Swedenborg’s Preparation

スヴェーデンボリの準備

     

議長および聴衆の皆さま――
 議長が述べられましたように、私たちはともに『天界の秘義』の出版200年を記念して祝うために集まりました〔訳注:スヴェーデンボリは『天界の秘義(Arcana Coelestia)』を1749年(61歳)から1755年(67歳)にかけて、印刷、出版した〕。スヴェーデンボリは1748年11月に、この都〔ロンドン〕の中心からそれほど遠くない場所でこの著作を書き始め、翌年の夏に出版しました。この出版は3年前に起った出来事の頂点となったものです。1745年〔57歳〕の4月に、主がスヴェーデンボリに現われて、「あなたは聖言(みことば)の霊的な意味と霊界の性質とをキリスト教世界に明らかに示すために、わたしのしもべとならなくてはならない」と命じられ、そのために彼は自然界にいると同時に霊界に入るのを許されることになりました。

 これまで自分が啓示を受けた者であると主張した多くの者がいますが、しかしその者たちのすべては、もしそうでなければ、その大部分の者は、その啓示をある種の口授によって受けたのであり、彼らは受けるとすぐさまその使命を宣言し、その啓示と称するものを公表しました。この点でスヴェーデンボリは独特でした――なぜなら主の再臨を記した著作の最初のものを書くために彼が筆を執ったのは、主に召された時から3年後だったからです。その3年の間、彼は懸命に努力しました。数千ページもの原稿を書き、聖書を何度も読みに読み、霊界での体験を記録し、その索引をつくりました。またヘブル語を学び、これを習得しました。この3年間は、啓示者としてスヴェーデンボリが自分の使命のために準備した最後の段階でした。こうした準備は口授による啓示には必要ではなかったでしょう、しかし理性的な啓示のためには、欠くことのできないものでした。

 この3年問のきびしい勉学はスヴェーデンボリの準備における最終段階であったと、今、述べましたが、しかしこれに先立って科学と哲学の分野で長い年月をかけた準備がありました。なぜなら今や新しい教会に与えられた啓示は、理性的な言葉を着せられ、哲学と科学の真理によって確認された霊的な真理の啓示であり、こうした啓示は、真の科学と理性的な哲学とによって理解力が形成されてきた人間によらなければ、与えられることはできなかったからです。

 私がこの夕方、皆さまにお話ししたいことは、スヴェーデンボリが1745年〔57歳〕の4月に主から受けた使命に先立つこの早期からの準備についてです。では、このことについてスヴェーデンボリ自身が言っていることを聞いてみましょう――「人生での行動によって霊的に表象されている事柄は、これが神メシアのみこころでなければ、その人間自身に知られるようになることはない。ときとして、それは長い時を経てから起こり、私の場合もそうであった……。当時、私は自分の人生での行動が含むものを知らなかった、しかし後になって、その中のいくつかについて、いや、多くのものについて教えられた。そしてこのことからついに私は次のことをはっきりと知ることができた。私の人生での行動は、私のまさに幼い時から神の摂理の摂理による行路が定められ、最後に現在の結末へとやって来るように、すなわち、こうして自然界の物事の知識を手段として、神メシアの聖言(みことば)の内部に横たわっている事柄を理解することができ、こうして……その内的なものを解き明かす器として仕えるように、その摂理に支配されてきたのである(脚注:『聖言の講解(The Word Explained)』2532番)。私が論じたいのはこの準備についてです。

 しかし最初に、スヴェーデンボリの健康について話しましょう。生涯の全期間にわたって骨の折れる仕事に携わる人間は特に健康に恵まれることが必要です。彼の父は82歳まで、彼自身は84歳になるまで生きました。彼は、たくましい種族、ダルカールリア人、鉱山関係の家系、スウェーデンの地で最も健康な血統の一つからの出身でした。彼の祖父は大事業家であり、彼の父は強健な健康に恵まれた人でした。スヴェーデンボリが健康でなかったなら、おそらくその仕事を果たすことはできず、疲労を伴う多くの旅行にもでかけることはできなかったでしょう。全生涯で、たった二度の病気が記録されています、一つは彼が25歳のときパリにいたとき、もう一つは死の少し前、ロンドンにいたときです。

 先祖のダルカールリア人にさかのぼることのできる他の特徴は、彼の思考の独自性です。スウェーデンの歴史上、ダルカールリア人は旺盛な独立心で有名でした。あるスウェーデン人の著者の言葉に、「冷たい空の下で生活し、報われない土地を耕すダルカールリア人は、生きるための収穫を得ている固い岩により、自由で強い魂を、独立心を、誠実な心を与えられた。また自分を自ら道を切り開く人間とし、その振る舞いでは恥を知り、行為においては豪胆、恐怖を知らぬ者、専制的な権力にはひたすら反抗した」とあります(脚注:引用文献名省略)。15世紀の中ごろ、民衆を導いて、デンマーク人の暴政に反抗し、デンマークの軛を打ち砕いた者はダルカールリア人のエンゲルブレヒト(Engelbrecht)でした。スウェーデンの歴史で、ダルカールリア人は、彼らの自由が脅かされるとき、常にこれに反抗して立ち上ったのです。

 スヴェーデンボリにとって、この恐れを知らぬことと独立心という遺産を受け継ぐことが必要でした。なぜなら、彼が著述活動に携わった初めのうち、その深遠な学問のために同時代の人々に賞賛され、その著作はヨーロッパの学界誌によって広く論評されましたが、それでも彼が霊魂と肉体の中でのその働きについての学説を、それに関連させて段階と対応についての学説を展開させたとき、その名声は傷ついたからです。彼を理解することのできない論評家たちは、その学説を愚かなつまらないものとしました。スヴェーデンボリは学者として評価が下がってしまうことに十分気づいていました。その評論を読んだからです。それでも彼は執筆し、出版し続け、著作の中に、不評と冷笑をもって論評されるであろうとわかっているまさにその学説を展開し続けたのです。「私が奇妙な事柄を述べることを、私は知っている。しかし、それは問題とならない、それが真実であるから」と、彼は未刊の著作の一つで述べています(脚注:『繊維』520番)。スヴェーデンボリのような大望を抱いた人間がこのように自分の名声が損なわれることに直面するには深い確信だけでなく、勇気と独立心もまた要求されます。スヴェーデンボリはその両方のものを持っていました。

 スヴェーデンボリが鉱山関係の家族の出身であり、その研究を自然の究極の物界である鉱物界の探求をもって始めたこともまた意味のあることです。

 スヴェーデンボリは深く宗教的な家族の出身でもあり、その初期は敬虔な真のキリスト教の家庭で過ごしました。彼の父は敬虔な人でした――信心くさいという悪い意味での敬虔ではなく、真のキリスト教徒の性格は十戒に従うことにあると信じているという意味での敬虔です。彼はビールやゲームも楽しみましたが、なによりも仁愛の教義を説き、またそれを守りました。彼は教義的な神学には我慢がならず、聖書と教会とはただ心を清めるためにだけ存在する、との見解を持ちました。スウェーデンのルター派の教会が、他の国々の教会と共通に、ますます形式的なものとなったとき、聖職者たちが生活の善をほとんど顧みず、彼らの中の学のある者たちが教義の神学に最大の関心を寄せていたとき、スヴェードベリ司教の説教と著作は全面的に神の聖言に服従する教えに献げられました。彼は自叙伝で、「言葉上の神学は私には決して喜びを与えたことはなく、実際の神学を喜んだ」と言っています。またその自叙伝の初めのほうに、「私はかつて議論がましい著作には少しの好感も抱いたことはなく、この上もない反感しか抱かなかった」と、言明しています。彼の説教は常に単純な日常の言葉でなされ、聖書からの効果的な引用で満ちていました。

