イギリスとスウェーデンでは,スヴェーデンボリへの関心に目覚めた人々が孤立していた一方で,ドイツの諸公国では著名な人々によって彼の啓示に対する最初の真剣な注意が払われていた。ここにはスヴェーデンボリをその哲学学的著作★1からよく知っていた学者たちがいた。その著作はドレスデンとライプツッヒで出版され,学問上の出版界では広く知られていた。ここではまた他のどこよりも何らかの神秘的な性質をもったものに大きな関心があった。そうした神秘的な性質に対する背景が,13世紀にヨハネス・エックハルト★2,16世紀には神的な照示を得たと信じられたヤーコプ・ベーメ★3により備えられた――ヨーロッパのこの地方の人々は超自然的な力の主張者に影響されやすかった,そしてそれはスヴェーデンボリの著作の宗教的な面でなく,特に霊的現象の面においてであり,ドイツでの広範な関心を引き起こした。
1760年の早期,神学者ヨハン・アウグスト・エルネスティ博士は『天界の秘義』に対する決して好意的でない自分の書評によって,スヴェーデンボリの神学著作に関心を引き起こした(第33,34章参照)。われわれの知っている最初の肯定的な読者は,著名な学者で多作の著述家,ヴュルテンブルク★4のミュールハルト★5教区を統轄する高位聖職者フリードリヒ・クリストファー・エティンガー★6である。彼は長らくスヴェーデンボリの哲学を賞賛する研究者でもあった。1762年,彼が初めてその神学著作を知ったとき,彼は『地と天界の哲学』という本を執筆中であった。激しい病気に襲われ,永遠の門の前に立った,と彼は思った。そしてもし,エルネスティの『アルカナ』に対する書評が彼の注意を初めてスヴェーデンボリの啓示に引きつけなかったなら,この著作が自分の遺書になっていたであろう。その書評がまったくの弾劾であったという事実は,そのこと自体は,エティンガーの目には,本の価値を減ずるものとなっていなかった。なぜなら,彼は神秘主義への自分の特殊な偏愛のために,自分自身の著作が攻撃されることに,よく慣れていたからである。若い頃,彼はベーメの学徒であって,しばらくの間,ヘルンフート村のモラヴィア教会の教師ツィンツェンドルフ★7と暮らした。哲学と神秘学の両方に関心を抱いていた彼はスヴェーデンボリの中に,それらを一緒にして結合する望ましい体系的な解答を見出だしたのであった[556]。
『天界の秘義』第1巻をエティンガーが入手した時,彼は驚くべき秘密を暴露したスヴェーデンボリの霊的体験に大いに説得力ある印象を受け,直ちにもっと広く公けに知らせようと願ったほどである。友達に手紙を書いて,スヴェーデンボリについて「偉大な哲学者であった老紳士はちょっとした使徒となった」と言及している。彼は友達に,もし他の者が出版費用を負担してくれるなら,自分は『天界の秘密』をドイツ語に翻訳したい,と告げている。その本は,驚異的な,聞いたことのない,重要な事柄を含んでいる,と表明している。しかし,彼はスヴェーデンボリの霊的な体験に非常な興味を覚えながらも,その聖書の解説は高く評価しなかった。しかし,エティンガーはそのことによって心乱れることはなかった,彼はそれら全部を結び付けることができたからである。「私は一つの意見しか受け入れない神学者ではない。しかし,本書は何と驚嘆すべきものであろう! クラーフト教授は,そうした詳細な記事によって,信仰のみによるよりもさらによく,永遠へ至る道への,非常な詳細な情報を含んでいる,と言っている」[557]。
友人からの資金的な援助の約束を確保して,エティンガーは『天界の秘義』第1巻の各章の間におかれた「記憶すべき説話」の翻訳を始め,そしてそれらを“天界の哲学”の例として,自分の近刊書の中に挿入することにした。その本は1756年,テュービンゲン★8で,『スヴェーデンボリと他の者たちの,地と天界の哲学』の題名で出版された。その序文でエティンガーは言っている――
これより私は,読者が調べられるようにと,何か珍しいものを提供しよう。それは今日,神が私たちに知るようにと与えられたものである……。今日,世の中に不信が充満しており,そこで神は私たちに天界の情報を伝えるために卓越した哲学者を用いることにされた。数学的にこの哲学者の空想は調べられているので,これは単なる空想を報じているものと言われないであろう。体験による事実は空想ではない。それらの体験は,主の命令により,天界の知性の流入に基づいている……。自己を改善しようと切望する者は,どんな機会も見送ってはならない。それによってその者は,真理によってその者に提供された新しい光を熟知するようになる。スウェーデン鉱山局の名高い監査官スヴェーデンボリは,非常に高価なフォリオ版の大作を著した(Opera Philosophica et Mineralia)★9。私はこれを続く天界を起源とするものと比較して“地の哲学”と呼ぼう……。スヴェーデンボリは聖書を他のどれよりも高い位置に置いていないか? また彼はそれによって自分の体験を判断していないか? 彼の言うことのすべては互いによく関連していないか? 多くの証拠に訴えていないか?
