1765年の夏であった。いつものように,ストックホルムの市場にはダイコンやカブ,バラやカーネーションを売るがっしりした体格の女でいっぱいだった。いつものように,大通りに沿いに,腕白小僧はイチゴを入れた麦わらで編んだ籠にバラのように小さな指を掛けて付きまとった。いつものように,船着き場の周りの小さな船は,幸せそうな家族をその夏の別荘へ運んで,多島海に向けて定期往復していた。監査官スヴェーデンボリの家では,彼の第9回目の外国への旅立ちの準備が進んでいた。カールは馬に馬具を装着し,食料を馬車に積み上げた。彼の主人がイェーテボリへ出立し,そこからオランダへ向けて航海するからである。
スヴェーデンボリは『啓示された黙示録』を書き終えており,これをアムステルダムで出版しようとしていた。これまでのどの著作よりも,これは彼の使命を成就していた。特にこれが,彼のすべての努力の終着点ともいえる新教会と神の国の設立に言及していたからである。この終着点は『理法』★1でかすかに見られ,『崇拝と神の愛』で壮麗に描かれ,神学著作で労力を傾けて取り扱われた。“審判”が完了しないうちに,天界からの光が人々の心に降り注ぐことができないうちに,この新しい教会は設立され始めることができる,と彼は言った。この尊ぶべき聖者は今や,自分の教義が地上の人々によって初めて受け入れられるのを実際に見ることになっていた。
イェーテボリで航海への船を待っている数日の間,スヴェーデンボリはその町の主要な文芸家の一人,詩人であり『イェーテボリ雑誌』の編集者であるヨハン・ローセン博士の家の食事に招待された。ローセンの家に集まった友達仲間の中にガブリエル・アンデルスソン・バイエル博士がいた。彼は招待主と同じくギムナジウム,すなわち教区の大学の教師であった[脚注*]。バイエルはうわさからスヴェーデンボリのことを知っていたが,この有名な著者に以前に会ったことはなかった。しかし,彼はその神学著作の一つを読み始めていたので,その著者をまったく知らないというのでもなかった。しかし,それを半分ほど読んでから,彼はこれが理解のできない,神学としてはほとんど価値がないものと感じていた。バイエルは,スヴェーデンボリが死者の霊たちと交わっていると主張するためどこか狂っている,と言われているのを聞いていた。それで,ローセン博士の家での晩餐会で,スヴェーデンボリがまったく正気に,少しの思考の欠点や混乱を何ら示すことなく会話しているのを聞いた時,彼は非常に驚いた。
その監査官は自分の驚くべき使命について質問されたとき,主が自分に現われ,その使命を与えられた,と飾らず,またすらすらと答えた(199 ページ参照★2)。バイエル博士は,スヴェーデンボリを自分との翌日の食事に,ローセン博士ともに招待した,彼らはこれらの奇妙な主張についてもっと聞きたいからであった[522]。
それで,翌日,紳士たちが食事した後,バイエル博士はスヴェーデンボリに,その教義について十分な説明を与えてくれるよう求めた。この要求に大いに励まされ,スヴェーデンボリはその主題について,バイエル博士とその友が驚くほどに非常に明確に,確信を持って語った。彼らは話しを遮らなかった,しかし,談話が終わった時,バイエル博士は翌日も求めた――それで,彼らは再びヴェングレン議員★3の家で会った――スヴェーデンボリはバイエルがもっと注意深く考えるために,自分の教義上の立場を書かいた文書を用意し,彼に与えることにした。彼はそうすることを喜んで約束したのだった。
次の日に彼らがスヴェーデンボリに会うと,彼は約束に応じて,望みの文書を差し出した。他の二人の紳士たちの面前で,それをポケットから取り出すとき,彼は震え,大いに感動しているように見えた。涙が彼の頬を流れ下った。その文書をバイエルに手渡すとき,彼は印象的な言葉を語った――
「私の友よ。今日から主はあなたを天使たちの社会に導き入れられました。それであなたは今,天使たちに囲まれています」。スヴェーデンボリは,翌日オランダへ向けて乗船するため,その少し後に別れた。
その場にいた者たちは深く感動した。その日から,愛想の良い敬虔な人物,また博識なギリシア語の学者でもあるバイエル博士に大きな変化が起こった。彼は以前には「興味も覚えず,理解もできない」と思えた本の読書を再開し,興味に目覚め,これが人間に絶大なる重要性を持つものであることを見出だした。彼はスヴェーデンボリの著作を系統的に学ぶ必要を確信し始め,その研究は彼の残りの人生の間,妨げられることなく続いた。彼は出版されたすべての著作を入手した。著者との文通を続けたが,このことから,教義上で不明確に思える点は,スヴェーデンボリによって解明され,多くの価値を導くものとなった。
新しい宗教的な教えに関心を持ったバイエルとローセンは,人の注目から逃れられなかった。ストックホルムの図書館員イェルウエルと高価な学術図書の交換を続けた彼らの同僚の一人ヨハン・ゴセニウスは書いている――