 私たちが、スヴェーデンボリの父が「口先の神学」に対して抱いた嫌悪を、この自由にものを語る司教が決して飽きることなく口にした嫌忌を考えるとき、その後何年もしてからスヴェーデンボリがバイエル博士に宛てた手紙の中で書いた言葉の中に、私たちはさらに付け加えられた意義を見いだします。その言葉とは次のものです――「天界が私に開かれる前に、私は教義上の神学についての著作を読むことを禁じられました。なぜなら、そのことによりたやすく根拠のない意見や作り事がいつの間にか入り込み、後からでは、それをとり除くことが困難であったろうからです(脚注:1767年2月。『スヴェーデンボリに関する文書』U 260)

 スヴェードベリ司教は信仰のみの教義もまた敵と定め、その教義をヒエルタトロ(hiertatro) に対照してヒエルネトロ(hiernetro) と呼びました(脚注:「頭の信仰と心の信仰」)――これは頭脳という意味のヒエルネ(hierne)と、心臓という意味のヒエルタ(hierta)の言葉遊びです。「この憎むべき信仰が今やキリスト教国のあらゆる場所を、とくにルター派と呼ばれている者らを支配している」(脚注:引用文献名略)と、彼は言っています。「もし人が一年の定まった時に教会に行き、聖餐に与るなら、あらゆる種類の肉体的な罪の中に生きる生活をしていても、他に何も必要ではない。信仰のみ、大いなる信仰がすべてを成し遂げてくれる。彼らに向って、あなたたちは善良なルター派の信者であり、キリスト教徒であり、疑いもなく祝福される、と言い、これ以外のことを言う者はだれもいない。大きな集会の中には数百人のルーテル派の信者がおり、大きな都会に数千人の者がおり、全ルター派の世界の中には無教の者がいる。その中のだれかのもとへ行って、さよう、実際、その中の一人ひとりの者のもとへ行って、『あなたは自分自身が救われていると考えていますか』と尋ねてみられよ。『もちろん。私には信仰があります』〔と答えるだろう〕」(脚注:同前書)

 スヴェードベリ司教は、ルター〔訳注:原文はパウロであるが、文脈からはルターである〕が「人間は信仰のみにより義とされる〔「ローマ人への手紙」3:28〕と、自分の訳の中に「のみ」という言葉を捜入したことで彼を非難し、「のみ」という言葉はギリシャ語の原文の中にはないことを指摘しました。ルターがその言葉を捜入したので「私たちと教皇絶対主義者たちとの間に終わりのない言葉上の論争が起った」と、彼は論じ続けています(脚注:同前書)。スヴェーデンボリもまた、彼の著作の一つの中で、同じ非難の言葉を発して、言っています――「私は、ルターがその生涯において自分自身から「のみ」という言葉を付け加えたときに犯した罪よりもさらに大きな罪は決して犯さなかった、と信じる(脚注:『信仰と神の働き』3番(『心理学論文集』12ページ))

 スヴェードベリ司教は、若者たちを教義上の神学の中で訓練するよりも、キリスト教徒としての生活の中で訓練することに、子供たちの教育に関心を持ち、特にその意志の訓練には特別な関心を持ちました。「学校は、初等のものも、高等のものも、理解力に教えることに注意のすべてを向けている。しかし、意志が砕かれ、たわめられ、矯正され、悪から善へ向けられなくてはならない――見よ、だれもそのことに留意していない」(脚注:文献名略)と、彼は言っています。

 さらに、彼は三人格[三位]の考えを退けました――すなわち、三人の互いに明確に区別される位格の中に一人の神が存在するという考えです。彼は書いています。「人間は再び神と結合し、神は人間と結合されることを、神は永遠から定められた。神は人間〔イエス〕となられ、その二つの性質はともに結びつき、そこから一つの位格となられた」(脚注:同前書)。さらに彼は書いています。「キリストは一人格[一位]における神と人であられる」(脚注:同前書)。ここで私たちは、スヴェーデンボリがその公刊した最後の著作の中に記した言葉(脚注:『真のキリスト教』16番)の中に意義を見いだします――「私は幼い頃から一人の神という考え以外の考えはどんなものも心に入れることができなかった

 司教スヴェードベリは息子エマヌエルが7歳半のときの1696年にウプサラを離れましたが、息子はその後の10年間、休日を除いてウプサラで勉学を続け、学識ある義理の兄エーリク・ベンセリウスの家庭で過ごしました。しかし、父の家に住んでいた初期の子供時代の年月の間に、仁愛の生活の考えと、主イエス・キリストは神がその中に啓示されている一つの位格であられるという考えは彼の心に深く刻まれてきたに違いありません。それでスヴェーデンボリが1769年〔81歳〕にバイエル博士へ書き送った手紙(脚注:1769年11月14日(『文書』U 279))の中の「最初の若い頃」についての記事は意義深いものです。そこには――「私は4歳から10歳まで絶えず、神、救い、人間の精神的な病気について考えており、ときどき、父と母が驚いて、天使たちが私を通して話しているにちがいないと言うようなこと示しました。6歳から12歳まで私は、信仰の生活は隣人に対する愛である、と言って、信仰について牧師たちと喜んで話し合ったものでした。当時、私は、父なる神がだれであれ好みのままに、また好みの時に、生活を悔い改めず、改心をしていない者たちにさえも、御子の義を転嫁される、と教えている学問上の信仰については何ごとも知りませんでした。また、そうした信仰を聞いたとしても、今と同じように、私にはそれが理解できなかったでしょう」とあります。

 スヴェーデンボリが子供の頃、父の家で生活していたとき、霊界が現実に存在することを父が固く信じていたという事実にもまた重要な意味があり、彼の心に影響を与えました。ある夜、イェスパー・スヴェードベリが13歳だったとき、彼が「啓示、または幻」と呼んだものを見ました(脚注:文献名略)――「それは啓示であるか、または幻であるか、私にはわからない」と、彼は言っています。その中で彼は一つの通路で互につながっている二つの家を見ました。その通路の近くには水が一杯に入った大きなたらいがありました。そのわきに救い主が立っておられました。群集がやって来て、ある者はその救い主に洗われて、右側の救い主の輝かしい部屋へ送られました。他の者を救い主は左側の室へ追いやられました。イェスパー・スヴェードベリは恐ろしさに震えながら立ち、神が自分を価値ある者と思ってくださるよう、祈りました。彼は選ばれ、洗われ、右側の室へ送られました。そこに彼は多くの者を認め、またそこで人間の言葉では表現できない事柄を聞きました。すべての者が裁かれると、救い主はイェスパー・スヴェードベリの手を取られ、彼を左側または西の方の家へ導かれました。そこには悪魔どもがいました。彼はその恐ろしい部屋の暗い光の中に、男と女がみだらな動きで踊っていて、その部屋の真ん中に、火と硫黄で燃えている深い穴があるのを見ました。炎に苦しめられた男どもは、よじ登って外へ出ようとむなしい努力をしていました、しかし、恐ろしい叫び声を立てながら押し戻されました。その部屋にはまた一つの説教壇があり、そこに耳にまで垂れ下った大きな帽子を被った男がいましたが、イェスパーはその男が何を説教しているかは聞きませんでした。なぜなら救い主は彼を導き出されて「あなたがここへ来ないことを神に感謝しなさい」と言われたからです。彼は天界の家へ来て、他の者と一緒に大声で、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌いました。そしてそのとき目がさめました。

 この夢あるいは幻は、この13歳の子供の心に深刻な印象を与え、そのため彼は教職者になるための勉強しようと決心することになったのです。

 その7年後に、彼は不思議な方法でこの決心を強くされました。それは大きな村で起りました。その村で、朝、彼は最初の説教をすることによって聖職の務めに入りました。夕方、その教会は閉じられていましたが、それでもそこから彼はオルガンの音と神を敬う讃美歌を歌う声を聞きました。それはイェスパー自身だけでなく、村人のすべての者からもまた聞かれました。それでもその教会にはだれもおらず、オルガンもなかったのです(脚注:同前書)

 イェスパー・スヴェードベリは迷信深い時代に生きましたが、彼自身は迷信深い人ではありません。彼は霊界が現実に存在することを堅く信じていました。彼はまた、いつでも霊界の存在がいつでも地上の人間に示されることが可能であることも信じていました。確かに、彼が語った幻によって、幻想的なエクスタシーの状態に導かれることはありませんでした。彼は幻を見たり、また望んだりすることはありませんでしたが、聖言の真理を自分に確認させるためにだけ、その幻を役立てたのです。

