40 The New Evangel

第40章 新しい福音

 スヴェーデンボリは強い目的を感じながら『教会の教義の簡潔な解説』[626]を執筆した。「マタイ福音書」24章22節の主のみことばにしたがって,新しい教会が設立されないかぎりだれも救われない。新しい教会は竜が――それを彼は誤った信仰と理解した――最期の審判を通して天から投げ落とされるまでは設立されることはできない。しかし,竜とその仲間は,霊的な太陽から,地上の人々へやって来る新しい光と熱を遮る暗い雲の形となって,依然として霊界に長らえていた。この雲を追い散らすために,『簡単な解説』は書かれ,すべてのキリスト教派の教職者や説教者たちに頒布せねばならなかった。

「私は〔霊界から〕,本書を注意深く熟読した者で,すでに真理を発見した者もいるが,その一方,どの道へ行ったらよいかわからない者もいると,知らされた」とバイエル博士に書いている。この本は,「今日までの,キリスト教世界に流布していた神学全体に変化を生み出し,そしてまた,部分的には新しい教会のための神学を提示するでしょう」と主張している(アムステルダム,1769年4月23日)[627]。

スヴェーデンボリはバイエル博士に12冊の『簡潔な解説』を送り,同博士の神学上の仲間に配ってもらうつもりであった。「ここに書かれていることから,今日,キリスト教世界に神学が存在しないのは信仰のみの教義が原因であることを,だれもが十分に納得するだろう」からである。しかし,その本を発送する前に,イェーテボリの宗教会議の長老が,スヴェーデンボリ自身が訴訟に訴えることを考えたほどの,まったく手加減のない言葉で自分の教義を弾劾しているとの知らせを受け取った。それで,その新しい本を一冊だけバイエル博士に,今はご自分のもとに保つよう忠告して送った。「私たちは,この本がスウェーデンで一般的に知られるようになる前に,外国でこれが受け入れられるかどうかの判断を待たなくてはなりません」。

しかし,あの世では,『簡単な解説』の出現に大きな喜びが伴った,と語られている――

この予備的な小著が完成した時,全天界は,東から西,南から北まで,濃い緋色の美しいバラにおおわれて私に現われた,それで霊たちの世界で私と一緒にいた者はすべて,そのことに驚いた。これは新しい天界の同意と喜びのしるしであった。……

この著作に対してなされたこの驚くべき主張は,これまでどのような著者によっても決してなされたことはなかった。スヴェーデンボリは,「霊界では,すべての私の本には『主の再臨』と記された。同じく私は,命令により,オランダで二冊の本に書いた」[628]と言っている。

その二冊のうち一冊は発見され,大英博物館に保存されている。スヴェーデンボリの直筆のその銘文「この本は主の再臨である,命令によって書かれた」は,表紙の内側に書かれている(原注629)。

 Hic Liber est Adventus Domini, scriptum ex mandato.
     〔原著にはこのラテン文の直筆コピーが掲載されている〕

この小著の中で,スヴェーデンボリは,神,救い,信仰の本質についてローマカトリック教会と改革派教会の両方の教えを詳細に吟味し,それらの教義に論駁している。「今日のキリスト教世界の全部の神学は,位格(ペルソナ)の三位一体説の教義から起こった三人の神の観念に基づいている」。そこには,これは宗教を追い払い,教会に真の善業を生み出すことを不可能にしている,なぜなら,この教義は真の仁愛を排除するから,と言明されている。この誤った信仰と対照させて,「新しい天界と新しい教会の信仰」として,その本の最後の章に★1,真の信仰が要約してある。

こうして『簡単な解説』は,『真のキリスト教』すなわち「普遍的な神学」の先触れであった。スヴェーデンボリはその序文で,これはより大きな著作の一種の概略であって,批評し,吟味するためのものでなく,予備的な紹介である,と言っている[630]。この小著は,すべての他の著作以上に,専門的な神学用語にあふれている。バイエル博士への手紙には――「ここに書かれていることは,イェーテボリでは,あなた自身を除いて,ほとんどだれからも完全には理解されないでしょう」[631]。

* * * * *

1769年の春,スヴェーデンボリはパリにいた。そこでは『結婚愛』の著作は非常な好感をもって受け入れられ,その売れ行きは非常によかった[632]。

パリに着くと,『真のキリスト教』の最初の草稿をソルボンヌ大学神学部の博士シェヴルール氏に示した。博士は必要とされる認可のため,それを調べることになっていた。読んだ後,シェヴルール氏は,「慣例ではあるが,その表題に,この本はロンドンかアムステルダムで印刷されたと明言する」ことをスヴェーデンボリが受け入れるなら,「パリでその本の出版する暗黙の許可を与えよう」と言った。

ごまかしはスヴェーデンボリの行動原則に合わなかったので,その条件に同意することを拒否し,その著作を,後のすべての著作と同じく,アムステルダムで出版することにした[633]。(この情報はシェヴルール氏自身によって『真のキリスト教』の最初のフランス語版の編集者たちに与えられたものである)。それにもかかわらず,その事件は,イェーテボリで「スヴェーデンボリはパリを立ち去るよう命じられた。これに本人は憤慨し,拒んだ」と印刷されて,悪意あるうわさを引き起こすことになった。フランスへのスウェーデン大使クロイツ伯爵が証人として呼び出された[634]。そのうわさは,スヴェーデンボリがパリを去ったすぐ後に,その都に到着したスウェーデンからの旅行者であったウプサラ大学の図書館員で歴史家のヨハン・ヒンリク・リデン〔1741-93〕により,いかにもありそうなこととして広められたものだった。新しい教えの宿敵リデンは,スヴェーデンボリとヴォルテールについての物語といったような,何か非難できそうなものを発見し,繰り返し取り上げた。リデンと文通していたスヴェーデンボリの甥サムエル・エルフは,3月17日に,その図書館員に書き送っている――