ヴュルテンブルクの教会会議は――おそらく,激怒したエルネスティによって急がされた――熱意を共にしなかった。その会議はエティンガーに大いに憤慨し,そしてその本が現われたすぐ後に,国内でも国外でも,それ以上の出版を禁ずる措置を取った。1766年3月4日,ヴュルテンブルク政府は,教会会議の提言を受けて,エティンガーの全著作の没収を命じ,そして三つの訴因について自分を弁護するよう,その高位聖職者を召喚した――(1)影響を受けた動機について,(2)それを印刷する検閲官の許可について,(3)その著作の販売について。
エティンガーはその答弁書で,「その本を著すための内なる使命」それと「神の摂理による差し迫った動機」を引き合いに出した。
殿下は,この著作が神の目の中にあって,多くの思慮のもとに書かれたことを考慮してくださると思います……。百人ものエルネスティがこれに歯ぎしりしようとも,私はこれが印刷機を通過するのを見ると確信しております。しかし,その販売は重い罰金で禁じられていますので,神の前で、これに従い、静かにしていること以外に,私には何の術もありません。だれが正しいのか,主よ,あなたは知っておられます!
ドイツ人に特徴的な権威への服従心をもって,エティンガーは,禁止命令にだけでなく,その精神においても屈服した。彼の以前の熱意は衰え,彼の心は疑いに襲われた。この状態の中で,1766年10月7日にスヴェーデンボリへ手紙を書いた[558]。彼はその見神者に,神学著作の中に聖書と合致するものを数多く見出だしているけれども,それでもまた多くの疑問もある,と告げている。そして付け加えて,「しかし,親愛なる先生,あなたのことで,あなたの著作の第1巻に記された,単に“見られたこと”を翻訳するだけで,私がどれほどの被害を受けたか,あなたにはなかなか信じていただけないでしょう」
エティンガーがスヴェーデンボリを受け入れたのは,このように部分的にであって,バイエル博士のように充分に,完全に認識したからではなかった。彼は,スヴェーデンボリが死後の生活について書いたことの正しさすら疑い始めた,これは以前の彼にとって自明の事柄そのものであった。彼は奇跡による確証を求めた。
「あなたの教義が真であるしるしを私たちに与えてください」と彼は請うている。
ギデオンは神が自分と話されたことのしるしを求めた★10。スヴェーデンボリが死者と会話したのだから,使徒のヨハネと語り,彼の『啓示の書』がほんとうに霊的に解釈されるべきものか,それとも文字的に解釈されるべきものか質問してほしい。また,パウロや十二使徒たちとも会話してほしい。エティンガーは,スヴェーデンボリが文字の意味を離れて語ることによって,『黙示録』第22章18,19節で禁じられている,「もし,だれかがこれらに加えるなら,神はこの書に書いてある災害をその者に加えられる。また,この預言の書からことばを取り除く者があれば,神は,いのちの書からその者の受ける分を取り除かれる」ことを犯すのではないかと恐れた。
「しるしには少しの効果もありません,それらは人を内的には確信させないからです」とスヴェーデンボリはその手紙への迅速な返事で言っている[559]。彼は,例として,エホバがシナイ山に下られたすぐ後で,イスラエル民族が金の子牛の前に平伏した★11ことを引用している。そして,主の奇跡は――ユダヤ民族が主を十字架に付けることを妨げなかったではないか?
彼は,エティンガーが天界と地獄に関する事柄を翻訳したことで被害を受けなければならなかったことに遺憾の意を表わしている。「しかし,今日では,真理そのもの以上に被害を受けているものがあろうか?」と問うている。「それを知る者が何と少ないことか,確かに,それを知ろうと願う者が! このことで落胆しないでください,真理の擁護者となってください!」(ストックホルム,1766年11月11日)。
それでもエティンガーの疑いの状態はだんだんと深刻なものとなっていった。12月4日,彼は再びスヴェーデンボリに,もしパウロやヨハネ,モーセやルターとの会話の記事が与えられるなら,彼の本はもっと大きな力を持つだろう,と言った。「私があなたに抱いている情愛は,多くの非難が雨のように私に降り懸かる最中にあって,生暖かいものとなってきています」(1767年12月16日)[560]。エティンガーはスヴェーデンボリの擁護者であったので,彼を狂信的であると断言して愚弄するに対して,しばしば弁護しなければならなかった。しかし,彼は次の議論に出会った――「ヴォルフのような,あらゆるものを量り,計測した哲学者が,瞬く間に愚鈍な者となり,秩序の法則にしたがって考えることを突然にやめることが可能だろうか?」 彼は,スヴェーデンボリの著作の熟読によって,多くの者が今や「彼らが以前は否定していた霊魂の不死性を信じる」のを認める。
彼は依然として,スヴェーデンボリ神学のいろいろな点を質問するが,しかし「間違った見解がその著者をあざむいていない,彼から新教会の望みをはぎ取っていないであろう」との希望を持つ。彼は「あなたを哲学者から啓示者へと変えることを引き起こした内なる体験……」を説明した自分の生涯の歴史を書くことをスヴェーデンボリに示唆した(1766年12月4日)。
この質問へのスヴェーデンボリの印象的な返事は――
質問:なぜ,哲学者であった私が選ばれたのか?