「スヴェーデンボリは当地で……常に人目を奪っています。その後,彼は船でオランダへ出発しました。彼に関する私たち間の意見は非常にまちまちです」(イェーテボリ,1765年8月17日)[523]。
* * * * *
『啓示された黙示録』の印刷は,スヴェーデンボリがアムステルダムに到着した後,すぐさま開始されたようである。10月1日に,彼はバイエルに,これまで印刷されたもの★4を2部送り,春には残りを送ると約束している[524]。1766年4月8日,彼は完成した著作を八冊、バイエルにそれらを頒布することを願って送った。
一冊はあなたのものです,司教★5へ一つ,長老★6へ一つ,ローセン博士へ一つ,ペッターソン市長★7へ一つ,図書館へ一つ,残りの二冊はあなたの友人に与えてください。
すべての章の締めくくりに,「記憶すべき説話」が星印で本文から切り離してあります。これをあなたは喜んで最初に読まれるでしょう。それらから,信仰のみの改革派教会が導き入れられた悲惨な状態についての基本的な知識が得られるでしょう。私はこの場所からイギリスへ行こうとしていますは,そこではおそらく,「記憶すべき説話」の中で厳しく取り扱われたイギリスの主教のために,いくらかの雑音がなされるでしょう。それでもそれ〔説話〕が必要であることは〔主に〕命じられています[525]。
この手紙を送った日の後,スヴェーデンボリはバイエル博士からの手紙を受け取った。自分の著作を熟読して,彼は熱意が非常に大きく増したようだった。『啓示された黙示録』に言及して,バイエルは言っている――
人がさらに深く熟慮するとき,これまで完全に封印されてきた霊的な意味がこの本の中に行き渡っていると必ず気づくはずです。あなたの神学著作を全部読み通したいという私に目覚めた望みは日増しに強くなっています。私はそれらの大部分を入手することができ,またそれらの大部分を読む機会も得ました。私がしばしば味わった喜び,どれほど輝かしい真理が私の面前に輝き出したか,そして私の望みにしたがって,私の日常の職務と仕事によって妨げられないなら,その著作を読むことを繰り返して,どれほどその読書をやめたくなかったか,これらをあなたに述べることは差し控えましょう。現代の哲学の健全で純粋な光の中へ,あなたの教義の体系がそれ〔現代の哲学〕に対して影響を与えるのでなく,むしろそれに透明な光を与えると知って,私は喜んでいます……[526]。
そのときバイエルは,それまで彼が困惑していた質問を持ち出した――なぜスヴェーデンボリは使徒たちの書物を神のみことばとして語らないのか? それらにも神の霊感が吹き込まれているらしいからである。彼はこの点を彼と論じたいと求めた。彼はまた,『天界の秘義』のある巻を入手してくれるように願った,それらをバイエルはイギリスから手に入れることができなかったのである,そして加えて――
「これとは別に望むことがあります――結婚を主題として,これを十分に取り扱ったものを見たいのです。このことは優しい感情の人々の間に良心を当惑させる問題を引き起こしています。大多数の人々は,よく理解していません,それでも適切な解説がなされていないのです」。このことは,スヴェーデンボリがまさにこの時期に,すでに結婚を主題とする著作の準備を始めていた事実を考慮するとき,特に興味深い。その著作は次に出版することになっていた。
パウロや使徒たちの書物に関して,スヴェーデンボリは,1766年4月15日付の手紙で詳細に返事した。それらは教義的な書物であり,したがって,「まったく対応で成り立っており,それゆえ,天界と直接の交流に効力がある」みことばの文体で書かれていないので,彼は『アルカナ』中で引用しなかったのであった。教義的な書物では,その交流は間接的なのである。
スヴェーデンボリはバイエル博士に,自分がその週にロンドンへ向けて出発すること,7月の終わりから8月の初めにイェーテボリに戻る予定であること,そのときは友と再度の会話を喜ぶことになろう,と知らせた。彼は,ロンドンに『アルカナ』の在庫があり,バイエルが補充できて,全部揃える★8ことができるであろう,と言っている。その後の手紙からわれわれは,彼の持たない巻が送られたこと,また全巻一揃いをイェーテボリ教区のラムベリ司教に贈り物として送られたことを知る[527]。
アムステルダムを去る前に,スヴェーデンボリは最近の著作『啓示された黙示録』の贈呈本を非常に数多く送った。20冊はフランスの枢機卿,国務大臣,王立協会★9,その他へ。また70冊をスウェーデンへ,それらの10冊を,ヴォン-ヘプケンやノルデンクランツを含めて,いろいろな議員や教会員に贈呈本として送った[528]。残部は高位の聖職者やスウェーデンの図書館に頒布するつもりであった。
* * * * *