現在この pater mirabilis〔驚くべく父〕はフランスにいますのでお会いしてください。そして私が相続人となれるよう私のために取り計らってください。というのも,私にはこのことが大いに必要だからです。また,私の本棚には叔父にいただいた『啓示された黙示録』があります。叔父のいのちは長くないかもしれません。私はただ安全に帰国することを望んでいます![635]。

いつもの習慣に反して,スヴェーデンボリは,パリでは男の召使を雇い,自分の世話をさせた。この召使は,「ご主人様はすべてのドアに鍵をしないで離れてしまう。自分の考えでは,そうした不注意からの当然の結果として,窃盗で訴えられてしまうのではないかと心配だ」と不平をもらした。スヴェーデンボリは微笑んで,「そのことなら心配しないでください,ドアにはすばらしい守衛がついていることを,あなたは知らないからです」と言った。ドアは施錠されないままとなり,何も失われなかった[636]。

フランスへの途中,最初に計画したように,スヴェーデンボリがライデンに立ち寄ったこと,またハーグを訪れたことを示すものは何もない。また,パリの華やかな時代の知的生活の象徴であった文芸サロン〔名士の集まり〕に彼が招待されたとの証拠もない。アムステルダムを4月26日に去り,7月1日にはロンドンにいたので,パリ訪問の期間は短かったが,フランスの花の都で過ごすのに,快い5月と6月は理想的な時であったろう[637]。

ロンドンで,スヴェーデンボリは適当な下宿を見つけるため再びコールドバス・フィールズに行った。他の機会に滞在したことのある女主人を訪れたが,その女主人は自分のところに受け入れることができなかったので,同じ地区で貸間を持っていた友だちリチャード・シアースミスを紹介した。ウェルクローズ・スクエア,グレートバス街26番地の,かつら製作業者である[638]。

シアースミス一家は,若い夫婦と数人の小さな子供たちであり,エリザベス・レノルズという名前のお手伝いがいた。一家は喜んでその敬うべき紳士に,前に居間,後ろに寝室のある二階の部屋を,週5シリングで貸した。その協定は当事者のだれにも非常に満足なものとわかり,そのスウェーデンの学者は家族の歓迎すべき一員となった。

ウェルクローズ・スクエアは,町の郊外にある魅力ある地区である。こぎれいな家々があり,それらの多くは新しかった。中心部には,大邸宅と浴場,煉瓦の高い壁で囲まれた庭園があり,その庭園の中には近所の者が名前を付けた泉がある。裕福なロンドン人たちは,その場所を健康保養地として利用した。その「よき冷泉」のすぐれた性質により,その所有者は,他のロンドンの浴場の2倍の料金を課すことができた。そのまわりには数多くの遊園地や宿屋ができ,人々を生き生きとさせ,魅惑する場所となった。上流階級の人々は砂の散歩道を連れ立って歩き,子供たちはそこで遊び,池には小さな舟を浮かべた。スヴェーデンボリは,その公園を散歩し,小さな子供たちには珍しいといった,レーズン,アーモンド,ショウガ入りクッキーを〔子供たちのみやげに〕ポケットに忍び込ませた[639]。

スヴェーデンボリは,数冊の小冊子の出版を手配し,大作『真のキリスト教』を執筆しながら,忙しい夏を過ごした。ストックホルムのように,ここでも,多く訪問者がいた。同国人クリストファー・スプリンガーとの旧交を温め,自分の著作に対するスウェーデンの司教たちの冷淡さを論じた。スプリンガーは,イギリスの司教らの態度が著しく変化したことを報告した。以前訪問したとき,司教らは確かにスヴェーデンボリに対して冷たかったが,2年後に著者が戻って来た今は,スヴェーデンボリを礼儀正しく迎えていることを認めた。この変化の理由を説明してくれよう尋ねたとき,スプリンガーはその友から,「神はご自分の教会が始まるべき時をご存じです」との返事を得た[640]。

しばしば訪れた者は,著名な医者ハズバンド・メシッター博士である。博士は,トマス・ハートリやウィリアム・クックワーズィのように,新しい教えを天界から啓示された真理として受け入れていた。

クックワーズィは,洗練された身のこなし,親切と機知で有名な魅力的な人物であり,そのうえ,厳格なクェーカー派教徒であった。非常に幸福だった10年間の結婚生活の後,妻を失い,自分の娘たちには鉄の棒で君臨した。熱烈で性急な気性であり,「軽薄な感じの服装とか,派手な帽子を見ると,その気性は十分に沸騰点に達した」と言われていた。1760年から1764年の間のいつの頃か,スティーヴン・ペニーからスヴェーデンボリの著作を読んでみるよううながされたが,クックワーズィはそれを開いてはみたが,うんざりして投げ出した。しかしある理由から,もう一度読んでみることにした。この誠実な男に訴えたものは,天界は役立ちの生活であるという新しい概念かまたはイエス・キリストの真の性質についてのスヴェーデンボリの説明であったかもしれない。読めば読むほど,新しい啓示が真理であることを確信するようになった。