答え:この理由は,今日明らかにされている霊的な事柄は,自然的にまた理性的に教えられ,理解されるべきであるということです。なぜなら,霊的な真理は自然的な真理と対応し,それらの上に終結し,それらの上に定まるからです。すべての霊的なものとすべての人間のものとの間に,同様に地球のすべてのものに対応があることは,著作『天界と地獄』の87番から102番,それと103から115番までを見てください。この理由から,私は主によって最初は自然科学に導かれ,こうして実際に1710年から1744年の間に準備がなされ,それから天界が私に開かれました。なぜなら,人は自然的に生まれ,道徳的となるよう教育され,その後,主による再生を通して,霊的になるからです。それ以外に,主は,真理を霊的な方法で愛すること,すなわち,真理を,名誉のためでも,利得のためでもなく,真理そのもののために愛 することを私に与えられました。というのも,真理のために真理を愛する者は,それらを主から見るからです,主は道であられ真理であられるからです(ヨハネ 16:6)。しかし,名誉,あるいは利得のために真理を愛する者は,それらを自分自身から見ます,そして自分自身から見ることは虚偽を見ることと同じです。確認された虚偽は教会を閉じます。それゆえ,真理の理性的な理解をもって,教会を開けるべきです。他にどうして,理解力を越えたものである霊的なことが,理解され,認められ,受け入れられるでしょうか? 教皇により受け継がれ,改革派によって受け入れられた教理は,すなわち,理解は信仰の服従のもとに囲われているべきであるとの教理はすぐさま教会を閉じます,主によって照らされた理解力を除いて,何が教会を再び開くことができるでしょう? しかし,この問題については『啓示された黙示録』の914番を参照してください[561]。
ドイツで多くの人々が,エティンガーの勇敢な弁護を通して,彼の義理の息子,テュービンゲン大学の神学教授で『神学と全宗教への完全な入門書』と題する連続出版物の編集者ハインリッヒ・ヴィルヘルム・クレムの著作を通して,スヴェーデンボリを知るようになった[562*] 。彼はこの作品の第四部で新たに,スヴェーデンボリ信奉者の疑問についての議論と,エティンガーとスヴェーデンボリの通信文を一緒にして印刷したが,これは権威筋がすでに被っていた頭痛に,さらに苦しみ加えた。クレムの著作は1766年2月8日の『エルランガー書評』で好意的に書評されたが,しかし,エルネスティによって徹底的に断罪された[563*] 。
スヴェーデンボリへの手紙の中で,エティンガーは最近入手した新しい本のことを述べている。スヴェーデンボリの幻視を論じたものを含んでいる『視霊者の夢』[564]と題する哲学者イマヌエル・カントによって書かれ,しかし,匿名で出版されたものである。「この著者は,その一方の手で賞賛によってあなたを高く上げられています,他方の手で,狂信的に見えると懸念し,非難によってあなたを引きずり落としています」とエティンガーは言っている。「諸大学の神学者たちは,あなたが三一性,義認,贖いの教義に関して誤っているからと,あなたを断罪しています……」
* * * * *
カントにとって,スヴェーデンボリの提示した現象は当惑物であり,当時の彼はこれに真剣な考慮を施すよりも,慰み物の領域に引き渡すべきもののように思えた。彼の『視霊者の夢』の中で,ケーニヒスベルクの哲学者は,驚くべき方法でスヴェーデンボリが霊たちを交流したいくつかの物語を報じ,それを読者たちに,一つの皿の中の理性と軽々しく信じることの混合物のようにして,自分たちで解決するよう,ふざけて提供した。
この懐疑的な心の持ち主が,どのようにしてスヴェーデンボリに興味を持つようになったか,カント自身がシャルロッテ・フォン・クノーブロッホ嬢への手紙で述べている。彼は彼女を「女性の鑑」★12として描いている――おそらく,単なる女性であったけれども,彼女は自分の時間を知的な探求に費やしていたのであろう。スヴェーデンボリがスウェーデン女王の秘密を明らかにした事件の少し後の1761年の11月に,フォン・クノーブロッホ嬢はカントへの手紙で,現在うわさになっているスウェーデンの見神者についての有名な話の解説を求めている[565]。
カントは非常に注意深い研究者であったので,その婦人の手紙に答える前に,いくらか調査をすることに決めた。デンマーク人の役人に会う機会があった。彼はコペンハーゲンでの夕食に出席し,そこではメクレンブルク★13の大使からスウェーデンの宮廷に宛てた手紙が読まれた。その大使は,自分自身が,スヴェーデンボリが女王の飛び上がるような秘密を打ち明けたとき王宮にいた,と述べた。