ロンドンに着いた少し後の1766年の春,スヴェーデンボリは神学にまったく関係しない使い走りを始めた。アムステルダムで彼は,最も論じられた海事上の問題であった「経度測定法」の最良解に提供された懸賞を勝ち取ろうとした彼の若い頃の試みであった論文『月による経度測定法』を再度印刷した。冊子を増し刷りして彼は,まさに自分が若い時に発見し,書いたものを見て,彼は,「若い時代から取り組んできた,この研究から身を引き,自分の心をもっと内的なものに適応させた」と言った。しかし,再版の末尾に,彼はこの方法を簡単にするための実践的な法則を付加した。星の組み合わせよる「天体歴」★10計算の方法はすでにいろいろな場所で航海者によって使われていた。スヴェーデンボリは,多年にわたって集められた結果から,その方法はやさしくて役立つものであることが証明されるであろうと確信していた[529]。
5月19日,ロンドンで,彼は『方法』を王立科学協会の会長モートン卿に贈呈したところ,彼はその月の24日に「経度委員会」の会合が開かれると知らされ,その会合当日,スヴェーデンボリはその10冊を携えて,海軍本部へ行き,机の上に示し置き,これを秘書は受け入れた。(この問題についての議論は本章で後に再論する)
* * * * *
今やスウェーデンと同じくイギリスでも新しい教義の信奉者たちが現われ始めていた,しかしスヴェーデンボリがこの度の旅行で彼らのだれかと会ったと思えるふしはない。新しい啓示を最初に肯定的に読んだ者として記憶されるであろうスティーヴン・ペニーは,その知人ウィリアム・クックワーズィに興味を抱かせた。彼はフレンド会★11の有名な会員で英国磁器産業の最初の創設者であった[530]。この他に,トマス・ハートレー師という名の英国国教会の聖職者とロンドンの医師ハズバンド・メシッターがいた,彼らについては以下の章で多く語ろう。
スヴェーデンボリは1766年3月末の頃,ロンドンに着き,5か月間滞在して8月末に去った。この時,おそらく最初のほうの10週間,スウェーデン人のエーリク・ベリストレームにより営まれていたウェルクローズスクエアのキングズアームズ旅館に泊まった[531]。
ロンドンのこの地区は新しく開発された郊外の地域であり,そこの大部分にはスカンディナヴィア人が居住していた。そこには美しいデンマーク教会が建っており,少し離れたプリンススクエアに,スヴェーデンボリの父がその不在司教であった間の1728年に建てられたスウェーデン教会があった。教壇はアーヴィド・フェレリウスが受け持ち,その教会の支柱の一人は,スヴェーデンボリの親友で政治家のクリストファー・スプリンガーであった。彼は「徳と知性の評判をうらやましがられた人物」であり,スヴェーデンボリの友情を高く評価していた。「私は,学者でない私を大いに尊重してくださる理由をあげることができない」と彼は言っている,「なるほど,われわれはスウェーデンではよき友であった。しかし,われわれの間のこの友情は,以前のように常に続いた。これは私の予期しないものであった」[532]。
ベリストレームの語るところ,「スヴェーデンボリはコーヒーの朝食を取り,その後,ビロードの服をきちんと着て,よく散歩された。昼食は適度に取り,その後,一,二杯のワインを飲んだが,決してそれ以上は飲まれなかった。午後には紅茶を飲んだが,夕食は決して食べずに,通常,早めに部屋へ戻られた。彼は親切で,寛大で,いつも感じよく,しかし,いくぶん控えめであられた」[533]。
スヴェーデンボリはキングズアームズを去った後,以前滞在したことのあるコールドバスフィールドのグレートウォーナー通り4番地,「赤獅子宿(レッドライオン・イン)」の隣に下宿を探したようである[534]。そこにはもはや前の女主人は住んでいなかったが,その家の現在の女主人は喜んで部屋を提供しましょう,と言った。スヴェーデンボリは自分と住む居住者たちに関して少しの要求もなかったが,しかし,彼の天使たちはある点に関して非常に気難しかったようである。天使たちはその家では彼と一緒にいることはできなかった。彼はその婦人に,「私はここにとどまることはできません,家の中に和合がないからです」と言った。彼女はこれを認め,おそらく彼に友達の住所を紹介したのであろう,彼は下宿を確保した。
その最初の家に和合が欠けていた理由は,そこに住んでいた夫婦の宗教が異なっていたことである。スヴェーデンボリはすでに次の著作に取りかかっていた,それは結婚を主題にしたものであった,そしてこの経験を,宗教の異なる者たちの間に真の結婚愛はありえないという教えを証明するため,その本に引用している――
ある時,私は宿を求めて大きな都市の通りをぶらついていた。ある家に入ったが,そこには宗教の異なる夫婦が住んでいた。私は,その状況に無知であったが,天使たちが直ちに私に近寄って言葉をかけて,「私たちはその家ではあなた一緒にいることはできません。そこに住んでいる夫婦は宗教が異なるからです」と言った。天使たちはこのことを夫婦の霊魂の内的な不一致から認めたのであった[535]。
