37 Visitors Young and Old

第37章 訪問者たち

広く知れ渡るにつれて,多くの訪問者たちが,彼らの大部分の者は好奇心から駆られて,またある者は世を去った愛する友からの伝言を聞きたいとの望みから,スヴェーデンボリの戸口に立った。インドから帰った旅行者がガンジス川流域の生活を述べることができるように,スヴェーデンボリは,その霊的経験を容易に,自然に語った。彼にとってそれらのことは平凡で,23年間の習慣的な出来事であった。決して常にではないが,ときどき,彼はその質問者たちの要求を満足させた。

1766年の晩夏,スヴェーデンボリが帰国した直後に,彼を訪問した者の一人は,アメリカの歴史に記録される運命にあった名前ニコラス・コリンという19歳の若者であった[579]。当時,コリンは,スヴェーデンボリの知人の一人オーロフ・セルシウス二世★1の家庭教師としてストックホルムに住んでおり,しばしばその見神者について語られるのを聞いたが,しかし個人的に決して会ったことはなかった。ウプサラ大学で学んでいる間,コリンはその図書館で神学著作のいくつかに出会い,それらを興味をもって読んだ。その頃,彼の弟が死んだ,そしてそのことがニコラスに訪問させる気を起こさせたのであろう。

彼は背筋の通った年取った紳士を目の前にした。体格は強壮で,いくぶんやせた青白い顔色をしており,その容貌は高齢にもかかわらず非常に愛想がよく,美しい面影を保っていた。これはまた,おそらくこの頃のスヴェーデンボリが彼の友に強いられて描いてもらった肖像画から得られる印象でもある[580]。

ニコラスは,勝手気ままに訪問してきたのではないかという相手の疑念を払った。「私は若者の無礼さからでなく,非常に名高いお方とお話ししたいとの強い願いから行動したのです」。スヴェーデンボリは彼を親切に迎え入れ,午後の早い時間であったのでスウェーデンの習慣にしたがって,その訪問者に美味しいコーヒーを出した。ほぼ2時間近く,おもに人間の霊魂の性質について,さまざまで主要な著者たちの論説とその主題について比較しながら会話した。その後,スヴェーデンボリがこの世を去った霊魂と交わっていることに話が及んだとき,コリンは思い切って,大きな願いとして,数か月前に死んだ自分の弟と会っていただきたい,と求めた。

スヴェーデンボリは,「神は,思慮深くも適切な理由から,霊たちの世界を私たちの世界から分離されているので,非常に重大な理由がなくては,交流は決して与えられません」と説明し,「このことを求めるあなた動機は何ですか?」と聞いた。コリンは,「兄弟の情愛を満足させること,それと,このように興味深くて崇高な場所を探求したい熱烈な望み以外に何もありません」と告白した。スヴェーデンボリは,「それらの動機はよいものですが,十分ではありません」と答えた。

それから彼は,その訪問者に庭と翼(よく)を付け足した“あずまや”を見せた。その有名な著者はその翼を自分の図書室とした。コリンは後になって,それを,「一種の神殿である,彼はしばしば瞑想のためにここに退いた。そのための特別な構造となっており,宗教的なかすかな光が差さしていた」と描いている[581]。

別れるとき,スヴェーデンボリはその若者にセルシウスへの贈り物として持って帰るようにと最近の著作『啓示された黙示録』のりっぱな本を手渡した。

ニコラス・コリン牧師は,叙階されてから後,スウェーデン人の会衆の牧師として仕えるためにペンシルヴェニアへ航海した。彼はその植民地での生活の重要な人物となり,親友にはアメリカ哲学協会★2の創設者ベンジャミン・フランクリンがいた。フランクリンの最期に臨んだコリンを描いた絵が,フィラデルフィアのアメリカ・スウェーデン歴史博物館に掛けられている。