カントは印象づけられた,なぜなら,もしそれが真実でないなら,一人の大使が,公用で,彼が駐在した女王の宮廷について,非常に詳細な一つの情報を他の者に伝達することは,そして多くの著名な人々の列席する中の出来事を非常に詳細に語る証人が彼自身であることはありえない,と彼はわかっていたからである。(その事件は,すべての外国の公使たちによって,それぞれの国の宮廷に伝えられたと言われていた)
それゆえ,カントは,その問題についての手紙をスヴェーデンボリ自身へ書き送り,スヴェーデンボリはそれをある商人の手から丁重に受け取り,それに返事する約束をした。しかし,このことは行なわれなかった,そしていくらか時が経過して,カントは彼の友から,“ある高い教養のあるイギリス人の紳士”が商用でストックホルムへ行くところであると聞いたので,その紳士に,そのうわさ話の真実性について特別に調査してくださるようお願いした。これをその紳士は行ない,彼はストックホルムからの最初の手紙で,その物語がその都市の尊敬すべき人々のほとんどの者によって信用するにたるとして受け入れられている,と報じた。
1763年の早期に,カントのイギリス人の友は――グリーン氏とかいう――スヴェーデンボリをその家に訪問し(304ページ参照★14),その後,この訪問の結果を,より詳細な第二の手紙をカントに送ったが,それは彼に投げ掛けられた深遠な驚きの状態を述べていた。彼はスヴェーデンボリが「知的で,愛想のよい,寛大な人物」(ein vernünftiger, gefälliger und offenherziger Mann)であることを見出だした。スヴェーデンボリは,無条件で,好きなときに,この世を去った魂と交流することができるという著しい賜物を神が自分に与えられた,と断言し,この主張の証拠に,その紳士はある良く知られた事実を直ちに物語った。
カントの手紙に返事がなされなかったことについて,スヴェーデンボリは「私はそれを受け取ったことを知っていました。そして世の目の前に,この異常な事件の全部を公けにはしたくなかったのです。〔公けにしてよいと考えたなら〕私はすでにそれに答えていたでしょう。私は今年の5月にロンドンに行き[脚注*] ,そこである本を出版しますが,これはあらゆる点で,カントの手紙への答えとなっているでしょう」と言った。その本は,おそらく,霊界の性質を論じている『神の愛と知恵』に言及している。これをスヴェーデンボリは1763年にオランダで出版した。彼がさらなる返事をカントの手紙にしたかは知られていない。
グリーン氏はイースターの週の間はケーニヒスベルクにいた,そして,カントが「あらゆる疑いの可能性を超越したスヴェーデンボリの異常な賜物について断言」する特別な詳細を聞いたのは,その時であった。
カントは今やフォン・クノーブロッホ嬢に答えることができた。彼は,「だれかがかつて,私には奇跡的なものに近づく傾向がある,または軽信しやすい弱点がある,と非難したかは私は気づいていません。むしろ私は,幽霊や幻視の物語に出会った時,否定的な側に傾くことで知られています」と言った。実際,この哲学者は――そう彼は言っている――迷信からははるかに遠ざかっている。彼は,死者の墓場や夜の暗闇で決してどんな恐怖も感じなかった。すなわち,彼がスヴェーデンボリに関するこれらの報告を調べ始めるまでである![566]
フォン・クノーブロッホ嬢へのカントの手紙は,彼自身へなされた直接の質問に返事しており,(また聞きではあるが)スヴェーデンボリの幻視,ストックホルムの火事,失われた領収書,女王の秘密といったよく知られた逸話を述べているので重要である[567]。
三年後に,カントが『視霊者の夢』を出版した時,彼はスヴェーデンボリについての賛意を翻(ひるがえ)した! 「知的で,愛想のよい,寛大な人物」に代わって,ここではスヴェーデンボリは,あざ笑い,皮肉を述べる,「すべての狂信者中の,大の狂信者」(der Erz-Phantast unter allen Phantasten) とされている。彼の『アルカナ』は「無意味なことばかりに満ちた八巻物」(acht Quartbände voll Unsinn)であった。
この突然の変化は何から引き起こされたのか? エルネスティによるスヴェーデンボリ弾劾は依然として続いていた。高位聖職者エティンガーが,たいていは評判のよくない――人々の考えたように――この擁護者として悲惨さに遭遇していたからであろうか?[脚注**] 確かに非常に偉大な人物であったカントは,批評的な哲学者としての自分の立場を見失う思想を目の前にして身震いしたのだろうか? なるほど,上記に引用されたモーゼス・メンデルスゾーンへの手紙によって示されることから,あるものは大いにそうらしい。モーゼスはカントの本の嘆かわしい色調を非難したが,その哲学者には公平を認めると批評している。カントは,その本はスヴェーデンボリの幻視について立腹した状態で書かれている,と告白した。「私がこれらすべての逸話に対する私の想像する知識を私自身から取り除かないまでは,絶え間ない疑問によって,私は平和を保てないとわかった」と彼は説明した。それでカントは完全に,彼の本でこれを否認することを実行した。彼はスヴェーデンボリの名前を誤記すらして,彼について「官職にも知的職業にもついていない,シュヴェーデンベルク(Schwedenberg)氏とかいう人」と言及している[568]。