8月の終わりまでには故国に帰る準備をしていたスヴェーデンボリは,スウェーデンの友人スプリンガーに良い船長を探してくれるよう求めた。それで彼は,9月1日にロンドンからストックホルムへ直行することになっていたディクソンとかいう[脚注**]船長と契約した。スプリンガーはその友とともに都からいくらか離れた乗船のための港へ行き,そこで起こった事件について語っている。その夜,彼らはその港の近くの宿屋に泊まることにした。荷物はすでに船に積んであった。朝に船長がスヴェーデンボリを訪れることになっていた,それで彼はスプリンガーが宿の主人と別の部屋で会話している間に床に就いていた――
私たちは物音を聞いたが,その原因を知ることができないので,スヴェーデンボリの寝ている部屋を覗ける小さな窓のついたドアに近づいた。彼が両手を天井の方へ上げ,その体が非常に激しく動いていたのが見えた。彼は30分間ほど話したが,彼が両手を下ろし,その時に大きな声で「神よ!」と叫んだことを聞いた以外に,彼が何を言っているのか,私たちは理解できなかった,そしてそれ以上は聞かれなかった。その後,彼は非常に静かに床にいた。宿の主人と一緒に寝室に入り,具合が悪いのかどうか彼に尋ねた。
「いいえ」と彼は言った,「私は天使たちや天界の友達と長らく話し合っていたのです,そして今は,大汗をかいています」。荷物は積み込まれていたので,彼は主人に新しいシャツと新しいシーツを求めた。その後,彼は再び床に就き,朝まで眠った。
船長がスヴェーデンボリを訪れて来た時,私は彼と別れ,航海の無事を祈った。それから船長に,「充分な食料を積んだか」尋ねたが,彼は,「必要となるかもしれないだけ充分に」と答えた。
それについて,スヴェーデンボリは,「友よ,大量には必要ありません,来週の今日,私たちは神の助けによって2時にストックホルムの港に入るでしょう」と述べた。
ストックホルムへの旅は,スヴェーデンボリの驚くべき予言と正確に一致した。その帰路,ディクソン船長はクリストファー・スプリンガーに「私はダラレ島に着くまで一度も錨を下ろしたことはなかった。スヴェーデンボリはそこで下船し,陸路で旅を続けた」と語った。ディクソン船長は,彼の人生の中で,方向変換をするたびに風が後ろから吹いてくるという,そうした順風を経験したことは決してなかった。前には風は正反対からだったので,これは非常な驚きであった。
スヴェーデンボリ自身はその旅についてバイエル博士への手紙で述べている――「私はストックホルムのここに9月8日に到着しました。イギリスからの旅は8日間を要しました,順風が暴風にまで成長し,船をこのように運んだのです」[536]。(ストックホルム,1766年9月25日)
スヴェーデンボリが順風をもたらすというこうした例や他の例は,船乗りの間に,彼は歓迎すべき航海者である,とのうわさを引き起こした。別の船長は彼について,「もしスヴェーデンボリ氏が私の船を選んでくださるなら,いつもでも無料で航海しましょう,海での私の全経験を通じて,私はこれ以上の航海を経験したことがなかったからです」と言った。ロブサームはかつてスヴェーデンボリにこれらの航海について質問したが,「私自身,いつも自分の船旅での間,目覚ましい幸運に驚いています。しかし,同時に,私が奇跡を行なうことができないことは,知性的な人のだれにも明らかです」との返事を得た[537]。
船長ディクソンはストックホルムの多島海の島ダラレに到着するまで錨を下ろさずに航海したとのスプリンガーの断言にもかかわらず,これはエーレスンドの海峡――これはカテガット海峡をバルト海から分離していた――での税関で停船したこと,そしてヘルシンゲル★12のデンマークの税関へ船長がいつもの訪問をし,スヴェーデンボリが上陸して食事を楽しむだけの十分に長い時間,このことを除くつもりでないことは,ほんど確かと思える。1766年1月14日に起こったデンマーク国王のフレデリック五世の死の少し後に,そうした訪問が行なわれたことを,われわれは知っているからである[538]。
監査官は,他の役人それとこの有名な人物を見ようと願った卓越した市民とともにスウェーデンの領事クリガー氏の家での食事に招待された。彼は静かに席に着いていた,この静けさをだれもあえて破ろうとしなかった。ついに,そこの主人が今は亡き国王に言及し,スヴェーデンボリに,彼が死者に会って話すことができるからには,国王の死以来,その国王に会えたかどうか尋ねた。
スヴェーデンボリは肯定の返事をした。彼は,「私が初めて国王に会ったとき,国王は司教や高位聖職者と一緒でした。彼らは国王からの相談に応じて国王を多くの誤りへと導いたことに対し心から許しを請うていました」と言った。