そのうち,クックワーズィはノーサンプトンシア州ウィンクックの教区牧師トマス・ハートリを知るようになった。その牧師と新しい教会の教義について長らく文通していた。ハートリは情愛の深い気質の人物であったが,神経質で,社交からは尻込みする傾向があった。この二人の人物は,面と向かって会うまで長い間手紙を交換しており,そこで繰り返されお互いの感情の交換は,心の結合といったものを生んでいた。二人が初めて会ったとき,あたかも古くからの友であったように,お互いの胸の中に飛び込み,その後は,新しい福音を広めるために喜びにあふれた熱意をもって協力して働いた。クックワーズィの気性のすさまじさは,年とともに静まり,派手な小さな帽子も平穏を得て,その気質は柔和で,優しいものとなり,キリスト教徒の寛容の精神が以前の不寛容に取って代わった。「私がかつて知ったうちで,最も分別のある,学問のある,親切な人」と伝記著者が言っている[641]。

ハートリとクックワーズィが最初にスヴェーデンボリを訪問したとき,それは喜ばしいものだった。会談は約2時間続き,訪問者たちは非常な満足を得た。二人はスヴェーデンボリを食事に招待したが,自分の食事がすでに用意してあるからと丁寧に詫びられた。それはパンと牛乳だけの食事であった[642]。

新しい啓示の重要性を確信したハートリとクックワーズィは,直ちにいくつかのスヴェーデンボリの著作を英語に翻訳し始めた。クックワーズィは『生活の教え』を翻訳し,翌年,プリマスで出版した。後には,ハートリの援助と100ポンドの自費で,『天界と地獄』の英語版を出版した[643]。ハートリはその他いろいろな小著を翻訳した。

スヴェーデンボリを訪問した者すべてが,これと同じに愛すべき性質の者たちではなかった。ロバート・ピーコックという名前の紳士は,最近,罪人の牢獄から出てきて,『天界の秘義』第二巻の英語版を友だちのベネディクト・シャスタニエに示した。その友はフランス人の外科医であり,ロンドンに住んでいた。その著者による天使たちとの驚くべき会話は,両人の興味を引きつけ,ドルリーレーン劇場★2の音楽家とともり三人で集まり,スヴェーデンボリを訪問することにした。しかし,シャスタニエは――その物語によれば――仕事によって,約束を果たすことが妨げられた。三人が次に会った時,友にスヴェーデンボリをどう思ったか聞いた。

ピーコックは言った,「天使と霊たちを瓶詰めにしているふりをした馬鹿な年寄りですよ」。

それで,シャスタニエはこれ以上スヴェーデンボリに会おうと試みることをやめたが,その後,これを非常に後悔した。二人の友は,道楽半分で錬金術に手を出し,破滅していたと知っていたので,二人の友は,錬金術について,それがほんとうであるかどうか,スヴェーデンボリに質問したに違いない。「ほんとうであるにしろ,そうでないにしろ,それは技術であって,私はだれにもそれに手を出せとは助言しない」とはねつけられた。自称,金製作人を失望させるには十分な返答だった[644]。

シャスタニエはスヴェーデンボリの熱烈な追随者となり,その著作に関心を持つ読者を集め,最初のグループをつくった。神学著作の多くがその筆によってフランス語に訳された。

他の訪問者に,ドイツ人の詩人ゴットリープ・フリードリヒ・クロプシュトック★3がいた。彼は知人の婦人に強いられてスヴェーデンボリを訪れたのだった。ぶっきらぼうな態度で年老いた見神者に近づき,クロプシュトックは,世を去った自分の友と接触するよう命じた。

これに,スヴェーデンボリは,「国王ご自身が命令を下したとしても,したくない!」と答えた。

クロプシュトックは,スヴェーデンボリが自尊心と高慢で破滅し,自分の高価な四折判の本を購入した者の歓心を買うことができただけだ,と確信し,その交霊占い者に失望して,去ったのだった。

クロプシュトックは,「あの世の友が,王子ででもなければ,スヴェーデンボリ氏は喜んで話そうとしない」と言った。

「あなたが立ち去ればすぐに,私はまた霊の世界と交わりましょう」とスヴェーデンボリは答えた。

 「それなら,さっさと立ち去らないとよくないな」とクロプシュトックは言い返した,「私がいることで,そうしたよい交わりをあなたから奪いたくないからな」[645]。

 歓心を買うために真理を犠牲にして屈服することは,著述家たちにとって試練である。そして,当時の著名な学者スヴェーデンボリを訪問し,そこから長い物語を作ったスウェーデンの著者の場合もそうであったらしい。その名前はフィンランド出身のヘンリク・ガブリエル・ポルターン★4である。ポルターンは,霊が見えることについては,むしろ懐疑的であったが,それでも好奇心から,その名高いスウェーデン人を訪問することにした。スヴェーデンボリには他の訪問者がいたので,控えの間で待つように言われ,ポルターンは,古代ローマ人たちを話題としたラテン語での活発な会話を聞かされ,その間中,ただ一つの声だけが聞こえた。ついにドアが開けられ,スヴェーデンボリが現われ,お辞儀をし,目に見えない立ち去る客に丁寧な挨拶をした。それから,ポルターンに迎え,待たしてしまったことを詫び,「詩人ウェルギリウス★5を歓待していました。突然の訪問でした。私に長く眠っていた,青春の頃の愛情を注いだ詩への熱狂を目覚めさせられました」と言った[646]。