 彼は超自然的ないくたの経験について聞いたとき、それがほんとうのことかどうか苦労してその証拠を調べています。彼は『自叙伝』に、「私は常に神が明らかに啓示された聖言を信じていたので、決して奇跡を求めなかったし、また奇跡が起ったことを聞かいても、軽々しく信じることはなかった。それでも私は常に、神が奇跡を行なわれたときは、人は、それが自然的なものかまたは作り上げたもの、またはサタンの戯れか欺きでないことが確実であるときは、それはまったく退けてはならない、という意見を持っていた」と書いています。

 さて、エマヌエル・スヴェーデンボリの父が霊界を信じているだけでなく、霊たちの存在をいくつか経験していたことは驚くことではありません。もし一人の紳士を作り上げるには数世代かかるとするなら、スヴェーデンボリが〔自然界と霊界の〕両方の世界に同時にいるように、彼に備えさせた遺伝的な性向があっても驚くことではありません。

 スヴェーデンボリの霊的な経験には、心を外側の環境から引き離すという潜在的な能力が含まれます。こうした能力は敬虔なダルカールリア人の先祖からの結果であった、と言えるでしょう。さらに、こうした能力は心の最も純度の高い有機的な実体から引き起こされたある特殊な形に依存しているに違いありません――その形は遺伝によるものでしょう。もし私たちがスヴェーデンボリの経験した、著しく独特な現象を説明しなければならないなら、このような遺伝を想定しなければなりません。私は、彼がすでに子供の頃にさえ経験した沈黙の呼吸に言及しているのです。そのとき肺の呼吸はほとんど停止しています。私たちが知っていることですが、アニムス〔訳注:animus、心のうち比較的“低次元の心”〕の熱情が刺激されると、人の呼吸は強く、はげしくなり、その一方で、人が深く考えているときは、その呼吸は静かに、またおだやかになります。このことの理由は、アニムスまたは外の心の熱情が刺激されるとき、その熱情は肉体そのものの中に座を占めて、その存在を現わし、その一方で、思考が深く、抽象的なものとなるとき、アニムスの熱情は、いわば、鎮められ、霊そのものがほとんど肉体から分離して呼吸するからです。この霊の呼吸は、抽象的なものではなくて、実際の呼吸です。それは霊が座を占めている脳の中の最も純度の高い実体の活動なのです。

 スヴェーデンボリ自身が、私は肺の呼吸がほとんど沈黙するほどにも、霊の呼吸を肺臓の呼吸から分離することができなかったなら、深く考えることはできなかった、さらに、こうしたことをなすことができる能力は有機的な心の最も内なる実体の中に何か特殊なものが形成されることを意味している、と言っています。こうしたものの形成は、遺伝と切り離すことはできません。

 彼の著した『霊魂の王国の理法』に記されている彼自身の言葉があります――「与えられている現象から事物の原因を探り出すことは特殊な資質であり、この資質の中へ幼児の脳はその最初の根幹からある方法により導き入れられており、またその資質の中へ、後に多くの段階での役立ちと修養によるものが吹き込まれる(脚注:19番)

 後に、「メモラビリア」の中で、最古代教会の人間の呼吸について書いたとき、彼はこの呼吸が彼らの信仰の状態にしたがって変化していることに気がつき、また信じることもできた、と言っています。「なぜなら、私の呼吸は主により、外の空気の助けを必要としないで、しばらくの間、内部で呼吸することができるよう形作られたからである。こうして呼吸は内部に向けられ、しかも、外の感覚は活気と活動を保った。このことは主によりそのように形作られている者以外にはありえない(脚注:〔『霊界体験記』〕3317番)

 彼は続けて、「呼吸は思考と対応しており、そのことについては、私は霊たちと話す以前に、多くの経験を持つことを許された。幼い頃、朝夕に祈っているとき、私が意図的に息を殺そうとしたときのように……また後になって私が想像を働かせながら書いていたとき、私が息を殺していることに気づいたときである。〔そのときの〕呼吸は、あたかも黙っていたかのようだった」と言っています(脚注:同書〔『霊界体験記』〕3320番)

 それから少したって、1748年〔60歳〕10月に、すなわち、『天界の秘義』を執筆し始める二、三週間以前に、彼は書いています――「私は最初、幼い頃、朝夕の祈りを唱えていたときに、このように呼吸することに慣れていた。また後になって、肺と心臓の和合を説明していたとき、また特に、多年にわたって、これまでに出版されているいくたの著作を心をこめて書いていたときも同様である。そのとき私はしばしば、呼吸は沈黙し、ほとんど感じられないことに気づいた。後になって、このことについて考え、また書くことが私に許された。こうして私は幼い頃から多年にわたり、特に強度の思索によりこうした呼吸へ導入されたのであり、その思索の中で呼吸は静止するようになった。そうでなかったなら、真理について強度に思索することは不可能なのである。思考を可能にする十分な空気は取り入れられた。この方法により私は霊たちと天使たちと一緒にいることが許されているのである(脚注:同書〔『霊界体験記』〕3464番)

 さて、スヴェーデンボリの生涯の一場面で、イギリス人にとって、とりわけロンドンに住む者たちにとって興味深いに違いないことに話しを進めましょう。

 1766年〔78歳〕に、スヴェーデンボリはドイツの一人の高位聖職者(脚注:エティンガー、『文書』U265参照)から、「なぜ、あなたは哲学者から神学者になられたのですか」と尋ねられました。彼の答えは次のものです――「その理由は、今や啓示されている霊的な事柄が、自然的に、また理性的に教えられ、理解されるためです。なぜなら、霊的な真理は自然的な真理と対応するからです。その理由のため、私は主により最初に自然科学へ導き入れられ、実際に、1710年〔22歳〕から、天界が私に開かれる1744年〔56歳〕まで、こうして準備させられたのです。さらにまた主は真理を霊的に愛することを授けてくださいました〔訳注:この返事は、1766年11月11日付、エティンガーからの質問の手紙へのスヴェーデンボリの第3番目の返答事項。「霊的に愛する」とは「名誉や利益のためでなく、真理そのもののために愛することです。真理のために真理を愛する者は主から真理を見るからです」(同手紙の中の文章より)〕

 ここの、1710年〔22歳〕から1744年〔56歳〕まで、と言われている年月に注意してください。1710年の5月10日に、スヴェーデンボリは最初の航海をして、ロンドンに着きました。1744年〔56歳〕に彼は再びロンドンにおり、天界が彼に開かれたのはそのときのことでした。彼は1710年には22歳でした。その以前の年月は大学町ウプサラで教授たちの指導の下で過ごしました。当然、そこには独自の思考を発展させる機会はあまりありませんでした。そして今や、1710年には、彼は人口二千人以下の小さな大学町から人口五十万の大都市へやって来たのでした。しかし彼が1710年にイギリスを初めて訪れたことで最も重要なことは、そのとき彼は最初「主により自然科学へ導き入れられた」のですが、彼が言論の自由と出版の自由が存在する地へやって来た、ということです。ロンドンに初めて着いたとき、スヴェーデンボリはこの事実に極めて強烈に注意をひきけられました。なぜなら、都全体が王位の臣民に対する権力について、また市民の王位に対する義務について、パンフレットやコーヒー店〔訳注:17〜18世紀のロンドンでは政治家・文人のたまり場であった〕での討論によって、激論を交わしていたからです(訳注:『エマヌエル・スヴェーデンボリの手紙と請願書』(Letters and Memorials of Emanuel Swedenborg) 21ページ)。この若い学徒は、政府に対する辛らつな、また公然たる批判にもかかわらず、だれも逮捕されはしないという事実に必ずや驚いたに違いありません。こうした政治上の論争はスウェーデンでは決して容赦されませんし、またオランダを除いて、大陸のどんな国にも容赦はされていませんでした。イギリスとオランダは出版の自由と言論の自由が認められている唯一の国でした。しかし、オランダでは、その自由は国家の宗教であるカルヴァン主義〔訳注:神の絶対性・聖書の権威・神意による人生の予定を強調〕により制限されていました。