宗教についてコリンの見解は,政治についての見解のように、極めて寛容でリベラルなものであった,しかし,スヴェーデンボリの教義の信奉者とは決してならなかった。フランクリンのように,天文学の熱心な学徒であった彼は,天の広大さと惑星に人間が住むことについて理性的に論じたスヴェーデンボリの論文『宇宙間の諸地球』を大いに賞賛した。

1784年,新教会の教義についての最初の講演がジェームズ・グレンによってフィラデルフィアで行なわれたとき,コリンがかの有名な見神者の知人であるとのうわさが広がり,このスウェーデンの牧師は,この有名な同国人について知っていることを話すよう求められた。その事実を広めるために,1801年の秋,日刊紙『ガゼット』に5回の連続記事を書いたが,それは後に他の新聞にも転載された。それは,スヴェーデンボリを訪れたその日の午後に書かれた図書館員イェルウェルの記事と鋭い対比をなしているが,コリンの証言がおそらく,その訪問から37年して書かれたからであろう。しかし,それはスヴェーデンボリが同時代の人々に与えた一般的な印象まとめたものとして価値あるものである。コリンは言っている――

「スヴェーデンボリは,新しい宗教体系を打ち立てるよう天界から委任されている,と確信していたが,そのことが著作による以外に,暴力的手段によって強制されることは望まなかったし,改宗者をつくろうと努力もしなかった。スウェーデンについては,彼は一つの教派のかしらになろうとの願いを決してほのめかしたことはなく,教会の設立は,静かな段階的な照らしによって,彼の説く新教会の形をとるであろうとの楽天的な望みのままにした」――これは全般的に,バイエル博士への手紙の中でスヴェーデンボリが繰り返し主張していることと一致する。

スヴェーデンボリはその態度に外的な神聖さをひけらかすことはなかった,とコリンは言っている。彼の衣装は,さっぱりした一般的な様式に従ったものであった。「彼は“よいしつけ”といった習慣的な規律を遵守し,同席した者の会話や楽しみにも,それらが理性的なものであるかぎり加わった。非常に慎み深かったが,それでも,飲み食いによけいな遠慮はなかった……」[582]。

この年にスヴェーデンボリを訪れた若者が他にもいた。「高いところからの新しい声,天界の主からの伝言」を聞いたその若者は,鉄鋼の中心地エスキルストゥナ★3からやって来た。この経験のため前もって“準備されて”いたクリスチャン・ヨハンセンは直ちに,表現を絶した喜びをもって受け入れた。彼は,「自分があたかも天界に移されたように」感じた,と言っている。ヨハンセンは,職業は製鉄所の工員であったが,倫理学と哲学の深遠な学者でもあり,後にはこの新しい啓示を知った者たちの団体の指導的役割を演じた。彼がスヴェーデンボリといろいろと会話した事柄のひとつに,著作『崇拝と神の愛』の実情について,があるが,これは以前の章で述べた(202ページ参照)★4[583]。

当時,スヴェーデンボリは,若い聖職者ヨナス・パーソン・オドナーにも会っていたようである。彼は後に,神学著作のいくつかをスウェーデン語に翻訳し,またその息子は新しい教義を広めるうえで,顕著な役を演じた[584]。

* * * * *

スヴェーデンボリの親切な心は,一般の人々との友好的な集まりで最もよく見られた。彼は訪問者たちを愛想よく歓迎し,見知らぬ人にすら外国の珍しい植物のある庭を訪問することを許す一方で,庭師には付き添いのない子供は入れないよう指示しておいた,彼らが手に負えないやり方でその所有者に迷惑かけないように――自己防衛のための必要な処置である。

ある日,少女がその敷地の入り口で立ちどまっていた。そのときスヴェーデンボリはたまたま少し離れて,小道の一つに立っていたが,庭師を呼んだ,「門を開けてやりなさい,その子は何もいたずらしないようにと非常に厳しくしつけられています」。彼女は後に,どうして彼がこのことを知ったのか不思議に思った,彼女の家はその市の別の地域にあったからである[585]。

