないとわれらの主に関しては,彼は何も言わなかった。このことについて彼に尋ねなかったのは残念である。しかし,このことについての彼の考えは,われわれの信仰の基本的事項であるが,彼が信仰のみについて述べたことから推論されるであろう。彼はまたルター博士は現在,あの世で苦しみの状態にあると語った。ただ信仰のみの教義を紹介したためであるが,それでも彼は断罪された者らの間にはいない。
そこからルター博士自身が啓示されることへと移行するのは容易である,スヴェーデンボリはしばしば彼を見つけ,会話しているからである。彼の知識の根源は超自然的な視覚と聴覚であり,そして彼の根本原理と啓示の両方が真実であることの基準はこれである――神はご自分を彼がロンドンにいる間の1744年の5月に彼に啓示された[514]。そしてその時“以前”[脚注**],神はこの世のすべての物理的で道徳的な力の完全な知識によって,彼に新しい啓示を受け入れるために,備えさせられた。そしてその時以来ずっと彼は常に,途切れることなく神と交わり,神を(霊の)目の前に,太陽のように見てきた。彼は天使たちや世を去った者たちと話し,あの世で,天界と同様に地獄で起こるあらゆる事柄を知った。しかし,未来は知らない。
彼の使命は,この新しい光を世に伝えることにある。そしてこれを受け入れようとする者はこれを受ける。主もまた彼にこの啓示を他人に知らせるようにと授けられた。これを彼は〔当時〕世で最も普遍的な言語であるラテン語でなした。彼だけがこの啓示を受け,これはまた最も特異な賜物であって,これによって彼は人類の啓蒙のために益となった。この光を軽蔑せず,この啓示に反抗しない者は,これを受ける。そしてこの啓示は生きた真理である。ほんとうの目的は人々の間に新しいエルサレムが設立されることであり,そしてその新しい教会の設立が近づいており,その性質と,それに入る道が,彼の著作に実際に描いている。
このすべてについて,彼は完全な確信をもって,次の言葉に特に強調を置いて語った――「このすべては,私が見て,知っていることです。どんな幻覚の主体となることなく,また狂信的になることもなく,そのとき私はあたかも肉体を抜け出たかのように私の霊魂だけにいました,そしてあの世にいました。どの点からも,今ここに私がいるように,私は見える状態でそこにいました。しかし,私が書こうとすることを考えるとき,また,書くという行動にあるとき,私は完全な霊感を享受していました。そうでなかったらそれ(著作)は私自身のものであったでしょう。しかし今や私は,私が書いたものは神の生きた真理である,と確かに知っています」★6
人間が死ぬと,その霊魂はその情愛を脱ぎ捨てないで,それらを自分に伴う。時に私は彼にニールス・ヴァレリウス教授[脚注***] が何に忙殺されているかどうしても質問したくなった,彼は言った――
「彼は依然と講義を与え続けていますよ」
スヴェーデンボリの以前の著作はロンドンで,しかし後の著作はアムステルダムで出版された。それにもかかわらず,彼は,それらを王立協会へ贈呈するためにイギリスへ行き[脚注****],またその帰路に,それらをコペンハーゲンで,デンマーク王に贈呈した。まさに先週,彼はそれらをドロットニングホルム★7 の両陛下に贈呈している。それらはどこでも好意的に受け入れられてきた。彼はたった12冊の著作を携えて,それらの4つは公共の図書館へ,さらに4つはわれわれの最も卓越した司教に贈るつもりで,帰国した。
スヴェーデンボリ自身の語ったことはこれですべてである。また私の書いたすべてのことは,私が眼で見,耳で聞いたことである。私は私の署名をもって証言する, カール・クリストファー・イェルウェル
脚注・原注・訳注
〔脚注〕
* 当時のH・G・ウエルズ☆と言えるルートヴィヒ・ホルベルグ(不詳)による喜劇に言及している。
(☆)H・G・Wells(1866-1946);イギリスの小説家・著述家。『タイムマシン』(1895)など(SF小説)。
** 原文は「その時“以来”」であるが,そこの日付から明らかに誤りである。185ページ,197ページ参照☆。
*** 哲学の講義で誉れ高いヴァレリウス教授は,二週間前に死んでいた。
**** これはスヴェーデンボリが1764年にイギリスとデンマークを訪問したと述べたことのただ一つの出典(証拠)である。
〔原注〕
489 『新報』ライプツィヒ,1750年5月4日,313-16ページ。
490 『新神学双書』1760年,J。A。エルネスティ編集,515-27ページ。
493 『最後の審判・続編』11,30番。