 スヴェーデンボリはイギリスにほぼ3年近く滞在しましたが、その年月は彼の一生を形成するのに最も資する年月でした。彼はそれまで大都会に行ったことはありません。大学町で過ごしてきたのであり、そこでは思想と討論が教条的な神学の精神によって多かれ少なかれ支配されていました。そして今や、感受性の強い年頃のその若者は、思想と研究がまったく自由な国にいたのです。彼は王室の天文学者ジョン・フラムスティードと親しくなりました。オックスフォードを訪れ、数学教授であり有名な天文学者ハーレーと、またボドレー図書館員ハドソン博士との討論から学びました。彼は哲学協会の集会に参加し、その会員の多くの家庭を訪れました。彼は地質学者ジョン・ウッドワード博士と鉱物学を論じました。出版業者であり、政治評論家であるジョン・チェンバレン (John Chamberlayne)としばしば話し合いました。科学器械の発明者フランシス・ホークスビー(Francis Hawksbee)と、また有名な器具製作者マーシャルと、数学の器具について論じました。『哲学論文集』や他のイギリスの文献を読みました。しかもこのすべてが、私が言いましたように、彼の一生を形成するのに最も資する期間でのことでした。彼の身体はスウェーデンで生まれ、スウェーデン人を受け継いでいますが、その心はイギリスの子、すなわち、思想と討論の自由の子であり、イギリス国民に特有の大胆な探求心をもった子供でであると私たちは真に言うことができます。教条的な神学の足かせから自由になり、彼の哲学的な著作とスウェーデン国会でのその政治上の活動の特色となっているかの大胆な思想を彼の中に育成したものはイギリスでした。

 1715年〔27歳〕にスウェーデンに戻ったとき、イギリス訪問の最初の成果の一つは、彼が『北方のダイダロス』(Daedalus Hyperboreus)と命名した季刊誌の発行でした。この論文について注目すべきことは、それがラテン語で書かれないで、スウェーデン語で書かれたことです。彼の心は王立協会〔訳注:イギリス最古の自然科学進行を目的とする学会〕の範例により示唆されたのです。この協会の『哲学諭文集』(Philosophical Transactions) は、学術書の場合ラテン語で出版することがヨーロッパで広く行なわれた習慣でしたが、そのラテン語で出版されずに、母国語〔英語〕で出版されたのです。スヴェーデンボリは、ラテン語を知らない普通の人間を含めてスウェーデン人はすべてイギリス人と同じく科学を学ぶ機会を得なくてはならない、全国民は、自然現象を研究することにより、考えることに目覚め、学者が引き出した結論に積極的な関心を抱かなくてはならない、と決心したのでした。

 しかし、スヴェーデンボリは生計を立てなくてはなりません。1716年〔28歳〕に、物理学の教授になることを考えましたが、しかしそのことには、彼がどもりであるという事実が妨げとなりました。それでも、彼は教授に、あるいは物理研究所の所長になれたのです。なぜなら、ウプサラ大学の教授たちから高く評価されていたからです。もし彼がカール十二世から偉大なスウェーデンの技師ポルヘムの補佐役となるよう任命され、乾ドックの建設、運河の工事、そして、付随的に、カール十二世がノルウェー人を攻撃することができるようにと、大きな数隻のガレー船を陸の上を通って海の入江まで輸送することに携わらなかったなら、彼は教授あるいは所長になれたのでした。これらの仕事はすべて工学上の仕事であり、私は思うのですが、もしスヴェーデンボリが今日生きていたなら、土木技師と呼ばれたでしょう。彼はそれらの作業のいくつかを記述しています。例えば、乾ドックです。海に面している岩の崖に発破を仕掛けてドックを造らなくてはなりませんが、そのためには海水を排除するための円形のダムを構築してから発破を仕掛けなくてはなりません。スヴェーデンボリはそのダムの底をその輪郭に合わせるために海底を測定しなければなりませんでした。彼はまたそのダムそのものの建設にもある役割を分担しました。このダムは水面よりも高いところで造られ、それから下げられました。

 これらの土木事業にスヴェーデンボリは強い関心を抱きました、しかし、自然の現象を探求し、特にそれらを『北方のダイダロス』に発表しようとの見地から、考えたことを論文にまとめることに、さらに強い関心を抱いたのです。

 カール十二世が1719年に亡くなったとき、スヴェーデンボリ〔31歳〕は監査官として鉱山局に席を得ました。カール王は、1716年〔28歳〕に彼をこの職務に任命していたのですが、それはポルヘムが進めている土木工事の一時的な代行人としてでした。鉱山局では彼は鉱物学と化学の研究に専念しました。

 この鉱山局における監査官としての彼の地位は非常に重要なものです。鉱山局の監査官には、スウェーデンにおける採鉱と製練業についてのすべての問題における司法上の職務がありました――賃貸借契約、生産された鉄の品質、安全装置、労働者との争議などです。毎夏、監査官たちはさまざまな鉱山地区へ送り出され、訴訟を聞き、証言をとり上げました。彼らはそれを鉱山局へ正規に報告し、その決定は多数決によりました。

 スヴェーデンボリはこの仕事に勤勉でしたが、しかし彼の真の関心は自然の現象をさらに深く探求することにありました。彼は化学の研究をさらに掘り下げ、やがて、肉体の中の霊魂の働きを知るために、解剖学の研究に、特に脳の解剖に入って行きました。

 1721年〔33歳〕と1722年〔34歳〕に、研究の成果として、彼は『原理論の先駆者』(通常『化学』と呼ばれています〔訳注:英訳書の題名は『化学の原理』、原題名は『自然界の原理の先駆(副題)化学と物理における現象を幾何学によって説明するための新しい試み』〕)と『観察雑録』をアムステルダムとライプツィヒで出版しました。その中には、後に『原理論』の中で発展させた学説の萌芽が見られます。彼はまたいろいろな鉱物を扱った数巻の著作の内容紹介書も出版しています。

 続く数年間はそれらの著作を準備するために占められ、1734年〔46歳〕に、彼はライプツィヒヘ行き、そこで研究の成果を『鉱物学著作集(Opera Mineralia)』と題するフォリオ判の三巻で、出版しました。

 この著作は、第二巻と第三巻が純粋に科学的な方法で鉄と銅を取り扱っていますが、「原理論」と題された第一巻は、どのようにして有限なものが無限なものによって創造されたかについて哲学的な考察をもって始まっているので、特に注目すべきものです。

 私の知っているかぎり、文献史上、どのようにして有限なものが無限なるものによって創造されたかという問題を解こうとあえて試た者はいません。聖アウグスティヌスは、神は神自身の原質から世界を創造されたという考えをもて遊びましたが、しかし、この考えには汎神論――物質は神である――という考えが含まれてしまうと結論しました。それゆえ、彼はそれ以来キリスト教の神学者たちの間に広まっている教義、世界は無から創造されたという教義を提唱しました(脚注:『哲学者のノート』27, 138, 252ページ参照)

 スヴェーデンボリはこのことに満足しませんでした。彼は、無からは無しか生じないとして、創造は神から発しているだけでなく、実際には無限の実体を有限化することである、と結論しました。こうして、早くから、彼の心は、神は世界を「ご自分の無限性を、その方から放たれる実体によって有限化することによって」創造されたという「啓示」による教え(脚注:『真のキリスト教』33番)を明らかな光の中に見ることができるよう形作られたのです。

 スヴェーデンボリの「著作」に、どのようにして神はご自分の無限性を有限化されたかについては何も述べられていませんが、しかし『原理論』の中で、彼はこの問題を取り上げようと試みており、その解釈は「啓示」の教えと一致しているだけでなく、私たちがその教えを理解するときの大きな照らしとなっています。