その席には,その亡き高位聖職者の息子が出席していた,それでクリガー氏は――スヴェーデンボリが自分の招待客の父をさらに非難する言葉を何かを言うのではないかと恐れて――監査官の説明をさえぎった,「この方は,その人の息子です!」
「そうかもしれない」とスヴェーデンボリは答えた,「しかし,私の言っていることはほんとうです」
* * * * *
彼が帰宅してから最初にした行動は,最近,再び印刷した『経度発見法』を科学アカデミーの司書ペール・ワーゲンティンへ提出することであった[539]。アカデミーの会員数は300に上り,その会合は今や貴族院の集会室でもたれていた。二,三年前,会合に常に欠席し,これに何の興味も示さない会員を除名すべきであるとの決定がなされた。その規則は特にスヴェーデンボリに対して適用されるように思え,彼はちょっと顔を出そうと決心し,そして1761年6月3日,『大理石の象眼』について述べた小論文を読み上げた[540]。このことを彼は何年か前のオランダでの旅行中に学んだのであった。その主題を選択したことは,われわれの哲学者がその学者仲間の水準からどれほど遠く旅行していたかを示している。自然の内部についての彼の思索は,同じく解剖学についての彼の諸理論も,彼らの興味を引き起こすのに失敗した。彼は心理学でも宗教でも自分の発見に付き従ってくる用意のある者がいないことを知った。それで彼らに実践的な主題についての論文を与えたが,それはその後,『会報』に印刷された[541*] 。人は,14年間で王立アカデミーへなしたスヴェーデンボリのたった一つの貢献であるこの文書を前にして一種の悲哀を感じる。これは,最高に重要な知らせを持った者が,それを心から友と分かち合いたいと願っているにもかかわらず,あたかもただ握手して挨拶することしかできないようなものである。
スヴェーデンボリは自分の若い時の論文『経度発見法』を1766年の春までロンドンのどの委員会にも決して提出しなかった。彼はそのとき,月による方法は非実用的であると見なされてきており,「経度問題に関する王立委員会」は最善の方法に対する賞金をクロノメーターの発明家ジョン・ハリソン★13に与えることは初めからわかっている結論であることを知った。しかし,スヴェーデンボリは,自分の方法が十分な審査を受けてこなかったことに満足しなかった。クロノメーター★14については,その正しいことの証明は,時が知らせるであろう。スヴェーデンボリが経度問題の権威であるヴァーゲンティン教授を訪問した日の後,教授はいくらかせっかちにウプサラのマレット教授にその意見を求めてその問題を投げ掛けた。ヴァーゲンティンが送ったその手紙はつい最近になって日の目を見た――
拝啓。昨日,老いたスヴェーデンボリ氏がアカデミーにやって来て,ここに同封した意見書と出版物を提出されました。彼のアイディアについてその解説を『会報』に掲載すべきものと思えます。この前の海外に行くかなり前に,私は彼にこの問題について私の意見を語ったことがあります,しかし彼は頑固です。彼はこの問題についてリッチォーリの書いたもの(1651年)以降の新しいものを何も読んでいません,それで,ここ30年の間にその問題についてなされたことについて何も知りません。それにもかかわらず,彼は自分の方法が最善である,唯一可能な方法であると思っています。月運行の理論の発展やあるいは海上で観測する器具がもっと容易で正確なものになったであろうとは考えず,それにもかかわらず,彼は経度問題の賞金を要求しています。依然として,彼に幻想であることを納得させるよう試みる必要があります。それで,ご面倒でも少しばかりの批判的な意見をこの論文に書き加え,彼に示してください。原理すら理解しない人物と論じるのは困難です,そしてその理由から,そうした者と問題の根本にまで行く必要はありません。「天界の秘義」を知り,あらゆる事柄について霊たちに問うことができる者から,人は何かよいものが期待できるでしょうか。 敬具,P・ヴァーゲンティン(ストックホルム,1766年9月18日)[542]。
スヴェーデンボリは,甥のカール・イェスパー・ベンセリウス博士にも『経度発見法』を一冊送り,彼にこれをリンチェピングにある大学の天文学教授ニールス・シェンマークに与えるように求めた。彼は後にスヴェーデンボリへの手紙で「その方法」への自分の反論を述べている。これに対しスヴェーデンボリは返答して,「私の考えはこの研究から離れてから長い時がたったので,これをすべて詳細に述べることはできません,しかしそれでも私はこれが実用的であると信じています。約50年前,私が最初にその方法を出版したとき,必要な月の運行表はありませんでした,これなしではどの航海士もその方法を用いることはできないのです」と言った[543]。