せんさく好きな同国人J・H・リデンは,ついにロンドンでスヴェーデンボリをつかまえた――アムステルダムとパリで会いそこなった後である。1769年8月8日の手紙で,リデンはオックスフォードへ旅し,乗合馬車では,別れる時はだれからもキスを要求した婦人と一緒であったが,「年取った哲学者に会うためとはいえ,年配のご婦人とかわいくて若い女性とではキスにちょいとばかり違いがある!」と述べている。「黙示録の歴史家」との会談を記している。そこでは,年老いた見神者を喜んで訪問し,それから,その見神者のばかばかしさをどれほど笑ったか告げている。リデンは神学の問題を論じるためによくスヴェーデンボリを訪問し,ときどきは公道でも会っている。しかし,宗教についての新しい概念は,リデンの頭にすでによく詰まっていた文字どおりに解釈することによって,そこに浸透するは妨げられた。リデンの得た印象は,全般的に,次の記事から示されるように,むしろ不注意さ報じている――

その年老いた紳士は,都から遠く離れた郊外に,ほとんどだれとも交わらないで住んでいる。いくらか無精なようだ……。神の偉大な預 言者であると実際に自認しているが,つまらないけちんぼであり,それは個人的な欠点というもよりむしろ老齢による欠点であった。その老人はロンドン滞在中に最近出版した本全部を見せてくれた……。人はそれを読んでも確かに泣くことはない[647]。

私たちは知っているが,スヴェーデンボリは世捨て人でなかった,そして,自分の著作を預言書ではなく啓示の書として述べているという事実には豊富な証言がある。私たちは,著作の初版を得たリデンが,その返礼に,スヴェーデンボリにどれほどの贈り物をしたか,疑ってしまう。こざっぱりとしたスヴェーデンボリをリデンが見逃したことも,これについても,証言は一致しない。シアースミスは,その下宿人が白い線はいったビロードの服,銀の柄の剣,白いラッフル★6とステッキ姿で,きちんとして現われたことを認め,記している[648]。

9月10日,リデンがスウェーデン教会で客人として説教したとき,スヴェーデンボリはその聴衆の間にいた。ときどき礼拝に参列し,その後,聖職者や他の友と食事する習慣であった。しかし,「教会の中では,聖職者の言うことに反している霊のために自分には平和がない,特に聖職者が神性の三人格を取り扱うときである,それは三人の神がいるのと同じことである」と宣言している。

スヴェーデンボリがリデンと食事をした時,リデンは機嫌がよく,楽しさでいっぱいだった。「私は高く尊敬し,愛している」とその学問ある博士は書いた,しかし「この驚くべき人物との会話を通して,私はヴォルテールが,極めて適切にも言ったこと――『熱狂者から得るものは何もない。人は,妻の欠点を他人に,また自分の愚かさを弁護人に告げてはならない。また他人を啓発しようとして理屈を語ってもならない』[649]――これを確信するようになった」

フェレリウスは言っている――

ある者はスヴェーデンボリ監査官を風変わりで気まぐれな者と思うかもしれないが,しかしこれとまったく正反対である。人前では非常に気さくな愉快な人物であり,持ち上がったあらゆる話題について,仲間の考えに自分を合わせて語り,尋ねられないかぎり,決して自分の見解を述べない。しかし,誰かが自分をからかおうとして,無礼な質問をしていると認めるとき,直ちに,質問者が,それについてもっと賢くないなら,黙ることを余儀なくさせられるような返答をした[650]。

アーヴィド・フェレリウス師は,ヴェストロゴティア出身で,スカラのギムナジウム〔高等学校〕に通い,1761年以来,プリンセズスクエアにあるスウェーデン教会の牧師である43歳の人物であった。上記の報告は,同師の手紙の中に書かれたスヴェーデンボリについての証言から得ている。師は神学著作の肯定的読者だった。それと比べて,師の補助牧師アーロン・マセシウス師は,同じくその著作を贈られたが,決して読もうとしなかった。

フィンランド生まれで,25人の子供の最も年下であり,フィレリウスより十歳ほど若かったマセシウスは,その先輩の見解に強く敵対し,後にロンドンの礼拝堂を乗っ取り,受け継いだが。最後には発狂し,会衆によりその職を解かれた[651]。マセシウスは,スヴェーデンボリに対する中傷的な非難の発起人であり,これをその死後に広めたのであった。

フェレリウスはスヴェーデンボリの著作の熱心な研究者であったことの豊かな証拠があるが,彼自身は,生きている限り,自分の名前を除くよう要求して,公には決して新しい教会への忠実な支持を認めなかった。しかし,三人の娘のだれもが,スウェーデンでのスヴェーデンボリ信奉者たちの運動の指導者と結婚した,この事実そのものがそのことを語っている。フェレリウスの妻は,夫の生地ヴェストロゴティアの出身で,二人の結婚はロンドンへ向かう船の中で行なわれた[652]。