 スヴェーデンボリの論法は、ユークリッドが幾何学の出発点を教えるときの論法に類似しています。ユークリッドの言うところの出発点とは、長さ、幅、厚さのない一つの点です。その点が一つの方向へ動くと、長さはあるが、幅や厚さのない線となります。その線が一つの方向へ動くと、長さと幅はあるが、厚さのない一つの面となります。面が一つの方向へ動くと、長さ、幅、厚さをもった立体となり、こうして人間の心に把握されるものとなります。しかし、異論がなされます。もしその点に長さも幅も、厚さもないなら、それは無であり、無からどのようにして何かが生じることができるのか? これにユークリッドは答えるでしょう――もし私たちが幾何学の「出発点」を求めるなら、幾何学を超えて進まなくてはなりません、と。人間の思考は何かの存在を三次元に特有の言葉でなければ心に描くことができないので、幾何学の出発点は人間の思考の把握を超えたものであるに違いありません。言葉を変えれば、理性はそれが存在することを知っても、それが何であるかを知ることはできないのです。

 そのように、スヴェーデンボリは創造の始まりを「無限なるもの」における純粋な、また全運動として、すなわち、どんな有限なものにも動かされない運動として――幾何学的でなく、理性的に考えられる運動として――定義づけました(脚注:『原理論』第T部第2章12節)。さて、もちろん、このような運動は私たちの理解を超えたものです。それでも人間の理性は、たとえそれが何であるか知ることができなくても、それが存在することを知ることはできます。さらに、理性は、創造が「神の意志」とともに始まり、その「意志」は創造する運動として、すなわち「神の真理」として発する、あるいは生ずることを知ることができます。こうして、人間の創造もすべて意志とともに始まり、意志が創造する運動として身体へ流入します。『原理論』の中で、スヴェーデンボリは、最初の自然的な点あるいは創造する運動が宇宙に行き渡っており、それが絶えず宇宙を維持しており、それでそれが停止するなら、創造された宇宙はすぐさま存在しなくなることを示しています。

 『原理論』の学説により、私たちは「神的な発出するもの」についての「著作」の教えと、存在は絶え間ない存続であるという教えを、より明らかに知ることができます。『原理論』の教えは、創造についての「著作」のさらに一般的な教えと完全に一致しています。そのことから、スヴェーデンボリの心が創造についての霊的な真理を理解力の中に受け入れるよう準備されていたことは、疑うことができません(脚注:ここに「最初の実体」(『神の摂理』6番、『真のキリスト教』20番)からの「創造」などについて、長大な脚注があり、興味深い内容もありますが本論からは逸脱するので割愛します。同じく『真のキリスト教』76番も参照)

 『鉱物学著作集』はスヴェーデンボリに高い名声をもたらしました。それはヨーロッパの学界誌に、長文の、しかも有望であるとの書評をもって受け入れられ、スヴェーデンボリはセントペテルスブルグ〔訳注:帝政ロシアの首都、現在のレニングラード〕の王立科学アカデミーからその団体の文通仲間に入るよう招かれました。

 その第一巻である『原理論』は、「無限なる者」によって鉱物界が創造された方法を哲学的に探求したものでした。それは実際に、いろいろな鉱物についての一連の長い著作の序論を意図したものでしたが、しかしスヴェーデンボリがそれを執筆した理由の根底にあるものは、霊魂と肉体との交流を探求しようとの願いでした。このことは、『鉱物学著作集』が印刷されている間に、スヴェーデンボリが『無限なる者と創造の最終的原因についての理性的哲学の先駆け』を執筆したという事実により示されており、その著作の中で彼は霊魂と肉体との作用の機構を詳細に論じています。彼は自然現象の下に存在する究極的な、また霊的な原因を探求しようとする願いにかきたてられて、この著作を執筆したのでした。彼が望んだのは、霊魂は空気のようなものではなくて、現実の実質であり、神が人類から天界を形成しようと望まれた手段であり、その霊魂の肉体との関係は現実の有機的な関係であることを示すことでした。

 スヴェーデンボリはそのことを心に抱いて原理論で大気についての学説を展開しました――自然界の太陽の上方に一つの普遍的な大気があり、その太陽の下には三つの大気があって、その中の二つは上位の大気を構成しているというものです。新教会の人々は、この三つの大気という教義に慣れており、この教義がスヴェーデンボリの時代だけでなく、私たちの時代の学界にとってもまったく異質なものであるという事実をあやうく忘れそうになるほどです。スヴェーデンボリは、真空を通って伝導できるものは何もないことを知りました。もし耳が聞くならば、そこには音波を耳の器官に運ぶ空気が存在しなくてはなりません。空気を排出した容器の中で、目はベルがその中で揺れ動いているのを見ることができるとき、耳はベルが鳴る音を聞くことができないなら、そこには光波を目に運ぶ上位の空気が存在しなくてはなりません。動物の霊魂へと運ばれている肉体的ないのちは、さらに上位の自然的な空気の機構によって伝道されなくてはなりません。人間の霊魂へと運ばれる霊的ないのちは自然界の太陽の上方に存在する最上位の空気を通してやって来るのです。

 『原理論』の中でスヴェーデンボリが心に抱いていた“霊魂の探求”は、彼の霊眼が開かれた1744年〔56歳〕に書かれた『五感』の中で述べた見解により明らかに示されています。彼はそこで言っています――「これら(秩序、形、流入の学説)は私の哲学的な原理諭の中に述べてあり、そこにはそれぞれの大気の各部分の形が提示され、その輪郭が描かれている。それは現在の目的のためになされたのである。さて、その応用を述べよう(脚注:〔『五感』〕267番)。同じ著作の少し前のところに書いています――「聞いたことの忠告にしたがい、私の哲学的な原理論に照らし合わせて、観察されなければならない……そのとき私は私が望むどこへでも飛ぶことが許されるであろう、と言われた(脚注:同書262番)

 スヴェーデンボリはすぐに、霊魂の探求のためには、霊魂の住む身体を徹底的に知ることが必要だと悟りました。その目的のため、彼はパリの解剖学の学校で18ヶ月(1736年〔48歳〕〜1738年〔50歳〕)過ごし、そこでは脳と肺との関係を研究するために、特に陸上に住む動物だけでなく、水中に住む動物の解剖の研究に携りました。

 スヴェーデンボリが意味のある夢を見始めたのはこの研究を始めたときであり(1736年〔48歳〕)、この夢は1745年〔57歳〕に主の招きを受けるまで続きました。さらに、彼はこれらの夢の意味を知り始め、こうして対応の教義へ導き入れられました(脚注: 『哲学的論文集』195ページ以降参照。そこには対応の教義についてスヴェーデンボリの哲学的著作の参照個所がすべて与えられている)。私たちは彼が『霊魂の王国の理法』の中で(脚注:第T部、625-6、648-9番)その教義に初めて言及しているのを見いだします。この著作は1739年〔51歳〕12月に完成しています(脚注:『文書』V、924)。さらに、『理法』を書いている間に、スヴェーデンボリは驚くべき照らしを経験しましたが、それは私が前にそれとなく述べた内的な呼吸と関連するものに違いありません。なぜなら、彼は、その著作の中で、真の哲学者を語るときに、次のように書いているからです――「彼らは、長い推論の後で、真理を発見すると、直ちにある種の心を快くさせる光と喜ばしい確認の輝きがあり、それが彼らの心の領域をおおうのである。またある種の神秘的な光線が――私はそれがどこからやって来るのか知らないが――それが脳の神聖な神殿の中を矢のように突き抜けて行く。こうして一種の理性的な本能が現われて、指示する。それはあたかも、示すその瞬間、霊魂が、あたかも幼児の頃の黄金時代に、逆戻りしたかのかのようである(脚注:19番)

 明らかにこれらの言葉は、スヴェーデンボリの理解力がさらに内的に開かれ、それが彼の霊眼が開けて霊界の現象を見る備えとなったことを示しています。こうした内的なものが開かれなかったなら、霊界の現象を見るにしても、そのことはほとんど役に立たなかったでしょう。