1767年の夏,スヴェーデンボリは自分の庭に数多くの奇妙な仕掛けを増し加えたが,それは好奇心の強い公衆のためである,とロブサームは語っている。中央で四つの小道が出会い,そこの広場には,開かれ,トレリス(四目格子)★5で囲まれた休憩所が立っている。そこにはどの隅にも丸い腰掛けがあり,中央には最もあつらえ向きのテーブルがある。この小さな休憩所から,小道が南の生け垣へ向かい,そこには真ちゅうの針金を編んで造った鳥小屋があり,あらゆる種類の鳥の家となっている[586]。北へ向かう小道の終点に,彼は三つの側壁をもつ小さな建物を立てた,三つの三重の扉,三つの大きな窓が庭の側に向けられていた。これは全部の扉が開かれたとき,部屋の奥の鏡が三つの庭を写し出すように,スヴェーデンボリの“もう一つの庭”への扉を開けた者に楽しい驚きをもたらすようにと建築されたのである。彼はこの庭のほうが最初のものよりはるかに美しいと強調した。スヴェーデンボリはこの仕掛けを,特に好奇心の強い若い婦人が彼を訪れた時,多いに楽しんだ。

魅惑的な逸話が彼の近くに住んでいた少女グレタ・アスクボムについて語られている。彼女の父は監査官と親しい間柄であった。グレタはしばしば「スヴェーデンボリおじさん」に天使を見せてくれるよう願った。それでついに承諾した。彼は彼女をカーテンの前に立たせ,そして言った,「さあ,天使を見なさい!」 彼はカーテンを脇へ引いた,少女は鏡に写った自分を見た![587]

庭の南側の一角には,野菜を保存しておくための大切な地下室があった。そこの前に,彼は自分の庭を見に来た良き人々の楽しみのために,特に彼らの子供の楽しみのために,板張りの迷路を造った。彼は訪問者たちを笑顔でこの地下室に迎え入れ,彼らがこの装置を喜ぶのを楽しんだ。スヴェーデンボリは評判が高くなることからの必然的な結果を実際的な心理学者のように受け入れ,それらをよいものへと変えた。子供たちをどう扱ったか? もちろん,彼らを楽しませた。子供たちが板張りの迷路から出口を探すのに失敗し,助けがなくては不可能なとき,彼らの両親にとって,〔今度は〕自分たちに示された難問を解くのが,博学で愛想のよい監査官自身によらなくては,非常に難しいことを思うとき,私たちは含み笑いを禁じ得ないであろう!

「スヴェーデンボリは使用人の一人を呼ぶことなしに女性の訪問者をだれも自分の部屋に入れなかった」とロプサームは言っている[588]。そしてだれか婦人が彼に会いに来たときは,特に心わびしい未亡人が亡き夫の状態を知りたいと望んでいるか,または彼が驚くべき秘密を盗み,そうしたものを明らかにできる占者であると考える婦人のときは――常にだれかが同席するよう求めた。「なぜなら,女性は,狡猾で,私が彼女らと親密になりたがっていると言い出すかもしれませんし,それにそうした人たちが,自分の聞いたことを正確に理解しないので誤り伝えることは,よく知られています」と彼は言った。

家にいるときのスヴェーデンボリの習慣について,ロプサームはその詳細を豊かに与えている。彼は昼夜の別なく著述した。「眠くなった時にはベッドに行きます」と彼は言った。使用人にはほとんど手間取らせることはなかった。マリアはベッドを用意し,彼の控え室に大きな水差しを置いた。彼は書斎で自分のコーヒーを作り,それに大量の砂糖をたっぷり加え,昼夜いつでも飲んだ。よそに招待されていないとき,その食事は沸かした牛乳に浸したロールパンだけであった。家ではワインも強い酒も決して飲まず,夕方には何も食べなかった。しかし人前では,自由に食べ,適度に社交のグラスをたしなんだ。