批判的な哲学者としてのカントの立場は安全のままに残った。しかし,神学についてのスヴェーデンボリの概念を彼がどんなものと考えようとも,彼は決してその宇宙論の原理を否認しなかったに違いない,なぜなら,太陽と恒星の体系の,有名なカント‐ラプラス理論の多くは,『プリンキピア』でのスヴェーデンボリの理論に似ている,と繰り返し指摘されてきたからである[569]。
ドイツ人の性格を分析して,スヴェーデンボリは,学のある人々に対する彼らの盲目的な信頼を論評している。彼らは自分自身で物事を考え抜くよりも権威者の見解を引用したがる,と彼は言う。彼は思考の自由の不足を彼らが住んでいる専制政府による抑制的な効果に帰している。
この抑制は高い壁に囲まれた泉の水たまりに似ている,流れ入る内部の水を,水流の穴〔出口〕にまで高める,それして流れはもはやそれ以上にわき上がることができない。思考は流れ入る水のようなもの,そこからの言論は水たまりのようなものである[570]。
ドイツでのロマン派運動におけるスヴェーデンボリの影響を新たに探って分析したエルンスト・ベンツ博士による『ドイツ理想主義とドイツロマン主義の精神的な開拓者としてのスヴェーデンボリ』[571*] は前記に引用した観察を全面的に正しいとしている。彼はカントの本を,ドイツの学術機関や高等教育に関するかぎり,スヴェーデンボリへ“致命的打撃”といった影響をなすものとしている。「今世紀で,物笑いの呪いとして,これほど致死的なものは何もない」。カントが口にしたスヴェーデンボリへのこの呪いは有効であった。しかし,ベンツ博士は,詩人や作家の間で,エティンガー,ラーヴァター★15,ユング・シュティリング★16を通して,“スヴェーデンボリの考え方の流れ”が,シェリングやヘーゲルといった文芸の大家の著作をその色に染めていることを追跡している。さらに博士は,ゲーテでは,『ファウスト』の着想を「ストックホルムの哲学者による人を動かさないではおかない影響」に帰している。
今後の出来事を物語るうえで,ドイツでの事件をひとまとめに網羅するため,この伝記〔本書〕では年代順に記述することは放棄せざるをえない。
エティンガーの本と連続ものの書評を出版することについて,政府の禁止令は,同時代の学界の人々以外に,学問のない人々にもまた,特にヘッセン・ダルムシュタット★17の方伯★18ルートヴィヒ十一世に,スヴェーデンボリやその他のものへの注意を引き起こし,霊界についての新たな啓示に興味を持たせるような効果をあげた。方伯の周囲には,心霊現象の交わりを通して,亡くなった者の状態について情報を熱心に求める知人たちのサークルが形成された。彼はエティンガーに書き送り,返事と,著者であるスヴェーデンボリがエティンガーに,知人で著名なだれかに分け与えるよう送ってあった最近の著作[572]の3冊のうちの1冊を得た。その高位聖職者は,彼の『ヴュルテンブルク教会会議に向けての弁護』の出版を禁じられていたが,この問題で,方伯の影響力を行使してくださるよう要請したが,しかし,明らかに失敗した。エティンガーが自分を訪れてくれるようスヴェーデンボリをミュールハルトへ招待した時,教会会議は,その名高いスウェーデン人を受け入れること,ついには来てはならないことを彼に命じた[573]。
しかし,方伯は,スヴェーデンボリがオランダにいると聞いて,ハーグ在住の自分の牧師M・デ-トロイアーに,その有名な著者を訪れるよう指図した。デ-トロイアーはこれを行ない,ドイツ訪問の約束を彼から受け取った。彼は,スヴェーデンボリは自分の著作に君主が興味をもった証拠を大いに喜んだ,と報告した。それゆえ,方伯は,スヴェーデンボリに,スヴェーデンボリが困惑するようなお世辞に満ちた手紙を送った。返事を受け損ない,それでヘッセン・ダルムシュタット方伯は,彼の教会会議の評議員,ヴェナトー牧師★19に牧師本人がその見神者を訪問するように,遣わした。スヴェーデンボリはヴェナトーに,手紙の返事が遅れた理由を,それを本物かと疑ったから,と語った★20。
「あなたは,なぜ私が,その手紙が殿下によって,方伯ご自身の手で署名されたものと天界から知らないのか,おそらく大いに不思議に思われているでしょう」,彼は続けて,「それ理由は,天使たちはそうしたことは知らないからです,私たちの救い主,主は,私の知性や判断に属する俗世間の事柄には関与しないからです,私にはただ天界や永遠の生命を扱った事柄のみを啓示してくださいます,それで私はあえて主ご自身にこれらのこの世の事柄を尋ねる気になれないのです」と書いた[574]。