 『理法』の第一巻が印刷されている間に、スヴェーデンボリはある覚え書きを書きとめていますが、その中で彼はその『原理論』の学説を人間と動物と昆虫の霊魂に適用しています。この覚え書きの終わりに彼は、「これらの事柄は真である。なぜなら、私にはそのしるしがあるからである」と書きました。このしるしの何であったか私たちは知りませんが、しかしスヴェーデンボリが後に発表した見解からは、それは霊眼で光と炎を見たことであったことを疑うことはできません。別の言葉で言えば、スヴェーデンボリの思想は極めて内的なものであったので、彼自身が照らされたと感じただけでなく、実際に霊眼で霊的な光を見たのです。

 それゆえ、スヴェーデンボリが当時取りかかり始めた『霊魂の王国の理法』を書いているとき、彼が深い思考により導かれて、霊的な太陽が存在することを認めたことは驚くにあたりません。「(自然的な)太陽が生命の源泉であるように、そのように神はいのちの、またすべての知恵の太陽である」と、書いています(脚注:『霊魂の王国の理法』第U部、255番)。しかし、「しかしながら私は、ほとんど自然の境界の彼方にまでも私を導くこの入り口に立って、ためらっている間に、聖なる畏怖がしのびよってきて、私に立ちどまるように警告するのを感じることを告白しなくてはならない。なぜなら、心は、見ないものを見、直観が見抜かないところを見ると考えるからである。そして、この畏怖の念を高めるものは真理に対する愛であり、それが、私の心の中で最高の位置を保つであろうし、私のすべての努力の目的となっているのである。私が次のことだけを認める、自然の秩序は、全自然界を通って流れて最初の目的へ戻って行くいろいろな目的のために存在しており、自然崇拝者らは狂っている」と付け加えています(脚注:同書第U部、259番)

 さらに、スヴェーデンボリは『理法』の中で段階の学説を提出し、詳しく論じました。彼は、この学説なしに、自然界の内なる秘密へ入りこむことはできない、と言っています(脚注:同書第T部、632番、第U部、210番)。この学説は学界にはまったく知られておらず、スヴェーデンボリの著作の当時の書評は、論評家たちがほとんどこれを把握していなかったことを示しています。

 それから数年後に『神の愛と知恵』の中で、「これまで分離した段階については何かが知られていたかどうか、私は知らない。それでも、この知識なしに〔物事の〕原因は何も知られないのである(188番)と書いたとき、スヴェーデンボリは疑いもなく、そのことを心に抱いていたのです。この学説について学界では何も知られていませんでした。しかし、その学説はスヴェーデンボリに知られていただけでなく、彼が新しい真理の領域を洞察する鍵となりました。そして、彼の霊眼が開かれたとき、彼に霊界と自然界との関係を理解させることを可能にしました。

 その同じ著作の中に、彼は霊的な太陽の知識について同じように語っています。「自然的な太陽以外の太陽があることはこれまで知られてはいなかった。なぜなら人間の霊的なものは彼の自然的なものの中へはなはだしく入り込んでしまい、そのため人間は、霊的なものが何であるか、その結果として、自然界とは異なる霊界が存在し、その中には霊たちと天使たちがいることもまた知らないからである(脚注:『神の愛と知恵』85番)

 スヴェーデンボリは1740年〔52歳〕にストックホルムヘ戻ると、著作『繊維』を書きました。ここで彼は、人間には三つの別々な異なる食物があることを説明しました――日に三度食べる食物、鼻孔を通して吸収する食物、意志と理解力の有機的な居所である脳の最も純度の高い部分へ入って行くエーテルのような〔霊妙な〕食物です。彼は人間が地上で生活する間に、その性格を形成することを知りました。彼はまた、人間の性格が時間と空間に属するものの中で現実の基礎をもたなくてはならないことを知りました。別の言葉で言えば、私たちの性格は、ちょうどピアニストの手の特質がその手の繊維の秩序と配列から成り立っているように、心の有機的な居所のいろいろな部分の秩序と配列から成り立っているのです。

 スヴェーデンボリは、人間の性格が有機的な形をしているなら、その形はそれを定めて維持する食物によって養われなくてはならない、それはまったくピアニストの手の場合と同じであることを知りました。手は練習によって形成されなくてはなりませんが、しかしその形は滋養を与える食物によってだけ強固なものに形成されることができます。スヴェーデンボリは心の有機的な器を造り上げ、固定するには身体の食物よりもさらに純度の高い食物を必要とすることを認めました。人間が心を神の聖言の型にしたがって、またはこの世の君の型にしたがって、自由に形成する力を持っている間に、自然界は、この純度の高い、すなわちエーテルのような食物によって、その形を定め、固定します。それゆえ、私たちの性格は私たちが地上に生きているかぎり常に変えられることができても、その私たちの性格を変えることがどれほど困難かは、私たちが年を取るとき、私たち自身の経験するところです。

 ここには、悪い人間の血液は善い人間の血液とは異なる栄養を受けるという後の「著作」における教え(脚注:『神の愛と知恵』420番以降)、リムブス(limbus)についての教えの基盤があります――リムブスとは、人間がその性格の有機的な基盤として死後も保つ自然界の最も純度の高いものです。

 次にスヴェーデンボリは注目すべき著作『理性的心理学』を書きました。私は心理学の著作を読んだことがあり、あなたがたもその主題について現在ラジオでいくつかの講演を聞くか、聞いたことかと思います。しかし私の経験では、現在教えられている心理学はほとんどまったくの観察と実験によるものです。現代の心理学は、人間の心について、意志と理解力が何であるかについて、また記憶が何であるかについて、何も知りません。人間に霊魂があるかどうかについて疑問さえ投げかけています。しかしスヴェーデンボリは、人間に霊魂があるということを認めることから始めており、身体における霊魂の働きを研究しようと努めました。例えば、私たちがすぐさま認めることができるものとして、彼は人間に二つの心があること知りました。しかし、その二つの心を抽象的な性質のものと見なさないで、それらはそれぞれ有機的な形であるに違いないことを示しています。私たちはみな、私たちが私たち自身の欲念を見下ろし、それらを罪あるものとし、それらに反抗して戦うことができることを知っています。見下ろす器官と戦う対象となる器官はどちらも有機的なものです。しかし、現代の心理学はこのことを知っているでしょうか? 私は今、スヴェーデンボリの著作『理性的心理学』を翻訳中ですが、その内容に踏み込めば踏み込むほど、このことを著述した人物の驚嘆すべき洞察力に、心にすぐさま認められる真理を明らかにする洞察力に驚いています。こうした真理を赤裸々にしたこの人物の天分を不思議に思います。

 スヴェーデンボリは『理性的心理学』の中で肉体の死後の霊魂のいのちについて多くのことを言っています。彼は、天界が多くの杜会から構成され、天界の天使たちがすべて何らかの役立ちの遂行に従事していることを示しています。彼は、死後、霊魂は人間の身体の形を持たないであろう、地上の身体の器官は地上の役立ちを遂行するのに適応しており、その役立ちがやむとき、その器官もまた必要でなくなるであろう、と推測しています(脚注:『新しい哲学』1948年9月号138〜139ページ参照)。しかし、彼は結論しています――「われわれ自身が霊魂として生きるとき、あまりに子供じみた推測をなしたことに、われわれはわれわれ自身を笑うであろう(『理性的心理学』524番)

 これは彼が推測した真理についての疑いを表明したものではありません。スヴェーデンボリはその真理を十分に確信していました。彼は霊眼が完全に開かれたときに笑いもしませんでした、かえって確認しています。しかし、彼はそれが推測であることを知っていました――健全な哲学的な原理に基づいた推測ではあるが、しかしそれでも経験による確認を待っている推測でした。その態度は彼が二年前に『霊魂の王国の理法』の序文の中に書いたものの中に表明されています――彼は、「真の哲学者たちは、さらに深く洞察すればするほど、自分の想像力を信頼しなくなる。経験が欠けているとき、彼らは自分の推論からの主張を最も近い関連部分さえも超えて展開させることを恐れ、そしていくらかでも〔それを超えて〕展開させるなら、経験が欠けているかぎり、その結論を仮説の一つとして分類するのである」と言っています(『霊魂の王国の理法』19番)