書斎の暖炉の火は秋から冬の間中,決して絶やさせなかった,しかし寝室には常に火はなかった。横になると,気候によっては,三,四枚の毛布を掛けた。目が覚めると直ぐに書斎へ行き,燃え残り火の上にまきや束で購入しておいた二,三片の樺(かば)の樹皮を置いた。そこからコーヒーを作るための火を素早く起こすためである。コーヒーはミルクもクリームもなしで飲んだ。その後直ちに著述のため机に着いた。

 

彼の部屋は整然としていて上品であった,しかし装飾はなかった。同じことが服装にも言えた。それでも,彼が外出の準備をしているとき,もしもだれかが彼に目を通さないなら,彼の服装のどこか細かいところが忘れられたり,無視されたりすることがときどき起こった。彼がロプサーム氏の父の家での食事に来たある時のこと,一方の足には宝石の締め金の靴を,もう一方には銀の締め金の靴を履いていた。その老紳士を笑う機会を得た若い娘たちには陽気なお祭り騒ぎが与えられた。

彼は人前では機嫌のよい楽しい人物であった。その厳しい仕事からの気晴らしとして,知的な人々との会話を楽しみ,彼らによって常に歓迎され,非常に尊敬された。彼は,まじめな事柄を考えている中へしばしばでしゃばってこようとする好奇心といった欲望にも,適切に合わせ,異なる方向を陽気に示すことができた。

彼が独身であったことは性への無関心によるものではない,とロプサームは言っている。なぜなら,「彼は,上品で知的な女性との交際を喜びの最も純粋な源泉の一つとして高く評価したからである。しかし,彼の深遠な研究は,家の中に昼も夜も完全な静けさがあることを要求したのであった」。

スヴェーデンボリの物語の中には知的な女性との交際を好んだ足跡が数多くある。彼の初期の詩はイギリスの彼の知人の女性詩人への,別の詩はスウェーデンの女性詩人への賞賛を表わしていた。彼の若い時の女友達エレメンティア・ポルヘムは,詩集の著者であった。その本は,不運にも残されていない。彼女は1760年に死んだ。そして数年後,彼女の娘たちが,その夫たちと,スヴェーデンボリを訪れたとき,彼は彼女らに,「私はこの世を去ったあなたがたのお母様と,自分の望むときに会話しました」と断言した。これは,エレメンティアへの彼の賞賛が決して止まなかったことを示している。後年,彼がドイツのある女流文学者★6によって大いに歓待された逸話が語られている。また,スヴェーデンボリとエリザベト・シェルンクローナとの霊的なきずなについて彼の友が言及しているが,それにも根拠があり,そうであったに違いない[589]。

スヴェーデンボリはすぐれた健康を享受し,軽い病気にもほとんどかかったことがなかった。「彼はいつも自分に,また自分の境遇に満足し,どの点からも幸福な,いや,最高度に幸福な生活を送った」[590]。

1766年から68年の間,彼は『結婚愛』の著作を書いており,その中で,天使の祝福と平安を論じているが,私たちはこのとき彼がこの幸福な状態にいたと考えたくなる。その著作では,地上のだれも,これまで,真の結婚愛の起源と本質を知らない,それで,その秘密が,最高の天界の天使たちによって私に啓示された,と彼は言っている。一対の天使である彼ら二人が,黄金時代の天界から,彼の目にダイヤモンドのように輝く馬車に乗って下ってきた。それは雪のように白い馬に引かれ,乗っている二人は手に二羽のキジバトを持っていた。その天界からスヴェーデンボリは羊皮紙を受け取ったが,その上にはこの天界的な愛に関する知恵の言葉が書かれていた。それは机の上に置かれ,その部屋の扉には鍵がかけられた。しかし,スヴェーデンボリはその鍵を与えられ,「書け!」と命じられたのであった[591]。