スヴェーデンボリが若い時に試みた事柄に彼が固執したことの説明は困難である。おそらく,彼はこれが理論上は正しく,そして彼の長く待っていた月の運行表が今では身近にあるからであろう。今日,フラワー観測所の管理者チャールズ・P・オリヴィエ博士は,その論文を研究した後,報告している――
「経度を決定するスヴェーデンボリの方法の原理は完全に正しいように思える。もし,二つの星が同じ経度になくとも,それでもその方法は理論上は正しい。しかし,黄道上に月がないかもしれないという事実は,その解に著しい誤りを作り出すであろう」[544*] 。
* * * * *
再び家に落ち着き,スヴェーデンボリは自分の神学著作に関心を示した多くの人々へ手紙を書いた,そのうちには海外にいて不在だった間に彼に書き送ってきた者も含まれる。非常に長い手紙がフィンランドのトゥルク★15のメナンダー司教と,もう一人スカラのハレニウス司教へ急送された[549]。また彼は,ヴュルテンベルク★16候国の名高いドイツの高位聖職者フリードリヒ・C・エティンガーの手紙への返事も書いた。(スヴェーデンボリの教義がドイツで引き起こした出来事について,別の章が設けられ,論じられるであろう。〔次章「ドイツでの反応」〕)
バイエルへの手紙の中で,スヴェーデンボリは,博士の新企画である新しい教えに基づいた説教集の出版への関心を表わしている。バイエル博士は,説教集が新しい教義と同じくらいに重要だと考えが起こったとき,手をこまねいて待つといった人間ではなかった。彼はその計画に何人かの同僚(ロエムプケ,ゴセニウス,ローセン博士らが記録されている)の関心を引きつけることに成功し,1766年6月23日,その計画は賛成を求めて教会会議に提出された。出版は匿名でなされた。その広告には――
「それらの説明の中に,ときおり何か新しいものが流れ込んでいるかもしれません。神のみことばの真理への愛と,それが結実して無知を減ずる効果を生み,堕落したキリスト教の再建に向けて貢献すること,これが匿名の著者の唯一の目的です」[550*] 。
スヴェーデンボリは経験から,そうした企画は反対を招くことを免れないと予見し,それで彼はバイエル博士に起こりそうな成り行きを警告した――
私は企画された説教双書[脚注***]が豊かに祝福されるよう望んでいます,そしてこれを私にも頒布してくださるよう申し込みます。あえて申し添えますが,この著作にあなたが必要な用心をなされるように,なぜなら,新教会の本質がこのように受け入れられる時はまだ来ていないからです。聖職者を納得させるのは困難です,彼らは大学でその教義を固めてきています,神学的な事柄において固められたものはすべて,あたかも,脳にしっかり接着し,はがすことが困難だからです。そしてそれらがそこにあるかぎり,純粋な真理にその居場所はありません。さらにまた,キリスト教徒の新しい天界は,そこから“新しいエルサレム”(黙示録 21:1,2)が主から下るのですが,まだ完全に設立されてもいません。……(ストックホルム,1766年9月25日)[551]。
直後に『家庭説教集』は,教会会議の全面的賛同を得て,日の出を描いた美しい飾り模様で装飾されて現われた。その本は,主の最初の来臨とユダヤ人たちがただ啓示の文字の意味を守ることに固執していたので,イエスが待ち望んでいたメシアであったことを彼らが理解できなかった様子を論じて始まっている。そこには,「神,すなわちメシアの御国もまた,私たちにやって来ますように。私たちが,王を肉眼だけでなく,主から私たちに知らされた教義を通して,聖なるみことばの中にその来臨を見ることができますように,そして主に心からの喜びを持って従えますように……」との祈りが加えられている[552*] 。
「私は,福音書についてのあなたの新しい随想を楽しみながら熟読しています」とスヴェーデンボリは書き送った。「主の最初の来臨について,良い解説がなされています」。彼はそれから“かいば桶”の言葉についての意味を説明し,そして,「ここで,彼らは,信仰と仁愛は分離されるべきでないと肯定して,今や仁愛についてこれまで以上に考え始めます……」と付け加えている。
バイエルの質問「新教会は近いと期待できるでしょうか?」に,スヴェーデンボリは,「現在,新しい天界は準備され,整えられています,それで,次第にその天界が形成されるように,新教会も同じように始まり,増大します。キリスト教世界の大学では,今や初めて教えられ始め,そこから新しい聖職者が起こります。新しい天界は古い聖職者に影響を与えないからです……」と答えた(ストックホルム,1767年2月)[553]。
用心するようバイエル博士へ警告したとき,スヴェーデンボリの心には,高位聖職者エティンガーの経験したことがあったのかもしれない。彼はいくつかの新しい考え提起したので,裁判のためにヴュルテンベルクの教会会議に召喚されたのだった。このように,スヴェーデンボリは行から行へと執筆に忙しかったが,その間にも,彼の言葉はいろいろな所で効果を生み始めていた。