 同じことが『原理論』で説かれている創造論にも言うことができます。それは理論であり、彼自身が、それには経験からの確認が欠けている、と告白しました。それゆえ、霊眼が開かれたとき、創造について自分の見解を求めたある天使たちに彼は言いました、「私は創造について長く考えてきましたが、むだでした。しかし、私が主によりあなたがたの世界へ入ることを許された後で、私は、最初に二つの世界と二つの太陽があることが知られなくては、宇宙の創造についてどんな結諭を作っても、それは空しいことを知覚しました(『真のキリスト教』75番)。スヴェーデンボリは二つの世界と二つの太陽があることを知っており、『原理論』の中の理論はこの知識を基盤としていたのです。その理論は仮定でしたが、それでもスヴェーデンボリはそれが『神の愛と知恵』に述べられているような真理と一致していることを知っていたのです(脚注:『創造の歴史』9、10番と比較せよ)

 『理性的心理学』の後で、スヴェーデンボリは、脳と神経についての大著に専心しました。彼の準備のためにこの研究がどれほど必要なものであったかは『聖言の講解』の記事(脚注:1071番)に示されています――「脳の中にはあらゆるものの観念が極めて明白であるため、その内部を見る者は、そこから宇宙そのものを恒星系とともにその性質を、またどのようにして天界が働きかけるか、その以外にもメシアの王国に存在する多くのものを知るのである。しかしこれらの知識は、脳の多くの部分が、いや、そのほとんどすべてのものの役立ちが知られていないので、明らかな形で演繹されることはできない。それで、それらのものが最初に展開されないかぎり、提出される多くのものも漠然としたものそして現われるであろう。それでも、それらのもの自体の中に、脳の中にあるこれらのものを理解している者たちにそれらのものは極めて明らかであるので、そうした者はほとんど天界が映し出されているの、こうして天界の王国の状態の性質を見るに違いない

 このことに驚かないでください、なぜなら脳は、そこに私たちの思考のすべてが、私たちの愛と情愛のすべてが飛びまわる舞台であり、善良な人間にあっては、それらの思考と愛と情愛は天界の映像となっているのです。それで脳そのものは、ちょうど肉体が神の究極的な映像であるように、内面では神の愛と知恵の映像となっています。スヴェーデンボリは脳の役立ちを驚くほど理解しており、この知識により後年、彼は「その器官の中に天界の映像を見る」ことができました。

 脳についての著作の中で、スヴェーデンボリは、熟練した解剖学者たちが驚嘆のあまりにその手を上げて、どうして彼が、現代の解剖学者たちがここ数年の間に到達した結論に到達することができたのか、と驚くほどにも極めて多くの新しいものを明らかにしているのです――どうしてスヴェーデンボリは、手許にある資料が比較的乏しいときに、これらの結諭に到達することができたのでしょうか。スヴェーデンボリは、脳の灰白質(grey matter)が心の座であることを証明した最初の者であり、中脳(mid-brain)がすべての習慣的な活動を管理し、しかもそのことは、私たちがこれらの活動を遂行し、歩み、話し、筋肉を用いようとも、それでも理性理的な脳を、自由に思考するようにためであることを最初に証明しました。

 これらの発見は比較的に表面的なものであって、今日では普遍的に認められています。しかし『脳』の著作の中に示されているような、分離した段階の学説は、霊魂と肉体の間の関係の学説は――これらのものは世で認められていません。実際、彼の驚くべき発見の中でいくつかのものは認められていますが、しかし彼がその発見に到達した思考の過程は、その発見を基礎づける原理は――これらのものは認められていません。それらは実験的に証明されることができないので、考慮さえもされません。

 スヴェーデンボリは、『脳』に続いて、人体の究極の器官を探求する著作『霊魂の王国』を取りかかりました。口から始めて、消化系統の器官を取りあげ、それから、鼻孔から始めて、呼吸系統の器官をとり上げています。スヴェーデンボリ自身が、この著作を書いている間に、ほとんど毎日、光が自分に現われて、そのことは自分に私が書いているものが真理であることを確認させた、と言っています。さて、この言葉に驚かないでください。私たち自身もときどき「私に光が指し始めた」とか、「私は物事を新しい、あるいは明るい光の中で見た」とか言います。実際、霊[精神]は物事を明るい光の中で見るのです。スヴェーデンボリの思考は極めて抽象的であり、極めて深遠であって、彼に照らしをあたえる光が現われたとき、彼はときどき実際に光を見たのであり、それは事実、光でした。私たちが「光が指し始めた」と言うとき、もし私たちの目が開かれて、霊界を見るなら、光が実際に私たちに指していることが見られるでしょう。

 スヴェーデンボリは、霊眼が開かれて霊的な真理を知った、という意味だけでなく、視覚が開かれて霊界の現象を見ることが始まったという意味でも、光を見たのであり、この見ることによって彼は自分の書いているものの真理を確認したのです。

 彼が『霊魂の王国』を書いてから3、4年後の、1747年〔59歳〕に彼自身の述べた言葉を聞いてください。「喜ばしいことは炎により確認されるが、その炎は愛から発した確認のしるしである。神メシアの神的慈悲によりこうした炎が極めて再三、また実に色々な大きさをもって、色彩と光輝とを変えながら私に現われ、私がある著作(『霊魂の王国』)を書いている数ヶ月間、炎がかまどの炎のように生き生きと現われなかった日はほとんど一日もなかったのである。それは同意のしるしであり、またそれは霊たちが口頭で私と語り始めた時に先立っていた(脚注:『聖言の講解』6904-5番)

 これらの経験により、実際、スヴェーデンボリは確認と保証を得ました、しかしその時、彼はその意味を完全に知覚したのではありません。この主題について、さらに1748年〔60歳〕の8月に書かれた彼の言葉を聞いてください――「私の心が開かれて、霊たちと話すことができるようになる前、当時、私は霊たちによって主が治められていることに納得してなかったことを今では不思議に思う、そのような証明が私のもとに数年の間、存在した。数年間、私の書いている事柄について教えてくれる夢を見ただけでなく、また私が書いている間に状態の変化も起こった。書かれている事柄の上に異常な光があったのである。その後、私の目が閉ざされていて、多くの幻が見られ、光が奇跡的に与えられた。……ある霊が私にわずかな言葉で話しかけるときまで、早朝に炎のような光が見られ、会話聞かれなどした(脚注:『霊界体験記』2951番)

 しかし、スヴェーデンボリには疑いが心に起こって来る時がありました。事実、疑いを経験しない理性的な心はありえません。疑うことは探求することであり、神を認め、霊魂を認めて、誠実な心で探求することは、人間が真理に到達することができる手段です。スヴェーデンボリは聖言に述べられている事柄について疑いを抱きました。彼はパロの呪法師たちの行なった奇跡について、また他の事柄についても怪しみました。しかし彼が原理から内的に考えたとき、たとえその疑問は解決しなかったにしても、その疑いは去りました(脚注:『夢日記』50)。私たちも同様です。私たちも疑いを持つでしょう。しかし、もし私たちが疑いからでなく、私たちに明らかな原理から考えるなら、そのとき、たとえその疑いは解決しないにしても、それは心を乱さなくなるのです。

 この主題についてスヴェーデンボリ自身の言葉があります――「私は天界の事柄について理解力にはかろうと望んだときはいつも、自分が後方へ倒れるような気がした……それで、神メシアの神的な慈悲により、すぐさま〔正常な〕道へ戻されなかったなら、私はたちまち後方へ倒れてしまったであろう(脚注:『聖言の講解』2973番)

 それから少したって、書きました――「極端に制限されたものである科学と記憶の事柄が、霊的な事柄の中へ入り込んで、いわば、霊的な事柄を作り上げようとするとき、私はたちまち疑いに陥ってしまい、これらの疑いが神メシアによって、その無限の慈悲によって、取り去られなかったなら、私は真っ逆様になって最も厚い暗闇の中へ、疑いと否定の中へ落ち込んでしまったであろう(脚注:同書8212番)