以上はベンツ教授によって最近発見され,彼によって出版された重要な本『ドイツにおけるスヴェーデンボリ』の中に収められている一群の手紙から取ったものである。これらの手紙は,方伯の興味がより表面的な性質であったことを示しており,どのようにして自分が天使たちや霊たちとの交わりに入れるかという質問がその焦点となっている。スヴェーデンボリが最終的にヘッセン・ダルムシュタットの方伯に返事した時,彼は言っている――
私が天使たちを話すといったような,天使たちと会話する賜物は,人から人へと伝えられることのできないものです。霊が入ってきて,人に何かを語らせるといったことがときには起こります,それでもそれはその霊に人間の口から口へと話すことが与えられたのではありません。さらに,このことは極めて危険です,なぜなら,霊が人間自身の愛の情愛の中に入り,そして人間の情愛は天界の愛の情愛と一致しないものだからです[575]。
かつて,他の者たちがスヴェーデンボリの享受しているような種類の霊的ないのちに入る可能性について質問され,それに答えて,彼は言った――「十分に注意してください! それは狂気へ直通する道です!」。人間が,自分自身の思索によって,天界的な事柄を推測しようとするとき,彼は地獄の妄想から自分を守ることができない。スヴェーデンボリ自身の場合について,彼は決して現在の状態に入れられることを期待していなかったが,しかし主によって,その使命のために選ばれたのであった。彼の以前の目標は,「自然を,化学を,鉱山と解剖学の科学的知識を探求すること」であった[576]。
同趣旨の返事が,1759年より以前に,スヴェーデンボリによって,オランダ人ダッツェル男爵★21に与えられている。彼はスウェーデンの友から,スヴェーデンボリの注目すべき啓示の知らせを受け,そして直ちに熱狂的な読者となったのだった。ヘッセン・ダルムシュタットの方伯と同じく,ダッツェルはおもにその見神者の霊たちと会話できる能力に印象づけられた。この能力を彼もほしがり,自分もまた,「スヴェーデンボリの飲んでいる同じ泉の水を味わい」たいと,熱心に弟子になることを望んだ。彼は特に,「スヴェーデンボリが自分に,『モーセ五書』のどれに,そのどこの章に,どの二つの節に,霊たちと交流に入ることのできる力が隠されているか告げてくれることを」要求した。(『聖書』にはそうした交流をもたらすことのできるある特別な箇所があるという,交霊占い者の間に広く広まった信念があった)。
スヴェーデンボリは,返事で,これが不可能な要求であるとして拒む理由を詳しく述べている。この文書は,長々と多く論議された主題について彼の個人的解釈を明らかにしていて重要なので,その引用は興味深いであろう――
「モーセ書」のある節について,それは人を霊たちと交わらせ,彼らと話すことができることに導く性質と力があるとされていますが,私はその書物のどの節に他のどれよりもこの性質があるかは知りません。私はただ一つ,神のみことばは,人間がそれを情愛と注意力をもって読むとき,霊たちと天使たちがそれに加わり,その人間に寄り添うことを,どこもそうした文体で書かれていることを知っています。なぜなら,神のみことばはそのように書かれており,天界と地の間を結び付ける紐を形作るからです。(この主題については,『天界と地獄』303から310番に書かれていることを参照してください)。それでも,主は,霊たちが人間たちと互いに会話するほどに近づくことは,ほとんどなされません,なぜなら,霊たちとの交流によって,人間は,その霊魂について,すぐさまその生命が危険になるといった状態に入れられるからです。それゆえ,私はそうした願いを抱くことを思いとどまるよう忠告いたします。主ご自身は,私に霊たちや天使たちとの交わりに入ることを,会話することを授けてくださいましたが,その理由は私の著作で説明されています。私は主ご自身により多くのすさまじい試練や悪霊の攻撃から守られています……[577]。
スヴェーデンボリにとって,霊たちと交わるという超自然的な体験は,「奇跡ではなくて単なる証拠」であった。彼の啓示は,天使や霊たちからでなく,主おひとりからもたらされた。「みことばの中の何かに関して,霊も,天使もあえて何かを言おうとは,なおいっそう私を教えようなどとはしません。みことばからの教義に関して,主おひとりが私を教えられたのです……」[578]。
脚注・原注・訳注
脚注* スヴェーデンボリは6月に出発し,最初にオランダへ行った。
脚注** エルネスティのさらなる活動については本書第42章に見られる。419 ページ以降。
〔原注〕
556 『ターフェル』Ⅱ,1027 以降,1055,1281。