* * * * *
スヴェーデンボリが『啓示された黙示録』を一冊贈呈したスカラの司教ハレニウスに新しい啓示が及ぼした影響は目覚ましかった。彼は頭脳が異常なほど澄んだ人物,力強い演説家,著者であったが,しかしまったく強欲であり,しばしば党派間の争いに巻き込まれたことが知られている。スヴェーデンボリの家政婦は,ハレニウス司教がスヴェーデンボリを訪問したとき,そこに居合わせたことを語っている。会話は説教のことに移り,スヴェーデンボリはハレニウスに,「あなたは説教のとき虚偽をまきちらしています」と述べた。
ここで司教はマリア〔家政婦〕に退くよう命じたが,しかしスヴェーデンボリは彼女にとどまるよう言い,会話は続いた。その学者たちはどちらも,自分の見解を擁護する適切な文を見つけるために,ヘブル語とギリシア語の聖書のページをめくった,そして最後にスヴェーデンボリは司教の強欲と不正をとがめて,言った――
「地獄にすでにあなたのための場所が備えられています。しかし,二,三ヵ月して,あなたは重い病にかかり,そのとき,主はあなたを回心させようとすることを予言しておきます。そのとき,もし,あなたが主の聖なる感化力に対しあなたの心を開くなら,あなたの回心はなし遂げられるでしょう。そのとき私に手紙を書き,私の神学の著作を求めなさい,それらをあなたに送りましょう」
二,三ヵ月後,スカラ教区の役員の一人が訪問した。「ハレニウス司教はどうしていますか」とスヴェーデンボリは尋ねた。「あの方は重病でした,しかし今は回復され,人がすっかり変わり,親切で,情け深い,善意に溢れた人になりました。あの方は自分が以前に不正な手段で獲得した物を3倍に,またときには4倍にして返しています」とその役員は答えた。
その時から死ぬ時まで,ハレニウス司教は新教会の教義の最も熱心な支持者の一人となり,公然と,スヴェーデンボリの神学著作は人類の最も貴重な宝である,と宣言した[554]。
1767年の秋のことと語られている。ある少女が二人の弟とホルンスガータンを歩いていたとき,突然にわか雨に出会い,屋根付き渡り廊下に走り込んで雨宿りした。そこへ,老齢の紳士が彼らのところにやって来て,快く屋内へ招いた。
兄は雨宿りした理由を説明し始めた。「私たちは父の葬式に参列するためストックホルムにいて,南ストックホルムの父の友達の一人の家での食事に行く途中です」と彼は言った。
「そのことはすでに知っています」その老紳士は言った,「というのは,たった今まであなたたちの父は私と一緒で,あなたたちのやって来ることを私に語ったからです」。それからスヴェーデンボリはその子供たちを自分の部屋に来るよう招き,雨が止んで,子供たちが道中を続けることができるまで,談話してもてなした。彼らはハレニウス司教の子供たちであった[555]。
脚注・原注・訳注
脚注* ギムナジウムは,司教教区の管轄権のもとに,古典(一般教養科目)を教える(大学進学の)準備学校である。
脚注** あるいはニクソン,ホドソン,メーソン,ブロヴェル,どの名前とするかはあなたの決めることである。
脚注*** “Praediko-biblioteket”,これ以降は『家庭説教集』と呼ぶ。
〔原注〕
522 これらの記事はバイエル博士の書いた証言から取られている,『ターフェル』Ⅱ,324-5,424-9,それと『新教会誌』(ロンドン)1790年,p41 のヴェングレンの記事である,『ターフェル』Ⅱ,699。ヴェングレンはスヴェーデンボリがイギリスへ向けて去ったと述べているが,これはもちろん,オランダの間違いである。同じく『ターフェル』Ⅰ,623-5;Ⅱ,244参照。
523 『ニュチャーチライフ』1916年,p292。
524 『ターフェル』Ⅱ,236。
525 『ターフェル』Ⅱ,239-40。
526 『ターフェル』Ⅱ,237-9。
527 『ターフェル』Ⅱ,240-41。
528 『ターフェル』Ⅱ,242,他の参考文献省略。
529 『ターフェル』Ⅱ,240-41,他の参考文献省略。
530 『ターフェル』Ⅱ,11704以降,他の参考文献省略。
531 『ターフェル』Ⅱ,536-9;544。
532 『ターフェル』Ⅱ,528以降。
533 『ターフェル』Ⅱ,536以降。
534 これはシアースミスがプロヴォへなした言明によっている。1855年8月『ニュチャーチマガジン』(ロンドン,月刊),それとジョージ・トロブリッジの『スヴェーデンボリの生涯』の中の「ロンドンのよく訪れた場所と居住地」参照〔静思社発行『スエデンボルグ』p261以降〕。また,スヴェーデンボリが「以前そこに滞在した」とは1759年のときの彼の居住地に言及しているのであろう。