 スヴェーデンボリが成功した秘訣は、彼が真理から考えたことです。彼は神を認めてから自然界へ近づきました。現在の非常に多くの者がしがちである、神は存在するかどうか、霊魂は存在するかどうかなどという探求を、彼はしませんでした。神は存在される、自然界全体は神の愛と知恵の証人である、彼はこのことを理性的な光の中で明らかに見ました。人間には理性的な霊魂があり、この霊魂が神の住まわれる場所であることを、彼は直ちに、疑わず、また議論もしないで知りました。彼が自然界を探求したのは神を認めたからです。身体を探求したのは霊魂を認またからです。現代の科学者たちが不思議がるような驚くべき事柄を、また現代の学問には何も知られていないさらに驚くべき学説を彼が知るようになったのは、まず認めることでした。

 1747年〔59歳〕のときのスヴェーデンボリ自身の証言を聞いてください――「地上の三物界、すなわち、鉱物界、植物界、動物界の中の何なりと取り上げみられよ。人間の中の何なりと取り上げてみられよ。それらのものを正しく熟慮されて、神の国を瞑想されたい。私はいくどとなくそれらのものを熟慮したが、いまだに神メシアの王国に目を、メシアと教会との間に存在する結婚愛に目を向けていないものに一つとして出会うことはできなかったことを告白する(脚注:『聖言の講解』5266番)

 スヴェーデンボリの純粋に哲学的な著作の中で最後のものは『崇拝と神の愛』という未完の著作であり、その第T部と第U部は、スヴェーデンボリが啓示者としての使命を与えられた1745年〔57歳〕4月の三週間前に出版されました。この著作の中で、普遍的な方法で神の王国としての全自然界を示すために、彼はそれまでの著作の中で提示したすべての原理を一つに集めています。4年後に、次のように書いたとき、言及しているものは疑いもなくこの著作です――「宇宙の中のすべてのものを瞑想し、それらが一つの至高の普遍的なものへ、こうしてすべてのものが一つに集中し、それらものがそれに関連していることが、私に経験することが許されたとき、神メシアの王国を目指し、それに関連しないものは何も見いだされなかったのであった(脚注:同書5783番)

 スヴェーデンボリは分析的な方法によって研究しました。彼は事実を提示することから始め、それに続けて自分の結論を帰納しました。しかし、分析的な思考は総合的な思考なしに不可能です。あなたがたは、人々が自分たちは事実を偏らないで調べる、と言うのを聞くでしょう、しかし、そうしたことは不可能です。だれも偏らないで調べることはできません。すべての人は、その者の心の中にある原理の光の中で調べるのです。このようにすべての分析的な思考には、何らかの総合的なものが付随します。スヴェーデンボリは分析的に考えました。彼は事実からの証明を除いて結論を下そうとはしませんでした。しかし、その結論は神、霊界、霊魂を認めることによりすべて導かれていました。

 そしてこのことから、私はスヴェーデンボリの霊感の特質を考えます。霊魂は肉体に流入します。小さな幼児にはこの流入を妨げる面はなく、私たちは肉体の中の霊魂の存在を何か快いもの、何か美しいもの、何か天界的なものと見なします。しかし間もなく、その子供は心の中に一つの面を形成し始め、この面の中へ流入する霊魂のいのちは自己愛として現われ、その子供は最初の無垢を失い始めます。さらにいくつかの面が、神の否定を確認することによって、悪い生活によって心の中に形成されるかもしれません。そのとき、霊魂はこれらの面の割れ目や裂け目を通してかのように流れ入り、自由と理性の能力の中でそれ自身を明らかにします。もしそうでなかったなら、人間は獣でしかありません、その獣としての性質は外側のまことしやかなもので隠されているだけのことです。

 スヴェーデンボリには、彼の心の中に真理の面が形成され、彼の人生には、彼は悪を神に対する罪として避けたという証拠があります。

 スヴェーデンボリは野心的な人間でした、世の栄光を望みました。彼は自分に大部分の人間よりもまさった天分があることに気づかざるをえませんでした。彼はヨーロッパの指導的な光の一つになることを求め、その願いの中に悪を認めました。彼は、自分の著作が人類に役立つであろうが、その一方で、自己愛で焼き尽くされてしまう危険が自分自身にあることを認めました。彼は自分を他の者以上に高めようとする誘惑に襲われました。

 1744年〔56歳〕のある時、彼はある本屋の窓に自分が出版したのではない書物を見ました。そのとき心に浮んだ最初の思いは、自分の本のほうが展示される価値がもっとあるというものです。しかしその思いのすぐ後に、謙遜な思いが続き、主には人々教えるには多くの手段がある、と反省しました〔訳注:『夢日記』78〕

 この出来事はスヴェーデンボリが科学的な著作で極めてしばしば言っていることを、すなわち、自己愛の火を避けないかぎりだれも真の哲学者にはなリえないということをさらに良く理解する手がかりを私たちに与えてくれます。私たちはスヴェーデンボリが経験した試練を理解することができます。どのようにして彼は自己愛に勝利したか、また彼を偉大な哲学者とすることができたこの勝利がどんなものであったかです。

 ここで私たちにスヴェーデンボリの霊感の性質が明らかとなりました。それは口授ではありませんでした。彼は人生行路を進む中で自己愛からの火を避けました。神への崇拝と神への愛に基礎づけられたその哲学によって、心の中に霊魂を知覚して受け入れるための内的な面を次々と形成しました――霊魂が流入する知覚と霊感を与えることのできる面です。スヴェーデンボリは準備の年月の間にさえも、この霊感を次々と経験しました。私がすでに述べましたように、彼が「ある種の心を快くさせる光と喜ばしい確認の輝きがあり、それが彼らの心の領域をおおう」のを語っているとき、また「私はそれがどこからやって来るのか知らないが、脳の神聖な神殿の中を矢のように突き抜けて行くある種の神秘的な光線」のことを語っているとき、彼は明らかに彼自身の経験から語っています。その光や光線は理性的な本能をもたらし、霊魂は幼児時代の黄金時代に再び戻ったことを示してくれるのです。

 スヴェーデンボリの準備が完了したとき、彼が自分の心を、単に真の哲学によってだけでなく、霊界の現象の研究によって形成したとき、その心の面は霊魂を完全に受け入れるために形成されたのであり、彼は内から霊感を与えられたのです。『天界の秘義』の中で、この主題について言っていることを聞いてください――「神の啓示は、天使たちかまたは知覚によってなされる。天使たちを通して主が語られるのである。前者は預言者たちを通して与えられたような外なる啓示であり、後者は内なる啓示であって、霊的に知的な原理を感動させて、知覚により導き、内なる同意をもって、主題を真理であると思わせるが、人はそれがどこからなのか知らない。人はそれが自分の内部にあって、事物の関連から流れ入る、と考えるが、しかしそれは主から天界を通して思考の内部へ流れ入ってくる主からの命令[口授]なのである(脚注:5121番)

 スヴェーデンボリは「著作」を口授されたのではありません。主は旧約聖書の預言者たちに口授されたように彼に口授されたのではありません。彼に真理が言葉や文章の形で啓示されたのではありません。それらは内部からの霊感の形で彼にやって来たのです。スヴェーデンボリの霊感の性質は知覚でした――それは人々がプロプリウムからの悪により汚されないで、白然界の中に神の臨在を認めた「黄金時代」の人々にあったような知覚です。スヴェーデンボリは啓示の言葉を自分自身からのもののように書きましたが、神の霊感から書いたのです。しかし、その霊感は「黄金時代」の人々の霊感とは異なりました。彼が霊感から得た霊的な真理と天的な真理は、それに対応した哲学的、理性的、科学的な真理をその衣服として身にまとうことができたのです。

 今日のキリスト教世界の神学は、科学の攻撃の前に絶えず後退しています。安全な距離まで後退しても、絶えず進歩する科学の攻撃と対峙することができないため、さらに後退させられます。しかし現在与えられている啓示の中に、私たちは理性的な真理を身にまとった神学を、それに対して科学は頭を垂れなくてはならない神学を、正当にも「今や信仰の秘義に知的に入ることが許された〔訳注:『真のキリスト教』508〕と言われることができる神学を得ています。