* * * * *

その著作は1768年の春に完成し,著者はそれをオランダで印刷するため5月27日に母国を去った。ちょうど家から出て馬車に乗ろうとしているとき,彼は,隣人カール・ロプサームに出会った[592]。「もうすぐ80歳にもなろうとするのに,どうしてそんな長旅をあえてするのですか?」とロプサームは,再びこの世で会えるかどうかといぶかって尋ねた。

「そのことなら心配しないでください」とスヴェーデンボリは言った,「もし,あなたが生きておられれば,私たちは必ず再び会えます。私はこのような旅をもう一つしなければならないからです」。この予言は,いくぶん曲解されてイギリスの新聞で繰り返された。それは,「スヴェーデンボリはこの航海の出発前に,『これは外国への10回目の旅であり,最後のものとなる。しかし,必ず帰ってきて,自国で死ぬ』と予言した」というものである[593]。

スヴェーデンボリが彼の最も熱烈な弟子となる人物に初めて出会ったのはこの往航のときであった――少将クリスチャン・テュクセンは,軍を代表する身分のまま,デンマークの港ヘルシンゲルの税関検閲官長であった。バルト海と大西洋の港との間を往復する船舶は,その港に検閲のため止められた。何年もの間,テュクセンは,ロシアについて情報をつかむための,デンマーク国王の諜報部員であった[594]。

数年前,スヴェーデンボリの驚くべき心霊能力についての物語が広く流布したとき,彼に対する好奇心がかき立てられていた。テュクセンの親友で,デンマーク駐在のスウェーデン大使カール・フレデリク・ヴォン-ヘプケン男爵は――首相,アンデルス・ヴォン-ヘプケン伯爵の弟である――彼に,「スヴェーデンボリはヨーロッパで最大の学者の一人である」と保証していた。これらの報告に促されて,テュクセンは,そのスウェーデンの領事に,この次にスヴェーデンボリがヘルシンゲルに来た時は自分に知らせてくれるよう求めた。その後間もなく彼は,その名高いスウェーデン人が領事の家に食事に来ていること,もしテュクセン少将が彼に会うことを望むなら,急いでほしいこと,順風で,人々は乗船する間際であることを知らされた。

 「私はできるかぎり急いだ」とテュクセンは言っている。到着すると,彼はその有名な来客にいくつか質問することを許してくださるよう願った。

スヴェーデンボリは快く応じた。「何なりとお尋ねください。すべてほんとうのことを答えましょう」。

 彼の最初の質問は,すでに述べたストックホルムでスヴェーデンボリと女王の間で起こったことのうわさについてであった(第31章参照)。

テュクセンが情報部★7に属していたことは大いに役立った,そして彼のスヴェーデンボリについて書いた記事は,詳細にまで注意が及んでいる。宗教の原理について話し合っている間,テュクセンは彼に,神と隣人に対して真剣に自分の義務を果たしていると信じる者は,どのようにして,自分が救いへの正しい道にいると確信できるか,と質問した。

スヴェーデンボリは答えた――

それはまったく容易です。そうした人は,単に自分自身と自分の考えが十戒に従っているかどうか点検すればよいのです。例えば,自分が神を愛し,神を恐れているか。また,他人の幸福を見て,ねたむのでなく自分もまた幸福であるか。他人から大いなる危害を加えられて,それによって怒りと復讐の念をかき立てられても,その後,神は「復讐はわたしのものである」★8からと,自分の感情を変えられるかどうか,その他そうしたことです。そのとき,その人は天界への道にいると確信し,安心してよいのです。しかし,これに反した感情によって動かされていると発見するとき,その人は地獄への道にいます。