535 「シアースミス夫人」とはエリザベス・レイノルズのことである。彼女は,シアースミス家にスヴェーデンボリが住んでいた当時,そこの家政婦として仕えており,その後,2番目のシアースミス夫人となった。『ターフェル』Ⅱ,577以降の「1785年11月25日の宣誓供述書」を参照。その文書は1775年でなく,そこにあるように1785年の日付である。他の参考文献省略。『結婚愛』242番参照。『結婚愛』の原手稿は,ブリン・アシンのレイモンド・クランチ師の所有である。その『結婚愛』242 番の引用を含むページには,ウィリアム・スペンスの手書きで「W・S,1778」と記された脚注が含まれており,“Mrs. Shearsmith adhuc vivens confirmat hoc factum in cujus domo e mundo decessit E. Swedenborg.”(シアースミス夫人は,いまだに存命であり,その家でスヴェーデンボリがこの世を去った,というこの事実を確認する)と記されている。しかし,この事件は『結婚愛』が出版された1768年以前に起こったに違いないし,スヴェーデンボリは1769年まではそこに行っていないのだから,われわれは彼がシアースミス家に3度住んだと仮定しないかぎり,これはシアースミス家滞在中の出来事に言及しているはずがない。
536 『ターフェル』Ⅱ,250-51。
537 『ターフェル』Ⅰ,41-2。
538 『ターフェル』Ⅱ,431-2。
539 『ターフェル』Ⅰ,590以降。
540 参考文献省略。『ターフェル』Ⅰ,586-90。
542 この手紙の出典(1944-5年)が述べられているが省略。
543 『ターフェル』Ⅰ,592-3。
545 545,546,547,548番は付け替えられた〔ので,本文にはない〕。
549 ストックホルム,1766年9月。『ターフェル』Ⅱ,245-51。
551 ストックホルム,1766年9月25日。『ターフェル』Ⅱ,259-51。
553 『ターフェル』Ⅱ,260-62。
554 『ターフェル』Ⅰ,67-8。
555 『ターフェル』Ⅱ,723-4。この逸話はウプサラのリッセル教授の未亡人によって――この物語の少女である――その近所のスヴェーデンボリ信奉者の一人であるリンチェピングのフレデリカ・エーレンボリ夫人に語られたものである。
〔訳注〕
★1 『霊魂の領域(動物界)の理法』のことである。第19章参照。
★2 第24章「崇拝と神の愛」。
★3 ヴェングレン(Wenngren)は1746年にイェーテボリ市の議員に選出された。しかし同年,豊かで有力な「東インド会社」の秘書になるためにこの職務を辞任している。それでも彼はヴェングレン議員の敬称で呼ばれ続けた。
★4 同書の最初の8ページ分である。
★5 Erik Lamberg(1719-80)である。ラムベリはイェーテボリの司教であり,軟弱で小心な,支配力でもって恩を求めた人物であった。バイエルとローセンを異端者とし,その攻撃に荷担した。
★6 Ol0f Andreas Ekebom(1716-84)である。エケボムは宗教会議の長老であり,空想的なほら吹きであった。彼はしばしば教壇の中でですら物笑い対象となった。この司教と長老は,後に本書の第41章「イェーテボリでの異端裁判」に登場する。
★7 Daniel Petterson(1720-1802)は26歳の若い頃から市議会の一員となった。後に市長に選出され,1765年には市の裁判官になった――この職をその死の直前まで勤めた。彼の始めた改良により,彼は偉大な恩人と見なされた。
★8 バイエルは『秘義』の第1,2,8巻を欠いていた。ここでは最終巻の第8巻を送る約束をしている。スヴェーデンボリがすでに第1,2巻を彼に与えていたことは疑いない。
★9 これはロンドンの“王立協会”ではなく,ストックホルムに本部があり,スヴェーデンボリも会員であるパリに支部のあった「(スウェーデン)王立科学アカデミー」のことらしい。そこの書記に本書の頒布を願ったようである。
★10 各月各日の天体位置の早見表。
★11 1650年ごろイギリスでジョージ・フォックスによって創設されたプロテスタントの一派。クエーカーの公称。すべての戦争と宣誓に反対する。
★12 デンマークのシェラン島(デンマーク東部の同国最大の島;首都コペンハーゲンはその東端にある)の港市,人口6万。
★13 John Harrison(1693-1776);イギリスの時計技術者;海上での経度を測定するクロノメーターを改良して政府から賞金を得た(1773年)。
★14 天文観測・経緯度観測・航海などに用いる,精度の高い携帯用のぜんまい時計。
★15 フィンランド南西部の都市・古都,人口16万。
★16 ドイツ西南部の地方。
〔研究誌『荒野』第50,51号,2000年5,6月〕