* * * * *

スヴェーデンボリの発行した『霊魂と肉体の交流』についての小著は,ある者によって,当時,哲学者カントへ約束した答えと考えられている[653]。カントは科学と宗教における確実な基盤に到達しようとしたが,その試みはまったく要領を得ない,混乱したものだった。霊魂と肉体の関係について,スヴェーデンボリがこの小さな冊子で述べたような説明は,すこぶる単純であった。それは,霊魂と肉体がどのように結合して働くかについて,その見解には三つの可能性しかない,というものである。第一のものは,感覚が思考の中に流れ込み,思考を生み出しているという誤った仮定に基づいたものであり,これを“物質的な流入”と呼んでいる。第二のものは,“霊的な流入”と呼ばれ,霊魂を,肉体よりも純粋でさらに内的なもの,粗雑でさらに外的なものである肉体の中に秩序だった法則によって流れ込むものと見なすものである。第三の見解は,二つの間に“予定された調和”があるというものである。「霊魂が肉体に,または肉体が霊魂に働きかけるか,または両者が連続的に一緒に働かなければならない」ことを考慮するとき,霊魂と肉体の間の交流は構築されえないので,第四の見解は存在しない。

議論は次の言明で閉じられている――

霊的な流入は,これまで,それを取り扱った者により,霊魂から肉体の中へと進むものであって,神から霊魂の中へ,それから肉体の中へ進むものではなかった。……。今や私は霊界と同時に自然界にいることが授けられたので,良心により,私にはそれらの事実を伝える責務がある。知識を伝えることなしに知識を所有することに何の役立ちがあろうか? ……それは実際に,霊的な貪欲である。★7

記憶すべき説話★8の中で,スヴェーデンボリは,三人の哲学者――アリストテレス,デカルト,ライプニッツ――の弟子たちの霊界での集会を記している。提出された霊魂と肉体の間の交流について三つの見解に関する多くの口論とさまざまな意見の後,彼らは論争をくじによって決着をつけることにした。くじは「霊的な流入」(デカルトの見解)に当たり,彼らは全員,それが最初に出て来たのだから,それを甘受することに同意した。しかし,突然,天使が現われて彼らに,それは偶然に出て来たのでなく,摂理によるのである,真理がそのクジを引いた者の手に与えたのである,と知らせた。

* * * * *

1769年の夏,スヴェーデンボリがイギリスに旅行した特別な目的は,英語版『簡単な解説』★9の頒布を手配するためであった。実用的なイギリス人がラテン語の論文を読むことに時間を費やすことは期待できなかった,それで,この重要で予備的なメッセージを伝えるため,スヴェーデンボリは翻訳者を雇った――おそらく,ずっと以前に『天界の秘義』第二巻を英語に翻訳したジョン・マーチャントであろう。その冊子はジョン・ルイスの後継者によって印刷された。

メシッター博士はその英語版を頒布してスヴェーデンボリを助けた。エディンバラ,グラスゴー,アバディーン大学の神学のいろいろな博士の関心を引くために書かれた,その本を推薦するみごとな手紙は,それらの教授がその著作を読む前に書いた,その紳士たちの丁寧な返事とともに保存されている[654]。

メシッター博士とともにスヴェーデンボリを訪れたウィンウィックの教区牧師トマス・ハートリの返事は非常に異なっていた。非常に感動して家に帰ってから,スヴェーデンボリに自分の感謝の念と驚嘆を表明する長い手紙を書いた。重要な結果を生むことになる手紙である。それは――

最も尊敬すべき愛すべき方よ,私は自分を大いなる恩恵を得た者と感じます。そして最近,あなたが私にくださった名誉を,あなたとお話しできたことを,さらにまた,あなたが非常に親切に,そうした恩恵に値しない私を友として迎えてくださったことを心の底から喜んでおります。……最上の人よ,私があなたとの交わりによって,国王からの懇意以上のものを勝ち得たと思っていることを信じてください。なぜなら,この世にいる間,王たちと交わっていても,正気の人間なら,天界の住民たちと喜んで交わらないでしょうか? しかし,この世の大いなる者たちに隠されている事柄は,卑下する人たちに明らかにされたのです。

あなたとお話しするとき,あらゆる褒め言葉は慎まなければなりません。あなたへの褒め言葉にどれほど根拠があるにしても,それがどれほど偉大で,驚くべきことであっても,あらゆる事柄をあなたでなく,主へ帰します,そして私はあなたを,慈悲と大いなる愛であられる主の,ただの道具と見なさなくてはなりません! しかし,名誉と栄光をその道具に捧げることを許してください――なぜなら,これは主の喜ばれることですから。また,神の摂理によって,私があなたの著作を入手でき,私は非常に恵まれた者であると思っていることを,心に溢れる感謝の念から,あなたに告げることを許してください。あなたの著作からは,生きている泉のように,私を教え養うための多くの事柄が,同じく非常な喜びがわき出ています。そしてそれらによって,非常に多くの恐れから,また非常に多くの誤り,疑い,私の心を当惑させ束縛する意見から開放されました。それで私はときどき自分が天使たちの間にいるのではないかと思えることがあります。最高の存在であられる主よ,私が空しくて早まった望みで自分を欺くことを許してください。あらゆる悪を避け,あらゆる善を行なおうと切望するよう,常に卑下と悔い改めの状態に保ってください,そうして,私が安全で幸せに,私たちに定められた主イエス・キリストのもとにある目的地に達しますように[655]。