 「このことから私は,自分のことと他人のことを同じに考えるようになった」とテュクセンは論評している。




原注・訳注

〔原注〕
579 『ターフェル』Ⅱ,417-24,他の参考文献省略。
580 グリプスホルム〔ストックホルム東方50kmにある湖畔の古城・史跡〕の城に掲げられたペール・クラフトの描いた肖像画は,茶色の上着を着て,左手に『啓示された黙示録』の装丁した本を持ったスヴェーデンボリを示している。同じくスウェーデンの美術家フレデリク・ブランダーの描いた他の肖像画は,青色の上着で右手に同じ本の手書き原稿を持っている。A・H・ストローによれば,〔ブランダーの〕原画はストックホルムの北方美術館にある。数名の美術家によって描かれたさまざまな写しまたは複製が存在し,一つはストックホルムの科学アカデミーにある。他にもペンシルヴェニアの新教会アカデミーにあるが,これはスヴェーデンボリの寝室に掛けられていたことを証明する文書とともに1876年にアメリカに送られたものである。(スヴェーデンボリの肖像画に関する参考文献省略)。
581 スヴェーデンボリは“あずまや”に隣接させて,自分の図書を保存する低い建造物を建てた。二つの本棚の間には長い鏡が取り付けてあった。『ターフェル』Ⅰ,392とⅡ,734参照。トロブリッジの『生涯』310ページの説明☆参照,1912年。ロプサームによれば,スヴェーデンボリが1767年にイギリスを訪れる後まではあずまやは建てられていない。『ターフェル』Ⅰ,32 参照。他の参考文献省略。
(☆)少女サラ・グレタ・アスクボムが天使を見たいと願ったとき,あずまやに連れて行って,垂れているカーテンの前に立たせ,「さあ,天使が見えます」と言って,カーテンを引き上げ,その少女が鏡に写った自分を見た箇所を指すのであろう,本書にも述べられている逸話である。
582 『フィラデルフィア・ガッゼト』1801年8月12日。
583 『ターフェル』Ⅱ,710,1247。
584  参考文献省略。1795年,コペンハーゲンでヴァドスボとリレスタットの首席司祭ヨナス・パースソン・オドナーによる3巻の『真のキリスト教』の翻訳書が出版された。
585 『ターフェル』Ⅱ,723。原注555参照。
586 『ターフェル』Ⅰ,32-4,390-92;56-7。他の参考文献省略。
587 『ターフェル』Ⅱ,724-5。他の参考記事省略。
588 『ターフェル』Ⅰ,43。
589 『ターフェル』Ⅰ,51;他の参考文献省略;原注396,397参照。
590 『ターフェル』Ⅰ,12以降,他の参考文献省略。
591 『結婚愛』43番。
592 『ターフェル』Ⅰ,38。
593 『ノーサンプトン・マーキュリー』1768年7月4日号,最後の欄。
594 『ターフェル』Ⅱ,430以降。トクスヴィック,p327。原注716参照〔第24章の注〕。

〔訳注〕
★1 Olof Celsius(1716-1794);ストックホルムのカテドラルチャーチの牧師。
★2 米国最古の学会;1743年ベンジャミン・フランクリンの呼びかけで設立;ジェファーソン大統領の会長時代には図書館・博物館・科学アカデミーの機能を果たした;19世紀後半影が薄くなったが,20世紀に入って活動を更新;1940年以降学術書刊行助成金や学術奨励補助金のプログラムを発展させた。
★3 スウェーデン東南部の都市,人口9万。ストックホルムの東方80km。
★4 以前の章とは第24章。
★5 (通例木製の)菱形[方形]の目のある格子(細工)。(アーチ・あずまや・避暑用別荘などに使われる)
★6 原文は“bluestocking”(18世紀ロンドンの文芸サロンの指導的人物の中に青靴下を履いた者がいたことから)。蛇足ながら「青踏」の言葉はこの訳語である。
★7 軍事・外交情報の収集分析を行なう政府の部局。
★8 「ローマ」12:19。


〔研究誌『荒野』第53号,2000年8月〕