557 カール・エーマン(K・C・Ehmann)『エティンガーの生涯と手紙』(Oetingers Leben und Briefe)シュトゥットガルト,1859年,676-7ページ。
558 『ターフェル』Ⅱ,252-5。
559 『ターフェル』Ⅱ,255-7。
560 『ターフェル』Ⅱ,1033以降。
561 『ターフェル』Ⅱ,258-60。
564 イマヌエル・カント『視霊者の夢』ケーニヒスベルク,1766年。『ターフェル』Ⅱ,259。スヴェーデンボリの教義が広がっていた人々に対するエティンガーの不満のさらなる証拠として,彼の手紙を参照せよ,そこで彼は,「……このことにより,私がスヴェーデンボリの解釈を是認しないことは日の光のように明らかである」など,と言っている。『エティンガーの生涯と手紙』p. 298。
565 『ターフェル』Ⅱ,625以降。
566 『ターフェル』Ⅱ,620-28。
567 エルンスト・ベンツ『ドイツにおけるスヴェーデンボリ』の中の新証言(フランクフルタム‐マイン,1947年),クレーレ・メルニンガーによる同書の書評(『ニューフィロソフィー』1948年,
255-8 ページ)を参照。彼は直接にイギリスへ行かず,オランダへ旅立ち,そこで『神の愛と知恵』を出版した。従来は,カントへの回答としてスヴェーデンボリの言及した本は『霊魂と肉体の交流』を指している,と推測されていた。『ターフェル』Ⅱ,624,620-25;1222-4,それとカント自身により再版,改訂されたL・F・ボロウスキーによる『イマヌエル・カントの生涯と性格』ケーニヒスベルク,1804年,211-25ページを参照。実に奇妙なことに,現在失われているカントの手紙は,その日付について,印刷したもので誤り伝えられており,それは書いた日付を1759年10月10日としているが,それでもそれに対する討議は,数年後まで起こらなかった。イマヌエル・ターフェル博士は,その日付の誤りを,伝記作者がスヴェーデンボリに対するカントの最後の言葉をフォン・クノーブロッホ嬢への手紙ではなく,『視霊者の夢』であることを示したかったことに帰している。しかし,その手紙は1763年に書かれたに違いない,とのベンツ博士の決定的な論証を参照。他の参照文献省略。
568 ベンツ『ドイツにおけるスヴェーデンボリ』245ページ。
569 参照文献省略。スヴァンテ・アレーニウス教授は,宇宙論におけるスヴェーデンボリの着想がどれほど,彼の後継者の著作の基盤となったかという問題を考察して,彼の概念とカントと彼の先輩ビュフォン(☆1)のそれらと酷似していることを指摘している。カントがスヴェーデンボリの哲学的な著作を知っていたかはわからない,しかし,アレーニウス教授は,「カントが自分の考えをスヴェーデンボリから借りてきたことは,そしてそれらにより哲学的な衣装を着せたことは極めて明らかである」とみなした。ビュフォンがスヴェーデンボリの三巻の『哲学著作集』を所有していたことは疑う余地がないほど明らかである,なぜなら,彼は自分の名前と“1763年”の日付をその表題のページに書いているからである。その一揃いは現在ニューヨークの米国スヴェーデンボリ印刷・出版協会の「フォーブス・コレクション」に保存されている。『科学著作集』(Opera Quaedam)第2巻の中の372ページ以降,A・H・ストローの注釈記事(☆2)とアレーニウスによる同巻の序文(☆3)を参照。
(☆1) Buffon(1707-88);フランスの博物学者。(ダーウィン以前に)生物進化の学説を予感していた。
(☆2) 同書の巻末に付けられた「宇宙論へのスヴェーデンボリの貢献」と題する記事。
(☆3) 「宇宙論者としてのスヴェーデンボリ」と題する序文,ストローがスウェーデン語から翻訳している。
570 『真のキリスト教』814。
572 『結婚愛』アムステルダム,1768年。原注612 〔同書の副題などさらに詳しい題名〕参照。
573 アルフレッド・アクトンによる記事「ドイツにおける諸発見」参照,ニューチャーチライフ,1948年,354ページ以降。
574 同上書367。〔アムステルダム,1771年6月22日〕
575 同上書365 。
576 『ターフェル』Ⅰ,34-5,no.14。
577 『ターフェル』Ⅱ,231-3。
578 『ターフェル』Ⅱ,388-9,390-1,『神の摂理』135。
〔訳注〕
★1 三巻物の大作『哲学と冶金学著作集』(第一部:原理,第二部:鉄,第三部:銅)(ドレスデンとライプツッヒ,1734年)と『無限なるもの』(ドレスデンとライプツッヒ,1734年)を指す。
★2 Johannes Eckhart(1260?-?1327);ドイツのドミニコ会士,ドイツ神秘思想の創始者。
★3 1575-1624,ドイツの神秘主義的哲学者。エックハルトとベーメの両者とも“異端”とされた。
★4 ドイツ南西部の地方。