そのとき,ハートリはスヴェーデンボリに神学上のいくつかの質問をしており,それらはその文通の中で答えられている。そして後に,次の題名で出版された――『トマス・ハートリによって提出された三一性についての九つの質問』[656]。

それから,返事で,スヴェーデンボリ自身に自分の生涯の簡単な記事を書き留める気にならせたことを示唆している――

万一,あなたがイギリスを去った後で,編集者のメシッター博士かまたは私,あるいは私たち二人が,あなたの著作を守るために公けに説明を求められたり,また同じく,あなたの評判を傷つけよう願っている悪意ある中傷者の――真理を憎む癖のあるやからです――うそ八百のわなから,著者であるあなたを擁護する機会が起こるといけないので,そうした中傷を追い払うために,そしてそれが中傷の創作者自身にはね返るように,大学での学位,委任された職務,友だちや親戚,また私のお聞きした,あなたに授与された名誉,あなたのよき性格を示すに役立ちそうなもの,その他,何についてでも,悪質な偏見が除かれるために,あなたご自身についての詳細をいくつか,私たちに残しておくことは,あなたにとってよいことと思います。なぜなら,真理が傷付けられないように,すべての正当な手段を用いることは私たちの義務だからです。

次に,万一,あなたがスウェーデンに帰られた後で,あなたの宗教のために,聖職者たちによって,迫害が起こったなら――これを神が防いでくださいますように――そのときは,イギリスへお戻りください,ここなら安全に暮らせます。メシッター博士と私が,あなたのために,町中にでも田舎にでも,住みよく生活するためのすべてのものを供えることのできる適当な場所と家を用意いたしましょう。このことは私たちにとって迷惑なことではありません,それどころか最大の喜びを与えてくれるものとなるでしょう。

私はあなたの好意と愛情にひきつけられました。それであなたは今もまたこれからも常に,私の教師であり,最も特別な友であります。まったき尊敬をもって,あなたから大なる親切を受けているしもべ,トマス・ハートリより。(ケント州★10メードストン★11近郊,イーストマリング,1769年8月2日)[657]。

9月の初め,スウェーデンへの船出の前,スヴェーデンボリは『トマス・ハートリへの親しい返事』を書き送った。その聖職者はこれを『霊魂と肉体の交流』の英訳版の中に収めて出版したが,その題名は聞こえのよいように“霊魂の性質について神智学上の労作”と訳された★12。その冊子にはハートリが苦心して作り上げた序文がある――

アモス預言書に,「まことに,主はご自分の秘密を,ご自分のしもべ,預言者たちに啓示しないでは,何事もなされない」★13と言われている。主はこれを昔になされた,そして,変化に富まれた神であられる主は同じことを最近でも行なわれないのか? もはや主は伝達なさらないのか,それともそのしもべはもう親愛でなくなったのか? ……主は,平和のメッセージとともに,啓示を受けた見神者を送られないのか? また,見てきた地はよい土地であると証言し,そこの果実のふさを持ってきて,上って行ってそこを占有しようとする勇気を 与えるため,カレブ★14を送り,ご自分の民を慰められないのか? ……主は,尊敬すべきエマヌエル・スヴェーデンボリその人と,その著作の中で,これをなされた。氏はこの過去25年間,霊界への目が開かれ,その恵みは同じく今もなお,数多くの好奇心をそそる〔霊界の〕同胞と交わり,不思議で有益な発見は続いている……[658]。

ハートリの心温まる感謝の手紙に,スヴェーデンボリは答えた――[659]

あなたが手紙の中で示してくださった友情を私は大いに喜びます。
 また,ご両人に,それでも,特にあなたの友情に心から感謝いたします。圧倒されそうな称賛ですが,私の著作に含まれている真理へのあなたの愛の表われとして,単純に受け止めましょう。そうして,私はそれらの称賛を,真理の源としての,私たちの救い主,主へ帰しましょう。その方から真なるあらゆるものがやって来ます,なぜなら,その方は真理そのものであられるからです,ヨハネ14:6。

また,ハートリが自分の生涯や公の身分などについてメシッター博士とハートリ自身に,詳細を残すよう示唆したことに触れて,述べている――「私は,このことについて熟慮の末,あなたからの好意ある助言に従うことにしました。それで,今,私の生涯についてのいくつかの詳細をあなたにお伝えしましょう……」。それからその手紙には“付録F”〔下記に掲載〕に見られる自叙伝の梗概が続いている。父親の地位,自分自身の旅行,鉱山局での仕事,貴族となったことや鉱物学の著作を述べてから,話を自分の著名な親戚や司教関係者を数え上げることに進め,そして言っている――

数で10名の私の国の司教たちは,また職務上の16名の評議員そして残りの高官はすべて,私に対し好意ある感情を抱いています。……国王,女王,三人の王子,その子たちですら,私に非常な恩恵を賜ってくださいます。……それで,あなたが手紙の中で非常に親切にも,私への迫害の恐れから,いろいろと用意しましょうという思いに反して,私の国では,そうした危惧からはほど遠いのです。また,もしどこかで,私を迫害しようとしても,私に危害を加えることはできません。