494 『スウェーデン報知』1763年6月号,462ページ。
495 『ターフェル』Ⅱ,620ページ以降,627ページ参照。
496 Sapientia Angelica de Divino Amore et de Divina Sapientia(神の愛と神の知恵についての天使的な知恵),アムステルダム,1763年。1-3,46番参照。
497 Sapientia Angelica de Divina Providentia(神の摂理についての天使的な知恵)アムステルダム,1764年。71-9,175-190,340番。
498 Doctrina Novae Hierosolymae de Domino(主についての新しいエルサレムの教え)アムステルダム,1763年。まえがき参照。
499 Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra(聖書についての新しいエルサレムの教え)アムステルダム,1763年。
500 Doctrina Vitae pro Nova Hierosolyma ex Praeceptis Decalogi(新しいエルサレムのための生活の教え,十戒の教えから)アムステルダム,1763年。
501 Doctrina Novae Hierosolymae de Fide(信仰についての新しいエルサレムの教え)アムステルダム,1763年。
502 Continuatio de Ultimo Judicio, et de Mundo Spirituali, アムステルダム,1763年。
503 『霊界体験記』5987番。スヴェーデンボリは,あの世で「道がふさがれていることを示す横木」を見ないで,禁じられた道を歩いて行くルイスを見たことを述べている。印刷人ルイスは自分を誠実で正直な人間と信じているからであることがその理由である。それでも彼は不誠実で嘘つきであり,どこでも追い払われた。
504 『ターフェル』Ⅱ,540-41。
506 『新神学叢書』Ⅳ,1763年,725-33ページ。
507 “Bibliotheque des Sciences et des Beaux Arts,”(『科学と美術についての叢書』),ハーグ,1763年,550-53ページ。1764年,292ページ。
508 “Journal des Scavans”アムステルダム,1764年8月号,528-33ページ。他の参考文献省略。
509 “Monthly Review”(『月評』)ロンドン,1764年6月号,573-5ページ。ターフェルⅡ,610.『霊界体験記』4749m,4774m,その他。
512 ターフェルⅡ,235。
513 ターフェルⅡ,402。イェルウェルはこの記事を彼の『スウェーデンの歴史への貢献』(スウェーデン語原題名省略)に収録して出版した。原手稿はストックホルムの王立図書館にある。
514 スヴェーデンボリはこの主の顕現について彼の私的な日記に記録していない。ターフェルⅡ,1090参照。ある者は,次に続く言葉「その時“以来”,神はこの世のすべての物理的で道徳的な力の完全な知識によって,彼に……備えさせられた」をイェルウェルがスヴェーデンボリの直接の言葉を報じているかどうか,疑問に思う。これは彼の準備を述べた彼の通常の様式とは少々異質である。
〔訳注〕
★1 (naturalism)自然界を唯一実在として科学的方法で一切を説明する実証主義,唯物主義。しかし,文脈からは(spiritualism)唯心主義の誤記(?)と思える。
★2 もとイングランド東南部のロンドンの北西部を含んだ州。
★3 モラヴィア教の一派。
★4 Carl Christophersson Gjorwell(1731-1811)はスウェーデンの新聞雑誌業界の最も輝かしい一人であり,彼には歴史的な証言を保存する才能があった。以下に述べられているように,1764年8月28日に彼がスヴェーデンボリを訪問し会談した直後,この天才の記事を書き下ろすときその才能が発揮された。
★5 こことは逆順の“ex auditis et visis”(聞き,見たことから)が1758年に出版された『天界と地獄』の題名に付けられた言葉である(著者の勘違いだろうか?)。
★6 ここの後半部分はアルカナ出版から翻訳出版された『著作の自己証言』(同書8ページ,そこでは「ヒョーエル氏の証言」とされている)に取り上げられている。
★7 ストックホルム東方10kmの小島にある城,現在は史跡。
〔研究誌『荒野』第47,48号,2000年2,3月〕