★5 Murrhardt;シュトゥットガルトの東北30kmに位置する都市。
★6 エティンガー(1702-1782) はヤーコプ・ベーメの信奉者であった。彼は正統的ルター派神学の堅固な信者であり,その教義が真理であるとしてどんな疑いも決して抱かなかった,またスヴェーデンボリの著作で読んだ物すべてを軽蔑した。しかし,彼は。神がスヴェーデンボリに死後の生命の性質を明らかにするよう委託したことは固く信じた。ベーメを研究してきたエティンガーは霊的な幻視を主張する人々の結社を育て,そしてスヴェーデンボリの著作の中に,霊界の最も完全な啓示を見出だした。彼は,その神学を,特に聖書の講解を,これは聖なるみことばの平易な意味に害を加えると考えて拒否した。「神は一つのことのためにだけ彼(スヴェーデンボリ)を道具として召された」
★7 Zinzendorf(1700-60);ボヘミア兄弟団直系のモラヴィア兄弟団の創始者。
★8 西ドイツ南部,シュトゥットガルトの南方の都市。1477年創立の大学がある。
★9 前記の訳注★1。
★10 「士師記」6:17。
★11 「出エジプト記」32章。
★12 原文は“an ornament her sex”(彼女の性の装飾品)。このままでは意味不明なので意訳しておいた。
★13 バルト海に臨むドイツ東北部の地方,旧州。
★14 第32章「大きな赤い竜」参照。
★15 ラーヴァター、Johann Kaspar Lavater(1741-1801);スイスのプロテスタントの牧師,文筆家,人相学者。シュトルム・ウント・ドラング時代の特色ある人物で,21歳の時チューリヒの代官の不正を摘発攻撃して名をあげた。ドイツを遍歴して人々を魅了し(南方の魔術師)といわれ,ゲーテと交わりを結んだ。彼の人相学は,賛否両論をまきおこして有名。クロプシュトック流の宗教的,愛国的な詩を多数作ったが,晩年には神秘的惑溺の傾向があり,友人も次第に離れ去った〔岩波『西洋人名辞典』〕(下記参考記事“ラーヴァターについて”参照)
★16 ユング・シュティリング(筆名)Jung-Stilling(1740-1817);ドイツの文学者,医者。シュトラーズブルク大学で医学を学び(1769-72),またゲーテと親交を結んだ。エルベルフェルトで眼科医を開業し,白内障手術で名声を得たが,廃業して財政学,経済学を修め,カイゼルスラウテルンの財政専門学校(78),ハイデルベルクの経済専門学校(84),マルブルク大学(87)の教授をした。カルルスルーエに定住して(1806)文筆活動に従い,特に自伝は有名。他に財政学教科書,教育小説などの著がある〔岩波・西洋人名辞典〕
★17 ヘッセンはドイツ中部の州,ダルムシュタットはヘッセン州の工業都市。
★18 方伯(1806年までのドイツの),皇帝直属で公爵と同格の領主。
★19 Johannes Venator(1735-1798);首都ピルマゼンス(ドイツ南西部,ザールブリュッケン東方50kmの都市)の監督,方伯のお気に入りであった。
★20 その手紙は失われているが,スヴェーデンボリの返事を期待したものと思える,おそらく方伯の秘書の一人によってドイツ語で書かれ,方伯の自身の署名の入ったものである。しかし,その内容から信憑性が疑われ,返事を保留したようである。
★21 第31章「スウェーデンでの驚き」とそこの訳注参照。
[参考記事]
ラーヴァターについて〔『手紙と請願書』から〕
スイスの詩人,説教家,人相学者であるラーヴァターは,スイスではすでに1764年に彼が最初に出版した情熱的愛国的な『スイスの歌』で有名であった。彼は1762年に叙階されたが,1769年までは牧師の職につかなかった,その説教から判断すると,多かれ少なかれスヴェーデンボリの著作から,特にその霊的体験から影響を受けている。彼の奇跡や超自然的なものへの信念から,自然に受け入れるようになった。彼は気高い宗教的熱意と神秘主義への傾向が顕著であった。初めてスヴェーデンボリを知ったのは,カントの『視霊者の夢』(1766年出版)を読んだからであり,そこにカントは,スヴェーデンボリが女王の秘密や失われた領収書のある場所を明らかにしたこと,ストックホルムで起こった火事をイェーテボリで透視したことを詳説していた。カントによって提示された証拠は,ラーヴァターにとってスヴェーデンボリが霊たちと会話していることのほとんど論争の余地ない証明に思えた。それで,彼自身も神秘主義への傾向のある彼は,自分自身も幻視を見ることができるかもしれないとの希望を持って,スヴェーデンボリへ手紙を書いた。それでも彼には,スヴェーデンボリの主張する能力に対し,いくらか秘めた疑いがあった,そしてそれらの疑いを晴らしたかった,このこともまたスヴェーデンボリ自身から聞きたいという彼の願いの要因となっていた。
〔研究誌『荒野』第52号,2000年7月〕