あなたが,お手紙の中で「悪意を抱いた偏見が取り除かれるように」と言われたので,これらの詳細をすべて書くことにしました。さようなら。この世でもあの世でも,あなたが大いに祝福されることを心から願っています。もし,あなたが主を仰ぎ,主に祈られるなら,私はあなたが祝福を得られることを少しも疑っておりません。

* * * * *

スヴェーデンボリが出発する頃の1769年9月の初め,干し草の詰め込まれた小さなかごがメシッター博士のところに運ばれた。かごの中には,『白い馬についての論文への付録』と題された,スヴェーデンボリの直筆による一枚の紙できっちりと包んだ原稿があった[660]。それは“馬”(Equus)という言葉について聖書から多くの箇所を引用し,その霊的意味は知性であると解説したのを含んでいた,そこには続いて――

エジプトには象形文字があったことはよく知られており,それらは神殿の柱や壁に刻まれています。そして今日では,だれもそれらの意味することを知りません。……それらは対応以外の何ものでもなく,……最古代の文体はこれと他なりません。

 ……古代人にとって,この対応の知識★15は知識中の知識であって……あなたの団体からだれかがこの知識に専心することは重要な問題です。そのことは,特に『啓示された黙示録』の中で明らかにされた対応からなされうるでしょう……。

ハートリ氏は,この文章を象形文字の研究に言及していると理解して,メシッター博士に書いた,

「“あなたの団体のだれか(aliquis e vestra Societate)”によって,確かにこれは,あなたかまたは私を,または両方を意味していると思います。したがって,私はこの仕事であなたに加わる用意があります。私たちに託されたようなので,私は全力を尽くしましょう……」。氏は自分たちで「象形文字を学ぶ上で,いつかの有益な本を選び出そう」と誘った(ケント州近郊,メードストン,1769年9月17日)。

しかし,スヴェーデンボリの意味したものは,象形文字ではなく,対応の知識であった。このことは,その論文の終わりの言葉からから明らかである――「もし望まれるなら,私はエジプトの象形文字を解き明かしましょう,それは対応以外の何ものでもなく,それを出版することは,他の者にはできないことです」。ハートリとスヴェーデンボリが1年後に会ったとき,この主題について何か言われたかについては,何の記録もない。


脚注・原注・訳注

〔原注〕
626 Summari Expositio Doctrinae Novae Ecclesiae, quae per Novam Hierosolymam in Apocalypsi intelligitur, ab Emanuele Swedenborg,Sueco(黙示録の中の新しいエルサレムと見なされる,新しい教会の教義の簡潔な解説),アムステルダム,1769年。〔同書の〕91-4番とバイエルへの手紙,ターフェルⅡ,273-6参照。
627 バイエルへの手紙,ターフェルⅡ,275-6。
628 この銘は,ストックホルムの科学アカデミーにあるスヴェーデンボリの手紙原稿集コーデックス47に含まれている『新しい教会の教会史』と題する一枚の原稿用紙に書かれている。ターフェルⅡ,757 。
629 この後に,スヴェーデンボリの直筆ではない『天界の秘義』からのある箇所が引用されているが,おそらく,以前の所有者によって付け加えられたものであろう。
630 『簡単な解説』の序文,原注626参照。
631 ターフェルⅡ,275-6。
632 ターフェルⅡ,1005,1008。
633 ターフェルⅡ,701。
634 ターフェルⅡ,309。実際には,多くの本がパリから発行された。書籍販売業者を通して,アムステルダムへ,そこで見つかるすべての本を買い上げるよう使いが送られた。参考文献省略。
635 『ニューチャーチライフ』1969年,426-30ページ。
636 ターフェルⅡ,722-3。参考文献省略,スヴェーデンボリについてのその記事は,スヴェーデンボリの財源について,いくらかの奇異な誤解を持った,エリー・アリステという人が彼に会ったことを示している。
637 ターフェルⅡ,276 ;『ニューチャーチライフ』1969年,427ページ。
638 シアースミスは,「スヴェーデンボリはカー夫人のところから私のところに来た。彼女のところには,1744年にブロックマーのところを去って後,下宿していた」と言っている。彼は“1746年に”と言っているが,これは明らかに間違いである。『ニューチャーチマガジン』(ロンドン,月刊誌)1885年,参照。原注534参照。
639 参考文献省略,ジョージ・トロブリッジ『エマヌエル・スヴェーデンボリの生涯』ロンドン,1913年,295-7ページ。『ニューチャーチマガジン』1885年8月号参照。
640 ターフェルⅡ,532。
641 ターフェルⅡ,1170。
642 ターフェルⅡ,1061;Ⅰ,600;Ⅱ539;『ニューチャーチライフ』1895年,86,90ページ。スヴェーデンボリが菜食主義者であったかについての問題は広く論議されている。シアースミスは,「彼は決して肉を食べなかった」と言っている。エリザベス・レノルズは,「彼はウナギ料理を,またときどきはハト肉入りパイを味わった」と述べている。『ニューチャーチライフ』1911年,45-6ページ参照。
643 ターフェルⅡ,996;514。
644 ベネディクト・シャスタニエ『暗愚の世界への助言の言葉』ロンドン,1795年,22ページ。シャスタニエは,新教会の考えに基づく一種のフリーメーソンの支部であるフランス人の「天啓を受けた神知学」という団体を形成した。ターフェルⅡ,1176。
645 ターフェルⅡ,697-9。この事件はおそらくデンマークで起こった。
646 ターフェルⅡ,717-22;1250。この逸話はほんとうか怪しい。(他の文献よれば)ポルターンは,存命中のスヴェーデンボリを見るために7年後の1779年にイギリスへ旅している。
647 『ニューチャーチライフ』1916年,424 ページ以降,「スヴェーデンボリに関わる新しい文書」参照。
648 前掲書,428,424-33ページ。『クノー』7,92,93,94ページ;ターフェルⅡ,516;Ⅰ,32,no.3;53。
649 フランス語による原文省略。(1722年頃,南フランスで設立された宗派☆)
(☆)この文はこの出所,または“熱狂者”の説明と思える。
650 ターフェルⅡ,556-61。
651 ターフェルⅠ,701-55;394。
652 『ニューチャーチライフ』1938年,304-9ページ,オドナー・シグシテッドによる「スウェーデンでの初期の新教会の家族」参照。
653 De Commericio Animae et Corporis,…(霊魂と肉体の交流),ロンドン,1769年。1,19,20番参照。ターフェルⅡ,1009。
654 ターフェルⅡ,552ページ以降。
655 ターフェルⅠ,3-5。
656 Quaestiones Novem de Trinitate…(三一性についての九つの質問),R・ハインドマーシュによって,1775年にロンドンで出版された。
657 ターフェルⅠ,5。
658 ターフェルⅡ,500ページ以降。
659 ターフェルⅠ,6-9。
660 スヴェーデンボリからハートリに送られ,それからおそらくハートリからメシッターに与えられたその原稿は失われている。『新エルサレムマガジン』ボストン,1640年,566-7ページ。しかし,おそらく最初の草稿であろうスヴェーデンボリの手によるその写しはストックホルムの王立図書館にある。それはおそらく,スヴェーデンボリの死後,ホルンスガータンの彼の住居に残されていた原稿の中から見つかったものであろう。こうして,ラルス・ベンセルシェルナ司教が所有したが,彼の娘を通して,その夫フォン‐エンゲストレーム伯爵の所有となり,その後,彼の蔵書は王立図書館に寄贈された。以前は,この『白い馬についての論文への付録』は,スヴェーデンボリから贈られたあるスウェーデンの歴史家がスウェーデン科学アカデミーへ寄贈した,と考えられてきた。しかし,アルフレッド・アクトン博士が,彼の記事「スヴェーデンボリとエジプトの象形文字」(『ニューチャーチライフ』1935年,396ページ以降)の中で,『白い馬についての付録』のこの写しの中で,スヴェーデンボリが vestra academia(あなたがたのアカデミー)という言葉を用い,これを彼は後から vestra societas(あなたがたの団体)に変えた,という事実から立論して,そのことが誤りであることを決定的に示した。スヴェーデンボリ自身が科学アカデミーの会員だったので,もし,彼らのためを意図していたなら,これを,nostro(私たちの)アカデミーと書いたのではないだろうか? さらにこれが事実である可能性として,科学アカデミーによってそれが受け取られたとの記録がどこにもない。そのラテン語版は図書館員クレミングの編集によって,『スヴェーデンボリの夢』☆1の中の73-7ページに収録され,出版された,ストックホルム,1859年。英訳はターフェルⅡ,751-5 。『エジプトに存在した対応』について私たちに知られているただ一つの作品は,スヴェーデンボリの死のずっと前に書かれたものである☆2,(出典省略)。
(☆1)『夢日記』である。
(☆2)スヴェーデンボリは『白い馬についての付録』の中で(ハートリ氏が望むなら)「エジプトの象形文字の意味を解き明かそう」と記述しており,そのことに触れて述べた注釈である。また“ずっと前に書かれたもの”とは1744年の『象形文字の鍵』『対応と表象』を指しているようである。

〔訳注〕
★1 実際には,最後の章ではなく「付録」である。
★2 ロンドン中央部にある17世紀以来の歴史をもつ王立劇場。
★3 Freidrich Gottlieb Klopstock(1724-1803);ドイツの詩人。
★4 Henrik Gabriel Porthan(1739-1804);フィンランドの哲学者,文学者,歴史か。ヴォルフ哲学の移入者。フィンランドの民族詩,民族,言語,歴史の研究を開拓。
★5 Publius Vergilius Maro(70-19B.C.);ローマ第一の詩人。叙事詩『アイネーイス』。
★6 ひだ飾り:特に首や手首の部分の服を装飾するため,ひだ織りにした上等な布の帯。
★7 同書18番。
★8 同書19番の“メモラビリア”である。
★9 この英語版は,ラテン語版(アムステルダム,1769年)のすぐ後に出版された。
★10 イングランド東南部の州。
★11 ケント州の州都,人口7万。
★12 A Theosophic Lucubration on the Nature of Influx, as it respects the Communication and Operations of Soul and Body, Translated and annotated by T. Hartley, London: M. Lewis, 1770。
すなわち,ハートリはその英訳版を1770年(原典出版の翌年)に翻訳し,注をつけて出版した。
★13 「アモス書」3:7。
★14 「民数記」13,14 章参照。モーセはカナンの地に入る前に,カレブらにその地を偵察させた。
★15 従来,“科学(science)”と訳しているが,“知識”の訳語がよい。

〔研究誌『荒野』第56号,2000年11月〕